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マンボウ広場コミュのマンボウよもやま映画館

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 「マンボウよもやま映画館」のトピを作ります。
 
 このmixiの中には腐るほど(まあ!品のない形容だこと)映画のトピがあります。でも、いいじゃありませんか。ここはここで、マンボウらしい多様性を尊重した映画に関するよもやま話でもしましょうや。
 
<このトピのコンセプト>

 *映画に関しては何でもあり。
 *劇場、ビデオ、DVD、TV、再放送、むかし観た思い出、その他。
 *「観たよ」だけでも結構。むろん感想や情報も歓迎。
 *まだ上映中のものに関してはストーリーの詳論は避ける。
      (上映に地域差があるので注意)
 *人それぞれの観方は尊重する。ただし、友好的つっこみは歓迎。
 *映画からの逸脱も可だが、大きく逸れる場合は別トピを立てる。
 *来るものは拒まず、去る者には「待って!」という。

 ここからさらに派生したトピを立てて下さっても結構です。
 例えば「私が泣けた映画」、「恋人と観た映画、観せたい映画」。

 まず私が書き込むべきでしょうが、もう眠い。誰か書いて。

コメント(138)

 紅の豚(1992年:日)
監督:宮崎駿
声優:森山周一郎、加藤登紀子、桂三枝、上條恒彦、岡村明美、大塚明夫ほか
  ========================================================

 何度も見ていますが、ちと感想が変わったのでカキコします(さっきまでビデオで見てた)。

 主人公のポルコ・ロッソは豪傑そうに見えて実は臆病な卑怯者です。幼馴染のジーナを心から愛していて、いつも側にいるのに自分が彼女を幸せにしようとはしない。ジーナの賭け(求愛)から逃げてばかりです。
 そんなポルコが親友と偵察飛行に出ます。親友は2日前にジーナと結婚したばかり。その途中、敵機と遭遇し親友は戦死、ポルコは(ジーナを幸せにするはずの)親友を守れなかったことを心から悔やみ、己を呪います。その後ポルコは豚になります。
 ポルコは「破廉恥で怠惰な豚」になることで自らを罰していますね。「いいやつ(ジーナを幸せにする男)は先に死ぬ」というセリフにその心情があらわれています。

 マダム・ジーナは幸薄い女です。彼女が愛する男は次々と戦死してしまう。表には出しませんが彼女も己の不幸を呪っているでしょう。
 彼らはアメリカのボウヤじゃ想像もつかないような複雑な人生を生きています。それもこれも戦争が引き金です。

 少女フィオは未来への希望です。フィオは戦争と戦争のない世界の境目にいます。そんなフィオ(未来)を賭けてラストに決闘の場面があります。富と名声のためなら殺人も平気な単純アメリカ野郎とイタリアの自虐豚が未来を賭けて戦います。
 ところが途中からお互いの戦闘機の機関銃が壊れ、最後は殴り合いになります。ここに宮崎駿監督のメッセージがあるように思います。

 “自分(宮崎)が愛する飛行機を戦争の道具に使うな”ということと、“殺戮兵器を使うくらいなら野蛮な殴り合いのほうがマシ”ということです。
 この映画の美しい音楽や映像、陽気な登場人物たちというのは、「ラピュタ」でいうところの“ちょうど良い目くらましの宝石”なんだと思いました。
 実はこれ、“反戦映画”なんですね。(^^;イマゴロキガツイタ
 宮崎駿の戦争に対する激しい怒りと平和への願いが豚を飛ばせているのだと思います。

 でもレビューを読んでいるとこういう感想を持っている人がほとんどいないので、僕の見方が間違っているのかも知れませんが・・・。
 レビューを読んでたら、“この映画(紅の豚)は全共闘世代にむけて作られたそうです”とありましたので、ワテの感想はマンザラ外れでもなさそうな・・・。
>うおビーさん

 私はそれを観ていませんので、内容に関しては何も言えませんが、うおビーさんの映画へのアプローチに共感できる所があります。

 というのは、私も過去に観た映画を再度観る際、「え、この映画ってこうだったの」と思うことがしばしばだからです。

 映画でも小説などでもそうですが、それを受け止めるという行為は、受け手の置かれた状況、あるいはそれを受けとめる折々の状況とは無関係ではないように思います。

 優れた作品であればあるほど、A=Aという固定した論理をすり抜けて、AがBであったりCであったりするのだろうと思います。
 要するに、その作品が持っている多様性のようなものであり、古典といわれる作品が生き延びているのは、時移り人移れど、それぞれの状況に訴える多様性を持っているからでしょう。

 上の映画に対するうおビーさんのご感想の推移はそれをよく現しています。
 また、真面目に映画を見続けるうおビーさんを彷彿させます。

 私は、移ろいゆくものに素直でありたいと思っています。
 ですから、A=Aでがんじがらめにされた論理は嫌いです。
 そうした論理は、常に、Aでないものを拒否し、抑圧するものに転化するからです。

 私も「紅の豚」観とけばよかったなぁ。
 
>六文錢さん
> 映画でも小説などでもそうですが、それを受け止めるという行為は、受け手の置かれた状況、あるいはそれを受けとめる折々の状況とは無関係ではないように思います。

 おっしゃる通りですね。つい最近までは美しい映像の痛快活劇としか思っていませんでした。

>ですから、A=Aでがんじがらめにされた論理は嫌いです。
>そうした論理は、常に、Aでないものを拒否し、抑圧するものに転化するからです。

 養老孟司氏の「バカの壁」に同じことが書いてありました。 y=ax の公式で、aの数値が1しかない人、100もある人、あるいは0(無関心)の人など、同じ公式なのにその人によって出てくる答えが違うということから、無関心(数値0)の怖さを色々な例えを用いて説明していました。
 ちょうど上記96の『シックス・センス』で「ユーレイは見たいものしか見ない」というセリフがあって、ああ、これが“バカの壁”なんやなと思ったのですが、そのあと急に「紅の豚」をもう一度見たくなりました。

>私も「紅の豚」観とけばよかったなぁ。

 機会があれば是非見てください。六文錢さんならすぐにお気付きになるでしょうが、舞台は第一次世界大戦後の世界大恐慌の時代の、イタリア・ファシズムの台頭を背景にした映画です。
 彼女を信じないでください(2004年:韓)
キャスト:カン・ドンウォン(男優)キム・ハヌル(女優)ほか

