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「倫理」が好きコミュの声に出して読みたい大切な倫理的文章

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 論語やバイブルからはじまってユネスコ憲章前文の名文句ありますね、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから. 人の心の中に平和のとりでを築かなければならない 」みたいなものまで、声に出して復唱したい倫理的なお気に入りの文章を紹介していってください。

 座右の銘みたいに短いものから、般若心経や教育勅語みたいにまとまった文章でもいいと思います。コミュニティの会員がみんな一つは書き込むようにすれば、あああそこにあったなということで、気軽に取り出せるみたいな。

 それから外国語の場合は翻訳も入れてくださいね。

 もちろんご自分の文章でもいいですよ。

ーーーーーーーーー目次ーーーーーーーーー

1 宮沢賢治「雨ニモマケズ」
2 後白河法皇編『梁塵秘抄』より
3 石川啄木「果てしなき議論の後」
4〜7 イエスの説教「山上の垂訓」
8 日蓮『開目抄』より
9 サルトル「沈黙の共和国」
10 パスカルの言葉「人間は考える葦である」
12 ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」冒頭(11は誤入力)
13 ユネスコ憲章 前文
16 伝習録(王陽明の言行録)74 良知―万物一体論
17 パース「四つの能力の否定から生じる若干の帰結」より
18〜22 デカルト『方法序説』第四部より「私は考える、ゆえに私は存在する」
  野田又夫訳『世界の名著』中央公論社より
23 法然上人の漁師と遊女の念仏往生の話 (『勅修御伝 』巻三四から)
24 空海『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』序の冒頭
25 昭和天皇『終戦の詔勅』(玉音放送) 26は誤入力
27 梅原猛による丸山真男の日本思想タコツボ論批判より
28〜29 『密厳院発露懺悔文』 作、真言宗興教大師覚鑁
30〜34平塚らいてう「元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して―― 」
35〜42 キング牧師演説「Ihaveadream.」対訳版
43 伝朱熹「偶成(少年老い易く、学成り難し)」
44〜48 伝厩戸皇子編纂『憲法十七条』(『日本書紀』より)
[出典]金治勇『聖徳太子のこころ』、大蔵出版、1986年
49 昭和天皇年頭詔書ー「人間宣言」−1946(昭和21)年1月1日
50 作詞・作曲者. 槇原 敬之「世界に一つだけの花」YOUTUBEつき歌スマップ
51 しあわせの歌 作詞  石原 健治 作曲  木下 航二
52 嗚呼玉杯に花うけて (一高寮歌)(明治35年)作詞者 矢野勘治 作曲者 楠正一
53 道程   高村光太郎作
54 『平家物語』書き出し
55 中国最古の仏教経典『四十二章経』「第1章」「第27章」
56 ジョン・レノン『イマジン』−youtubeにリンク
57〜62 スウィフト「アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案」

コメント(64)

終戦の詔勅(玉音放送)

以下の「はなごよみ」の雑学資料室のサイトより
http://kan-chan.stbbs.net/docs/shusen.html

*放送のレコードを全部通して聴いたことが一度もないため、振り仮名は間違っている可能性がかなりあります。ご了承ください。

朕深く世界の大勢と帝國の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民に告く
朕は帝國政府をして米英支蘇四國に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり
抑々帝國臣民の康寧を図り万邦共榮の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々(けんけん)措(お)かさる所
曩(さき)に米英二國に宣戰せる所以も亦実に帝國の自存と東亞の安定とを庶幾するに出て他國の主權を排し領土を侵すか如きは固(もと)より朕か志にあらす
然るに交戰己に四歳を閲し朕か陸海將兵の勇戰朕か百僚有司の励精朕か一億衆庶の奉公各々最善を尽せるに拘らす戰局必すしも好転せす世界の大勢亦我に利あらす
加之敵は新に残虐なる爆彈を使用して頻(しきり)に無辜を殺傷し惨害の及ふ所眞に測るへからさるに至る
而(しか)も尚交戰を継続せむか終に我か民族の滅亡を招來するのみならす延て人類の文明をも破却すへし
斯の如くは朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや是れ朕か帝國政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり
朕は帝國と共に終始東亞の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せさるを得す
帝國臣民にして戰陣に死し職域に殉し非命に斃れたる者及其の遺族に想を致せは五内爲に裂く
且戰傷を負ひ災禍を蒙り家業を失ひたる者の厚生に至りては朕の深く軫念(しんねん)する所なり
惟ふに今後帝國の受くへき苦難は固より尋常にあらす
爾臣民の衷情も朕善く之を知る
然れとも朕は時運の趨く所堪へ難きを堪へ忍ひ難きを忍ひ以て万世の爲に太平を開かむと欲す
朕は茲に國體を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り
若し夫れ情の激する所濫に事端を滋(しげ)くし或は同胞排擠(はいせい)互に時局を亂り爲に大道を誤り信義を世界に失ふか如きは朕最も之を戒む
宜しく擧國一家子孫相傳へ確く神州の不滅を信し任重くして道遠きを念(おも)ひ総力を將來の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏(かた)くし誓て國體の精華を発揚し世界の進運に後れさらむことを期すへし爾臣民其れ克く朕か意を體せよ

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◇梅原猛による丸山真男の日本思想タコツボ論批判より◇
「明治百年における日本の自己誤認」(『美と宗教の発見』)


□丸山氏は日本では精神史が書けないという。日本の思想は先天的にバラバラとツギハギの集まりであるという。彼の言葉に従えば、先験的に日本の思想はタコツボ型であるという。一体タコツボ型なのは日本の精神か、それとも彼の思想なのか。

『日本の思想』が出たとき、梅棹忠夫氏は、遠慮勝ちではあったが、丸山氏のこの『日本の思想』も、また、やや大きいスケールにおける夕コツボではないかという疑問を呈した。私は更に言う。日本の思想全体をタコツボとしか見られないほど、深いタコツボに明治以来の日本の思想家はおちこみ、そのタコツボの中で誰よりも丸山真男氏は思索していたのではないかと。

 私はもし丸山氏が、古事記を読み、日本書紀を読み、祝詞を読み、『成唯識論』をよみ、『華厳経』を読み、『法華経』を読み、『大日経』を読み、浄土三部経を読み、空海を読み、円仁(794〜864)を読み、源信を読み、法然(1133〜1212 )を読み、親鷲を読み、日蓮を読み、一遍(1239〜1289)を読み、羅山(1583〜1657)を読み、宣長を読み、篤胤を読み、慈雲を読み、そして、日本の美術や文学や芸能や民俗の実際をしらべ、その上で、精神史は不可能だ、座標軸はないというのなら丸山氏を許してもよい。

 しかし、そういう本を読まず、またほとんど読もうともせず、日本の美術や文学や風俗について一向に調査しようともせず、性急に、日本では精神史が書けない、日本の思想はツギハギだ、タコツボだというのは到底許しがたいのである。

 丸山氏は彼がへーゲル(1770〜1831)の哲学にそそいだ学問的情熱の何分の一かを、『法華経』や『浄土三部経』にそそいだ後に、断定すべきだったのである。

 一人の人間が、バラバラのタコツボ的思想しかもたないと断定するのは、一人の人間をバカだというにひとしい。一つの国を、バラバラのタコツボ的思想しかもたないと断定するのは一つの国をバカだというのにひとしい。

 ここでバカだと断定されているのは、自国なのである。そんなに容易に、自己の精神に愚劣の烙印をおしてもよいのか。愚劣の烙印をおされて然るべきなのは、自国の精神の伝統の方なのか、それとも精神の伝統を全く失って何一つ信じようともしない、あわれな近代人の方なのか。

 私は、丸山氏のこの分析は、日本人がみずからの精神に投げた一つの自虐の書と見るのである。自己の本体を誤認し、安っぽい誤まった伝統を信じた日本人は、己れの姿に絶望し、自虐の眼で己れを見なければならなかった。

 大声で己れを馬鹿よ、アホウよとののしることが、時には精神の健康のために人間には必要なのだ。しかしいつまでもわれとわが身を傷つけ、自虐の甘い快感によいしれるのは、健康な道ではない。創造のために、健康な精神の力をとりもどすことが必要なのだ。
ーーーーーーーーーーー密厳院発露懺悔文ーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーー作、真言宗興教大師覚鑁ーーーーーーーーーーーーーー

我等懺悔す 無始よりこのかた妄想に纏(まと)はされて衆罪(しゅざい)を造る

身口意(しんくい)業 常に顛倒(てんどう)して 誤って無量不善の業(ごう)を犯す

珍財を慳悋(けんりん)して施を行ぜず 意(こころ)に任せて放逸にして戒を持せず

しばしば忿恚(ふんに)を起して忍辱(にんにく)ならず 多く懈怠(げだい)を生じて精進ならず

心意(しんに)散乱して坐禅せず 実相に違背して慧(え)を修せず

恒に是の如くの六度の行を退して 還(かえ)って流転三途(るてんさんず)の業を作る

名を比丘(びく)に仮(か)って伽藍(がらん)を穢(けが)し 形を沙門(しゃもん)に比して信施を受く

受くる所の戒品(かいぼん)な忘れて持せず 學すべき律義は廃して好むこと無し

諸佛の厭悪(えんあく)したまう所を慚(は)じず 菩薩の苦悩する所を畏れず

遊戯笑語(ゆうげしょうご)して 徒らに年を送り 諂誑詐欺(てんのうさぎ)して空しく日を過ぐ

善友(ぜんにゅう)に随がはずして癡人(ちにん)に親しみ 善根(ぜんごん)を勤めずして悪行を営む

利養を得んと欲して自徳を讃じ 名聞(みょうもん)を求めんと欲して他罪を誹(そし)る

勝徳(しょうとく)の者を見ては嫉妬を懐き 卑賤の人を見ては驕慢を生じ 

富饒(ぶしょう)の所を聞いては希望を起す 貧乏(ひんしゅ)の類を聞いては常に厭離(おんり)す

故(ことさら)に殺す有情(うじょう)の命(みょう) 顕は(あらわ)に取り密かに盗る他人の財

触れても触れずして 非凡行(ひぼんぎょう)を犯す 口四意(くしい)三互(さんたがい)に相続し

佛を観念する時は攀縁(はんねん)を発し(おこし) 経を読誦する時は文句を錯る(あやまる)

