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瞑想コミュの自己流のリスク・すでに覚醒者が出ている道を

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自分は、チベット仏教ニンマ派の師でゾクチェンをロンチェン・ニンティクの系譜に基づいて法輪を回しておられるパトゥル・リンポチェに就いて、心の覚醒を得ようとしている者です。

このコミュを見て、自己流の瞑想を行っている方のトピック・イベントを見て、一言申し上げたくなりました。もしよろしければお耳をお貸しください。

チベット仏教では次のように言われています。
「マハー・パンディタ(偉大なる大学者)でなければ一派を立ててはならない」

つまり、マハー・パンディタでなければ、既に「成就者・覚醒者」を生んでいる間違いのない階梯に基づき、またその階梯の間違いない系譜を持った師に従って、心の覚醒を目指すべきと考えられています。

「間違いない系譜の師」とは、その系譜の師より「教えを広める許可」を得ている師ということになります。

というのも、心の覚醒の道というものは、多くの罠や危険を伴う、両刃の剣ともいえるもので、なおかつ諸説入り乱れる世界です。

マハー・パンディタでないなら、混ぜて(掻い摘んで)自己流を立てるべきでもなく、ましてや何も学ばずに、自己流を立てるべきではありません。

そして「誤った教え」を説き、「誤った見解にいれるという、他者の心を傷つけること」は金剛地獄に落ちる悪業とされます。

仏教(さらに細分化)、ヨーガ(さらに細分化)でも、他の方法でも、多くの覚醒の道は確立されています。
人は、人それぞれのタイプや、(正直言って)レベルに応じて、多くの道がありますので、自分にあった、どの道を選ぶかは、仏教でいうところの「撰法覚支」です。

心の覚醒の道を歩むと「今までと異なる」いろいろな「楽」を得て、今までと違う自分を得たような気分になるものです。そこで「先生になりたい」「誉められたい」「教えたい」という「魔のささやきが生まれます」。
それは心の覚醒とはほど遠い、「世間的」な欲求です。

ただ、仏教でいえば、法輪を回す動機は純粋に「菩提心」にもとづかなければなりません。
だから簡単に言えば、多くの流派で、正統な系譜の師が弟子の獲得した心の境地、弟子の心を見極めて、教えてよいという認可(免許皆伝)を得て、初めて法輪を回すというシステムになっています。

わが師パトゥル・リンポチェは、冒頭の通り、あくまでロンチェン・ニンティクの師であり、自らが保持するその系譜に従って、弟子を導きます。

自分もこれまでいろいろな方面で迷い、いろいろな道を迷い、それなりに得たモノは、あるかもしれません。しかしけして、自己流にながれず、今生、すでに成就者を生んできた間違いのない系譜ロンチェン・ニンティクによって、ゾクチェンを学び、心の覚醒を得ようと考えています。

特に自分のような「在家」の者は、自己流を作れるとうぬぼれず、1つの道を選んで、その道にしたがって学んでいくことが、誤りのない、もっとも今生高い境地に至れる道だと思います。

皆様のご意見をお待ちします。




コメント(106)

これなんかも参考になると思います。

http://members3.jcom.home.ne.jp/jousenji/jousenji0724_05.html

廓然って台風が過ぎた後の空の事です。

ハッキリと無功徳ですw

まぁ、これだと坊さん稼業は厳しいとは思いますがw

文章を読んで自分はあまり詳しくないのですが、瞑想は自分の考えを観察して全てを受け流すので宗教や師匠は絶対必要では無いのでは?まぁ居るに越したことは無いだろうけど、瞑想は全て自分の中のものなので、貴方のやり方は正しくこれは間違いだと言うのはエゴでは無いですか?僕はヨーロッパに住んでましたが向こうでは医者がうつや不眠に瞑想の本を買って瞑想して下さいとかよくアドバイスしますよ。宗教嫌いも多いと思いますし。僕も瞑想の本を買って自分でやってますけど正直上の文章は不安を煽りますよ?
>瞑想は全て自分の中のものなので、貴方のやり方は正しくこれは間違いだと言うのはエゴでは無いですか?

