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学校と子どもを考える集いコミュの文科省、体罰除外例を明確化?

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みなさん、またまた文科省が体罰を弾力的に認める方針を出しております。基本的人権がきちんと擁立されている諸外国では考えられない事です。ますます、教員が支配的な教育を施しかねません。

体罰をどう思いますか?どこまでも混乱を招く安倍政権下での教育改革?です。
___________________________

文科省、体罰除外例を明確化「教室から出す」も可能に
(読売新聞 - 02月02日 21:11)
 いじめや校内暴力などの問題に対応するため、文部科学省は、教師の体罰に関する基準を全面的に見直し、2日、その概要を公表した。

 教室に残して指導することなど、体罰にあたらない事例を具体的に示しており、週明けにも全国の小中高校に通知する。

 体罰は学校教育法で禁止されているが、その定義については、これまで1948年の法務庁長官(当時)通達しかなかった。この通達は殴るけるなどの暴力だけでなく、授業中に騒いだ子供を教室の外に出すことなども体罰としたため、学校現場から「教師側が委縮して、子供を指導できない」などの声が出ていた。

 今回、同省がまとめた基準では、「身体への侵害や肉体的な苦痛を与える体罰は行ってはならない」とした上で、放課後も教室に残して指導したり、学習課題や掃除当番を課したりすることは体罰にはあたらないと明記。法務庁長官通達では禁止されていた「騒いだ子供を教室外に出す」という措置についても、ほかの教室で指導するなどの対応をとれば可能とした。



コメント(31)

昨年、アムネスティ・インターナショナル45周年イベントに置いて、平野裕二さんをお招きし、「子どもの権利条約」がどのように国際社会で根付いているかを伺いました。「体罰」に関する国際動向をお知らせします。レジュメの一部から抜粋します。

______________________________________________________

専門家の資格要件と訓練・研修

 教職員、警察官、施設職員をはじめとする専門家は、暴力か
ら子どもたちを保護する最前線に立っていると同時に、いつ暴
力の加害者になるかわからない立場でもある。そのため、こう
した専門家の資格要件や養成に関して適切な最低基準が定めら
れなければならない。暴力の前歴がないかどうかチェックする
ための背景調査も必要であるとされている。学校や施設の職員
を採用するにあたっては、「非暴力的な規律の維持の手段を効
果的に活用する職員の能力」に正当な注意が向けられなければ
ならない〔同〕。

 同時に、そのような資格を求めるに足るだけの「専門家とし
ての地位、報奨および職業上のインテンシブ」が用意されなけ
ればならないと強調されたことも重要である。このような勧告
も踏まえ、職員の労働条件が適正なものかどうか、常に検討が
行なわれなければならない。とくに教職員との関連では、「学 校の生徒数が過密でありかつ基礎的教材が存在しない場合、および教職員の動機づけが弱くかつ報酬が乏しい場合には、暴力的手段に訴えることなく学校を運営するのが極端に困難である」という認識が表明されている。

 関連の専門家の訓練・研修も重要である。その内容としては
、関連の人権基準、非暴力的な人間関係および規律の維持の手
段、子どもの発達、とくに被害を受けやすい立場に置かれたグ
ループ(マイノリティの子ども、障害児等)の背景・権利・ニ
ーズがとくに明示されている。このような訓練・研修は、「関 連のNGOとのパートナーシップ」にもとづいて、「協力的アプローチを促進する学際的方法」にしたがって行なわれなければならない。NGOとの連携が明示されたのは重要であろう。

 このほか、とくに学校職員に関しては、「暴力をともなわな
い規律の維持に関する行動規範および模範的実践の規範」を教
職員組合と共同で構築することが勧告されている。

差別の問題を考慮する必要性

 子どもへの暴力を防止し、被害を受けた子どもを保護するた
めの戦略を立案するにあたっては、まず、子どもの属性によっ
て被害の受けやすさや暴力の態様に違いがあることが考慮にい
れられなければならない。

 この点は、とくに男女の違いとの関連で強調された。たとえ
ば、男子は身体的暴力や体罰を受けやすく、また他の生徒から
の暴力やいじめ、暴力への関与等から保護されにくいことが多
く見られる一方で、女子は家族の構成員、教職員、他の生徒に
よる性的暴力の対象にされやすい可能性があることが指摘され
ている。このようなジェンダー差別に適切な注意が向けられな
ければならない。

 ジェンダー以外に、人種差別・排外主義、社会経済的要因、
性的指向、身体の大きさ・強さなども考慮にいれなければなら
ない要因であり、このような要因にもとづく差別を防止する必 要性を考慮することが求められる。また、障害児も暴力の被害 をとくに受けやすい存在であり、条約の規定にのっとって特別なケア等を提供する必要があるとともに、居住型施設への措置 を可能なかぎり回避しなければならない。

 警察等による暴力をとくに受けやすいストリート・チルドレ ンに関しては、このような子どもと「警察とのあいだの直接の対話を奨励する」ための訓練が勧告された。また、このような子どもたちを施設に収容するのではなく、地域を基盤としてさまざまな支援を行なうことも求められている。
レジュメで書かれている一般論ですが、日本は40人学級という過密したクラス編成では、教員が支配的になりやすい環境です。

これが、20人、25人であれば、教員の労働条件が改善され、教員が支配的にならずに、結果的に子どもにとって良好な環境になるという証左です。少人数学級の実地が先では無いかと思うところです。

>職員の労働条件が適正なものかどうか、常に検討が
行なわれなければならない。とくに教職員との関連では、「学 校の生徒数が過密でありかつ基礎的教材が存在しない場合、および教職員の動機づけが弱くかつ報酬が乏しい場合には、暴力的手段に訴えることなく学校を運営するのが極端に困難である」という認識が表明されている。
これは、微妙に権利と権利がぶつかっている事例なのでしょうか?

>授業中に騒いだ子供を教室の外に出すことなども体罰としたため、学校現場から「教師側が委縮して、子供を指導できない」などの声が出ていた。


騒いでいる子ども→他の生徒の授業を受ける権利を奪う→騒ぐ子どもを教室から追い出す→騒ぐ子どもの授業を受ける権利を奪う

こういう堂々巡りになっていませんか?

どうやって対処するか難しい問題です。両方の権利を奪わない方法がどこかにありそうですが・・・
全くです。

都合のいいように、少子化なんですよ。
一クラスの定員を25人にすればいいんですよ。

++++++++++

だいたい、40人もいればピンキリでさ〜・・・
そりゃー手に負えない子どももいるだろうし、
手に負えない親もいるでしょうに・・・。

他人の尊重ってことができずに、他人に迷惑をかける子どももいるわけで、
そういう子どもを退出させると・・・
それが体罰?

文部省には、『際限』とか『限度』ってものを知っているものがいないのかね〜?
限度を知らないものを教師に雇ってはいけないし、何かを指導してもいけない。

物事を極端に解釈してしまうことの危機感が必要だな。
>騒いでいる子ども→他の生徒の授業を受ける権利を奪う→騒>ぐ子どもを教室から追い出す→騒ぐ子どもの授業を受ける権>利を奪う
>こういう堂々巡りになっていませんか?