若し善根を作せ(なせ)ば有相(うそう)に住し 還って輪廻生死(りんねしょうじ)の因と成る

行住坐臥(ぎょうじゅうざが)知ると知らざると犯す所の是(かく)の如くの無量の罪 今三宝に對して皆発露(ほつろ)し奉る

慈悲哀愍(じひあいみん)して消除せしめ賜え 

皆悉(ことごと)く発露(ほつろ)し 尽(ことごと)く懺悔し奉る

乃至(ないし)法界の諸(もろもろ)の衆生 三業に作る所のかくの如くの罪 我皆 相代って尽く懺悔し奉る 更に亦 その報いを受けしめざれ

南無 慚愧懺悔(ざんぎざんげ) 無量 所犯罪(しょぼんざい)

                       (三返)

1.われは懺悔する。妄想にとりつかれて、もろもろの罪を犯してきました。

2.身と口と意(こころ)の行いは、つねにひっくりかえり、多くの悪行を誤って犯してきました。

3.財産を惜しんで人に施さず、気の向くままに、ふしだらな生活をし、戒めなどまったく守らなかった。

4.よく腹を立て、我慢をしない。怠けることばかり考えて、少しも努力をしない。
心はいつも乱れているが、座禅などしたことがない。

5.道理にはずれているのに、智慧を磨こうともしない。

6.六波羅蜜行などしたことがないのは、かえって地獄行きのもとをつくっているのだ。

7.僧侶の名を借りて寺院を汚し、僧侶の格好をしてお布施をもらっているのだ。

8.授けられた戒律は、とっくに忘れてしまい、学ぶべき修行は嫌いになっている。

9.諸仏が嫌がっていることを恥とせず、菩薩たちを悩ませていることを恐れない。

10.遊びまわり、冗談を楽しんでいるうちに年をとり、人に心にもないお世辞や、嘘をいっている間に、むなしく日は過ぎていく。

11.善き友を避けて、愚かな友と親しみ、善いことをしようとしないで悪いことをしてしまう。

12.名誉がほしいので自画自賛をし、徳の高い人を見ては、ねたましく思う。

13.自分より劣った人を見ては高慢になり、金持ちの暮らしを聞いてはあこがれ、貧乏な暮らしを聞いてはおぞましく思う。

14.過失で殺すも殺意を持って殺すも殺人にかわりなく、強盗にしてもコソ泥にしても盗人にかわりがない。

15.触れても触れなくても、不倫な行為は不倫である。

16.悪い言葉や悪い心のはたらきが互いに重なって、仏を観想しても心が落ち着かず、経を読んでも間違える。

17.もし善いことをしても、その結果を期待するから、かえって迷いの世界に入るもととなる。

18.毎日の暮らしのなかで、知らないうちにたくさんの罪を犯している。

いま、仏・法・僧の三宝のおん前で告白いたします。

なにとぞ慈悲のお心でおゆるしください。

ここに、すべてを懺悔いたします。自らの行いと、言葉と、心の動きによってできた罪を、わたしはすべての人に代わって、懺悔いたします。

なにとぞ、すべての人が悪行の報いを受けませんように。



http://www.matunomi.com/guide/raityou/raityou.html
上のサイトでは歌が聴けます。引用は以下のサイトより
http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/guest/publication/hiratsukaraiteu.html

元始女性は太陽であつた。――青鞜発刊に際して――
 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である。

 偖(さ)てこゝに「青鞜(せいたふ)」は初声(うぶごゑ)を上げた。

 現代の日本の女性の頭脳と手によつて始めて出来た「青鞜」は初声を上げた。

 女性のなすことは今は只嘲りの笑を招くばかりである。

 私はよく知つてゐる、嘲りの笑の下に隠れたる或(ある)ものを。 

 そして私は少しも恐れない。

 併(しか)し、どうしやう女性みづからがみづからの上に更に新(あらた)にした羞恥(しうち)と汚辱(をじよく)の惨(いた)ましさを。

 女性とは斯くも嘔吐に価(あたひ)するものだらうか、

 否々、真正の人とは―― 

 私共は今日の女性として出来る丈のことをした。心の総てを尽してそして産み上げた子供がこの「青鞜」なのだ。よし、それは低能児だらうが、奇形児だらうが、早生児だらうが仕方がない、暫くこれで満足すべきだ、と。

 果して心の総てを尽したらうか。あゝ、誰か、誰か満足しやう。

 私はこゝに更により多くの不満足を女性みづからの上に新にした。 

 女性とは斯くも力なきものだらうか、

 否々、真正の人とは―― 

 併し私とて此真夏の日盛(ひざかり)の中から生れた「青鞜」が極熱をもよく熱殺するだけ、それだけ猛烈な熱誠を有(も)つてゐると云ふことを見逃すものではない。

 熱誠! 熱誠! 私共は只これによるのだ。

 熱誠とは祈祷力である。意志の力である。禅定力である、神道力である。云ひ換へれば精神集注力である。

 神秘に通ずる唯一の門を精神集注と云ふ。

 今、私は神秘と云つた。併しともすれば云はれるかの現実の上に、或は現実を離れて、手の先で、頭の先で、はた神経によつて描き出された拵(こしら)へものゝ神秘ではない。夢ではない。私共の主観のどん底に於て、人間の深さ瞑想の奥に於てのみ見られる現実其儘の神秘だと云ふことを断つて置く。

 私は精神集注の只中に天才を求めやうと思ふ。

 天才とは神秘そのものである。真正の人である。

 天才は男性にあらず、女性にあらず。

 男性と云ひ、女性と云ふ性的差別は精神集注の階段に於て中層乃至下層の我、死すべく、滅ぶべき仮現の我に属するもの、最上層の我、不死不滅の真我に於てはありやうもない。

 私は曾(かつ)て此世に女性あることを知らなかつた。男性あることを知らなかつた。

 多くの男女は常によく私の心に映じてゐた、併し私は男性として、はた女性として見てゐたことはなかつた。

 然るに過剰な精神力の自(おのづ)からに溢れた無法な行為の数々は遂に治(ち)しがたく、救ひがたき迄の疲労に陥れた。

 人格の衰弱! 実にこれが私に女性と云ふものを始めて示した。と同時に男性と云ふものを。

 かくて私は死と云ふ言葉をこの世に学んだ。

 死! 死の恐怖! 曾て天地をあげて我とし生死の岸頭に遊びしもの、此時、ああ、死の面前に足のよろめくもの、滅ぶべきもの、女性と呼ぶもの。

 曾て統一界に住みしもの、此時雑多界にあつて途切れ、途切れの息を胸でするもの、不純なるもの、女性と呼ぶもの。

 そして、蓮命は我れ自から造るものなるを知らざるかの腑甲斐なき宿命論者の群にあやふく歩調を合せやうとしたことを、ああ思ふさへ冷たい汗は私の膚へを流れる。

 私は泣いた、苦々しくも泣いた、日夜に奏でゝ来た私の竪琴の糸の弛んだことを、調子の低くなつたことを。

 性格と云ふものゝ自分に出来たのを知つた時、私は天才に見棄てられた、天翔(あまかけ)る羽衣を奪はれた天女のやうに、陸に上げられた人魚のやうに。

 私は歎いた、傷々しくも歎いた。私の恍惚を、最後の希望を失つたことを。

 とは云へ、苦悶、損失、困憊(こんぱい)、乱心、破滅総て是等を支配する主人も亦常に私であつた。

 私は常に主人であつた自己の権利を以て、我れを支配する自主自由の人なることを満足し、自滅に陥れる我れをも悔ゆることなく、如何なる事件が次ぎ次ぎと起り来る時でも我の我たる道を休みなく歩んで来た。 

 ああ、我が故郷の暗黒よ、絶対の光明よ。

 自(みづ)からの溢れる光輝と、温熱によつて全世界を照覧し、万物を成育する太陽は天才なるかな。真正の人なるかな。

 元始、女性は実に太陽であつた。真正の人であつた。

 今、女性は月である。他に依つて生き、他の光によつて輝く病人のやうな蒼白い顔の月である。

 私共は隠されて仕舞つた我が太陽を今や取戻さねばならぬ。

「隠れたる我が太陽を、潜める天才を発現せよ、」こは私共の内に向つての不断の叫声、押へがたく消しがたき渇望、一切の雑多な部分的本能の統一せられたる最終の全人格的の唯一本能である。

 此叫声、此渇望、此最終本能こそ熱烈なる精神集注とはなるのだ。

 そしてその極(きはま)るところ、そこに天才の高き王座は輝く。 

 青鞜社規則の第一条に他日女性の天才を生むを目的とすると云ふ意味のことが書いてある。

 私共女性も亦一人残らず潜める天才だ。天才の可能性だ。可能性はやがて実際の事実と変ずるに相違ない。只精神集注の欠乏の為、偉大なる能力をして、いつまでも空しく潜在せしめ、終(つひ)に顕在能力とすることなしに生涯を終るのはあまりに遺憾に堪へない。 

「女性の心情は表面なり、浅き水に泛(うか)ぶ軽佻浮噪の泡沫なり。されど男性の心情は深し、其水は地中の凹窩を疾走す」とツアラトゥストラは云つた。久しく家事に従事すべく極め付けられてゐた女性はかくて其精神の集注力を全く鈍らして仕舞つた。