色々な流儀があって何に沿っているのか?と言うのは確実にある話で、別にエゴでもなんでもないです。

さきほども書きましたが、悟りと言うのも実にさまざまで、宗教によっては全く別の概念です。

>瞑想は自分の考えを観察して全てを受け流すので

これも、こういう流儀だと言うことです。

>医者がうつや不眠に瞑想の本を買って瞑想して下さいとかよくアドバイスしますよ。

はい、この場合は、うつや不眠が治るのが功徳ですよね?

そういう功徳の流儀もあると思いますよ。

>僕も瞑想の本を買って自分でやってますけど正直上の文章は不安を煽りますよ?

かもしれないですね。

けど、そういう流儀のもあるんです。別に不安を煽っているわけではありません。
http://antaiji.org/?lang=ja

これが安泰寺ですけど、きちんと、「座禅しても何もならない」って出てきますね?

これは、エゴの寺なのでしょうかね?曹洞宗の名刹のひとつの寺らしいですよ?

http://koushouin.jp/soudoushu.html

これは別の寺のようだけど、無所得無所悟の禅を意味すると書いてありますね?

これも不安を煽っていますか?

私は曹洞宗の人では無いので、そんなのウソッパチだと言われても何とも思いませんよw

ただ、自分にとって、もっとも語録が引きやすいだけです。

すくなくとも瞑想すれば何とかなるとかは、全く思っておりません。
長く座禅してる人でも、何にもなっていない人はいっぱいいます。

実際にナチスの幹部なんか調べると瞑想者だらけですよw

もっとも、うつの治療になるかどうかと言うことだと、カバットジンなんか、きちんと瞑想を
計量してて、医療機関なんかも、うつの再発率の低さに、とても注目していますよね。

まぁ、どれでもこれでも一緒には出来ないと思いますよ。、

>何かしらの団体やセクトや宗派にのっとった自己探究で、悟りやご利益や安心といった成果を弟子たちがあげなければならないとしたら、成果をあげられない人たちは、ずっと悶々としなければならないのでしょうか?

むしろ逆w

実際の道場の類に行ってみると良くわかりますけど、坊さん系は、真面目に修行しないのが主流です。

逆に、真面目な人ほど、いじめに合うのでイジケていますねw

終わってるんだなぁと、つくづく思いますよw

実際の所、お坊さんは宗教すら、あんまり信じてないし、お葬式用の道具みたいなもんだと思います。

うちの隣も寺ですが、全くそんな感じですw

まぁ、多くの業者は、よそのはダメで、うちのなら何とかなる。とか、良心的と思われるものでも、もっと真面目にやれば、何とかなるとか、そんな所だと思います。

だから、金魚すくいとか、ビックリマンチョコになるわけですw

また、間違った修行をしたから、凶暴になってカルトになったとか真剣に思ったりする人も出てきます。

そうでは無くて、初めから凶暴な人が修行して、そのまま何にもならなかったから、カルトになるのです。

たとえば仏教徒は、釈迦を古代インドのホームレスと言う見方が出来ません。

王子が落ちぶれてホームレスになった話と言うのだけが本当の話だとは言いませんが、これも事実の
一側面であり仏教を習うと言うのは、こういう何にもならなかったホームレスの系列から習うことなわけです。

ようするに、どこかかがされているだけの話なのですが、この裏には宗教や瞑想をすれば何とかなると
どこかしら思っているから、こんな事になるわけです。

逆に宗教や瞑想しない人は、そもそもそんなの下らないし馬鹿のやるもんだと思っています。

そして、実際に、その通りな事が実際に起きているわけです。

けど、こういう事は宗教や瞑想する人には逆に理解出来ないから、結局は金魚すくいか、ビックリマンチョコに
舞い戻るわけです。

実際に、何もなってないじゃないか?と言うのが認められないとしたら、やっぱりどこかかがされているからで
それでいて心が覚醒します!とか、どういうことよ?と思うわけです。