 あらすじです↓
 純朴な薬剤師の青年ヒチョルが、突然出会った女性ヨンジュの“ウソ”で塗り固められた大騒動に巻き込まれ、互いに反発しあいながらも、何故か次第に心惹かれ…というストーリーが、ドタバタの中にもロマンティックムードいっぱいに展開。
(中略)そんな心優しい人たちとの出会いの中で、自分に正直になることの大切さに気づいていくヨンジュの姿はとても愛おしく、観るもののハートまでも温かくしてくれる。
 http://www.kanoshin.com/intro.php より
  ========================================================
 ラブコメディーです。
 テレビの深夜放映を録画。あまり期待せずに見たのですが、コレ、面白いです。思わず2回見ました。

 上映時間115分ですが、テンポ良く伏線を消化していくので
長いと思いませんでした。
 主役のキム・ハヌルさんって女優の表情がエエです。基本?は松嶋奈々子似ですが、あるときは松本明子に、またあるときは青木さやかに変化します(笑)。

 ストーリーは特にひねりもなく、予想通りに展開しますが逆に安心して見ていられます。

 ウソで身を固めていた女が、田舎の人々の温かい心に触れて次第に素直になります。ありふれたドラマですが、たまにはこういう話もエエもんです。
 もう一回、見たくなってきた・・・心が廃れてるんやなぁ>自分(^^;
 ヤバイなぁ・・・。(^^;
 この映画↑、気に入ってしまって時々早送りしながら録画をもう10回くらい観てます。まさか自分がラブコメの映画にハマルとは(笑)。いや、マンガの「めぞん一刻」には一時期のめり込んでいたので下地はあったか・・・。

 韓国の言葉(ハングル語?)はサッパリわからないのですが、日本語に近い発音の簡単な単語や繰り返し出てくる言葉をいくつか覚えてしまいました。まさしく“門前の小僧”状態です。たとえば・・・。

私→ワタァシ 
お父さん→アポジ
お姉さん→オネィ(オニィにも聞こえる)
おじさん→コーボゥ
バッグ→カバァン
私のバッグ→ネ・カバァン
たかがバッグ→ク・カ・カバァン
パトカー→パティコー
詐欺→サギ
薬剤師→ヤクゥザー

 わからないのは時代背景です。
 2004年の作品ですが、BGMは80年代のオールディズが使われていたり※1、ギャグシーンは木琴とパーカッションで、まるでドリフか植木等さんの映画みたいです。(^^;;
 途中で韓国の俳優のモノマネをするんですが、調べてみると70年代〜90年代前半に活躍した人ですし。
 そのほか警察の指紋の照合に1週間もかかったり、服装も野暮ったい。
 じゃあ、80年代が舞台かというと、車や携帯電話は最近のモノっぽいし。不思議ワールドです。
 
 この映画のDVDは3900円もしますが、そのうち1000円くらいのが出るやろでこれは買います。
( ̄^ ̄;;キッパリ

※1:Come On A My House (Della Reese) 、Hey Paula (Paul & Paula)、Aubrey (Bread) など
 不都合な真実(2006年:米)
出演:アル・ゴアほか

あらすじ
アル・ゴアは、60年代の学生時代にロジャー・レヴェルへ師事した。博士の実験による地球温暖化の証拠で衝撃を受けた彼は、世界で最も早くCO2への危機意識に目覚めた政治家となる。だが、彼が見てきた真実は政界でいつまでも否定され続ける。政治は真実をも否定できるのだ。だったら語る相手を変えるしかない…上院議員アル・ゴアが世界で千回以上開催したという地球温暖化問題の公演を記録した、科学の機知と政治への諧謔が詰まったプレゼンテーション。
 http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=14473 より
  ========================================================
 プレゼンテーションの見本のような映画です。「あのスライドショーは何のソフトを使ってるんやろ?」って、ずっと思ってました。(^^;
 ただ・・・、ゴア家は1ヶ月の電気・ガス代に毎月約3万ドル(300万円以上!)も使っているので、そういうことを知ってしまうとゴア氏の素晴らしいスピーチも色あせて見えます。※1
 ・・・まあ、英語やでワテには素晴らしいかどうかは分からんけど(^。^;)

 う〜ん。環境を守ることが大切であることは間違いありませんが、100年後の未来のために二酸化炭素の削減に数兆円ものお金をかけるくらいなら、20年後には現実化する世界的な水不足、それによる食料不足(マグロなんかは現実問題化してますが)、すでに問題になっている金属不足などに的を絞ってお金をかけたほうがエエような気がします。
 
 あちこちネットで調べてみましたが、地球規模の気温の変化と二酸化炭素の濃度の関係については複雑でよく分かっていないというのが現状のようです。
 わかっているのは、ゴア氏が毎月300万を超える電気・ガス代を使っていることと、それだけのお金を毎月使えるだけのスポンサーが彼についているということです。


※1:テネシー政策研究センター公表
 http://ameblo.jp/dreamgate/entry-10028375379.html より
ゴジラ(1954年【日】)

監督:本多猪四郎
キャスト:志村喬、宝田明、河内桃子、平田昭彦 ほか
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 昭和29年上映。
 みなさんご存知の通り、水爆実験により安住の地を追われたジュラ紀の恐竜『ゴジラ』が、水爆の放射能を帯びた怪獣となって人間に復讐する物語です。
 ゴジラが東京に上陸する寸前の電車内で「嫌ぁね。せっかく長崎の原爆から命からがら逃げてきたのに」とか「また疎開先を探さなきゃ」などというリアルな会話があります。

 さて、ゴジラが東京に上陸しました。水爆でも死なない怪物に戦車などの通常兵器が効くわけがありません。しかし、攻撃を受けたゴジラはますます怒り、口から白熱光線を吐きます。
 あの、背びれが“ビカビカッ”と光ったあと周りが火の海になる様子は、イラク戦争でアメリカが使用したディジー爆弾を彷彿とさせます。まさに“歩く核兵器”です。

 怖いのはゴジラが逃げ惑う人を狙って白熱光線を吐いていることです。上から見下ろすゴジラと下から見上げる人間の目が合っています。
 ゴジラは街の建築物をことごとく破壊し焼き尽くしますが、同時に無差別大量殺人も行っています。子どもも母親も傷病者も関係なく踏み潰され、焼き殺されます。

 ゴジラが去ったあとには、おびただしい放射能が残ります。ちなみに、アメリカで放映されたときは、この放射能ウンヌンはカットされたそうです。アメリカ人にも多少は良心の呵責があったのかもしれません。