 家事は注意の分配と不得要領によつて出来る。

 注意の集注に、潜める天才を発現するに不適當の境遇なるが故に私は、家事一切の煩瑣を厭ふ。

 煩瑣な生活は性格を多方面にし、複難にする、けれども其多方面や、複雑は天才の発現と多くの場合反比例して行く。

 潜める天才に就て、疑ひを抱く人はよもあるまい。

 今日の精神科学でさへこれを実証してゐるではないか。総ての宗教にも哲学にも何等の接触を有(も)たない人でも最早(もはや)かの催眠術、十八世紀の中葉、墺国(オーストリヤ)のアントン、メスメル氏に起原を発し、彼の熱誠と忍耐の結果、遂に今日学者達の真面目な研究問題となつたかの催眠術を多少の理解あるものは疑ふことは出来まい。いかに繊弱(かよわ)い女性でも一度催眠状態にはいる時、或暗示に感ずることによつて、無中有を生じ、死中活を生じ忽然として霊妙不可思議とも云ふべき偉大な力を現すことや、無学文盲の田舎女が外国語を能く話したり、詩歌を作つたりすることなどは屡々私共の目前で実験された。また非常時の場合、火事、地震、戦争などの時、日常思ひ至らないやうな働をすることは誰れでも経験することだ。

 完全な催眠状態とは一切の自発的活動の全く休息して無念無想となりたる精神状態であると学者は云ふ。

 然らば私の云ふところの潜める天才の発現せらるべき状態と同一のやうだ。私は催眠術に掛れないので遺憾ながら断言は出来ないが、少くとも類似の境界だとは云へる。

 無念無想とは一体何だらう。祈祷の極、精神集注の極に於て到達し得らるゝ自己忘却ではないか。無為、恍惚ではないか。虚無ではないか。真空ではないか。

 実(げ)にこゝは真空である。真空なるが故に無尽蔵の智恵の宝の大倉庫である。一切の活力の源泉である。無始以来植物、動物、人類を経て無終に伝へらるべき一切の能力の福田(ふくでん)である。

 こゝは過去も未来もない、あるものは只これ現在。

 ああ、潜める天才よ。我々の心の底の、奥底の情意の火焔の中なる「自然」の智恵の卵よ。全智全能性の「自然」の子供よ。 

「フランスに我がロダンあり。」

 ロダンは顕れたる天才だ。彼は偉大なる精神集注力を有(も)つてゐる。一分の隙なき非常時の心を平常時の心として生きてゐる。彼は精神生活のリズムにせよ、肉体生活のリズムにせよ、立所に自由に変ずることの出来る人に相違ない。むべなる哉、インスピレーションを待つかの奴隷のやうな藝術の徒を彼は笑つた。

 其意志の命ずる時、そこに何時でもインスピレーションがある彼こそ天才となるの唯一の鍵を握つてゐる人と云ふベきだらう。

 三度の箸の上下にも、夕涼の談笑にも非常時の心で常にありたいと希ふ私は曾て白樺のロダン号を見て多くの暗示を受けたものだ、物知らずの私にはロダンの名さへ初耳であつた。そしてそこに自分の多くを見出した時、共鳴するものあるをいたく感じた時、私はいかに歓喜に堪ヘなかつたか。

 以來、戸を閉じたる密室に独座の夜々、小さき燈火が白く、次第に音高く、嵐のやうに、しかもいよいよ単調に、瞬(またゝき)もなく燃える時、私の五羽の白鳩が、優しい赤い眼も、黒い眼も同じ薄絹の膜に蔽はれて寄木(やどりき)の上にぷつと膨れて安らかに眠る時、私は大海の底に独り醒めてゆく、私の筋は緊張し、渾身に血潮は漲(みなぎ)る。其時、「フランスに我がロダンあり。」と云ふ思ひが何処からともなく私の心に浮ぶ。そして私はいつか彼と共に「自然」の音楽を――かの失はれたる高調の「自然」の音楽を奏でゝゐるのであつた。

 私はかの「接吻」を思ふ。あらゆるものを情熱の坩堝(るつぼ)に鎔す接吻を、私の接吻を。接吻は実に「一」である。全霊よ、全肉よ、緊張の極(はて)の圓かなる恍惚よ、安息よ、安息の美よ。感激の涙は金色の光に輝くであらう。

 日本アルプスの上に灼熱に燃えてくるくると廻転する日没前の太陽よ。孤峯頂上に独り立つ私の静けき慟哭よ。

 弱い、そして疲れた、何ものとも正体の知れぬ、把束し難き恐怖と不安に絶えず戦慄する魂。頭脳(あたま)の底の動揺、銀線をへし折るやうな其響、寝醒時に襲つて来る黒い翅の死の強迫観念。けれど、けれど、一度自奮する時、潜める天才はまだ私を指導してくれる。まだ私を全く見棄(みすて)はしない。そして何処から来るともなし私の総身に力が漲つてくる、私は只々強き者となるのだ。私の心は大きくなり、深くなり、平になり、明るくなり、視野は其範囲を増し、個々のものを別々に見ることなしに全世界が一目に映じてくる。あの重かつた魂は軽く、軽く、私の肉体から抜け出して空にかゝつてゐるのだらうか。否、実は目方なきものとなつて気散して仕舞つたのだらうか。私はもう全く身も心も忘れ果てて云ふべからざる統一と調和の感に酔つて仕舞ふのだ。

 生も知らない。死も知らない。

 敢て云へば、そこに久遠の「生」がある。熱鉄の意志がある。

この時ナポレオンはアルプス何あらむやと叫ぶ。実に何ものの障碍(しやうがい)も其前にはない。

 
真の自由、真の解放、私の心身は何等の圧迫も、拘束も、恐怖も、不安も感じない。そして無感覚な右手が筆を執つて何事かをなほ書きつける。

 私は潜める天才を信ぜずには居られない。私の混乱した内的生活が僅に統一を保つて行けるのは只これあるが為めだと信ぜずにはゐられない。 

 自由解放! 女性の自由解放と云ふ声は随分久しい以前から私共の耳辺にざわめいてゐる。併しそれが何だらう。思ふに自由と云ひ、解放と云ふ意味が甚しく誤解されてゐはしなかつたらうか。尤(もつと)も単に女性解放問題と云つても其中には多くの問題が包まれてゐたらう。併し只外界の圧迫や、拘束から脱せしめ、所謂(いはゆる)高等教育を授け、広く一般の職業に就かせ、参政権をも与へ、家庭と云ふ小天地から、親と云ひ、夫と云ふ保護者の手から離れて所謂独立の生活をさせたからとてそれが何で私共女性の自由解放であらう。成程それも真の自由解放の域に達せしめるによき境遇と機会とを与へるものかも知れない。併し到底方便である。手段である。目的ではない。理想ではない。

 とは云へ私は日本の多くの識者のやうな女子高等教育不必要論者では勿論ない。「自然」より同一の本質を受けて生れた男女に一はこれを必要とし、一はこれを不必要とするなどのことは或国、或時代に於て暫くは許せるにせよ、少しく根本的に考へればこんな不合理なことはあるまい。

 私は日本に唯一つの私立女子大学があるばかり、男子の大学は容易に女性の前に門戸を開くの寛大を示さない現状を悲しむ。併し一旦にして我々女性の智識の水平線が男性のそれと同一になつたとしたところでそれが何だらう。抑(そもそ)も智識を求めるのは無智、無明の闇を脱して自己を解放せむが為に外ならぬ。然るにアミイバのやうに貪り取つた智識も一度眼を拭つて見れば殻ばかりなのに驚くではないか。そして又我々は其殻から脱する為め多くの苦闘を余儀なくせねばならないではないか。一切の思想は我々の真の智恵を暗まし、自然から遠ざける。智識を弄んで生きる徒は学者かも知れないが到底智者ではない。否、却て眼前の事物其儘の真を見ることの最も困難な盲(めしひ)に近い徒である。

 釈迦は雪山に入つて端座六年一夜大悟して、「奇哉(きなるかな)、一切衆生具有如来智恵徳相、又曰、一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏」と。彼は始めて事物其儘の真を徹見し、自然の完全に驚嘆したのだ。かくて釈迦は真の現実家になつた。真の自然主義者になつた。空想家ではない。実に全自我を解放した大自覚者となつたのだ。

 私共は釈迦に於て、真の現実家は神秘家でなければならぬことを、真の自然主義者は理想家でなければならぬことを見る。

 我がロダンも亦さうだ。彼は現実に徹底することによつてそこに現実と全く相合する理想を見出した。

「自然は常に完全なり、彼女は一つの誤謬をも作らず」と云つたではないか。自からの意力によつて自然に従ひ、自然に従ふことによつて自然を我ものとした彼は自(みづ)から自然主義者と云つてゐる。

 日本の自然主義者と云はれる人達の眼は現実其儘の理想を見る迄に未だ徹してゐない。集注力の欠乏した彼等の心には自然は決して其全き姿を現はさないのだ。人間の瞑想の奥底に於てのみ見られる現実即理想の天地は彼等の前に未だ容易に開けさうもない。

 彼等のどこに自由解放があらう。あの首械(くびかせ)、手械、足械はいつ落ちやう。彼等こそ自縄自縛の徒、我れみづからの奴隷たる境界に苦しむ憐れむべき徒ではあるまいか。

 私は無暗と男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少しく遅れて歩まうとする女性を見るに忍びない。 

 女性よ、芥の山を心に築かむよりも空虚に充実することによつて自然のいかに全きかを知れ。 

 然らば私の希ふ真の自由解放とは何だらう。云ふ迄もなく潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させることに外ならぬ。それには発展の妨害となるものゝ総てをまづ取除かねばならぬ。それは外的の圧迫だらうか、はたまた智識の不足だらうか、否、それらも全くなくはあるまい、併し其主たるものは矢張り我そのもの、天才の所有者、天才の宿れる宮なる我そのものである。