私が瞑想するのは、単に自分の生き方として瞑想してるだけの事で、瞑想が何かのメリットをもたらすからではありません。

それこそ何もならない悟らないってので十分ですw


実際にナチスの幹部を調べると結構な数の瞑想者が居るのですよ。

これが事実だと知ると、すぐに金魚すくい屋がやってきて、テクニックが間違ってたと言い始めます。

ティックナットハンが言うように座れば平和が出てくると言うわけでは無かったのはテクニックが間違って居たからだ!てね。

確かに座れば平和そのものが出てくる事もありますが、ナチス幹部にベトナム禅を教えていれば凶暴性が治っていたとか、ありえない話だと思います。

まぁ実際の所どの行法も覚えるまでは大変で、結構な期間も掛かるので、覚えたらきっと良くなるとか、これこそが良いことだとか思っていないと厳しいと言うのは判ります。

けど、覚えた後もビックリマンチョコである必要ってないし、こういう当たり前の事を認知出来ないままだとしたら、単に認知症の患者が増えただけの話だと気が付かないのかな?と思います。

実際に無所得無所悟となるのは、楽に行法が出来るようになってからの話で、最初は足が痛かったり眠かったりが関の山で、そもそも無所得無所悟ってなんじゃらほい?だと思います。

けど、行法が暮らしそのものになってしまえば、無所得無所悟が当たり前になるわけですよ。

毎日、歯磨きするけど、いいことなんもないでしょ?w

それと同じ。
一日10時間、歯磨きしたら、人間が出来ると思う人はまず居ないですよね?

けど、それが座禅だったら人間が出来ると思いますか?

実際に本格的な修行道場は10時間くらい座禅する所もあります。

こんな暮らしを何年も続けた人が、まぁ師匠になるわけだけど、当然こんな暮らしをしていたのだから元の人間性は、そのままだし、それこそ何にもなってないわけです。

確かに座れば、そこに全ての答えが、そこにあります。

けど、これを持ち帰るには、当然その人の人間性を通じて、この世に持って帰るわけで、座禅ばっかりしていたら、そちらはちっとも進歩しないから、結局は金魚すくいや、ビックリマンチョコが、そのままなわけです。

座禅してるのは、他の人から見れば歯磨きしてるのと同じ。

まぁ本人の虫歯予防にはなっても、世の中の為になるわけではありません。
仏教の真理とは何か?と言う問いに廓然無聖だ!と答えてやって、本当の意味でそれが何の事だか判る人は、それなりにいるんだろうとと思います。

しかし、それが判る人の多くは、無功徳ではなく、有功徳です。

なぜかって、それが判った所で、人間性は修行する前と変わらないから、金魚すくいや、ビックリマンチョコをさせるのに、有功徳じゃなきゃ困るからですよw

つまり、こいつ極めているなと思っても、それだけじゃ師匠にしてもダメって事です。

けど無功徳って人は、人に教えないから、やっぱダメってのはあります。

何もならんこと教えても仕方ないでしょ?ってのが、本音なわけですw

いや本当に有功徳なんだと言うのなら、カバットジンがやってるように計量すれば良いわけです。

けど、有功徳の多くは、うちのは性能いいよ?って言うだけのが関の山でしょ?

麻原の空中浮遊となんら変わらないタワゴトなわけですw

ハッキリ言えば詐欺と同じw

結局は何にもならない悟らないと言って教えてくれる人ような人しか師匠にしてはダメなわけですw

まぁけど、「何にもならない悟らない」とかって、ちょっと聞くとキョーレツですよねw

こんな功徳の無さげなのはダメだな?と思っちゃうじゃないですかw

けど、古派(ニンマ)って、こういう所が厳しいんです。

パドマサンババの教えはタントリズムで、そもそもタントラなんて、すればいいことあるなんてもんじゃ全くないです。

まず古派の教えって何だ?って所からやっていれば覚醒者を目指すなんて言う筈が無い話。

しっかりして下さいよ。ってのが本音。
温泉さん

心の問題が解消するかどうかは、精神分析などが扱う心理学的レベルの問題であって、基本的に霊性修行のレベルの問題ではないと思うんですよ。

その辺は、誤解している人がかなり多くて、真剣に瞑想さえすれば心の問題が解決すると考えて瞑想に励む人も非常に多いと思うのですが、たとえば神経症や鬱の人が瞑想に救いを求めても、たまたま問題解決になるケースもあるけれども、そもそも瞑想はそうした問題へのアプローチとしてはベストとは言えず、何の解決にもならないことも多いわけです。