 廃墟となった街や、病院に担ぎ込まれる市民の様子もリアルです。当時のスタッフ全員が終戦直後の日本を知っているのですから当然といえば当然ですが・・・。

 ラストに山根博士が「人間が水爆実験を続ければ第二・第三
のゴジラが世界中にあらわれ人間を襲うだろう」とつぶやきます。

 終戦の日だからこそ、見ておきたい映画です。
 この第一作の『ゴジラ』は、大人になって戦争に対する考えが深まるほど、その真の価値が分かるのかもしれません。僕はまだこの作品の上っ面しか理解できていません。

写真左:人間を狙って白熱光線を吐くゴジラ

写真中央:ゴジラに襲撃される松坂屋の下で女の子に「もうすぐ、おとうちゃまのところへ行くのよ」と言っていた母親とその子ども。この母子がどうなったのかはそのあとの病院のシーンでわかります。

写真右:ガイガーカウンターを向けて、子どもの被ばく量を測っています。計測後、技師は首を横に振ります。
『霊 −リョン−』(2004年:韓)
監督:キム・テギョン
出演:キム・ハヌル/リュ・ジン/ナム・サンミほか


あらすじ
 過去の記憶を失くした女子大生ジウォン(キム・ハヌル)は、兄のように慕う兵役帰りのジュノ(リュ・ジン)と共に平穏な大学生活を送っていた。ある日、彼女の前に高校の同級生だと名乗る女性ユジョンが現れる。何かに怯えたような様子の彼女から、共通の友人であるウンソが死んだことを聞かされたジウォンは、次第に悪夢にうなされ、また、見えるはずのないものが見えるようになっていく。数日後、大学を訪れた刑事から、ユジョンが溺死したこと、そして、ウンソもまた同じような姿で発見されていたことを知らされる。
 二つの死に共通すること、それは、すべて‘水のない場所’で起きていたのだ・・・。
 http://www.koreanculture.jp/topic_view.htm?page=4&number=35&keyfield=&key= より引用
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 DVDにて視聴。
 ホラーですが、あまり恐くありません。カレーでいえば中辛にも満たない程度です。(^^;コワイノキライ
 上記?103の「彼女を信じないでください」で、主演女優のキム・ハヌルさんのファンになってしまって、彼女が主演している映画を観るのはこれで3作目です(2作目については後日書きます)。

 音で恐がらせようとしていますが、ストーリーを追っていく映画だと思います。ラスト20分前は泣きそうになりました。
 何本も伏線があるので、結末を知ってからもう一度観ると悲しさが倍増します。

 韓国ではホラー映画は若手俳優の登竜門的位置づけにあるようで、キム・ハヌルのような名前の売れた女優が初主演するというのは珍しいそうです。

 個人的には満足しました。チョット恐くて悲しい映画を見たい人は是非どうぞ。

 
 それにしても・・・。“貧乏人の子どもは友達ができない”というシーンが出てきますが、まだましです。日本では貧乏人(ワークプア)は子どもを作れないっていわれてますから。
上記108の追記
 この映画、エンドロールのBGMが
♪ズ・ズン・ズ・ズン・ドコ
♪ズ・ズン・ズ・ズン・ドコ
 ・・・・・・・

 と聞こえます。ホラー映画にこのリズムを持ってくるのは理解しがたい。ワテは、どうリアクションすればエエんか?別の意味で恐いです。
椿山課長の七日間(2006年【日】)

監督:河野圭太
キャスト:西田敏行、伊東美咲 ほか

あらすじ
デパートに勤務する椿山課長はバーゲンで大忙しの中、倒れて突然死してしまう。そんな椿山が目を覚ました場所は天国と地獄の中間に位置する“中陰役所”だった。ここでは「天国行き」か「地獄行き」かの審判を下されるのだが、自分の死に納得がいかず、かつ戻る事情があると判断された者は、3日間だけ現世に戻ることが許される。突然死した椿山は、現世への“逆送”を希望。戻ってきた椿山は正体を隠すため若い美女の姿になり…。
 http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD9684/index.html より引用

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 DVDにて視聴。
 ソツがないです。CG技術は優秀だし、泣かせどころと笑いのツボは押さえてるし。それなりに感動します。いい映画だと思います。 

 しかし、時間が経って頭が冷えてくると“薄い”印象しか残っていません。アタマが薄いと言っているわけではありません。念のため。
リメンバー・ミー(2000年【韓】)

キャスト:キム・ハヌル(女優)ユ・ジテ(男優)ほか

 あらすじ
 「リメンバー・ミー」は韓国で2000年観客動員数第4位(100万人動員)を記録したラブ・ストーリーです。何故、こんなに人気を集めたのでしょう。それはこの2つの時代を結ぶ感情の交流が、今までに映画で描かれていなかった不思議なものだから。切なさは強烈な余韻を残します。

 二人の出逢いは月食の日。壊れて動かないはずの無線機で交信して、いつしかお互いの事を話しながら惹かれてしまう二人。しかし、やがて二人を待ち受けるのは余りにも残酷すぎる運命でした。
http://www.tv-tokyo.co.jp/telecine/cinema/remember/index.html より引用
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 DVDにて視聴。
 女優のキム・ハヌルさんの出演映画を観るのは、これで5作品目です(2作品目と4作品目については後日書きます)。
 きのうは皆既月食でしたね。そんな日にこそ観たい映画です。って、遅いがな。(^^;

 韓国映画は「情」の映画が多いのが特徴なんだそうです。この映画は切ないですよ〜。1時間10分を過ぎたあたりから、ワタクシメはウルウル全開モードに突入しました。
 。゜゜(´□`。)°゜。ワーン!!