そうなのでしょうか? 権利という言葉、CAPのことでも扱いが難しい言葉だと感じていますが、騒ぐ子供は自ら授業を受ける権利を放棄しているともいえます。

教員の資質を問うことも、今の教育制度に対して問題提起をなさることも大切だとは思いますが、一番考えなくてはならないのは親の教育だと私は思います。騒ぐ子供の中にも色々なタイプがあると思います。性格的に落ち着きのない子、あまり勉強が好きではない子だけではなく、塾に行って勉強して学校が息抜きの場になってしまい学校の授業に関心がないというケースです。往々にして親御さんが学校の授業を軽視していらっしゃいます。なぜ学校が必要なのか?なぜ行かせているのか?そこのところをよくお考えになっていただきたいと思いますし、どんな先生であれ、自分より年上の人間を敬う気持ちが持てない、もしくはそう親から教育されていないことのほうが私には問題に思えます。批判することは簡単ですが、100%完璧な人間はこの世にはいません。そして、親と学校、教師が批判しあい敵対関係にあるような関係が子供にとって望ましい環境とはいえないと思います。権利という言葉を使わなくても、全ては相手に対する思いやりということで解決できるはずでは?と思うのです。 教師が生徒を、生徒と親が教師を思いやる関係が築けるようになればいいなぁと思いますし、私もそう努力したいと考えています。

安倍政権のもとで教育改革がどうなされていくのか、とても気になるところですが、言葉でどう定義付けしようとも現状は何も変わらないような気もします。
僕は別のトピでもかかせていただきましたが、そろそろ子供が小学校にあがろうか、という状況です。
体罰については、皆様と比較すると肯定的、ということになると思います。度合いと理由と背景と、もろもろの条件によって、体罰はやむを得ないことだと思っております。
むしろ、論議としては、体罰の範囲、体罰以前に代替策として検討すべき点(皆様のおっしゃる教師の資質や少人数化など)、体罰の是非、など、その辺をクリアーにしながら話していかないと今ひとつ何が問題なのかが分かりません。(すみません。理解が悪いので)
例えば自分の子供が何日も続けて宿題を忘れたために、定規でお尻を叩かれたとします。(ちなみに女の子です)
子供から「先生が暴力を振るった!」と相談してきたら、「暴力は原則よくないこと」「それでも先生が暴力を使うからには理由があること」「自分サイドで改善しなければいけないことがあること」などを説明します。一方これが顔をゲンコツで殴られた、といったら話は別です。またやたらに毎日叩き続けることも推奨しません。スポーツ系の顧問の先生が指導と称して戸塚ヨットスクール的に暴力を主たる手段として使うことも容認しません。
それでも原則的にやむをえないと思っています。
例えば犬や猿などはどうなのでしょうか。僕は人間の行動がおかしいのではないか、というふとした疑問が生じたときは他の動物の行動を考えるようにしています。
みかんさん、こんにちは。

>どんな先生であれ、自分より年上の人間を敬う気持ちが持てない、もしくはそう親から教育されていないことのほうが私には問題に思えます。

まず、書かれている「年上の人を敬う気持」が大事であるという教育をやっていない親です。(~_~;)

年上でも若い人であっても、尊敬できる方とそうでは無い方がいます。教員であれば尊敬しなさいという教育が果たして良いのか?非常に疑問です。

教員は子どもよりも圧倒的に力関係でいえば「上」にあります。パワーハラスメントやセクシャルハラスメントを起こし安い立場であるという認識を教員自身が持っていればいいのですが、往々にしてそのように自覚がある教員は子どもを支配しません。自覚の無い教員によって、子どもの権利は奪われる場合があります。わたしは、単なる年齢によって相手を敬うという事は教えません。そこは、みかんさんと大いに意見が分かれます。

>批判することは簡単ですが、100%完璧な人間はこの世にはいません。そして、親と学校、教師が批判しあい敵対関係にあるような関係が子供にとって望ましい環境とはいえないと思います。権利という言葉を使わなくても、全ては相手に対する思いやりということで解決できるはずでは?と思うのです。 教師が生徒を、生徒と親が教師を思いやる関係が築けるようになればいいなぁと思いますし、私もそう努力したいと考えています。

教員と保護者の信頼関係は非常に大事だと思います。それには異論はありせん。しかし、大事な点が欠落していないでしょうか?

教員よりも、子どもは無力であり、精神的に未発達です。親が見ていないところで、教員による人権侵害が起こっています。(セクハラ・パワハラなど)それを訴えることができない子どもがいますよね。子どもが親から責められるかもしれないと、被害を親に言えない。

ある有名な先生が、教員は親と警察の前でも同じ事ができることしかやってはならないと「体罰事件」があった後に書かれています。

みかんさんのおしゃることは、理解できるものの、なんかすっきりしません。体罰は「子ども側」が受けるものです。体罰を与えることが、教育上好ましいのかどうか?そういう観点で考えていきませんか?

以下、リプロのサイトから他にリンクされているところにいったら、パワーハラスメントと置き換えて読めば、学校の教員と子どもの関係になりますので、良かったらご覧ください。
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学校でのセクハラは、学生達の学習や学問・研究の自由をふみにじります。キャンパスでのセクハラは、職場以上に被害が大きくなりやすい面があります。これは被害者である教えられる側が圧倒的に弱い立場であること、いいかえれば加害者である教師達が教育的あるいは学問上の評価の権限を握り、また就職への窓口だったりする等、絶対的に優位な立場であること、年齢差も大きく、また、学校の閉鎖的体質によって密室化してしまうことが多いからです。これによって、教え子たちは生涯ぬぐいきれない精神的打撃を受け、学業を続けることが困難になります。
教員の方からのご意見をお願いします。

体罰に関して、なぜ良いと思うのか?また、なぜ悪いと思うのか?

教育上どのような効果が期待できるのか?また、期待できないのか?

そういう踏み込んだ話題にもっていけたら幸いです。
うんこさん
もちろん私も体罰には反対です。ただ、どこまでが体罰でどこまでが体罰でないかをどんなに細かく規定したところで、その抜け穴をくぐってくる方は必ずいます。うんこさんの仰るように子供を守っていくように働きかけていくことは絶対に必要だとは思いますが、人間最後の最後は倫理観なんだと思います。そこを育てることが時間のかかる作業であり、また即効性に欠けることは承知の上ですが、でも、その視点の上に立った行動でなければ何をどう改革しても問題は解消されない気がするので書き込んでみたまでです。

私が年上を尊敬しなさいと教える理由は至って簡単です。子供にあなたたちが大切な存在であると教えるのと同じ理由です。怒るときも、子供のいけない面はしかっても人格や存在を否定しないのと同じかな。もちろん、子供の先生で、え!?と思う方もいらっしゃいますが、子供を育てるのと同じで教師も認められることで変わっていく方もいるんじゃないでしょうか?