ぼくが64のコメントで麻原が間違った修行を広めていたことを書きましたが、これは危険な修行を広めたからオウムの修行者の多くが精神に異常をきたし易かったという一般論を述べたわけで、実際にそうだったことは、いろいろな事実から判明したことだと思います。

異常な精神状態になれば、もともとは人間誰にでも全く無いとはいえない凶暴性が増幅されてしまう可能性があるし、正常な判断ができなくなることは十分に考えられます。

麻原自身が、もともとの精神的な問題に加えて、自らの危険な修行によって理性的判断ができにくくなった可能性はあると思うし、そう考える方が事の成り行きからして自然な解釈だと思うんですね。

ぼくが上記で述べたことは、そうした意味合いからの判断です。

さて、それは余談として、重要なのは如来蔵思想に係わる解釈です。

無所得無所悟ということですが、これは如来蔵思想の発想からは、当然の帰結だと思います。

「悟りを目指しているうちは悟れない」という言い方をする人たちがいますが、悟りは目指すべき対象ではないから、それも当たり前の話しです。

修行をして悟りを得るというけれども、修行という因があって悟りという果が生じるのではない、そうした意味で修行と悟りには因果関係は無い、といった言い方をする人たちもいますがが、修行をして何かを得て、それによって悟るわけではないので、それも当然のことですよね。

如来蔵思想が含意していることは、そもそも悟りとは主体の本質的属性なのだから、悟りを獲得するというのはおかしい、何も獲得するものなど存在しない、なぜならあなたは既にそれなのだから、といった意味だと思います。

別な解釈もあるかもしれないですが、そうしたことを前提として、いかし、一定の段階に到達するというのは、確かにあるわけです。

ぼくは、それを純粋意識に覚醒した状態と呼んでいますが、これはやはり体験した人にしかわからない。

これは主体そのものへの気付きなのですが、通常意識が何らの対象に対する意識なのに対して、対象がほぼ消えてしまって、意識そのものを意識する状態です。

思考、感情、感覚対象などは全て意識の対象であり、意識自体はそうした「心」を構成している思考、感情、感覚などからは原理的に説明不能なわけですが、通常の理解からは、意識とは何かに対する意識であるという意味で、哲学の世界などでは意識の指向性ということが言われてきたわけです。

しかし、ほぼ対象の無い意識状態が深い瞑想においては存在していて、その状態では対象が意識されずに消えてしまう。

そうした状態が、アジズ・クリストフの語っている悟りの段階としてjは、ステート・オブ・プレゼンスの段階から、絶対状態へといたる段階で、これが深い瞑想中に可能になるのです。

悟りが本来的にそうしたものである以上、何かのヴィジョンを体験するとか、そうした形で対象的な何かに覚醒して悟るというのは、そもそも本質的にあり得ないわけで、温泉さんが引用していた如来蔵思想などの教えで語られているのは、当たり前といえば、当たり前のことだと思うわけです。

そんな訳で、「何にもならない悟らない」というのは、そうした文脈でしか正しく理解できないと思います。


>如来蔵思想が含意していることは、そもそも悟りとは主体の本質的属性なのだから、悟りを獲得するというのはおかしい、何も獲得するものなど存在しない

なんだか悟りって、うまく修行が進むと、つまんでポケットに入れて帰れるみたいな話が多いわけですよねw

それには特別なテクニックとか師匠が必要でってw

どうすれば、こういう安直な発想が出てくるんだろ?って、思うわけですw

今ここに答えがあることと、それを持ってこれる事は全く別の話で、経典を書いた連中なんかは、答えを知っていたと言う側面もすごいわけだけど、それ意外も、結局すごいわけです。

またそんな連中にしても、経典にするのが関の山だったのだと思いますよ。

金剛乗って、ある意味大乗より優しそうに見えると言うか、せいぜい大乗は、久遠実成とか女人成仏とかが法華経まで行ってやっとなのですが、こんなの金剛乗じゃ当たり前なんです。