 時空を超えた男女の関係を描く作品は沢山ありますが、この映画では21年の開きがあります。
 この年月の違いこそが、この映画のキモです。

 ちなみに、1979年10月は韓国にとって激動の月で、映画の中でも
「金泳三総裁除名の記事。あとは学生デモの記事ね。」とか
「朴大統領が、(1979年)10月26日に射殺される。」とか
未来に興味を持ったソウン(キム・ハヌル)が
「(南北の)統一は?」とか
「金日成(キム・イルソン)も死ぬのね」とか言うシーンがあります。

 初っ端から登場する大学の守衛のオッサンが意味深な言葉を吐きます。
 終盤に「G線上のアリア」をBGMに使うシーンがあるのですが、チョット場面と合わないような気がしました。作曲家が作ればエエのに。
 拙日記に、映画『ショートバス』を観ての感想を述べておきました。
 お暇でしたら覗いてみてください。


http://mixi.jp/view_diary.pl?id=562497653&owner_id=169021
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』

 伊勢の映画館では先週15日の土曜日から上映です。
 六文錢さんと、にゃじのレビューを読んで面白そうだったので観てきました。当たりです。最後まで引き込まれる映画でした。

 感想は、お二人のレビューとほぼ同じなので省略します。あんなにうまく書けんしぃ。
 ただ、「家族なんだから」という言葉が何度も出てきますが、言えば言うほどブラックに聞こえますね。


 あ、そうそう。チケットを買うときに、作品名を言い間違えました。(^^;; 
ドリームガールズ(2006年【米】)

監督:ビル・コンドン
出演:ジェイミー・フォックス 、ビヨンセ・ノウルズ 、エディ・マーフィ 、ジェニファー・ハドソン ほか

解説: トニー賞で6部門を受賞した伝説のブロードウェイミュージカルを映画化した極上のエンターテインメント作。コーラスガールの女性3人組が歩んだ成功と挫折の物語を、数々の名曲に載せて描き出す。『シカゴ』で脚本を担当したビル・コンドンが監督と脚本を担当し、コーラスガール役にはグラミー賞受賞者のビヨンセ・ノウルズがふんする。共演者にはジェイミー・フォックスやエディ・マーフィなどの人気と実力を兼ね備えたスターが顔をそろえる。ビヨンセ率いるコーラスガールたちが披露する歌声と魅惑的なパフォーマンスは圧巻。
 http://moviessearch.yahoo.co.jp/detail/tymv/id326032/より引用
  ========================================================
 DVDにて視聴。
 途中までは良かったのですが、前半の、ジェニファー・ハドソンが相手の耳元で大声で歌うシーンを観て“あれじゃあ、鼓膜が破れるで”と思った途端に醒めました。

 ミュージカルに対して軽いトラウマを抱かせてくれた記念すべき作品。
羅生門 (1950年【日】)

監督:黒澤明
キャスト:三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬ほか

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 伊勢の進富座という映画館で懐かしの映画を定期的に上映しています。きのう観てきました。
 
 出だしのお坊さんのセリフなど、正直ついていけるかなぁと思ったのですが、話にグイグイ引き込まれていきました。映画を観終わったあとは言葉を失っていました。
 一言で言えば“濃密”。ヒトの心の恐ろしさ、愚かさ、もろさなど、ドロドロした人間模様が凝縮していますね。三船敏郎の演技が特にすごい。

 他の映画やドラマで見たシーンがいくつもありました。もしかしたらこの映画がオリジナルなんやろかと思いました。

 ただ・・・。あの音楽はどう聴いてもラヴェルの“ボレロ”やん?(^^;
にゃじが昨年4月7日に紹介した「ホテル・ルワンダ」をやっと観た。ジャン・レノやニック・ノルティも出ていた。

ルワンダの旧宗主国ベルギーによる人種分別政策や、虐殺に対する国際社会の無関心を強く批判している映画で、アカデミー賞やゴールデン・グローブ賞にノミネートされた作品である。

国連やアメリカが有効な介入をしなかったことも非難されているが、フツ族とツチ族の民族間の対立の凄さは日本人では理解しがたい。フツ族の過激派はツチ族を約八十万人殺害する内戦映画で、恐怖で逃げ惑うツチ族とフツ族の難民1268人を救ったホテルの支配人の物語です。

人間社会の民族問題は宗教や歴史だけでなく、この映画では専守国であるベルギーが持ち込んだ民族差別をベースにしている。第三者的になる大国と国連の責任逃れなど、訴えているものは多い。

にゃじが出した星3つは同感である。是非、観た方がいい映画だと思う。
 きのうの夕方、「スパイダーマン3」を借りてしまいました。(^^;;
 レンタル屋さんに行く前にここを見ておけば良かった・・・。
レオン(1994年【仏・米】)

監督:リュック・ベッソン
キャスト:ジャン・レノ、ナタリー・ポートマン、ゲイリー・オールドマンほか
音楽:エリック・セラ
主題歌:スティング

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 テレビにて。久しぶりに見ましたが面白い映画です。舞台はニューヨークなんですね。てっきりヨーロッパ(フランスあたり)だと思っていました。ま、ゲイリー・オールドマンじゃフランスの警察に似合わないか(汗)
 ラストがとても切ないです。
 「ゴシック」
  ↓
 「フランケンシュタイン」
  ↓
 「みつばちのささやき」という流れで見ると、

 メアリ・シェリーが如何にして鬱屈から怪物をつくりあげ、その妄想を他へ波及させていくのかを
 確認出来て、とても興味深いのです。壊れろー。
『愛の悪魔』LOVE IS THE DEVIL−フランシス・ベイコンの歪んだ肖像
 ジョン・メイプリイ監督/英/98
 

 
 男が「落ちて」くる。

 家の中のさらに地下室にあるような、一室。裸電球が一個。薄汚れた部屋中に画材だの、絵の具だのが散乱し、人間の内臓やら、死体や血だらけの写真やらがまたごじゃごじゃに積み重ねられ、壁やドアには 真っ赤や真っ黒な絵の具がなすりつけられている。

 男が落ちてきた場所は、そんな密室だ。

 
 関連書籍によればフランシス・ベイコンは”今世紀最大の芸術家”なのだそう。20世紀最大の芸術家といえばピカソくらいしか知らなかったけど、ベイコンはピカソの後の“今世紀最大”なのだそうである。

 …と、安直に引用してしまうくらいに、わたしはフランシス・ベイコンなる現代美術家のことを何も知らない。ベイコンといえば、中学生の頃に倫理社会か何かの教科書に載っていた思想家兼学者のことを思い出すだけ。


 だもんで、もちろんその作品も知らない。ただ有名な芸術家の人生を愛人−同性愛者との恋愛を通して描いたという映画評をたまたま読み、個人的趣味嗜好とデバカメ的好奇心でみただけだ。

 でもまー、それがかえって良かったのだろう。
 前衛芸術家、同性愛、それも変態(SM)60年代、70年代の言ってみりゃ、アングラ(今世紀最大なんだからアングラじゃないのだろうけど/笑)なノリ、酒とセックスとドラッグ、放蕩、インモラル、社会的逸脱。
 それらはひどくありがちで陳腐なドラマになってしまうから。