体罰は反対ですが、廊下に立たせるが体罰に入るとは思っていない親です。逆にそれぐらいはして欲しいかな?といったらうんこさんに怒られるでしょうか??
>みかんさん、うんこさん

 自分には、子どもはいませんが子どもができたら「先生を敬いなさい。」と教えると思います。自分自身も子どもの頃は、「どうして早く生まれたというだけで年上の人を尊敬しなければならないんだ?」と思っていましたが歳をとると、それが幼稚な考えだったと感じます。
 
 うんこさんは教員とはパワハラ、アカハラをするものであるという前提に立っておられるような気がします。それはそれで別の大きな問題ですが今は先生がまともな人だとします(というよりそうでないといけないでしょう)。子どもが教員を尊敬することは、教員が子どもを支配する構図を助長すると見ておられるようですが、果たしてそうでしょうか?人が人を尊敬することは、片方がもう片方の下にへりくだることでしょうか?尊敬することは無条件に従うことではないはずです。同じことを言っていても尊敬できる人が言う場合と、そうでない人が言う場合では聞く側の熱意は全然違います。一生懸命に聞けば相手が間違っている場合でもそれがよくわかるでしょう。互いに互いを信頼して、愛情、敬意をもたない関係では共に作り上げれるものも少ないでしょう。たんに教科の勉強をするだけならいらないかもしれませんが、学校で人格や社会性の成長など人と人とのつながりを学ぶのであれば先生や友達を尊敬し敬意をはらうことは必要だと思いますがどうでしょうか?
このあたりがみかんさんに賛成するところで子ども、親、教師が信頼尊敬し合っている環境こそがどんなに優れた教材よりも子どものためになると思います。極端な言い方かも知れませんが(うんこさんごめんなさい。)「先生はあなたを力でおさえようとするかもしれないから気をつけなさい」と言われた子どもがその先生の授業をしっかり受けられるでしょうか?事実は間違いなく「かもしれない」です。人間は誰しもその様な性質を持っています。しかしそれを子どもに強調することが果たして得策でしょうか?みかんさんも指摘されているところですが「尊敬された教師」が本当に「尊敬されるべき教師」になることは十分にあると思います。先生もまた環境によって「立派」にあるのではないでしょうか?

自分が年上を尊敬するべきだと思う理由は、長く生きていてそれだけ経験がある、場数を踏んでいるからです。もちろん年上の言うことを鵜呑みにするのはナンセンスです。ただ自分と意見が対立したときに「何年間かの経験の上積みがある人がどうしてこのようなことをいうのか?」と立ち止まって考える姿勢は必要だと思います。

もちろん不適格な教員を排除するという問題は別に存在します。

ついでに体罰のはなしもまた今度でお願いします。
みかんさん、いろはさん、いっぱい本音を書いてもらったほうが嬉しいです。^^

怒るなんてことありません。

むしろ、いろはさん、みかんさんの書かれている感情やご意見が世の中、圧倒的に多いのです。一部体罰を容認するという方が多数派を占めています。

そして、活発な意見が出た方がより問題をとらえることができます。

いろはさんが書かれている以下の事は、大事な事だと思います。

>「何年間かの経験の上積みがある人がどうしてこのようなことをいうのか?」と立ち止まって考える姿勢は必要だと思います。

ただこの場合、年上とか教員であるとか親であるとか関係なく、子どもであっても大人に抗議できるという事は無いのでしょうか?

CAPは子どものエンパワーメントを発揮できるよう、考えて作られているプログラムです。そのエンパワーメントには、不条理にNOを言うことです。

体罰は、イジメを受けた子どもと同じように、受ける側にとっって「どうなのか?」が論じられなくてはならないと考えております。

体罰を与えている親・教員は「それは躾」だと思っていても、受け取る側の子どもは虐待と思う場合があり、難しいです。

ですから、あらゆる体罰に反対!という考えでいます。
あるBlogで書かれていたのは、そもそも「やる気のない生徒は出て行け」で物事が改善するかどうか、という指摘でした。

教室を出れば出ればで、警報機をいたずらする生徒、学校の外に抜け出す生徒、結局そのまま非行に走る生徒。教室の外に出ることを望む生徒も少なくないということが、そのblogに書かれていて、それも現状としては充分あり得るな、と感じました。

結局そういったことも考慮に入れているのだろうか、というのが心配になります。単に「昔はこうだった」という、安易でノスタルジックな発想が、現場に持ち込まれつつあるんじゃないかと思ったりもします。
amekura101さん、今の教育は「やる気」を見せなきゃ、「評価」されない通知票と内申点です。これが、やっかいなんだ・・実は・・・教員の前で「偽善的になる」から。子どもらしさや正直とはほど遠い存在にしちゃうなって、警戒しています。態度重視って、そんなにいいことなの?なんか、とってもいやらしい子どもになりそうでいやです。

>あるBlogで書かれていたのは、そもそも「やる気のない生徒は出て行け」で物事が改善するかどうか、という指摘でした。

やる気を起こさせるように努力するのは、教員自身なんです。その授業のスキルを磨いたり、生徒の心を集中させる工夫をして欲しいですね。塾の先生を見て思ったのですが、そういう面では学校の先生より「プロ」の人がいます。

こういってはなんですが・・・教え方も生徒の心を掴むのがうまい塾の経営には「すごい!」と思いました。生徒を大事にする、相手を思いやって叱る、親が高いお金を支払ってきていると、生徒に伝わるように話すのです。こんな塾の先生ばっかりだったら、いいのにと正直思ったほどです。

もちろん、体罰などしないで、生徒に教え伝え、心を掴んでいます。
高校教員です。体罰について意見をということですので、私見を少し書きます。

体罰には反対です。

教室に入らない生徒、授業で騒ぐ生徒、問題行動を起こす生徒、いろんな生徒がいると思いますが、教師が本気で立ち向かうということで指導していくべきなのだと思います。
きれい事と言われるかもしれませんが、本当に人として生徒のしたことに許せないと思ったら、それをどうその生徒に伝えるか、迫るかが大事なのです。体罰が許されれば、伝わるのか、解決できるのかというと、疑問を感じます。生徒は、恐い教師の前では、おとなしく(怖さ、暴力?の前に)しているだけなのです。

体罰という言葉には大きな幅があり、許される事例をあげて…といっても、その解釈で大きなブレが出てきます。それに体罰をする教師は、そのブレのいっぱいの所かそれを超える体罰をするのです。

指導に従わない、指導に乗らない生徒がいるという話も出てくると思います。確かに生徒を取り巻く状況というのは以前と大きく違ってきていると思います。教師としての力量(良心的な教師としての力量)がある人からも、言葉が通じないなどの声も良く聞きます。また、地域や学校、その生徒によって状況もかなり違います。ですから、ここで私が書けるのは、私が関わった生徒、学校、研究会等で知っている範囲での話になります。

とりあえずは、ここまでにしておきます。いろんな方の意見をお聞きしたいと思いますし…。
>うんこさん、ねこじゃらし0714さん

>ただこの場合、年上とか教員であるとか親であるとか関係なく、子どもであっても大人に抗議できるという事は無いのでしょうか?