けど、これは逆に、もっとベースがしっかりしてないとダメって事で、本当に厳しいです。

またタントラって、歴史的に見れば、ぽっと出なわけで、それまでの文脈を煮詰めたものでは無いわけです。

これが一緒になったタントラバジラヤーナって、まぁこれが古派の教えなわけだけど、それこそ大変な教えで、修行して悟るなんて言ってたら、土台無理です。

当然、そんな話では無いわけです。



中沢さんの事を書きましたが、もし法王がSTAP細胞はあるぞ!と言えば、中沢さんも、そう言いますよ。

中沢さんは、チベットで修行した人なので、完全にグルイズム社会の人だからです。

けど、法王がそう言ったからだとは絶対に言いませんよ。

これもグルイズム社会の当たり前。

グルイズムにも良い面悪い面は当然あるわけだけど、ちゃんとしたグルイズムはそんなもんです。

間違っても、おれの師匠は◯◯リンポチェで、法輪を回しているなんて事は言いません。

また覚醒者が出てて、おれもそれを目指しているなんて言うわけが無いんです。

なにか、よっぽど勘違いをなさってるんだろうと思うわけです。
>たとえば神経症や鬱の人が瞑想に救いを求めても、たまたま問題解決になるケースもあるけれども、そもそも瞑想はそうした問題へのアプローチとしてはベストとは言えず、何の解決にもならないことも多いわけです。

カバットジンのように医学的に通用するように瞑想を計量してる人もいます。

また肝心な再発率ですが、これが極めて良い成績で、薬物などとは比較にならないほど良い成績を出しています。

うちの瞑想が効くんだ!とか無根拠に言ってる人らは、これのこういう所こそ見習うべきです。

けどだいたいは言うばっかりで簡単なSD検定すら、どこもやりませんよね?どうしてかと言えば単なるハッタリだからですよw

「何もならない」と言ってるのなら、誰も検定しろよ!とは言わないわけでw
うちの瞑想は、すぐ覚えられて、よく効くんだ!ってな所は、やたら多いわけです。

けど実際は、在家でやってたら、それっぽくなるだけでも、まぁ数年は掛かると思ったほうが無難だと思います。

じゃ良く効いた根拠を示せよ?と言えば、テレビショッピングみたいに、こんなに感謝してる人が居ると言うのが関の山w

いや、うちのは治療目的じゃ無いんだよ?って言うのなら、じゃ何に効くんだ?ってなるわけですが、これにも答えられないわけでしょう?

全部がそれとは言いませんが、そういう所はインチキでしか無いと思います。
>>[83]

これは興味深い洞察をありがとうございます。

しかし、温泉さんほどの知識がないので、残念ながらイマイチよく分からない、というのが正直なところです。

>これが一緒になったタントラバジラヤーナって、まぁこれが古派の教えなわけだけど、それこそ大変な教えで、修行して悟るなんて言ってたら、土台無理です。

わからないのは上記の部分です。
それ以前の文章はいいのですが、修行して悟るなんて言ってたら、土台無理・・・というのは、どのような判断基準からそう思うのかが、よく分かりません。

いずれ自分で学ぶので、無理にコメントは求めませんが・・・。

>>[84]

中沢さんがグルイズム社会の人だというのは納得できなくないですし、温泉さんのチベット仏教への批判的視点も、同じことを考えてきたので分かるのですが、チベット仏教が他より修行のシステムとして優れているとしたら、「おれの師匠は◯◯リンポチェで、法輪を回している・・・」といった話が出てきても、それはそれでOKなのではないでしょうか?

所詮グルイズムを批判しても、グルイズムが根強く浸透している状況があり、それを受け入れてしまうメンタリティと霊的資質という問題がある以上は、よりベターな選択だと思うからです。

オウムの関連で中沢新一を批判しても意味が無い、というぼくの判断は、また違った具体的な状況認識からの話しですが・・・。
>>[86]

なるほど、このコメントは実に面白いですね!

ぼくなら、寧ろ瞑想の危険性の方を具体的に指摘したいところですけどね。

グルイズムに陥る危険性などは、その最たるものでしょうね。

如来蔵思想の土台がシッカリしていれば、瞑想に励んでもグルイズムには走らないと思いたいのですが、それも怪しいですからね。
まず最も流行ったほうが良い外国の宗教は、どれ?と聞かれれば、チベット仏教と答えていますw
グルイズムなんかも別段反対しないしバンダリズムが違うだけの事だと思っています。

たとえば、日本でワイロって言うと、水戸黄門の悪代官みたいなイメージがありますが
インドネシアではPTAの役員になるような話でさえ実質はワイロで決まるんですw
上から下まで全部ワイロ社会なので、ワイロは良くないと言っても社会って全部それだけじゃん?
って事で全く通じませんw