 前情報つまりは先入観を持っていたら、わたしはきっと冒頭から「ああ、またか」と、ウンザリしていたに違いない。


 冒頭は妙に恐ろしげであった。 
 画面は常にどこかが歪んでいる。
 音楽には聞こえないノイズ(関連書籍で浅田彰が異常なまでにも絶賛していた坂本龍一である)でもノイズにも聞こえない「音」が、その歪みを補強する。

 その漠然とした恐怖感は、映画を観ている最中、ずっとわたしを捉え続け、そして、恐怖こそが、この映画の主題であったのだということを知る。
 フランシス・ベイコンという人の絵は、「そういう絵」だったのだ。


 そして、その絵は、男が落ちてきた密室、閉ざされた部屋で描かれた。
 (そのアトリエは克明に再現されているそうである)


 ベイコンの愛人で、作品のモチーフであったというジョージ・ダイアーは、その密室、フランシス・ベイコンの<世界>に落ちてきてしまった。そして、その密室に閉じ込められ、喰い尽くされてしまった、そういうカタチの愛人であり、恋人であった。


 すでに著名な芸術家であり、スノッブな上流社会の住人であるベイコンと、ただのチンピラでしかないジョージは、そもそも住んでいる世界が違う。
 違うからこそ、ベイコンは、その無垢と純粋を愛する。ジョージは、生まれて初めて与えられた庇護と愛を通じたセックスの”暖かさ”に捕えられる。

 二人の関係は、形としてはジョージが男役でありベイコンが女役、腐女子的に言えば(笑)、ジョージが攻めでベイコンが受けであり、SMでは、ジョージがサドであり、ベイコンがマゾである。
  
 ベイコンは「ミス・ベイコン」と呼ばれ、オカマと呼ばれ、つまりは女性的なわけだったが、その女性性のようなものにジョージは最初包また。かくして、二人はラブラブな密月を過ごす。



 けれども、その関係は、その性的ポジションのままには終わらない。
 行為による支配被支配関係と、社会的関係、精神的関係は逆転している。ベイコンはインテリであり金持ちであり、ジョージは無知であり無一文である。ベイコンは社会的にも精神的にも支配者であり、ジョージは被支配者である。

 その歪んだ関係性が、ジョージを徐々に狂わせる。
 囚われてしまった愛と、犯され続ける自尊心は、バランスを失い、ジョージは薬物中毒となる。ベイコンはまた、その狂っていくジョージをまるで役に立たなくなった犬のように非人間的に扱うが、決して自ら手放そうとはしない。その壊れていく様も、ジョージの何もかもをベイコンは見つめ続ける。
 男は夢を見る。

 血に塗られた自分が、高飛び込みの板の上から、さらに落ちていく夢。死の誘惑。
 その悪夢に、ジョージはまた囚われる。
 必死でベイコンから逃れようとするジョージだが、どうしても逃げられない。
 追い詰められる事に、彼はつぶやく。

  「I IOVE YOU」愛してるんだ。
 
 
 なぜ、その言葉が彼から放たれるのか?
 
 ジョージは抜け出せない、その密室から。
 ジョージは閉じ込められてしまった、落ちてしまった部屋に。
 パリでの大展覧会の日、つながれた犬はホテルの一室のトイレで自殺する。

 


 こういった恋愛物語の有り様は、特に珍しいものではない。
 これもどこまでもありがちであり、むしろ陳腐ですらある。古今東西どこでも描かれてきた、恋愛の葛藤であり、痴話喧嘩であり、闘いであり、苦しみであり、愛と呼ばれるものである。芸術家だからゲイだから変態だから、だからって「特別」だということはない。

 
 ゆえに、その一般的ではない生活と要素から、恋愛と恋愛関係の一つの普遍性は抽出されるのだろう。


 恋する二人の周りは暗闇だ。
 そう言ったのは橋本治ではあったが、世界は二人のためになってしまうのが、恋愛というもんなのだろう。


 そして、恋愛というものは、「あなたは私」「私はあなた」と“思い込む”幻覚なわけである。それは相手を自己の世界に取り込み、喰い尽くそうとすることであり、また相手の世界に取り込まれたい喰い尽くされたいと望むことでもある。

 その周囲が暗闇の世界が、密室となり、閉じ込められるとき、人間は望んだにせよ、なんにせよ、大抵の場合は狂う。「あなたは私」「私はあなた」なんてことは、実際のところありえないからだ。

 そのありえない事柄をまっとうさせようとする力が働くとき、それはありえないのだから破綻を生む。破綻することだけが、その二人の世界=一つの世界をまっとうすることなのである。

 「絵にだけしか優しさを表現できない」

 分別くさいメディアの説教おばはんのようなフランシス・ベイコンはそうつぶやく。
 (映画の特集本に掲載されていた、その作品のどこに「優しさ」なんてもんが表現されているのか、わたしには分かんなかったけど)


 その破滅から、「あなたと私」が実際は引き裂かれ、別れていくとき。
 そこに居残り、抽出されるものは、いつの時もそのありえなかったものありえないから誰もが夢見る、“真実の愛”というものである(らしい)。

 …それが描かれてしまうというのも、まあ陳腐であると言えば陳腐だけれど、恋愛ってのは、そもそも陳腐なもんなんだから、それも真実というしかないのだろう。

 「君がいなければ生きてゆけない 悪い夢を見ているようだよ」       
                       (早川義夫『犬のように』)

 
 なんでか、映画を見た後でこの歌を聴いた。

 この映画の歪んだ世界の漠然とした恐怖感と不安から解放されたとき、悪夢に殉死し、愛に殉死したジョージが、この歌を聴いたら、いったい何を思うだろうかと、そんなバカなことを考えてみた。



  ***

 …というレビューをまとめていたら、すげぇ悪夢をみた。←ありがち
 無意識であるが、抱き枕のカバーもズタズタに引き裂いていた模様。
 映画ってもんは、迂闊に観ると危ないんだねえ(しみじみ)

吃音者が印象に残る映画。


ケッコウある筈なのですけれど、いま思い出せるのは…、

邦画→『五番町夕霧楼』(田坂具隆監督)


洋画→『カッコ―の巣の上で』『ライトスタッフ』
くらいです。


他にご存じの方、ご教示願えませんか?