 我れ我を遊離する時、潜める天才は発現する。

 私共は我がうちなる潜める天才の為めに我を犠牲にせねばならぬ。所謂無我にならねばならぬ。(無我とは自己拡大の極致である。)

 只私共の内なる潜める天才を信ずることによつて、天才に対する不断の叫声と、渇望と、最終の本能とによつて、祈祷に熱中し、精神を集注し以て我を忘れるより外(ほか)道はない。

 そしてこの道の極(きはま)るところ、そこに天才の玉座は高く輝く。 

 私は総ての女性と共に潜める天才を確信したい。只唯一の可能性に信頼し、女性としてこの世に生れ来つて我等の幸を心から喜びたい。

 私共の救主は只私共の内なる天才そのものだ。最早(もはや)私共は寺院や、教会に仏や神を求むるものではない。

 私共は最早、天啓を待つものではない。我れ自からの努力によつて、我が内なる自然の秘密を曝露し、自から天啓たらむとするものだ。

 私共は奇蹟を求め、遠き彼方の神秘に憧れるものではない、我れ自からの努力によつて我が内なる自然の秘密を曝露し、自から奇蹟たり、神秘たらむとするものだ。

 私共をして熱烈なる祈祷を、精紳集注を不断に継続せしめよ。かくて飽迄も徹底せしめよ。潜める天才を産む日まで、隠れたる太陽の輝く日まで。

 其日私共は全世界を、一切のものを、我ものとするのである。其日私共は唯我独存の王者として我が踵もて自然の心核に自存自立する反省の要なき真正の人となるのである。

 そして孤独、寂寥のいかに楽しく、豊かなるかを知るであらう。 

 最早(もはや)女性は月ではない。

 其日、女性は矢張り元始の太陽である。真正の人である。 

 私共は日出づる国の東(ひんがし)の水晶の山の上に目映ゆる黄金の大圓宮殿を営まうとするものだ。

 女性よ、汝の肖像を描くに常に金色の円天井を撰ぶことを忘れてはならぬ。

 よし、私は半途にして斃るとも、よし、私は破船の水夫として海底に沈むとも、なほ麻痺せる双手を挙げて「女性よ、進め、進め。」と最後の息は叫ぶであらう。

 今私の眼から涙が溢れる。涙が溢れる。

 私はもう筆を擱(お)かねばならぬ。

 併しなほ一言云ひたい。私は「青鞜」の発刊と云ふことを女性のなかの潜める天才を、殊に藝術に志した女性の中なる潜める天才を発現しむるによき機会を与へるものとして、又その為の機関として多くの意味を認めるものだと云ふことを、よしこゝ暫らくの「青鞜」は天才の発現を妨害する私共の心のなかなる塵埃や、渣滓(さし)や、籾殻を吐出すことによつて僅に存在の意義ある位のものであらうとも。

 私は又思ふ、私共の怠慢によらずして努カの結果「青鞜」の失はれる日、私共の目的は幾分か達せられるのであらう、と。

 最後に今一つ、青鞜社の社員は私と同じやうに若い社員は一人残らず各自の潜める天才を発現し、自己一人に限られたる特性を尊重し、他人の犯すことの出来ない各自の天職を全うせむ為に只管(ひたすら)に精神を集中する熱烈な、誠実な真面目な、純朴な、天真な、寧(むし)ろ幼稚な女性であつて他の多くの世間の女性の団体にともすれば見るやうな有名無実な腰掛つぶしは断じてないことを切望して止まぬ私はまたこれを信じて疑はぬものだと云ふことを云つて置く。

 烈しく欲求することは事実を産む最も確実な真原因である。――完――

平塚 らいてう
ひらつか らいちょう 思想家 1886.2.10 - 1971.5.24 東京に生まれる。女性達の手になった日本初の文藝誌「青鞜」を主宰。 掲載作は、明治四十四年(1911)九月その創刊号にかかげた歴史的宣言であり、時にらいてうは二十六歳であった。


 

 
Martin Luther King's Speech
-- I Have A Dream!

マーチン・ルーサー・キングのスピーチ
--私には夢がある!    演説を音声と映像で  演説を音声でその2
August 28, 1963
Iam happy to join with you today in what will go down in history as the greatest demonstration for freedom in the history of our nation.
私は、我が国の歴史の中で、自由のため最も偉大なデモンストレーションとしてに歴史に残る集会に、今日、皆さんと共に参加できて幸福です。
Five score years ago, a great American, in whose symbolic shadow we stand today, signed the Emancipation Proclamation.
今から100年前に、我々が今日その像の下に立っている偉大なるアメリカ人(=リンカンー大統領)が、奴隷解放宣言に署名しました。

This momentous decree came as a great beacon light of hope to millions of Negro slaves who had been seared in the flames of withering injustice.
この重要な宣言は、それまで燃えさかる不正義の炎に焼き焦がされてきた何百万もの黒人奴隷たちにとって、希望を示す素晴らしい灯りでした。
It came as a joyous daybreak to end the long night of their captivity.
それは奴隷制度のもとでの長い夜の終わりを告げる喜びの夜明けでした。

But one hundred years later, the Negro still is not free.
しかし、あれから100年たった今、黒人が、いまだに自由ではないのです。
One hundred years later, the life of the Negro is still sadly crippled by the manacles of segregation and the chains of discrimination.
100年たった今、黒人たちの生活は、人種隔離の手かせと人種差別の足かせに縛られています。
One hundred years later, the Negro lives on a lonely island of poverty in the midst of a vast ocean of material prosperity.
100年たった今、黒人たちは物質的繁栄の広大な海の中で、貧困という孤島に暮らしているのです。
One hundred years later, the Negro is still languished in the corners of American society and finds himself an exile in his own land
100年たった今、黒人たちはいまだにアメリカ社会の片隅で苦しんでいて、自分たちの国の中で島流しにされているのです。
So we have come here today to dramatize a shameful condition.
私たちが今日この場に集まったのは、この恥ずべき状態を広く世に訴えるため。

In a sense we've come to our nation's capital to cash a check.
ある意味で、私たちは、小切手を現金に換えるために、私たちの国の首都に来たのです。
When the architects of our republic wrote the magnificent words of the Constitution and the Declaration of Independence,
私たちの共和国の創設者が、憲法と独立宣言のすばらしい言葉を書いたとき、
they were signing a promissory note to which every American was to fall heir.
彼らはあらゆるアメリカ人が享受すべき約束手形に署名したのです。
This note was a promise that all men, yes, black men as well as white men, would be guaranteed the "unalienable Rights" of "Life, Liberty and the pursuit of Happiness."
この手形は「生命、自由および幸福追求」の「譲ることのできない権利」がすべての人(そうです白人と同様に黒人も)に保証されるだろうという約束でした。
It is obvious today that America has defaulted on this promissory note, insofar as her citizens of color are concerned.
有色人種の市民に関する限り、アメリカがこの約束手形の履行をおこたっていることは、今日明白です。
Instead of honoring this sacred obligation, America has given the Negro people a bad check, a check which has come back marked "insufficient funds."
この神聖な義務を守る代わりに、アメリカは黒人たちに不渡り小切手(「残高不足」とマークされて戻った小切手)を与えているのです。

But we refuse to believe that the bank of justice is bankrupt.
しかし、私たちは、正義の銀行が破産していると思うことを拒否します。
We refuse to believe that there are insufficient funds in the great vaults of opportunity of this nation.
私たちは、この国の「機会」という金庫が残高不足になっていると信じることを拒否する。
And so, we've come to cash this check, a check that will give us upon demand the riches of freedom and the security of justice.
したがって、私たちはこの小切手(我々に自由という富と正義の保証を要求に応じて与えてくれる小切手)を現金にするために来たのです。

We have also come to this hallowed spot to remind America of the fierce urgency of Now.
我々は、また、アメリカに今の激しい緊急性を思い出させるために、この神聖な場所に来ました。
This is no time to engage in the luxury of cooling off or to take the tranquilizing drug of gradualism.
今は、クーリングオフをやったり、漸進主義という精神安定剤を飲むというような悠長な時ではないのです。
Now is the time to make real the promises of democracy.
今こそ、民主主義の約束を実現するときです。
Now is the time to rise from the dark and desolate valley of segregation to the sunlit path of racial justice.
今こそ、隔離され暗く荒涼とした谷から人種平等の太陽に照らされている道に上ってゆく時です。
Now is the time to lift our nation from the quicksands of racial injustice to the solid rock of brotherhood.
今こそ、私たちの国を、人種差別の泥沼から、兄弟愛の硬い岩へと持ち上げる時なのです。
Now is the time to make justice a reality for all of God's children.
今こそ、全ての神の子が実際に正義を手にするときです。

It would be fatal for the nation to overlook the urgency of the moment.
国家が現在の緊急性を見落とすのは致命的でしょう。
This sweltering summer of the Negro's legitimate discontent will not pass until there is an invigorating autumn of freedom and equality.
黒人の正当な不満が渦巻く蒸し暑い夏は、自由と平等のさわやかな秋になるまで、終わらないでしょう。
Nineteen sixty-three is not an end, but a beginning.
1963年は終わりではなく、始まりの年なのです。
And those who hope that the Negro needed to blow off steam and will now be content will have a rude awakening if the nation returns to business as usual.
黒人にはうっぷん晴らしが必要だったがもう収まるだろうと期待している人々は、この国がこのままもとの生活に戻ってゆくならいやな思いをすることになるでしょう。
And there will be neither rest nor tranquility in America until the Negro is granted his citizenship rights.
黒人に公民権が保証されるまで、安息も平静もアメリカにはあり得ないでしょう。
The whirlwinds of revolt will continue to shake the foundations of our nation until the bright day of justice emerges.
正義が行われる明るい日が出てくるまでは、反乱の嵐は我が国の基礎を揺るがし続けることになるでしょう。

