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石原立也監督コミュのKanonを語ろう

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たとえば押井守と違い、
まだ石原監督は語られることが少ないように思います。
三作目である『Kanon』を語りましょう。

コメント(1)

 多くのヒロインがいる恋愛シミュレーションをアニメにするのは困難なことでしょう。ヒロインは1人だからこそドラマにもなる。ドラマとしての完成を無視して、萌え要素で見せてゆくのが萌系の手法です。『らき☆すた』がそうです。『らき☆すた』の初見の印象は、その萌系独特の演技に敷居を感じました。
 『Kanon』の印象は違和感でした。萌系の権現のような絵に反するかのように、演技から魂が抜けていた‥萌系を演出が俯瞰しているかのようだった。ところが、萌系において添え物であるはずの主人公は違っていました。彼だけが生きていた。その彼によってヒロインに焦点があってゆく‥ここで異変が起きます。ヒロインは主人公とのかかわりで描かれてゆく。そして時おり激しく自我を見せつける。瞬間、萌え要素だけの器に“萌え”が生まれる。それは“萌え要素”と“萌え”がイコールではないことを語っています。
 そしてこの主人公は、お約束であり触れてはならないはずの“萌え要素”に言及することをします‥女の子がなぜ自分を僕と呼ぶのか‥『Kanon』では萌え要素への言及からヒロインが洞察され、ヒロインに“死”が与えられる。例えば、戦闘美少女は戦いの理由を暴かれて、それが解決してしまったとき、自決した。萌え要素で成立していた彼女はそれを失ってはそうするほかなかったのでしょう。
 奇跡がキーワードとなったこのファンタジィは、世界が誰かの夢かもしれないと示されました。夢の中では1つだけ願いが叶うという。悲劇のヒロインたちの誰かが願ったのは、主人公の幸せでした。それは僕にもリアリティでした。『Kanon』において素直に感情移入できたのは彼だけだったからです。そしてヒロインたちは救済された‥。
 萌え要素を持ちながらも機能不全にあるヒロインたち。機能不全にあるヒロインたちは僕を牽引しない。僕を牽引したのは主人公でした。そうすることで『Kanon』は萌系の体を堅持しながらドラマとして完成します。そしてドラマの中にこそ“萌え”は生まれると示してみせた。

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