 あ、このトピも管理人の怠慢で放置していましたが、活気の端緒が見えてきました。
 もとより映画好きの私、能う限り応答して行きたいと思います。

>ぐんまさん
 お書きになっている映画は未見ですからコメントは致しませんが、このフランシス・ベイコン、シェイクピアと同時代の哲学者、フランシス・ベイコンの直系の末裔だというのはほんとうでしょうか。
 それ自身にはなんの意味もないのでしょうが、それが20Cのベーコンにある種の自意識として作用していたとしたら、西洋の伝統社会というのは馬鹿にならないですね。

 お書きになっていることについては未見の映画ですから大きく外すかも知れませんが、どのような「愛」であれ、それを意味として回収できる側と、出来事として回収し得ない側の不均衡があるように思います。
 両者が意味として回収できているとすれば,それは幻想の平面においての均衡でしょうし、両者に出来事として状況から乖離してしか現れないとすれば、その収束は心中であるほかないでしょう。
>stuttさん
 それを意識して観てこなかったので分かりかねるのですが、監督がその演出上の展開として部分的に吃音を用いたものは、例の、「寅さん」や「森の石松」などにあるものの、
吃音者そのものとしての登場は,邦画やTVドラマの場合、「山下清」を題材としたもの(そのほとんどを芦屋雁之助が主演)しか思い浮かびません。

 そのほか、やくざの三下などに、吃音者を登場させるものがかつてはよくありましたが、演出上の必然性はなく、かなり差別的であったように思います。
> 六文錢さん

そうですね。
森の石松や武居の吃安…。

東映ヤクザ映画では、ありましたですね!

遠藤辰雄というワキ役の吃り方がウマかったのことなどを、おカゲで想い出しました。

ありがとうございます!



『ゆきゆきて神軍』や『全身小説家』の原一男監督辺りに、吃音者を真っ向から見据えた映画を撮って頂けないものか…。


時に、ソンナ夢想を抱いたりも、致しております。




 銭形平次の“みのわの親分”を思い出しました。好きなキャラでした。
 うろ覚えで恐縮ですが、『書を捨て〜』にも、吃音の少年が出ていたような気がします。
 さらにタイトルさえ出てこないほどうろ覚えなんですけど、少し前の映画で、秋葉原を
 題材に、吃音の少年がネットのチャットで話していくというくだりがあり、なんだか
 旨いなあと思った記憶があります。


  吃音者といえば、だめ連の神長さんが監督をした『肉だんご』という映画があり、
  映画終了後にお話したのですが、寺山の映画をかなり参考にしているとのことでした。

  で、わたしは、彼がめちゃめちゃどもりながら話されるのが面白くて、その後の飲みになぞ
  つれていって貰っておりました。好きな音楽はURCで、年は32才(12年前)だそう。

 
  ちなみに『肉だんご』は、男性たちが裸になって、戯れるという映画なんですけど
 (ホモセクシャルの映画ではなく)、まったりとした感覚がなかなか味わい深かったです。

  最初はお酒のみながらダラダラととりとめない話をし、そのうち服脱いでいき、
  布団敷き、くんずほぐれつのバトルをしだすという戯れな展開。
  そのうち歓喜の声をあげたり…とセクシャルではなく、どちらかというと裸祭りに近い。

  最後は全員で、中野駅前でフォークダンスを踊るというアナーキーな映画でした。
  ジャックス、ドリフターズなどが挿入されていて、当時のわたくしにはなかなかセンスのある
  映画に思えたのです。今見直してみたいと思わないけど。
> ぐんまさん。初めまして。ご懇切なコメントをありがとうございます!


吃音に就いてのコミニュティを、ワタクシmixi内で主宰しておりまして、吃音に関わる情報ご提供は、タイヘンに有り難くあります。

今後とも、どうぞよろしくお願い申し上げます。




 六文錢さ〜ん!!( 」´0`)」
 きょう、「紅の豚」やりますよ〜!

 21時から中京テレビですよ〜〜。
※詳しくは、このコメント欄の?101をお読みください。
*************************************
 さあ、さあみなさん。
 今夜、六文錢さんがこの映画を観るかどうか賭けませんか(笑)?


 僕は言いだしっぺですから、「観る」ほうに159コトミツキ(爆)。
  夏風邪が治らない。

  具合がわるくなりはじめたのは二週間くらい前なんだけれど、
  咳と微熱がつづく、イヤな感じの風邪だ。
  じわじわと小数点以下の体力を切り捨てられて、気がつくと
  体力が底をついていた。そんな感じ。寝込んでしまう寸前まで、
  それほど悪いとは気付かなかった。

  仕方なく、一日中大人しくベッドの上にいる。
  寝ているうちに落ち込んできた。
  わたしの場合、精神と肉体のバイオリズムは、ほとんど同じ軌跡を
  描いている。
 
  ぶっちゃけたはなし、カラダの調子がわるいときは、
  本人がそれと気づいてなくても、心の調子が悪い。

  思ったとおり、悪い夢を見た。


   旅に出る夢だ。
   わたしは空港のロビーに立ってる。
   どこの空港かはわからない。

  なぜこれが悪夢かというと、結局わたしが旅に出ることがないから。
  何があろうと、絶対に、だ。

  夢の中で、いくらポケットを探しても、買ったはずのチケットは見つからない。
  あるいは、なぜか父親が搭乗口に立ちふさがっている。
  あるいは、トイレにとじこめられる。

  理由はさまざまだけれど、
  わたしは飛行機に乗れたためしがない。いつも繰り返しみる夢だ。

  夢の中のわたしは、いつもここではないどこかに行きたくて、
  すごく焦っている。

  だが、同時に静かなあきらめを感じてもいる。
  これはいつもの夢だ。どこにもいけないに決まってる、と。
  夢の中の諦めは、静かでもの悲しい。
 
  なにも障害がなかったとしても、飛行機の席に座ったとたんに、
  目が覚めるだろう。夢なんてそんなもんだ。

  昔から、具合が悪いときに限って、この夢を見る。
  自分が住んで慣れ親しんだ土地を、ときに唾を吐いてののしりながら、
  わたしはずっとおなじ街に住み続けている。
  連休の度、東京から帰ってきた友人たちは、いつもわたしの顔をみてあきれる。
  きみが真っ先にこの街を出ると思ってたけどなって。