But there is something that I must say to my people, who stand on the warm threshold which leads into the palace of justice:
しかし、正義の殿堂にいたる暖かな入り口に立っている仲間に言わなければならない事があります。
In the process of gaining our rightful place, we must not be guilty of wrongful deeds.
我々の公正を得る過程で、我々は間違った行為を犯してはなりません。
Let us not seek to satisfy our thirst for freedom by drinking from the cup of bitterness and hatred.
自由への乾きを、恨みと憎悪の杯を口にすることで満たそうととしてはなりません。

We must forever conduct our struggle on the high plane of dignity and discipline.
我々は尊厳と規律の高い次元で我々の闘いを永遠に実行しなければなりません。
We must not allow our creative protest to degenerate into physical violence.
我々の創造的な抗議が物理的な暴力に陥るのを許してはなりません。
Again and again, we must rise to the majestic heights of meeting physical force with soul force.
何度も繰り返します、私たちは魂の力で物理的力に立ち向かうとい荘厳な高みに上らなければなりません。
The marvelous new militancy which has engulfed the Negro community must not lead us to a distrust of all white people, for many of our white brothers,
黒人社会をのみ込んでいる素晴らしい新しい闘志が、全ての白人の人々に対する不信に至ってはなりません、なぜならば、白人の兄弟の多くは、
as evidenced by their presence here today, have come to realize that their destiny is tied up with our destiny.
今日ここに彼らが存在することで明らかなように、彼らの運命が我々の運命に結びつけられると理解するようになったのですから。
And they have come to realize that their freedom is inextricably bound to our freedom.
そして、彼らの自由が我々の自由と密接不可分に結びついていると理解するようになったのですから。

We cannot walk alone.
我々は、単独で歩くことはできません。
And as we walk, we must make the pledge that we shall always march ahead.
そして、歩くとき、私たちは前進し続けることを心に誓わなければなりません。
We cannot turn back.
我々は引き返すことができないのだから。
There are those who are asking the devotees of civil rights, "When will you be satisfied?"
熱心な公民権運動家に「あなた方はいつになったら納得するのでしょうか?」と尋ねる人々がいます、
We can never be satisfied as long as the Negro is the victim of the unspeakable horrors of police brutality.
黒人が警察の残虐行為によることばに表せない恐怖の犠牲者である限り、我々は決して満足することができない。
We can never be satisfied as long as our bodies, heavy with the fatigue of travel, cannot gain lodging in the motels of the highways and the hotels of the cities.
私たちが旅の疲れで重くなった身体なのに、高速道路に(黒人の)泊まれるモーテルが無く、街に(黒人の)泊まれるホテルがない限り、我々は決して満足することができない。
We cannot be satisfied as long as the negro's basic mobility is from a smaller ghetto to a larger one.
私たちは、黒人の移動範囲が基本的に小さなゲットーからより大きなゲットーになったにすぎないのである限り満足することができない。
We can never be satisfied as long as our children are stripped of their self-hood and robbed of their dignity by a sign stating: "For Whites Only."
私たちの子どもが「白人専用」の標識によって彼らの個性をはぎ取られ、彼らの尊厳を奪われている限り、我々は決して満足することができない。
We cannot be satisfied as long as a Negro in Mississippi cannot vote and a Negro in New York believes he has nothing for which to vote.
ミシシッピーの黒人が投票することができない限り、ニューヨークの黒人が投票しても無駄だと信じる状態が続く限り、私たちは決して満足することができません。
No, no, we are not satisfied, and we will not be satisfied until "justice rolls down like waters, and righteousness like a mighty stream."
決して決して、我々は満足していない、「正義が水のようにこぼれ落ち、公正さが強力な流れになる」まで満足することはないでしょう (アモス書5−24)

I am not unmindful that some of you have come here out of great trials and tribulations.
私はあなた方の中には大変な試練と苦難をへてここに来た人々がいる事に無頓着ではありません。
Some of you have come fresh from narrow jail cells.
あなた方の何人かは、狭い刑務所の独房から出てきたばかりの人もいるでしょう。
And some of you have come from areas where your quest -- quest for freedom left you battered by the storms of persecution and staggered by the winds of police brutality.
あなた方の何人かは、自由を求めたために迫害の嵐に見舞われ警察の残虐行為の暴風によろめくままにされている地域から来た人もいるでしょう。
You have been the veterans of creative suffering.
あなたは創造的苦難のベテランでした。
Continue to work with the faith that unearned suffering is redemptive.
不当な苦しみは贖罪的であると信じて闘い続けてください。

Go back to Mississippi,
戻ろうミシシッピーへ、
go back to Alabama,
戻ろうアラバマへ、
go back to South Carolina,
戻ろうサウスカロライナへ、
go back to Georgia,
戻ろうジョージアへ、
go back to Louisiana,
戻ろうルイジアナへ、
go back to the slums and ghettos of our northern cities,
戻ろう北部の街のスラムやゲットーに、
knowing that somehow this situation can and will be changed.
この状況はなんとしても打開するし、打開されることを信じて。
Let us not wallow in the valley of despair.
絶望の谷を彷徨うのはもうやめよう。
I say to you today, my friends, so even though we face the difficulties of today and tomorrow,
わが友よ。われわれは今日も明日も困難に直面しているが,
I still have a dream.
それでもなお私には夢があるといいたい
It is a dream deeply rooted in the American dream.
それはアメリカン・ドリームに深く根ざした夢なのだ。

I have a dream that one day this nation will rise up and live out the true meaning of its creed: "We hold these truths to be self-evident: that all men are created equal."
私には夢がある、つまりいつの日か、この国が立ち上がり、「我々はすべての人々は平等に作られている事を、自明の真理と信じる」というこの国の信条を真の意味で実現させることだ。(アメリカ独立宣言)

I have a dream that one day on the red hills of Georgia, the sons of former slaves and the sons of former slave owners will be able to sit down together at the table of brotherhood.
私には夢がある。いつの日かジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫たちとかつての奴隷所有者の子孫が同胞として同じテーブルにつくことができるという夢が。
I have a dream that one day even the state of Mississippi, a state sweltering with the heat of injustice, sweltering with the heat of oppression, will be transformed into an oasis of freedom and justice.
私には夢がある。今、差別と抑圧の炎熱に焼かれるミシシッピー州でさえ、自由と正義のオアシスに生まれ変われる日が来るという夢が。

I have a dream that my four little children will one day live in a nation where they will not be judged by the color of their skin but by the content of their character.
私には夢がある。私の四人の幼い子ども達が、いつの日か肌の色ではなく人格そのものによって評価される国に住めるようになるという夢が。

I have a dream today
今日、私には夢がある!

I have a dream that one day, down in Alabama,
私には夢がある、いつの日かこのアラバマでも、
with its vicious racists, with its governor having his lips dripping with the words of "interposition" and "nullification"
目下のところ悪意に満ちた人種差別主義者に牛耳られ、州知事が「(連邦政府の)干渉排除」や「(連邦法の実施の)無効化」を唱えているアラバマ州においてさえ
-- one day right there in Alabama little black boys and black girls will be able to join hands with little white boys and white girls as sisters and brothers.
将来いつの日か、幼い黒人の少年少女たちが、幼い白人の少年少女たちと手に手を取って兄弟姉妹となることができるという夢が。

I have a dream today.
私には今日、夢がある!

I have a dream that one day every valley shall be exalted, and every hill and mountain shall be made low, the rough places will be made plain, and the crooked places will be made straight; "and the glory of the Lord shall be revealed and all flesh shall see it together."
私には夢がある、いつの日にか、すべての谷は隆起し、丘や山は低地となる。荒地は平らになり、歪んだ地もまっすぐになる日が来ると。「そして神の栄光が現れ、すべての人々が共にその栄光を見るだろう。」
〈イザヤ書40:4-、5〉
This is our hope.
これが我々の希望なのだ。
This is the faith that I will go back to the South with.
この信仰をもって、私は南部へ戻って行く
With this faith we will be able to hew out of the mountain of despair a stone of hope.
この信仰をもってすれば、絶望の山からも希望の石を切り出すことができるのだ。
With this faith we will be able to transform the jangling discords of our nation into a beautiful symphony of brotherhood.
この信仰をもってすれば、我々は祖国にうずまく不協和音を人類愛のすばらしいシンフォニーに昇華することができるのだ
With this faith we will be able to work together, to pray together, to struggle together, to go to jail together, to stand up for freedom together, knowing that we will be free one day.
この信仰をもってすれば、我々はは共に働き、共に祈り、共に闘い、共に投獄され、自由がいつか来るのだということを信じながら、共に自由のために立ちあがることができるのだ。

This will be the day...., this will be the day when all of God's children will be able to sing with new meaning "My country 'tis of thee, sweet land of liberty, of thee I sing. Land where my fathers died, land of the Pilgrim's pride, from every mountainside, let freedom ring!"
そしてその日が来れば、その日が来れば神の子はみなおしなべて、新しい意味をこめて「我が祖国よ、美しい自由の国をたたえ私は歌う。父が骨を埋めた国、開拓者の誇りとする国。すべての山々から、自由よ鳴り響け」と歌えるのだ。(「アメリカ(我が祖国My country 'tis of thee)」・・国民的愛唱歌)
And if America is to be a great nation, this must become true.
真にアメリカが偉大な国となるためには、このことを実現しなければならないのです。