すいません。ちょっと読解力に乏しいので勘違いしてるかもしれませんが…

もちろん、子どもは大人に反論なり抗議してもいいと思います。というよりそう思うなら、そういうべきでしょう。そして大人はそれにきちんと理由を答えてやることが望ましいと思います。個人的に「言い訳するな!」とか「いいからそうしろ!」とかいう台詞は好きではないです。

ただ、上で「べき」ではなく「望ましい」という言葉を使ったのはそうすることが不可能な場合もあるからです。例えばまた極端な話ですが「人を殺してみたい」に対する「人を殺してはいけない。」という主張は大人の間でも皆が納得できる「論理的な理由」は存在しているようには思えません。しかしながら「持つべき共通認識」であることはほぼ納得していただけるのではないでしょうか?この場合子どもに納得いく説明をできない親はそれを止める権利はないなんてことはないですよね?ここではそれを「やらせない」ことが重要です。子どもは時にその純粋さ故に残酷で、虫の足や羽をむしる子はそう少なくはないです。(こんなこという自分もやったことあります。)しかしそれが小動物→中型哺乳類となるともう異常とみなされ、そうなるとすでに彼や彼女が大人であったとしても「人を殺してはいけない」と説得することは不可能になっていると思います。この辺はうんこさんと対立するところでねこじゃらしさんの体罰の議論にも反するかもしれませんが「子どもが納得しないことはしない」ではまずいとおもいます。「殴ってでもさせてはいけないこと、させなければならないこと」は存在すると思います。
「言ってわからない奴にはカラダでわからせる!」という意見には反対です。「言ってわからない奴が殴られてわかるはずがない」です。でも「理由がわからなくてもやらなければならないことはある」のです。人間はその辺は結構非論理的なところがあって「やっているうちにわかってくる」ものもあるのです。一例をあげるなら「言語(母語)」でしょうか。
大人はある意味では本人の同意なしに無理矢理子どもを制限するわけです。例えば大抵の場合において親は子どものコミュニケーションの手段を自らの「言語(母語)」に制限してしまうわけです。生活習慣、文化もしかりでしょう。しかしそれは矛盾しているように思えて、制限しなかった場合(アマラ・カマラの話をかんがえていただければわかるかとおもいますが…)に比べて果てしなく大きな可能性を子どもに与えてやっていることになるのです。

大人(親)の愛情はある意味(上のような意味)で身勝手です。取り返しがつかないほど身勝手です。であるからこそ大人には子どもにたいして責任があるのだと思います。
14: ねこじゃらし0714さん、コメントありがとうございます。

>ですから、ここで私が書けるのは、私が関わった生徒、学校、研究会等で知っている範囲での話になります。

それで結構です。実践を通してお考えになった報告のほうがより説得力があります。お時間の許す範囲で結構ですのでよろしくお願いします。

いろはさん、コメントありがとうございます。

>もちろん、子どもは大人に反論なり抗議してもいいと思います。というよりそう思うなら、そういうべきでしょう。そして大人はそれにきちんと理由を答えてやることが望ましいと思います。

子どもに反論の機会が十分に与えられる環境なのか?教員は子どもの意見を聞く耳をもっているか?親も同じように子どもの意見をきちんと聞いているか?まず、そこの環境が整っているか考えたいですね。

大人側の内省にもつながると思います。まず、生徒が「学校運営」に参加できていない日本において子どもの意見は十分に反映されていません。ここの認識は共有したいものです。国連子どもの権利委員会から何度も勧告を受けている文部科学省であり、日本政府です。これは、教育行政に責任があります。末端の校長や教職員にできる範疇ではありません。

また、日本は子どもを「権利の主体者」と考えておらず、親の庇護・保護に置かれる存在として考えていると指摘しておきます。要するに、子どもの基本的人権が確立していないのです。生まれたときから大人と同じ人権(権利)があるという認識が無いと思うところです。

日本の子どもが他の国の子どもよりも幼く、自立していないのは、このように学校・家庭に置いて子どもが主体性をもったり、権利を主張できず、大人が自立を妨げているのではないかと常日頃思うところです。うちの家庭でもそうです。子どもが成長する過程において、何かが欠落していると思うこの頃です。ノルウェーの教科書では、子どもが国会までデモ行進をして権利を訴えにいく写真がでかでかと出ています。抗議することが「市民権」であり、「子どもにもできる権利」であると教科書で示しているのです。

話しは戻りますが、廊下に立たせることしかできない教員は、まず、自分の授業のあり方を内省し、それから、生徒に納得できる言葉で、「なぜ、授業を妨害するのがいけないことなのか」を説明できなきゃ、教員としての資質を疑ってしまいます。教員は子どもに教育を施すプロフェッショナル(職業として賃金をもらっている)なのですから。

まず、廊下に立たせる前に、教員がやることがたくさんあります。親であっても同じです。この「なぜ?」に答えることができるようになりたいものです。

なぜ、勉強をしているのか?
なぜ、授業を妨害することが悪いのか?
なぜ、授業を妨害しようとする・騒ぐ子どもがいるのか?
なぜ、他の生徒は授業をきちんと聞いているか?
なぜ、廊下に立たせるのか?

教員・親は少なくとも「言葉による説明」で子どもに納得させることができなければ、叱る資格が無いと思います。それだけ、年齢を重ね、経験もボキャブラリーも豊富なんですから。
>うんこさんへ

>教員・親は少なくとも「言葉による説明」で子どもに納得させることができなければ、叱る資格が無いと思います。それだけ、年齢を重ね、経験もボキャブラリーも豊富なんですから。

ここが相違点ですね。
15でも書きましたが大人の間でも論理的に説明できないけどやっちゃいけないこと、やらなきゃならないことがあると思いますが。

また、多くの大人(適当な年齢以上と定義しましょうか)が様々なことに対して「言葉で説明できる能力」を落ち合わせているとは思えません。大人もまた未熟です。

「言葉による説明」の聞き手の能力も必要です。またまた極端な話ですが0歳の子どもに「面白がってお友達の目をついてはいけない」ことを論理的な説明によって納得させられる大人がいるでしょうか?また納得する0歳児がいるでしょうか?
これは極端な話ですが、子どもの理解力もまた成長過程にあるわけです。私自身それなりの年齢(法的には完全に成人です)ですがこの能力においてはまだまだ成長していると感じています。

「言葉で説明できる」とは完全に成熟しきった人間が同様の能力がある人間に対してのみ初めて成立することだと思います。

ちょっと時間がないのでなんか中途半端ですがしつれいします。
なんかへんなところがあればごめんなさい。。
 昔は、スリッパでビンタや拳骨なんて日常茶飯事だったのですが…、親も三者面談で「この子が何かやったら遠慮はいりませんからドンドンしばいてください」と言ってたし…学校教育法って何?という世界でしたなぁ。

 でも、その先生方も本気で我々のことを考えて殴ってくれたのも事実ですし、怒った後は後腐れが無いさっぱりしたものでした。

 と、いうおっさんの懐旧談はさておき、
子供は未発達の存在である以上言っても分からないことは多々あると思います。そんな時、子供に善悪を分からせるために一定の罰を与えるのは必要ではないでしょうか?
 確かに、殴るや蹴るなどといった暴力はいけません。しかし、教室の後ろに立たせる、椅子の上で正座、腕立て伏せ20回などはやっても構わないのではないでしょうか?
 グチグチと長いお説教を垂れるよりそっちのほうが早く簡単に物事の善悪を教えられることが出来ると思います。

 後、うんこさんは、子供の「なぜ」に教員は答えられなくてはならないとありますが、確かに、子供の質問には教員は答えられなくてはなりませんが、子供の屁理屈にまで答える必要があるのでしょうか?