チベットのグルイズムも同じ事で、別段仏教だけでなく、なにからなにまでグルイズム社会なわけです。

問題なのは、それを日本人がやることなわけで、だって日本はグルイズム社会ではありませんからね?
まぁ、そういう風土的な面は確かにチベット仏教は不利だなとは思いますよ。
私は無所得、無所悟、もしくな「何にもならない悟らない」の人です。

これの弊害って、せいぜい瞑想しなくなるだけの事で、お坊さん以外は実害は無いと思います。

まぁ自分の行法を過信したりしないのも、結局は何にもならないものだと思っているからですよw

と言うことで、瞑想の危険性と言うのとも無縁で、何時間やっても何ともないですよ。

何にもならないと思っていると、逆に安心して瞑想出来て良いと思うんですけどねw
実は10年前くらいからその10年前までは気功をやっていました。

なんでまた瞑想に戻ったか?と言うと、站椿を朝晩一時間やるのがキツくなったからですw
流儀が馬歩だったので、あれって余計に疲れるんですw

で、気功から学んだ一番良かった事は、最初に怪しいことをいっぱいするけれど、こんなの
結局なんにもならないなと実感出来る事です。

わざわざ経典に、無所得、無所悟なんて書かなくても、当たり前よね?ってねw

仏教は、あやしいことはしませんから、いつまでたっても、この辺りが判らない人が多いです。

霊的な体験なんかも、さぞ貴重な事のように語る人たちが居るわけでしょう?

だったら、どうなの?と言う態度が、いつまでも育たないわけです。
あれから考えてみたのだけど、当たり前に「悟り」「お金」「健康」「その他」等をを求めると、如来云々抜きにして、その前に、そもそも行法には、ならないと思います。

行法と言うのは、どれも猫が爪を引っ込めているようなもの。

どういう爪があるかと言えば、「悟り」「お金」「健康」「その他」等ですw

ただ最初から、全部の爪を引っ込めるのは難しいと言うのも判ります。

けど、どうして爪が伸びるのかと言えば、爪を伸ばせば手に入ると思うから。

何にもならない事をやってるんだと自覚していれば、爪は伸びませんよね?

けど、何にもならないと思うと行法しなくなるんだろうけれど、つまりそれって爪を引っ込める気が無いってのと同じ事ですよね?

やっぱ「無所得、無所悟」で、かつ行法する道を、探すしかないんだろうなと思いますよ。
>>[090]

これはほとんど同感です。

しかし、ダライ・ラマに対する批判が西洋ではいろいろあり、例えば日本では知られてないですが、アムド地方の農民がヨーロッパでいえば中世の農奴のような現状にあるのに対して、ダライ・ラマが改革を推し進めようとしていない、という指摘があります。

これは重要な問題かもしれないと思っています。

そうした意味から、ぼくなどはチベット人にとってもグルイズムを見直す作業も必要かもしれないと考えています。

>>[092]

霊的体験はいろいろしましたが、あまり意味がないと感じましたね。

ハッキリいってマイナスになる危険性が強いと痛感したものです。

しかし、かなり多くの人たちが幻惑されるのかもしれません。

その点、仏教はとても健全ですね。

>>[093]

なるほど、よくわかりました!
温泉さん

そうそう、不適切な瞑想の危険性については、また別な洞察を基にして論じる必要があると思います。

別なトピックでも述べましたが、そもそも危険性についての自覚が全くないことが大多数なのですが、瞑想によって身体を壊してしまう可能性が有るわけです。

優れた指導者なら、それを見抜けると考えられていますが、ぼくはむしろ優れた指導者は、そこに居るだけで周囲にエネルギー的な作用をもたらすので、それが安全弁になっている、というのが実情だと思います。