So let freedom ring from the prodigious hilltops New Hampshire.
だから,自由の鐘を打ち鳴らそう、ニューハンプシャー州の巨大な丘の頂から。
Let freedom ring from the mighty mountains of New York.
自由の鐘を打ち鳴らそう、ニューヨーク州の悠々しき山々からも。
Let freedom ring from the heightening Alleghenies of Pennsylvania.
自由の鐘を打ち鳴らそう、ペンシルヴァニアにそそり立つアレゲニーの山脈からも。
Let freedom ring from the snow-capped Rockies of Colorado.
自由の鐘を打ち鳴らそう、コロラド州の雪を頂くロッキー山脈からも。
Let freedom ring from the curvaceous slopes of California.
自由の鐘を打ち鳴らそう、カリフォルニア州のなだらかな山々からも。
But not only that,
それだけではない、
Let freedom, ring from StoneMountain of Georgia.
自由の鐘を打ち鳴らそう、ジョージア州のストーンマウンテンからも、
Let freedom ring from Lookout Mountain of Tennessee!
自由の鐘を打ち鳴らそう、テネシー州のルックアウトマウンテンからも。
Let freedom ring from every hill and molehill of Mississippi
自由の鐘を打ち鳴らそう、ミシシッピー州のすべての丘やほんの小さな塚からも、
From every mountainside,let freedom ring!
すべての山腹から、自由の鐘を打ち鳴らすのだ。

And when this happens, when we allow freedom to ring, when we let it ring from every village and every hamlet, from every state and every city,
そうすれば、私達が自由の鐘を鳴り響かせば、すべての村、すべての集落から、すべての州、すべての街から、自由の鐘を鳴らせば、
we will be able to speed up that day when all of God's children, black men and white men, Jews and Gentiles, Protestants and Catholics, will be able to join hands and sing in the words of the old Negro spiritual,
すべての神の子が、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人(非ユダヤ人)も、プロテスタントもカトリックも、すべての人々が手に手を取ってあの古い黒人霊歌を共に歌える日がより早くやって来るのだ。

"Free at last! free at last!
「ついに自由だ、ついに自由になれた。
Thank God Almighty, we are free at last!"
全能の神に感謝しよう。ついに我々は自由になったのだ」と。
http://www.americanrhetoric.com/speeches/Ihaveadream.htm
あるいは
http://dreamer1.hp.infoseek.co.jp/King11min.mp3

なおこの文章は以下のサイトから写しました。
http://www.fuchu.or.jp/~okiomoya/i%20have%20a%20dream.htm
ーーー偶成ーーー(伝朱熹作)

少年易老学難成ーーー少年老い易く学成り難し 

一寸光陰不可軽ーーー一寸の光陰軽んずべからず 

未覚池塘春草夢ーーー未だ覚めやらず池塘春草の夢 

階前五葉巳秋声ーーー階前の五葉巳に秋声

若者は年をとり易く、学問はなかなか完成しにくい。だから少しの時間でも軽々しくしてはならない。さて、池の堤の若草の上でまどろんだ春の日の夢がまだ覚めないうちに、庭先の青桐の葉には、もう秋の声が聞かれるように、月日は速やかに過ぎ去ってしまうのである。

以下のサイトでは漢詩の部分をクリックしますと詩吟が鑑賞できます。
http://images.google.com/imgres?imgurl=http://www.1-em.net/sampo/kanshi/img/kanshi_chn_2.gif&imgrefurl=http://www.1-em.net/sampo/kanshi/&usg=__Cs8LoQCHFeDJrkeCghxwvvxPJyw=&h=283&w=300&sz=16&hl=ja&start=4&um=1&tbnid=BWDfDPqrcdlQHM:&tbnh=109&tbnw=116&prev=/images%3Fq%3D%25E5%2581%25B6%25E6%2588%2590%26hl%3Dja%26rls%3Dp,com.microsoft:ja:IE-SearchBox%26rlz%3D1I7SNYA%26sa%3DG%26um%3D1
十七条の憲法
第一条 一曰。以和為貴。無忤為宗。人皆有黨。亦少達者。是以或不順君父。乍違于隣里。然上和下睦。諧於論事。則事理自通。何事不成。

読み下し  一に曰わく、和を以って貴しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。人みな党あり、また達(さと)れるもの少なし。ここをもって、あるいは君父に順わず、また隣里に違う。しかれども、上和(やわら)ぎ下睦びて、事を論(あげつら)うに諧(かな)うときは、すなわち事理おのずから通ず。何事か成らざらん。

現代語訳  一にいう。和をなによりも大切なものとし、いさかいをおこさぬことを根本としなさい。人はグループをつくりたがり、悟りきった人格者は少ない。それだから、君主や父親のいうことにしたがわなかったり、近隣の人たちともうまくいかない。しかし上の者も下の者も協調・親睦(しんぼく)の気持ちをもって論議するなら、おのずからものごとの道理にかない、どんなことも成就するものだ。

第二条 二曰。篤敬三寳。三寳者仏法僧也。則四生之終帰。萬国之極宗。何世何人非貴是法。人鮮尤悪。能教従之。其不帰三寳。何以直枉。

読み下し  二に曰わく、篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり、則ち四生(ししょう)の終帰、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すく)なし、能(よ)く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直(ただ)さん。

現代語訳 二にいう。あつく三宝(仏教)を信奉しなさい。3つの宝とは仏・法理・僧侶のことである。それは生命(いのち)ある者の最後のよりどころであり、すべての国の究極の規範である。どんな世の中でも、いかなる人でも、この法理をとうとばないことがあろうか。人ではなはだしくわるい者は少ない。よく教えるならば正道にしたがうものだ。ただ、それには仏の教えに依拠しなければ、何によってまがった心をただせるだろうか。

第三条 三曰。承詔必謹。君則天之。臣則地之。天覆地載。四時順行。万氣得通。地欲覆天。則致壊耳。是以君言臣承。上行下靡。故承詔必慎。不謹自敗。

読み下し 三に曰わく、詔を承けては必ず謹め。君をば則ち天とし、臣をば則ち地とす。天覆い地載せて四時順行し、万気通うことを得(う)。地、天を覆わんと欲するときは、則ち壊(やぶ)るることを致さむのみ。ここをもって、君言(のたま)えば臣承り、上行なえば下靡(なび)く。ゆえに、詔を承けては必ず慎め。謹まずんばおのずから敗れん。

現代語訳 三にいう。王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがいなさい。君主はいわば天であり、臣下は地にあたる。天が地をおおい、地が天をのせている。かくして四季がただしくめぐりゆき、万物の気がかよう。それが逆に地が天をおおうとすれば、こうしたととのった秩序は破壊されてしまう。そういうわけで、君主がいうことに臣下はしたがえ。上の者がおこなうところ、下の者はそれにならうものだ。ゆえに王(天皇)の命令をうけたならば、かならず謹んでそれにしたがえ。謹んでしたがわなければ、やがて国家社会の和は自滅してゆくことだろう。

第四条 原文 四曰。群卿百寮。以礼為本。其治民之本。要在乎礼。上不礼而下非齊。下無礼以必有罪。是以群臣有礼。位次不乱。百姓有礼。国家自治。

読み下し 四に曰わく、群卿百寮(ぐんけいひゃくりょう)、礼をもって本(もと)とせよ。それ民を治むるの本は、かならず礼にあり。上礼なきときは、下(しも)斉(ととの)わず、下礼なきときはもって必ず罪あり。ここをもって、群臣礼あるときは位次(いじ)乱れず、百姓(ひゃくせい)礼あるときは国家自ら治まる。

現代語訳 四にいう。政府高官や一般官吏たちは、礼の精神を根本にもちなさい。人民をおさめる基本は、かならず礼にある。上が礼法にかなっていないときは下の秩序はみだれ、下の者が礼法にかなわなければ、かならず罪をおかす者が出てくる。それだから、群臣たちに礼法がたもたれているときは社会の秩序もみだれず、庶民たちに礼があれば国全体として自然におさまるものだ。

第五条 原文 五曰。絶餮棄欲。明辯訴訟。其百姓之訴。一日千事。一日尚尓。况乎累歳須治訟者。得利為常。見賄聴 。便有財之訟如石投水。乏者之訴似水投石。是以貧民則不知所由。臣道亦於焉闕。

読み下し 五に曰わく、餮(あじわいのむさぼり)を絶ち、欲(たからのほしみ)を棄(す)てて、明らかに訴訟(うったえ)を弁(わきま)えよ。それ百姓の訟(うったえ)、一日に千事あり。一日すらなお爾(しか)り、況(いわ)んや歳(とし)を累(かさ)ぬるをや。頃(このごろ)、訟を治むる者、利を得るを常となし、賄(まいない)を見て (ことわり)を聴く。すなわち、財あるものの訟は、石を水に投ぐるがごとく、乏しき者の訴は、水を石に投ぐるに似たり。ここをもって、貧しき民は則ち由(よ)る所を知らず。臣の道またここに闕(か)く。

現代語訳 五にいう。官吏たちは饗応や財物への欲望をすて、訴訟を厳正に審査しなさい。庶民の訴えは、1日に1000件もある。1日でもそうなら、年を重ねたらどうなろうか。このごろの訴訟にたずさわる者たちは、賄賂(わいろ)をえることが常識となり、賄賂(わいろ)をみてからその申し立てを聞いている。すなわち裕福な者の訴えは石を水中になげこむようにたやすくうけいれられるのに、貧乏な者の訴えは水を石になげこむようなもので容易に聞きいれてもらえない。このため貧乏な者たちはどうしたらよいかわからずにいる。そうしたことは官吏としての道にそむくことである。

第六条 原文 六曰。懲悪勧善。古之良典。是以无匿人善。見悪必匡。其諂詐者。則為覆国家之利器。為絶人民之鋒釼。亦侫媚者対上則好説下過。逢下則誹謗上失。其如此人皆无忠於君。无仁於民。是大乱之本也。

読み下し 六に曰わく、悪を懲し善を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり。ここをもって人の善を匿(かく)すことなく、悪を見ては必ず匡(ただ)せ。それ諂(へつら)い詐(あざむ)く者は、則ち国家を覆す利器(りき)たり、人民を絶つ鋒剣(ほうけん)たり。また佞(かたま)しく媚ぶる者は、上に対しては則ち好んで下の過を説き、下に逢いては則ち上の失(あやまち)を誹謗(そし)る。それかくの如きの人は、みな君に忠なく、民に仁なし。これ大乱の本(もと)なり。