「何故授業を妨害しちゃダメなの?」
→「ダメなものはダメ」
で良いのではないでしょうか?
現に会津藩の「什の誓い」でも最後にこう書かれています。

「ならぬものは、ならぬものです。」
と。
教育再生会議の提言となっている「体罰」は、
「体罰」一般として考えてはならないと思います。

教育再生会議の提言の全文を読みましたし、討論の
内容も読んできましたが、要するに再生会議は
子供の発達とか、ゆっくりと考えると言うことを
一切無視して、とにかく「効率的」な教育現場を
求めているのです。

教師にも、なぜ、どうして、と言う疑問を持たせず、
徹底した管理の下に置こうとしていることがはっきりと
伺える会議になっていました。

教師は校長からも、外部の学校評議会のようなところ
からも、さらには免許の更新をちらつかせた文科省の
評価も受けなければならず、常に評価・評価で
追いまくられるようになっているのです。

定められた教育課程を教育指導要領どおりに教える
ことで、きゅうきゅうとされてしまうのです。

そのような息もできないようなストレスの中で、
教室の「治安」を保つための体罰が、どのように
使われるか想像ができるような気がします。

本当に子供と対峙し、徹底的に考えあうゆとりが
あったときに、体罰が本当に必要でしょうか?

むしろ、体罰が必要と思われるような状況のときにこそ、
その生徒の心に触れることのチャンスなのです。

いま必要なことは、教師に体罰を与えることを認める
ことではなく、一クラスの子供の数を削減し、
先進国で最低の教育環境を是正することです。
そのための予算を増やすことです。

OECD30カ国の中で29番目か30番目かの
教育環境の悪さをどうにか正すことです。

日本ほどの経済力を持っていたら世界で第2位の
教育環境が作れるはずです。体罰が良い、悪いの前に
すべきことがたくさんあるはずです。
ひろくんさんのコメントで
>教育再生会議の提言となっている「体罰」は、
>「体罰」一般として考えてはならないと思います。

私もそう思います。

>むしろ、体罰が必要と思われるような状況のときにこそ、
>その生徒の心に触れることのチャンスなのです。

と、先日子供の学校の教頭先生も仰っていました。学校でポケットに入れっぱなしになっていたガムを出来心で食べた子がいたそうです。校長室で少し話をしたあと、自分がしたことを反省するのに何かしないとね・・ってことで翌朝少し早くに学校に来させて正門で登校してくる全児童におはよう♪と挨拶させたそうです。させたと言っても高圧的な感じではありません。毎朝先生ご自身も門に立っておられますしね。文章だけでは伝わらないかもしれませんが、とても包容力のある先生です。何かしでかした時こそ話し合えるチャンスだと仰っていました。

何だか教育再生会議はどう話し合ってもおかしなことになるような気がします。

>教師にも、なぜ、どうして、と言う疑問を持たせず、
>徹底した管理の下に置こうとしていることがはっきりと
>伺える会議になっていました。
と私も思うのです。子供のことも心配ですが先生方も大変だなぁと思う気持ちのほうが強いです。
先生の精神を健全にしてこそ子供への対処も健全になると思うので。
17の続きです。
>うんこさんへ(よろしければ17も読んでくださいね。)

>子どもに反論の機会が十分に与えられる環境なのか?教員は子どもの意見を聞く耳をもっているか?親も同じように子どもの意見をきちんと聞いているか?まず、そこの環境が整っているか考えたいですね。

おっしゃる通りだと思います。「日本は黙って言うことをきいておきなさい! 」というのが多いですからね。もっと子どもと大人で喧々諤々やるべきでしょう。学校のことでいえば、生徒会、生徒議会なんてのも形だけのものになっているところが多いですしね…

>日本の子どもが他の国の子どもよりも幼く、自立していないのは、このように学校・家庭に置いて子どもが主体性をもったり、権利を主張できず、大人が自立を妨げているのではないかと常日頃思うところです。うちの家庭でもそうです。子どもが成長する過程において、何かが欠落していると思うこの頃です。ノルウェーの教科書では、子どもが国会までデモ行進をして権利を訴えにいく写真がでかでかと出ています。抗議することが「市民権」であり、「子どもにもできる権利」であると教科書で示しているのです。

たしかにこれも納得です。日本人の子どもには「抗議」する権利はもっとあっていいと思います。それに答えられる(それが子どもの意見と反対であっても)ように大人も努力すべきでしょう。

>まず、廊下に立たせる前に、教員がやることがたくさんあります。親であっても同じです。この「なぜ?」に答えることができるようになりたいものです。

もちろんです。短絡的な方法の前に自省しそれ以外の方法を考えなければならないでしょう。



ここからちょっとうんこさんと意見がちがうところです。

しかしです。うんこさん自身、
「この「なぜ?」に答えることができるように『なりたい』ものです。」
と書かれておられますが、今のうんこさんではすべての子どもの「なぜ」には答えられないのではないでしょうか?(もしそうでなかったらごめんなさい。)むしろ私はその様な「大人」は存在しないと思います。もちろん答えられるように努力を続けなければならないのは言うまでもありません。
しかしだからといって(17でも書きましたが…)
『少なくとも「言葉による説明」で子どもに納得させることができなければ、叱る資格が無いと思います。』
というのは少し乱暴ではないかと思います。

繰り返しになりますが
「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」
という私の主張に対してはどのようにお考えでしょうか?


また
>(子どもにも)生まれたときから大人と同じ人権(権利)がある
とありますがこれはどのような意味でお使いでしょうか?私なりに解釈して答えさせていただくと、
「究極的に同じ権利」はないですよね?私の理解によりますと現在生まれながらに「参政権(国政への選挙権の意味)」を与えられている国はないと思いますが…
もちろん↑こんな揚げ足取りをしたいわけではありません。
私が言いたいのは、自己の決定権においてかなり制限されているということです。誤解をおそれずに言うならば私自身「それでよい」と思っています。
「ニンジンを食べたくない。」(もちろんアレルギーなどはないことが確かめられているとします。)
「深夜に外で友達と遊びたい。」(小学生を想定しましょうか)
もちろんきちんと説明して納得させるのが最良であることは間違いありません。が、これらの主張を納得させられなければ、受け入れなければならないというのはおかしいと思います。
子どもは、論理や理性が大人よりも未熟です。(残念ながら並みの子どもよりも未熟な大人もたくさんいますが…)で、あるから「ある程度」は大人がその手助けをしてやらなければなりません。