>別なトピックでも述べましたが、そもそも危険性についての自覚が全くないことが大多数なのですが、瞑想によって身体を壊してしまう可能性が有るわけです。

だから、それは悟りへの道は厳しいんだ!って事で頑張るからですよw

こりゃ何にもならないぞと思っていると、無理なツッコミはしなくなるんですw

もちろんお陰で、調子の乗らないときは、そのまんまになります。

けど、行法だけでなく伝統的な工芸なんかも、同じ調子で無理なツッコミはしないですね。

まぁ、やってるのが、じいさんが多いからかも知れないですけどw

知り合いに能面を打つ人がいて、ノミが一旦止まると何日でも、掘りかけを眺めています。

そういえば硯の人間国宝も同じような調子でした。

旨くやる事より、調子が出るまでじっと待てることのほうが大事と言っていました。

まぁ、その辺は同じようなものだなと思っています。

>>[98]

>だから、それは悟りへの道は厳しいんだ!って事で頑張るからですよw

ぼくもそう考えて無理を重ねて身体を壊した体験があるので、それはよく分かりますよ。
確かに無理しなければ、身体を壊したりはしないと思います。

ただ、ぼくが考えているのは、身体を壊す手前でチャクラのエネルギーのバランスを崩すことに大きな問題があることです。

これはヒーラーをしていて気付いたことで、いろいろなケースをたくさん見てきたのでほぼ断言できます。

ぼく自身の経験からは、多くの伝統的な修行のシステムに、そもそも難点があるのかもしれないとすら思います。

「チベット曼荼羅瞑想法」を読むと、本格的なチベット密教の修行に入ると大多数の人が血液がどろどろになっていく、何故そうなるのかはわからない、といった記述がありましたが、ぼくの理解では瞑想によってチャクラの詰まりが増幅されることがあるからです。

どこかのチャクラが酷く詰まってしまうと、チャクラ全体がバランスを崩してしまい、それが元で病気や色々な症状になるのです。

チベット密教にはチャクラについての優れた理解があるので、この記述は不思議なのですが、実際に修行をしている人を見ていて、やはりチャクラに問題を抱えているわけです。

危うく死にそうだった友人など、チベット密教の修行をしていたわけではないけれども、かなり本格的に修行をしていた優れた探求者でした。
しかも必ずしも無理をしたから、危険な状態になったとも言えないのです。

それから、道元禅なんかも修行が厳しいので有名ですが、温泉さんからすると、それも無理をして身体を壊すから駄目ということになるのでしょうか?

覚悟を決めて真剣に頑張ったら、神秘体験をすることは少なくないと思いますが、それに惑わされなければ、それもそれでいいかな・・・とは思うのです。

歴史上の多くの高僧など、そんな感じだったと思います。

それにしても、温泉さんの洞察は興味深いです。
視点が違ってしまうのは仕方がないとしても、いろいろ勉強になります。
>「チベット曼荼羅瞑想法」を読むと、本格的なチベット密教の修行に入ると大多数の人が血液がどろどろになっていく

実際のチベットの行法について事情が判ると、一概にはそんな事は言えない事が判ります。

まず、セクトの数だけ行法があるのは、なんとなく当たり前ですよね?

で、各々のセクトは金剛乗なので、基本的に3ステージです。

さらに、その上にゾクチェンが乗る所もあり、そういう所は4ステージ。

これだけで終わりでは無くて、各々に顕教版と密教版が各々にあります。

まぁ3ステージだとしても顕教と密教があるので、1セクトに6〜8ステージあるのと同じ事です。

また密教の行法は出家しないとさせて貰えないので、どんなのかは話に聞く程度ですが、同じ名前の奴でも全く別物なんです。

と言うことで、チベットの行法が実際どれだけあって、どんなのだか正確に判る人は、まず居ないはずです。

しかし言われて見れば、思い当たる所もフシもあって、トンレンなんかは、初心者が必死になってやれば体に悪そうですw

しかも1ステージ仕様ですよねw
>それから、道元禅なんかも修行が厳しいので有名ですが、温泉さんからすると、それも無理をして身体を壊すから駄目ということになるのでしょうか?