現代語訳 六にいう。悪をこらしめて善をすすめるのは、古くからのよいしきたりである。そこで人の善行はかくすことなく、悪行をみたらかならずただしなさい。へつらいあざむく者は、国家をくつがえす効果ある武器であり、人民をほろぼすするどい剣である。またこびへつらう者は、上にはこのんで下の者の過失をいいつけ、下にむかうと上の者の過失を誹謗(ひぼう)するものだ。これらの人たちは君主に忠義心がなく、人民に対する仁徳ももっていない。これは国家の大きな乱れのもととなる。

第七条 原文 七曰。人各有任掌。宜不濫。其賢哲任官。頌音則起。 者有官。禍乱則繁。世少生知。尅念作聖。事無大少。得人必治。時無急緩。遇賢自寛。因此国家永久。社稷勿危。故古聖王。為官以求人。為人不求官。

読み下し 七に曰わく、人各任有り。掌ること宜しく濫(みだ)れざるべし。それ賢哲官に任ずるときは、頌音(ほむるこえ)すなわち起こり、 者(かんじゃ)官を有(たも)つときは、禍乱(からん)すなわち繁(しげ)し。世に生れながら知るもの少なし。剋(よ)く念(おも)いて聖(ひじり)と作(な)る。事(こと)大少となく、人を得て必ず治まり、時(とき)に急緩となく、賢に遇(あ)いておのずから寛(ゆたか)なり。これに因って、国家永久にして、社稷(しゃしょく)危うきことなし。故に古の聖王は、官のために人を求め、人のために官を求めず。

現代語訳 七にいう。人にはそれぞれの任務がある。それにあたっては職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人物が任にあるときはほめる声がおこる。よこしまな者がその任につけば、災いや戦乱が充満する。世の中には、生まれながらにすべてを知りつくしている人はまれで、よくよく心がけて聖人になっていくものだ。事柄の大小にかかわらず、適任の人を得られればかならずおさまる。時代の動きの緩急に関係なく、賢者が出れば豊かにのびやかな世の中になる。これによって国家は長く命脈をたもち、あやうくならない。だから、いにしえの聖王は官職に適した人をもとめるが、人のために官職をもうけたりはしなかった。

第八条 原文 八曰。群卿百寮。早朝晏退。公事靡 。終日難盡。是以遅朝。不逮于急。早退必事不盡。

読み下し 八に曰わく、群卿百寮、早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け。公事 (もろ)きことなし、終日にも尽しがたし。ここをもって、遅く朝れば急なるに逮(およ)ばず。早く退けば事(こと)尽さず。

現代語訳 八にいう。官吏たちは、早くから出仕し、夕方おそくなってから退出しなさい。公務はうかうかできないものだ。一日じゅうかけてもすべて終えてしまうことがむずかしい。したがって、おそく出仕したのでは緊急の用に間にあわないし、はやく退出したのではかならず仕事をしのこしてしまう。

第九条 原文 九曰。信是義本。毎事有信。其善悪成敗。要在于信。群臣共信。何事不成。群臣无信。万事悉敗。

読み下し 九に曰わく、信はこれ義の本(もと)なり。事毎(ことごと)に信あれ。それ善悪成敗はかならず信にあり。群臣ともに信あるときは、何事か成らざらん、群臣信なきときは、万事ことごとく敗れん。

現代語訳 九にいう。真心は人の道の根本である。何事にも真心がなければいけない。事の善し悪しや成否は、すべて真心のあるなしにかかっている。官吏たちに真心があるならば、何事も達成できるだろう。群臣に真心がないなら、どんなこともみな失敗するだろう。

第十条 原文 十曰。絶忿棄瞋。不怒人違。人皆有心。心各有執。彼是則我非。我是則彼非。我必非聖。彼必非愚。共是凡夫耳。是非之理能可定。相共賢愚。如鐶无端。是以彼人雖瞋。還恐我失。我獨雖得。従衆同擧。

読み下し 十に曰わく、忿(こころのいかり)を絶ち瞋(おもてのいかり)を棄て、人の違うを怒らざれ。人みな心あり、心おのおの執るところあり。彼是(ぜ)とすれば則ちわれは非とす。われ是とすれば則ち彼は非とす。われ必ず聖なるにあらず。彼必ず愚なるにあらず。共にこれ凡夫のみ。是非の理(ことわり)なんぞよく定むべき。相共に賢愚なること鐶(みみがね)の端(はし)なきがごとし。ここをもって、かの人瞋(いか)ると雖も、かえってわが失(あやまち)を恐れよ。われ独り得たりと雖も、衆に従いて同じく挙(おこな)え。

現代語訳 十にいう。心の中の憤りをなくし、憤りを表情にださぬようにし、ほかの人が自分とことなったことをしても怒ってはならない。人それぞれに考えがあり、それぞれに自分がこれだと思うことがある。相手がこれこそといっても自分はよくないと思うし、自分がこれこそと思っても相手はよくないとする。自分はかならず聖人で、相手がかならず愚かだというわけではない。皆ともに凡人なのだ。そもそもこれがよいとかよくないとか、だれがさだめうるのだろう。おたがいだれも賢くもあり愚かでもある。それは耳輪には端がないようなものだ。こういうわけで、相手がいきどおっていたら、むしろ自分に間違いがあるのではないかとおそれなさい。自分ではこれだと思っても、みんなの意見にしたがって行動しなさい。

第十一条 原文 十一曰。明察功過。罰賞必當。日者賞不在功。罰不在罪。執事群卿。宜明賞罰。

読み下し 十一に曰わく、功過(こうか)を明らかに察して、賞罰必ず当てよ。このごろ、賞は功においてせず、罰は罪においてせず、事を執る群卿、よろしく賞罰を明らかにすべし。

現代語訳 十一にいう。官吏たちの功績・過失をよくみて、それにみあう賞罰をかならずおこないなさい。近頃の褒賞はかならずしも功績によらず、懲罰は罪によらない。指導的な立場で政務にあたっている官吏たちは、賞罰を適正かつ明確におこなうべきである。
第十二条 原文 十二曰。国司国造。勿斂百姓。国非二君。民無兩主。率土兆民。以王為主。所任官司。皆是王臣。何敢與公。賦斂百姓。

読み下し 十二に曰わく、国司(こくし)国造(こくぞう)、百姓(ひゃくせい)に斂(おさ)めとることなかれ。国に二君なく、民(たみ)に両主なし。率土(そつど)の兆民(ちょうみん)は、王をもって主(あるじ)となす。任ずる所の官司(かんじ)はみなこれ王の臣なり。何ぞ公(おおやけ)とともに百姓に賦斂(ふれん)せんや。

現代語訳 十二にいう。国司・国造は勝手に人民から税をとってはならない。国に2人の君主はなく、人民にとって2人の主人などいない。国内のすべての人民にとって、王(天皇)だけが主人である。役所の官吏は任命されて政務にあたっているのであって、みな王の臣下である。どうして公的な徴税といっしょに、人民から私的な徴税をしてよいものか。

第十三条 原文 十三曰。諸任官者。同知職掌。或病或使。有闕於事。然得知之日。和如曾識。其非以與聞。勿防公務。

読み下し 十三に曰わく、もろもろの官に任ずる者同じく職掌を知れ。あるいは病し、あるいは使して、事を闕(か)くことあらん。しかれども、知ること得るの日には、和すること曽(かつ)てより識れるが如くせよ。それあずかり聞くことなしというをもって、公務を防ぐることなかれ。

現代語訳 十三にいう。いろいろな官職に任じられた者たちは、前任者と同じように職掌を熟知するようにしなさい。病気や出張などで職務にいない場合もあろう。しかし政務をとれるときにはなじんで、前々より熟知していたかのようにしなさい。前のことなどは自分は知らないといって、公務を停滞させてはならない。

第十四条 原文 十四曰。群臣百寮無有嫉妬。我既嫉人人亦嫉我。嫉妬之患不知其極。所以智勝於己則不悦。才優於己則嫉妬。是以五百之後。乃今遇賢。千載以難待一聖。其不得賢聖。何以治国。

読み下し 十四に曰わく、群臣百寮、嫉妬あることなかれ。われすでに人を嫉めば、人またわれを嫉む。嫉妬の患(わずらい)その極(きわまり)を知らず。ゆえに、智おのれに勝るときは則ち悦ばず、才おのれに優るときは則ち嫉妬(ねた)む。ここをもって、五百(いおとせ)にしていまし賢に遇うとも、千載にしてもってひとりの聖(ひじり)を待つこと難し。それ賢聖を得ざれば、何をもってか国を治めん。

現代語訳 十四にいう。官吏たちは、嫉妬の気持ちをもってはならない。自分がまず相手を嫉妬すれば、相手もまた自分を嫉妬する。嫉妬の憂いははてしない。それゆえに、自分より英知がすぐれている人がいるとよろこばず、才能がまさっていると思えば嫉妬する。それでは500年たっても賢者にあうことはできず、1000年の間に1人の聖人の出現を期待することすら困難である。聖人・賢者といわれるすぐれた人材がなくては国をおさめることはできない。

第十五条 原文 十五曰。背私向公。是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同。非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云。上下和諧。其亦是情歟。

読み下し 十五に曰わく、私に背きて公に向うは、これ臣の道なり。およそ人、私あれば必ず恨(うらみ)あり、憾(うらみ)あれば必ず同(ととのお)らず。同らざれば則ち私をもって公を妨ぐ。憾(うらみ)起こるときは則ち制に違い法を害う。故に、初めの章に云(い)わく、上下和諧(わかい)せよ。それまたこの情(こころ)なるか。