その意味において子どもは「権利の主体者」でありながら「親の庇護・保護に置かれる存在」でもあると考えます。

私の知識によりますと、最も教育の進んでいるといわれるフィンランドでも子どもの学校運営に関する「意見表明権」は与えられていますが、「決定権」は与えられていないはずです。
そこにはやはり「子どもは未熟で正確な判断ができないことがある」という思想が存在すると思います。

まぁ、大人も未熟で正確な判断ができないからこんな世の中なのかもしれませんが…

ながながとすいませんでした。
みかんさん、いろはさん、どんどんご意見書いてください。

やはり、会話によるコミュニケーションが大事であると思うからです。侃々諤々に意見交換できる場が少なくなっている中、大変有意義になると思うからです。反対意見も大歓迎です。

みかんさんの、以下のご意見、ごもっともだと思います。

>先生の精神を健全にしてこそ子供への対処も健全になると思うので。

わたしも同感です。疲れ切った教員から子どもは何を学ぶのだろうかと思うからです。また、教育基本法が「改悪」された後、学校で教育基本法の改訂に伴う話題すら出ていないと聞きました。学校・教員が病んでいると思うところは、そういう教育の根幹に関わる法律が改悪されても「話題にすら上らない」ところではないかと思うからです。

18: 信楽提督さん、書き込みありがとうございます。

こういう意見もおもしろいなぁ〜と思って拝見しています。
(~_~;)  ↓

>「何故授業を妨害しちゃダメなの?」
>→「ダメなものはダメ」
>で良いのではないでしょうか?
>現に会津藩の「什の誓い」でも最後にこう書かれています。
>「ならぬものは、ならぬものです。」
と。

ぼくちゃんがダメだと言っているから、子どもはそれに従うのら〜♪

というように聞こえてくるからです。ある意味、それで納得する子どもがいるという事実ですし、信楽提督さんご自身が素直な良い子ちゃんで、それで納得して生きてきたのかなぁなんて思ってしまいました。ごめんなさい。(~_~;)

ここのコミュでは、活発に意見交換をしましょう。脱線も大いに結構!トピ違いなんてけちくさい事はいわないで、自由にやっていきたいですね。

人と違ってもいい、間違ってもいいから、自分の意見を言う。それが、大事なんじゃないかなって・・・(^0_0^)

そういうことで、楽しく、本音でやっていきましょう。

のびのびと、明るく、異なる意見であっても、勇気を出して、どんどん書き込んでください。よろしくお願いします。

いろはさんのツッコミ大歓迎です。
ひろくんさんのように、ピリッと引き締まるコメントは、わたしら保護者サイトからは出てこないものであり、それは、ねこじゃらしさんのコメントもそうです。保護者が見えない問題を書いてくださるから、はっと気づきがありますね。

ということで、ヨロピク〜♪
わたし自身がお利口さんは無理なんです。また、学校と先生が大嫌いでした。なぜなら、自分は掃除やっていないくせに、生徒には強制する。おめ〜が、最初にやれよ!と思っていたからです。

それに、職員室や校長室の掃除当番に関しておかしいと思っていました。なぜなら、教員は自分らの教室は生徒達が使う場所だから、きれいに掃除しろとのたまう。

では、職員室は教員が使っているから、当然、教員が掃除すべきですよね。なのに、生徒にやらせて、のうのうとしています。それっておかしくないですか?

自分らが「やっていないこと」「やれもしないこと」を生徒にだけ要求する。おかしいです。

また、校長室は校長が掃除しなきゃね。みんなで使う場所はみんなで掃除し、自分の部屋が自分が使っているから自分で掃除する。その原則を校長自身が崩すなんて「教育上」おかしくないのかしら?と思っていました。

中学生のとき、家庭科の授業で女性教諭が「家事は女性がするもの」という発言をしたことから、わたしは他の友人(女の子)4,5人で授業をボイコットしました。性差分業を押しつける授業は間違っていると思ったからです。結果、友人も私も成績を悪くつけられました。

ボイコットする権利、それは教育を受ける側にある権利だと思います。しかし、教員がやった仕返し・報復は、通知票に「1」「2」を下すことでした。(笑)

その教員には内省・自己批判、なぜ生徒が拒否したのかというものが最後まで見受けられませんでした。しかし、他の教員からは何も言われませんでした。担任は国語教諭でしたが、事の経緯を聞き出しただけで、私らを責めませんでした。どこかで、わたしらを応援していたのかもしれません。わかんないけど・・・

なお、そのときの友人は北海道で学生結婚をして、現在夫婦で歯科医をやっています。
教員による体罰は言葉や暴力だけとは言い難いです。

教員による体罰?の範疇に十分に入ると思う「内申点」「通知票」です。

通知票にも内申書に(関心・意欲・態度)項目がありますね。

教員に従うよう最初から項目としてあるのです。

全ての授業に関心がある子どもなんてあまりいないと思うのですが、成績に関係してくるから、パブロフの犬のように教員の前では「関心がある態度を示す」ことが要求されます。偽善的な子どもがここでつくられると考えるのは間違っていますか?

態度重視の問題点はこのような所だと思います。教員による支配がそこに持ち込まれる懸念です。

生徒はボイコットできない。また、先生の授業の批判すらできない、異なる意見さえ言えないようになりませんか?

学校の先生以上に優秀で物事をきちんと捉えることができる子どもには苦痛かもしれません。
いろはさん、レスありがとうございます。

>「この「なぜ?」に答えることができるように『なりたい』ものです。」
と書かれておられますが、今のうんこさんではすべての子どもの「なぜ」には答えられないのではないでしょうか?(もしそうでなかったらごめんなさい。)むしろ私はその様な「大人」は存在しないと思います。もちろん答えられるように努力を続けなければならないのは言うまでもありません。
しかしだからといって(17でも書きましたが…)

よく、3才くらいの子どもが、「なぜ?なぜ?」と聞いてきますよね。そのとき、「後で」と面倒だから説明を怠っていたり、約束を守らなければ、子どもは「なぜ?」を言わなくなってくると聞いたことがあります。

スポンジのようになんでも吸収していく年齢において、一番近いし親に質問を投げかけてきます。そのとき、忙しさにかまけ、子どもに「うるさい!」と言われたら、子どもは二度と聞いて来なくなるかもしれません。いろはさんはどのようにお考えになりますか?また、なぜ、言葉があるのですか?

私はなるべく、自分が答えることができる範囲で子どもに説明をしていく努力をしています。で、わたしも自分がわからないとき、子どもに教えてもらっています。(爆)子どものほうが遥かに私よりわかっていることが年々多くなっています。

>『少なくとも「言葉による説明」で子どもに納得させることができなければ、叱る資格が無いと思います。』
というのは少し乱暴ではないかと思います。

そうですね。少し乱暴に書いたのは、大人が子どもに要求するならば、それだけのものをもって対処しなさいと言いたかったからです。二重規範はおかしいと思うからです。

いろはさん、子どもさんがいますか?三歳であっても、三歳にわかる言葉があると思っています。時間もかかりますし、納得させるには何度も言い聞かせることが必要かもしれませんが・・

>繰り返しになりますが
「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」
という私の主張に対してはどのようにお考えでしょうか?