  結婚してから、長い旅行にはほとんど出なくなった。
  外出もあんまりしていない。
  そのことと夢とは、なにか関係があるのかもしれない。


  このままぼんやり寝ててもよくないかもしれないなー、
  と、夕方になってようく気づく。

   「家にとじこもらないで外に出ましょう」
   「具合がわるいときは栄養をとりましょう」
   「自分がしてもらいたいことを他の人にもしましょう」。
 
   いちばんシンプルな教えほど、いちばん単純に忘れやすい。
   わたしはいつもどんづまりにならないと、自分の身体のことなんて
   思いやれないんだ。
   
   熱っぽいからだをおこして、ちょっとふらつきながらも外に出た。
   とりあえず、クルマに乗って最寄のレンタル&書店にいく。
   映画でもみようと思ったんだ。気分転換にいいかなって思って。



   ***



   そういえば、去年だったか、
  なんの先入観も無しに『トゥルーマン・ショ−』をみて号泣したのを思い出す。

  それが、どんな感極まり方だったか、今になっては定かではないのだけれど、
  なんとなく泣きたい気分だったので、再び同じDVDケースをもって
  カウンターに並ぶ。



   その映画の上映時期のことは、なんとなく覚えている。
   街に貼られていたポスターがあまりにも印象的だったからだ。

   巨大なビルの壁面に、モニターがはめこまれている。
  アルタの壁面にあるような巨大なテレビだ。画面にうつっているのは
  『マスク』でおなじみジム・キャリーの寝顔。モニターの上には、
  赤く点滅する“LIVE”の文字。モニターの下には“day 10.909”とある。
  放送開始から一万日以上がすぎている。

  普通の男の、なんでもない日常がテレビドラマ化されているのだという
  とんでもない事実が、このポスターを見ただけでわかってしまう。
  ビルの下には、画面を注視する人々がアリのように細かく、無数に描かれている。
 
   彼らはみなジム・キャリー演じる「トゥルーマン」のショーに熱狂している。
  誰もが、トゥルーマンの世界と日常が、テレビドラマのために造られた虚構だと知っている。
  トゥルーマンの暮らしているのは、テレビスタッフがつくった巨大なセットの中なのだ。
  彼の妻も、心を許した友人も、街の人々も、すべてエキストラで、
  金をもらって“仕事”としてそのポジションをこなしている。
  世界でその事実を知らないのはただひとりだけ、
  トゥルーマン、本人だけだ。


   この設定に、まずやられてしまった。
  
  とにかく、言葉ではうまく伝えられない。“絵”の説得力がすごい。
  トゥルーマンの暮らす街は、セットの中でしかありえない理想郷として描かれている。
  その書き割りの街が(二重の意味で)発する、まがまがしいほどの幸せのオーラ。

  なにせその街は、白っぽい光につつまれ、どこにも影がないのだ。
  その“嘘の街”の奇妙な存在感。
  どこかで見たようなそらぞらしい清潔な街。
  トゥルーマンは、その街で、満たされた幸福な暮らしを続けている。
  美しい妻、親しい友、好調な仕事。

  だが、遂にあるとき決心するのだ。
  この街を出ようと。

   彼の暮らしは、テレビスタッフが用意した“満たされた”生活だ。
  なのに、どれほど満たされていようと、いや、満たされていればいるほど、
  彼は息苦しさを感じる。

  島の向こう側、途切れた橋の向こう側を夢見ることをやめない。
  この辺りでもう、わたしはいたたまれなくなってしまった。

   映画の途中で席をたとうとするのは、あまりない経験だ。
  つまらない映画なら寝てしまえばいいのだが、なまじっか面白いもん
 (これは単純な意味でも面白い映画)だから、そうするわけにもいかない。

   ご丁寧にも、この映画では、トゥルーマンのドラマの合間に、
  そのテレビドラマに熱狂する視聴者の姿ってのが描かれる。

  酒場のウェイトレスたち。
  ソファに腰掛けた老婦人たち。彼らは熱心にテレビを……
  つまり、映画館のモニターの外側、わたし達が腰掛けている“こちら側”を
  見つめている。その鏡をみせられているような、居心地の悪さ。
  あのうそ臭い「いまを生きる」の監督と、あの「ガタカ」の脚本家が組んで、
  なんだってこんな映画ができるんだろう。映画って不思議。


   “居心地の悪さ”
   というのが、わたしのこの映画に対するキーワードになった。
   わたしは、トゥルーマンのドラマを(単なる野次馬として)注視する
   観客であり、同時に彼らが演じる映画の観客でもある。
  
  この奇妙なマトリョーシカ的入れ子構造は、こちらの足元をすくってくるような感覚。
  ぞくりと背筋が寒くなってしまうような感覚を、この映画をみた多くの人が感じるんじゃ
  ないだろうか。

 
   実は、あわせ鏡はまだ続いていて、
   映画館の外に出ても、そこに広がっているのはもうひとつのセット、
   もうひとつの書き割りの街、
   もうひとつのトゥルーマン・ワールドなのではないかと。
 
  その違和感が最高潮に高まるのが、
  この映画のクライマックスのシーンだった。



   ***


   以下、色々にネタバレ。

  自分が住む世界に違和感を感じたトゥルーマンは、
  船を奪い、世界の“外”に向けて旅立つ。
  ところが彼は、その海すらもセットの中に含まれていることを知らない。

   一方、
  トゥルーマンが逃げたことを知ったテレビスタッフたちは、必死で彼を探そうとする。
  さっきまで街の住民を演じていたエキストラたちが、いきなり“素顔”に戻り、
  懐中電灯を片手に、彼を探してまわるのだ。このシーンがとても怖い。



   被害妄想のいきつく果て、という気もするが、それだけだろうか。
   自分の接する他の人たちの素顔を、自分は本当に知っているのか。
   そんな、かすかな恐怖を誰しも胸に秘めているんじゃないだろうか。
   その恐怖を具現化したのがあのシーンだったように思う。
  
   ここでわたしは、ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を
  思い出した。ゾンビたちが群をなしてゆっくりと歩み寄ってくるあのシーン。
  通りすがればただの他人でしかない、街にすむ無数の人たちが、いきなり
 “地”の顔を見せる。その恐ろしさ。


   トゥルーマンの捜索ははかどらない。
  ここでテレビスタッフは世にも恐ろしい暴挙に出る。
 「暗いと見つかりにくいから」というだけの理由で、いきなり夜のセットの中に
  太陽をのぼらせてしまうのだ。