まず道元禅=曹洞宗では無いんです。

そもそも道元はセクト嫌いで、宗派を立てていないんです。

曹洞宗と言うセクトになったのは、蛍山の時で、道元から数えて確か3代めくらいです。

そもそも道元の時は禅宗ですらなくて、後で禅の流れの一部を合併させたので、禅宗っぽくなり、その後に曹洞宗と言う名前になった経緯。

と言うことで、あの組織システムは、ほとんど道元とは無関係で、道元を客寄せパンダ的に利用してるだけなんですw

次に私は直接的には現役の曹洞宗系に教わった経歴を持ちません。元曹洞宗と言う人がひとりいるくらいです。

直系の禅と言うことだと臨済宗ばっかりに数名師事しましたが、全員既に他界しています。

と言うことで、曹洞宗が、どれだけ厳しいか、やったことが無いので、わかりません。

臨済宗であれば、江戸時代以降の白隠の影響を強く受けているので、悟りを目指した修行系です。

けど、今にしてみれば厳しいとは思わないし、曹洞宗のほうがみんなが厳しいと言うので、そうなんかな?と思っている程度。

あってみたい曹洞宗の僧侶は2人いるのだけど、なかなか機会が合わないままです。

[100] 温泉さん

>しかし言われて見れば、思い当たる所もフシもあって、トンレンなんかは、初心者が必死になってやれば体に悪そうですw

ぼくが想定していた危険性のひとつは、まさにそのトンレンです。
やる人次第ですが、人によっては危険性が強いように思えます。

>しかも1ステージ仕様ですよねw

なるほど、そうですね!

>実際のチベットの行法について事情が判ると、一概にはそんな事は言えない事が判ります。

なるほど、それで納得しました。
何か変だとは思っていました!!
[101] 温泉さん

>そもそも道元の時は禅宗ですらなくて、後で禅の流れの一部を合併させたので、禅宗っぽくなり、その後に曹洞宗と言う名前になった経緯。

>と言うことで、あの組織システムは、ほとんど道元とは無関係で、道元を客寄せパンダ的に利用してるだけなんですw

恥ずかしながら、これはまったく知らなかったです。

道元が自分のことを、日本の達磨だと自負していたのは、自分が如来禅の正しい継承者という意味なのかなと漠然と考えていたので、禅宗ですらないとは思ってもいなかったです!!

それに基本的な作法や修行のシステムなど、道元の時代から一貫したものがあると思っていました。

それにしても、修行が厳しいとは耳にしますね。
>ぼくが想定していた危険性のひとつは、まさにそのトンレンです。

トンレンは暫くやっていたことがあります。

ステージ1仕様ではあるのですが、法王の日頃の瞑想も実は、これです。

で、これで無理な突っ込みを入れれば、ろくな事にはならないです。

行法と言うのは修行でもあるけれど、同時にチェッカーでもあり旨く行かないと、どれも痛い目に合う仕組みですが、これはまさに失敗すれば反動が大きい行法です。

チェッカーと捉えればトンレンは慈悲チェッカーみたいなものですが、最初から瞑想に必要な慈悲って言っても、なんのことやら判らない筈で、慈悲が育つか体を悪くするかの勝負みたいな話です。

もちろん瞑想用の慈悲と言って何だか判っていれば、慈悲の強化には、とても良いとは思うのですけどね。

それこそ本でも買ってきて初心者用とか書いてあるので、気合いれてやってみるか!みたいな事は絶対に避けたほうが良いし、かといってトンレンの専用指導者ってのは、まずいないので、普通は止めといたほうが無難だと思います。

要するに、無理なツッコミはしないと言うのと、瞑想用慈悲と言って判らないうちは、これはダメだと思います。
>道元が自分のことを、日本の達磨だと自負していたのは、自分が如来禅の正しい継承者という意味なのかなと漠然と考えていたので

曹洞宗サイトの人に言うのなら、これで正解ですw

しかし、これではセクトを嫌った理由にはなりませんよね?

道元は、如来禅を継承したと言うのなら、最初から禅宗ですよね?

しかし、かれは達磨(人では無い)を継承したと思っているわけです。

ようするに禅と言うセクトの繋いだのではなく、法そのものを繋いだってね。

だから◯◯宗ではなく、仏教本体をやってるんだと言う意識なわけです。

もっと今風に言えば、当時の事ですから宗教を繋いだと思っていたと言うほうが正解に近いでしょう。

私のは仏教本体なんだからセクトなんかないんだよ?と言ってるわけです。

宗派を聞かれても答えるな!と言っていたのは、そういう理由なんですw
温泉さん

それぞれのコメントともに非常によくわかりました!

詳しい説明をありがとうございます。

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