いろはさんが持ち出しているお話は、0歳児や幼児に関して書かれているようですが、生まれた時から人間誰しも基本的人権があります。

それとは別に、教育再生機構が持ち出しているのは、学校教育現場における「体罰の柔軟化」なので、いろはさんの例題と今回の問題はずれちゃっているような・・・かんじです。

ごめんなさい。トピからずれてもいいけど、なんか、躾のほうに話しが拡散しているような気がします。今回は、公教育の場で「体罰の弾力化」がどのようになっていくのかというテーマです。
>うんこさんへ

>よく、3才くらいの子どもが、「なぜ?なぜ?」と聞いてきますよね。そのとき、「後で」と面倒だから説明を怠っていたり、約束を守らなければ、子どもは「なぜ?」を言わなくなってくると聞いたことがあります。
スポンジのようになんでも吸収していく年齢において、一番近いし親に質問を投げかけてきます。そのとき、忙しさにかまけ、子どもに「うるさい!」と言われたら、子どもは二度と聞いて来なくなるかもしれません。いろはさんはどのようにお考えになりますか?また、なぜ、言葉があるのですか?


まったくもっておっしゃるとおりだと思います。本当に時間がないときは仕方ないと思いますが、『面倒だから、わからないから』の「後で!」はまずいですね。日本はそのような親が多いのも事実で、うんこさんがおっしゃっている「日本の子どもに足りないもの」の1つの原因は間違いなくここにあるでしょう。わからなくても一緒に考えるべきでしょう。むしろ教育的には「わかっていても」一緒に考えるのがいいのではないかと思っております。


>いろはさん、子どもさんがいますか?

どこかに書いた気がしますがいません。でも昔は私も子どもでした。


>三歳であっても、三歳にわかる言葉があると思っています。

私もそう思います。大人のほうが子どもの分かる言葉表現を考えて伝える努力を最大限するべきでしょう。それは親であっても先生であっても近所のおじさんであってもです。


>時間もかかりますし、納得させるには何度も言い聞かせることが必要かもしれませんが・・

ここですね。意見の違いは。確かにおっしゃるとおりだと思います。何度も恐縮なんですが、
「人を殺してはいけない。傷つけてはいけない。」
ということを納得させるのが人を殺してしまってからでは遅すぎるのです。私は納得させられなくても「させない」ことが重要だとおもいます。どのようにお考えでしょう?(Q1)


>いろはさんが持ち出しているお話は、0歳児や幼児に関して書かれているようですが、生まれた時から人間誰しも基本的人権があります。

そうですね。基本的人権は持ちながらにして生まれてくると思います。まったくその通りだとおもいます。
でもこれがどのように私の
>>『繰り返しになりますが
「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」
という私の主張に対してはどのようにお考えでしょうか?』
という質問の答えになっているのかどうかがわからないです。すいません読解力が乏しいもので。。
この質問にもう少しわかりやすく答えてもらえないでしょうか??(Q2)


>それとは別に、教育再生機構が持ち出しているのは、学校教育現場における「体罰の柔軟化」なので、いろはさんの例題と今回の問題はずれちゃっているような・・・かんじです。
ごめんなさい。トピからずれてもいいけど、なんか、躾のほうに話しが拡散しているような気がします。今回は、公教育の場で「体罰の弾力化」がどのようになっていくのかというテーマです。

たしかに私の議論は完全に『躾』のはなしですね。ズレてるといえばずれてますね。すいません。
しかし、学校においても必要であれば躾は必要でしょう。人間が成長するに当たって何らかの躾が必要であるという立場にたてば、もしそれを親が行っていない又は、不十分であるならば学校が行うというのも1つの方法ではないでしょうか?

もうしわけないんですが、教育再生機構の体罰の議論はうんこさんほどよく知りません。普通にニュース、新聞で得る知識程度しかもちあわせていません。

もしトピズレであるなら「躾と体罰」みたいなかんじで新しい「トピ」をたててもいいでしょうか?私は主にうんこさんと議論したいのでここでもかまわないんですが。
どうするべきでしょう?(Q3)


私の質問の仕方が悪いのか読解力がないのか、うんこさんにはいろいろ聞いているつもりなんですがどのへんが質問の答えになっているのかわからない場合があるので、
(Q1)(Q2)(Q3)とつけたんでなるべくわかりやすくお答えをいただけないでしょうか?
いろはさん、こんにちはー。

お返事が遅れてごめんなさい。イベント前なのでバタバタしています。でも、いろはさんが整理してくださったので、嬉しいです。わたしは自分で学習障害があると思っているので、きちんと整理整頓ができず、頭の整理整頓もできないのだろうと思うからです。だから、きちんと整理してくれるとわかりやすいです。ありがとー。(~_~;)

>「人を殺してはいけない。傷つけてはいけない。」
ということを納得させるのが人を殺してしまってからでは遅すぎるのです。私は納得させられなくても「させない」ことが重要だとおもいます。どのようにお考えでしょう?(Q1)

そうですね。目の前にそのようにしようとしている人がいれば、非常手段として腕力を用いて阻止しなければいけない場合も出てくるでしょうね。でも、時間があれば納得させることが理想です。そうすれば何度も同じ過ちを繰り返さないと思います。

なぜ、相手に納得させることができれば過ちを何度も繰り返さなくなるか?
それは、他者の良いなりになってその時に従ったとしても、本人がなぜ悪いかを理解していないから、同じように何度も同じ失敗をしたり悪事を働くと思うからです。

>「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」
という私の主張に対してはどのようにお考えでしょうか?』
という質問の答えになっているのかどうかがわからないです。すいません読解力が乏しいもので。。
この質問にもう少しわかりやすく答えてもらえないでしょうか??(Q2)

>「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」

           ↑
どのような場面でこのようにお考えになるのかという具体的な例をお出しになってください。

>もしトピズレであるなら「躾と体罰」みたいなかんじで新しい「トピ」をたててもいいでしょうか?私は主にうんこさんと議論したいのでここでもかまわないんですが。
どうするべきでしょう?(Q3)

アハハ。ここでいいですよ。いろいろ悩ませてごめんなさい。
体罰(虐待)に関して児童虐待防止法というものができました。これにより、今まで「躾」と称した虐待(主に家庭での)への対策が講じられ、各自治体では第三者による児童相談所への通報が可能になりましたね。しかし、その法律の根底にあるものは、親を罰するというより、諭していく為に設けられた法律だと伺いました。しかし、親が子どもを殺してしまう重い体罰(躾)と軽い体罰のボーダーラインを引く作業はとても困難です。

それ以前に学校教育法で教員による体罰は禁止されています。
今回教育再生機構が考えているのは、生徒を管理強化する為にあるものです。そこ認識は共有していたほうが良いでしょう。