   
  真夜中に上る太陽。
  映画のなかとは言え、信じていた物理法則が覆される、
  コペルニクス的な足元崩壊感覚。

   トゥルーマンの世界の“嘘”は人間だけではなかった。
  夜も、昼も、雨も、雲も、太陽も、すべてがセットの部品だったのだ。
  そのこともしらず、トゥルーマンは、憧れの女性が待つフィジーへと
  船を出す。

  ところが、
  海の行き着く果てで、彼を待ち受けていたのは、未知の世界ではなく、
  セットの壁だった。

  青い空と雲が描かれた、巨大なドームの壁。
  その壁に、彼のヨットの舳先はぶつかってしまう。


   ごっつん。


   なんて即物的な“この世の果て”。
   セットの壁には穴が開いてしまう。船はとまる。
   トゥルーマンははじめて、自分の住んでいたのがセットの中だと悟る。
   
  その、ごつんという音が、わたしにとっては凄まじい衝撃だったんだ。


   ああ、なんてこった。
   壁だ。
   壁なんだ。
  
  うなされたように、わたしは繰りかえす。
  かつては紅茶で火傷した手をかきむしるようにして。
  ずっと気づいていた。自分の感じている閉息感。

  家庭環境にはそこそこ恵まれて、これといった不幸もなくて、
  それなのに、逃げ出したくてしかたなかった。気づいて知らないフリをしてた。
 
   ごつんという、リアリティのある音。舳先がぶつかる音。
  その音がわたしに気づかせてくれた。

  そう、わたしがいるのは壁がある世界だったんだ。これは比喩でもなんでもない。
  わたしの生活がテレビで放送されていなかったとしても、
  わたしの世界がニセモノでないという証明にはならない。


   わたしの世界がテレビセットの壁で覆われていなかったとしたって、
   わたしが閉じこめられていないという証明にはならない。
   ずっと気づいていた。
   ずっとむかしに、それに気づいて、忘れたふりをしていたんだ。
   口に出して言うとおかしいって思われるんじゃないかと思って、
   言わなかっただけ。自分がおかしいんだって思ってた。
 
   不通に暮らしているだけで息が詰まるなんて、贅沢だって思ってた。
   だってそうでしょう?
   閉じこめられた気がするなんて、そんなこと言ったら、おかしいって
   思われるに決まってるじゃん。
   
  実際のところ、わたしは、チケットを買いさえすれば、明日にでも、
  フィジーにでもタヒチにでも行ける。

   それなのに“壁”があると主張するなんて、おかしくない?
   どうして、わたしはこの街から出られない?
   どうして、息詰まる生活にしがみついて、船を出す勇気がでない?
 
   いや、そこに壁があるのだ。他人が作ったわけじゃなく、わたしが作った。
   そこに、夜空の向こうに、壁は、確かにあるのだ。
  そう気づいた瞬間、すごく気が楽になった。
  肩から力が抜けた。なんでだと思う。不思議でしょう? 
  自由を感じて楽になる、なんてのなら分かる。

  
  でも、わたしは、
  自分が壁にかこまれてるって、不自由と感じている場所に閉じこめられてるって、
  そう感じてから、ほっとしたんだ。


  心理学の本とかによく書いてある。
  神経症は、自分がそうなった原因を正しく把握すれば、半分は治ったようなものだって。
  そーいうことなんだろうか、これは。
  

  ごっつん!という、あまりにもリアルな音は、
  わたしが目をそむけていた何かを、あからさまなまでに具象化して、
  目の前につきだして来たんじゃなかろうか。

  だってすごいんだよ! ほんとうに目の前にあるんだよ、壁が!
  映画ってすごいよねぇ、やっぱり。



   わたしにここまで自由を感じさせてくれた映画って、
  他には『ショーシャンクの空に』ぐらいだろうか。
  あの映画を見たときは、なんだ、わたしが住んでるところも刑務所と
  かわんないじゃん、なんて思って、ちょっとホッとしたのを覚えている。
  あれも刑務所に閉じこめられる話だった。

  ここに壁はある。
  そう認識することが大事なんだ、きっと。
 

   だってさー。
   諦めてしまって、壁なんてない、世界はどこに行っても同じだって思ったら、
   そこで終わりでしょう?
 

   壁がある、
   そう思っている限りは、可能性があるわけよ。
   壁の向こう側にいける可能性がさ。
   壁があるっていう事実が、わたしにとっては救いだったんだよ。




  トゥルーマンショーの話に戻ろう。
  セットの壁には、ドアがついていて、そこにはEXITと書いてある。
  この凄まじい寓意。
  トゥルーマンは、ドアを開けて、立ち止まる。
  住み慣れた世界に背を向けて、足を踏み出す恐怖に。
  彼がどんな決心をしたか。

  それはこの映画をみたくなってしまった人の楽しみにとっておこう。
 

   なにはともあれ、
  黒く開いたドアの向こう側の空間、世界の向こう側での物語は描かれることがなかった。
  物語はドアの前で終わる。
  ありがちなカタルシスを期待していたわたしは、なんだか空中に放り出された
  ような失望感を味わった。
  
  『幕末太陽伝』じゃないけれども、トゥルーマンが、テレビのセットを、
  そしてパラマウント映画のセットまでをも突っ切って、“現実”に
  走り去っていくシーンが見たかった。
  神も仏もあるもんけぇ!とか言いながら(笑)


   でも、そこまで期待しちゃダメなんだよ。
   その向こう側は、誰にも描けないんだ。
   その向こう側になにがあるかなんて、まだ誰も知らないんだよ。
 
 

   たとえば、わたしがまた夢を見て。
   トゥルーマンが立ち止まった、あのドアの前にたつ夢を見ても。
   きっとドアをあけたところで目が覚めると思うんだ。
   そっから先は、わたしが生きて確かめなきゃいけない。

   生きている限り、あのドアの向こう側にいける可能性はある。
   壁はあるのだ。向こう側にいけるのだと信じている限りは。
   壁がなくなれば、向こう側にもいけない。
 深夜にだらだら書いちゃったけど、これは一言で言えばバカの壁ってヤツか!?
 『午後の遺言状』で杉村春子を花道で送り出した新藤兼人監督が亡くなったと聞いても、
 とくに感慨が生まれるわけでもなく、心の中でそっと瞑目していたのだが、
 山田洋次の「仰ぎ見る人がいなくなってしまった」というコメントを読んで、
 嗚呼!っときてしまった。

 そうか、一つの時代が終わったのだなぁ、と。


 敬愛すべき人たちが次々に去っていく。
 時間というのは無常で無慈悲で、とても平等。

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