必ずしもそれによって授業が滞りなくやれるとか、イジメが無くなるとか、学力が向上するというものとは違います。

そんな小手先の教育再生という名の、低コスト政策では不可能です。やるのであれば、教員と生徒に人権教育を徹底したほうがより効果的です。しかし、皆さんもご存じのように安倍内閣は子どもの権利条約を書いていない「新しい公民教科書」を公教育に持ち込みたい大臣ばかりで占められていますから、子どもの人権よりも、国民統制の色合いが濃く、管理強化の一環として見ていた方が賢明だと思います。

安倍等のシンパやつくる会や日本会議の連中が、「権利、権利と最近の子どもは言いだして自分の義務をわかっていない」と言い出していますが、これは嘘をついています。騙されないでくださいね。

国家が国民の税金を使い、子どもに無償で教育を受ける権利を保障する制度が「義務教育」の意味ですよ。国家に科せられている義務であり、その権利を受けるのは子どもです。子どもにあるのは権利だけです。

なぜこんな稚拙な嘘をつきまくるのかといえば、子どもや保護者が権利を知れば、国のあざといやり方におかしいと気づくからです。抗議しないよう、国に楯突かないように、子どもの権利条約や女性差別撤廃条約や労働基準法などを意図的に教科書から削除しているのです。

どこまでも安倍政権の大臣は姑息であり、子どもの事なんて鼻くそほども考えていないのです。騙されちゃいけないと思います。
>うんこさんへ

>でも、時間があれば納得させることが理想です。そうすれば何度も同じ過ちを繰り返さないと思います。

>なぜ、相手に納得させることができれば過ちを何度も繰り返さなくなるか?
それは、他者の良いなりになってその時に従ったとしても、本人がなぜ悪いかを理解していないから、同じように何度も同じ失敗をしたり悪事を働くと思うからです。

まったくおっしゃる通りだと思います。
人間の「やらないモチベーション」として最も有効なものの1つは「自分がやらない理由を自分で納得している『A』」でしょう。けっして「親や先生に怒られるから『B』」ではないでと思います。それが得られれば最高ですね。

しかしです、ここからがいつもの如く、うんこさんと考えがちがう所ですが、
私は「『A』を獲得させるまでには相当時間がかかる場合がある」と思っています。それまでの間『B』でその代わりをさせることもやもえない場合があると思っています。
さらに言えば「ずっとやらない(又はやり続ける)ことによって初めてやらないこと(やること)の意味や価値が分かってくる場合がある」とも思っています。(このような主張についてはどうお考えでしょうか?Q1)

例えを挙げるなら、「暴力や脅し」でしょうか?子どもが納得しないからといって「力ずくででも止める」という行為を放棄すれば、暴力や恐喝は往々にしてエスカレートするでしょう。人間にはそのようなことにある種の快楽を感じる悪魔が潜んでいることは様々な歴史や事件を見れば明らかだと思います。その悪魔が育ってからでは「暴力はいけない」はなかなか納得させられないと思います。へたをすれば彼や彼女の寿命以上の時間がかかるのではないでしょうか?
そもそも「暴力がいけない」という命題は「生物としての人間」がもって生まれてくるものではないでしょう。それはつい数百年前まで「首狩族」が存在したことからも、また今でも暴力が支配する社会やコミュニティーが存在することからも明らかだと思います。
我々が信じてやまない「暴力はダメ」だという価値観は、「暴力はダメだという社会」で育ったからこそ我々は『納得』できるのだと思います。

このような考えに基づいて、「ダメなことはダメだ(もしかしたら『痛い目を見るぞ』との意味で平手を与えるかもしれません。)」という主張をあくまでも最後の手段(本当にいろんなことして納得してくれないときの最後の最後の手段ですよ)として使う(言う)ことに関してはどのようにお考えでしょうか?(Q2)

>>「子どもを納得させられる説明ができなくてもやらせなければならない、又はやめさせなければならないことがある」

           ↑
>どのような場面でこのようにお考えになるのかという具体的な例をお出しになってください。

上で挙げたことがいい例になると思いますが、他にも挙げれば、「人の家のものを盗む」とか「身体障がい者の方の身体的な特徴を面白がってその人を侮辱するようなことを言う。」 など考えればいろいろありますが。

納得するのを待っていれば人は大事な財産を失うし、人間の尊厳を傷つけられ続けます。もちろん子どもが『納得』することも重要ですが、それまでに他人が傷つけられてもいいとは思いません。

繰り返しになりますが、このようなことを阻止するためには最小限の体罰は許される場合もあるのではないかと思いますが動でしょうか?(もちろん考えられる方策をすべてこうじたあとですよ。)(Q3)

>親が子どもを殺してしまう重い体罰(躾)
さいごですがもちろん「殺してしまう」ことは、「体罰でも躾」でもないでしょう。
ニュースなどを見る限りですが「殺してしまうような事例」には躾というより他の感情を感じざる得ません。

長くなりましたが、一応今回もQ1〜Q3まで書いてみました。お時間があればお願いします。
みなさん初めまして 新参もののももたろと申します。
ざっとみなさんのご意見を読んだだけで途中から場違いの意見かもしれませんが、
今の家庭、学校、みんな子供とあまりにもコミュニケーションが足りないと思うんですよ。
人間相手のことなのでマニュアル通りになんかいかなくて当たり前。

3人の子供を育てる中でいろいろな先生と出会いました。
中でも印象に残る“子供が慕っていた”数人の先生方はみなマニュアルなんか関係なく子供ととっても近い存在だった。
A先生は子供に「家に遊びに来ていいよ」と、休みの日はだいたいクラスの子たちが遊びに行っていたようです。
またB先生は部活の子たちを引き連れてコンサートに連れて行ってくれたりもしました。
きっと規則ではプライベートでの子供たちとの関わりは今してはいけないことになっているかもしれません。
でも、子供たちはみな慕っていました。
この先生の言うことならば・・・と、ワルガキのような子たちも言うことをきいていました。
市内では「どんなにしたらこんな仲の良いクラスになるのか?」と他の学校の先生からも不思議に思われるくらい学校内部では有名な話になり、その先生の授業を見学に来る研修も行われました。

親御さんの中にはコンサートに連れて行ってくれたB先生に対して「遅くまで連れ歩いてけしからん」と憤慨している人もいましたが、そういう親に限って、私(連れて行ってもらった子の母です)がその子を車で家の前まで送って行ったのも知らず、私に会っても一言もなしで(別にお礼を言ってもらいたいわけではありませんが)、先生への不満のみ述べているようなことになるのです。
要するに我が子とのコミュニケーションが取れてないのです。
参観しましたがB先生の授業はとても楽しいです。

つまりマニュアルでなく、人と人との関わりが教育にとって大切なんじゃないかと思うのです。
体罰禁止も大切だけど、その前に、信頼しているあの先生に叱られるのならば自分に非があるのだろうと思える。
親も「あの先生に立たされたのならアンタが悪いんだよしょうがない」と言える。
そのためには親も学校任せじゃなくてしっかり子供とコミュニケーションを取っていなければいけない。

今の教育に無くなってしまっているものが見えて来る気がするのです。

本当に親や先生との信頼関係が築かれていれば「体罰禁止」だの「認める」だのというような規則は必要ないんでしょうけどね。

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