現代語訳 十五にいう。私心をすてて公務にむかうのは、臣たるものの道である。およそ人に私心があるとき、恨みの心がおきる。恨みがあれば、かならず不和が生じる。不和になれば私心で公務をとることとなり、結果としては公務の妨げをなす。恨みの心がおこってくれば、制度や法律をやぶる人も出てくる。第一条で「上の者も下の者も協調・親睦の気持ちをもって論議しなさい」といっているのは、こういう心情からである。

第十六条 原文 十六曰。使民以時。古之良典。故冬月有間。以可使民。従春至秋。農桑之節。不可使民。其不農何食。不桑何服。

読み下し 十六に曰わく、民を使うに時をもってするは、古の良き典なり。故に、冬の月には間(いとま)あり、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑(のうそう)の節(とき)なり。民を使うべからず。それ農(たつく)らざれば何をか食(くら)わん。桑とらざれば何をか服(き)ん。

現代語訳 十六にいう。人民を使役するにはその時期をよく考えてする、とは昔の人のよい教えである。だから冬(旧暦の10月〜12月)に暇があるときに、人民を動員すればよい。春から秋までは、農耕・養蚕などに力をつくすべきときである。人民を使役してはいけない。人民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕がなされなければ、何を着たらよいというのか。

第十七条 原文 十七曰。夫事不可独断。必與衆宜論。少事是輕。不可必衆。唯逮論大事。若疑有失。故與衆相辨。辞則得理。

読み下し 十七に曰わく、それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆とともによろしく論(あげつら)うべし。少事はこれ軽し。必ずしも衆とすべからず。ただ大事を論うに逮(およ)びては、もしは失あらんことを疑う。故に、衆とともに相弁(あいわきま)うるときは、辞(ことば)すなわち理(ことわり)を得ん。

現代語訳 十七にいう。ものごとはひとりで判断してはいけない。かならずみんなで論議して判断しなさい。ささいなことは、かならずしもみんなで論議しなくてもよい。ただ重大な事柄を論議するときは、判断をあやまることもあるかもしれない。そのときみんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。
昭和天皇年頭詔書ー「人間宣言」−

1946(昭和21)年1月1日

茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初國是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、

1.廣ク會議ヲ興シ萬機公論ニ決スヘシ

1.上下心ヲ一ニシテ盛ニ經綸ヲ行フヘシ

1.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス

1.舊來ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ

1.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ國運ヲ開カント欲ス。須ラク此ノ御趣旨ニ則リ、舊來ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民擧ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豐カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ圖リ、新日本ヲ建設スベシ。

大小都市ノ蒙リタル戰禍、罹災者ノ難苦、産業ノ停頓、食糧ノ不足、失業者増加ノ趨勢等ハ眞ニ心ヲ痛マシムルモノナリ。然リト雖モ、我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ。

夫レ家ヲ愛スル心ト國ヲ愛スル心トハ我國ニ於テ特ニ熱烈ナルヲ見ル。今ヤ實ニ此ノ心ヲ擴充シ、人類愛ガ完成ニ向ヒ、献身的努力ヲ致スベキノ秋ナリ。

惟フニ長キニ亘レル戰爭ノ敗北ニ終リタル結果、我國民ハ動モスレバ焦躁ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ヲ長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、爲ニ思想混亂ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。

然レドモ朕ハ爾等國民ト共ニ在リ、當ニ利害ヲ同ジクシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等國民トノ間ノ組帶ハ、終止相互ノ信頼ト敬愛ニ依リテ結バレ、單ナル神話ト傳説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(アキツミカミ)トシ旦日本國民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル觀念ニ基クモノニ非ズ。

朕ノ政府ハ國民ノ試煉ト苦難トヲ緩和センガ爲、アラユル施策ト經營トニ萬全ノ方途ヲ講ズベシ。同時ニ朕ハ我國民ガ時難ニ蹶起シ、當面ノ困苦克服ノ爲ニ、又産業及文運振興ノ爲ニ勇徃センコトヲ希念ス。我國民ガ其ノ公民生活ニ於テ團結シ、相倚リ相扶ケ、寛容相許スノ気風ヲ作興スルニ於テハ能ク我至高ノ傳統ニ恥ヂザル眞價ヲ發揮スルニ至ラン。斯ノ如キハ實ニ我國民ガ人類ノ福祉ト向上トノ爲、絶大ナル貢獻ヲ爲ス所以ナルヲ疑ハザルナリ。

一年ノ計ハ年頭ニ在リ。朕ハ朕ノ信頼スル國民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ自ラ奮ヒ自ラ勵マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ。

御名御璽

  昭和二十一年一月一日




ーーー世界に一つだけの花ーーー作詞・作曲 槇原 敬之

花屋の店先に並んだ
 いろんな花を見ていた
 人それぞれ 好みはあるけれど
 どれもみんな きれいだね
 この中で誰が一番だなんて
 争うこともしないで
 バケツの中 誇らしげに
 しゃんと胸を張っている

 それなのに 僕ら人間は
 どうしてこうも比べたがる?
 一人一人違うのに その中で
 一番になりたがる?

 そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
 一人一人違う種を持つ
 その花を咲かせることだけに
 一生懸命になればいい

困ったように 笑いながら
 ずっと迷ってる人がいる
 頑張って咲いた花はどれも
 きれいだから仕方ないね
 やっと店から出てきた
 その人が抱えていた
 色とりどりの花束と
 嬉しそうな横顔

 名前も知らなかったけれど
 あの日僕に笑顔をくれた
 誰も気付かないような場所で
 咲いてた花のように

 そうさ 僕らも 世界に一つだけの花
  一人一人違う種を持つ
 その花を咲かせることだけに
 一生懸命になればいい

 小さい花や 大きな花 一つとして
    (小さい花 大きな花)
 同じものはないから
 No.1にならなくても いい
 もともと特別な Only one

 ララーラ ラーララ ラーララ ラーララ・・・・・

我々の子供の頃から歌われていた歌。歌声運動では一番よく知られた歌です。

「1955年、電気産業労働組合が新組合歌として公募したこの歌は、その枠を破って愛唱され、雑誌「平凡」「明星」にも掲載された。フランキー堺&左幸子主演映画「しあわせは俺いらのねがい」にもなった。」

次のサイトより、次のサイトでは楽譜つきでメロディも聞けます。
http://bunbun.boo.jp/okera/saso/siawase_uta.htm
しあわせの歌 【Eb】

作詞  石原 健治
作曲  木下 航二


しあわせはおいらの願い 仕事はとっても苦しいが
流れる汗に未来を込めて 明るい社会を作ること
  ■みんなと歌おう しあわせの歌を
  ■ひびくこだまを 追って行こう

2 しあわせはわたしの願い あまい思いや夢でなく
 今の今をより美しく つらぬき通して生きること
  ■みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・

3 しあわせはみんなの願い 朝やけの山河を守り
 働くものの平和の心を 世界の人にしめすこと
  ■みんなと歌おう しあわせの歌を ・・・・・・・・・・




エリート意識丸出しですが、心意気は買いますね、これも声に出してみたい大切な倫理的文章に入るかな?

嗚呼玉杯に花うけて (一高寮歌)(明治35年)
作詞者 矢野勘治  作曲者 楠正一

嗚呼玉杯に花うけて  緑酒に月の影宿し
治安の夢に耽りたる  栄華の巷低く見て
向ケ岡にそそりたつ  五寮の健児意気高し

芙蓉の雪の精をとり 芳野の花の華を奪い
清き心の益良雄が 剣と筆とをとり持ちて
一たび起たば何事か 人生の偉業成さざらん

濁れる海に漂える 我国民を救わんと
逆巻く浪をかきわけて 自治の大船勇ましく
尚武の風を帆にはらみ 船出せしより十二年

花咲き花はうつろいて 露おき露のひるがごと
星霜移り人は去り 梶とる舟師(かこ)は変るとも
我のる船は常(とこし)えに 理想の自治に進むなり

行途を拒むものあらば 斬りて捨つるに何かある
破邪の剣を抜き持ちて 舳に立ちて我よべば
魑魅魍魎も影ひそめ 金波銀波の海静か
道程 高村光太郎作

どこかに通じてゐる大道を僕は歩いてゐるのぢやない
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
道は僕のふみしだいて来た足あとだ
だから
道の最端にいつでも僕は立つてゐる
何といふ曲りくねり
迷ひまよつた道だらう
自堕落に消え滅びかけたあの道
絶望に閉ぢ込められかけたあの道
幼い苦悩にもみつぶれたあの道
ふり返つてみると
自分の道は戦慄に値ひする
四離滅裂な
又むざんな此の光景を見て
誰がこれを
生命(いのち)の道と信ずるだらう
それだのに
やつぱり此が生命(いのち)に導く道だつた
そして僕は此処まで来てしまつた
此のさんたんたる自分の道を見て
僕は自然の広大ないつくしみに涙を流すのだ
あのやくざに見えた道の中から
生命(いのち)の意味をはつきり見せてくれたのは自然だ
これこそ厳格な父の愛だ
子供になり切つたありがたさを僕はしみじみと思つた
たうとう自分をつかまへたのだ
恰度そのとき事態は一変した
俄かに眼前にあるものは光を放出し
空も地面も沸く様に動き出した
そのまに
自然は微笑をのこして僕の手から
永遠の地平線へ姿をかくした
そしてその気魄が宇宙に充ちみちた
驚いてゐる僕の魂は
いきなり「歩け」といふ声につらぬかれた
僕は武者ぶるひをした
僕は子供の使命を全身に感じた
子供の使命!
僕の肩は重くなつた
そして僕はもうたよる手が無くなつた
無意識にたよつていた手が無くなつた
ただ此の宇宙に充ちみちてゐる父を信じて
自分の全身をなげうつのだ
僕ははじめ一歩も歩けない事を経験した
かなり長い間
冷たい油の汗を流しながら
一つところにたちつくして居た
僕は心を集めて父の胸にふれた
すると
僕の足はひとりでに動き出した
不思議に僕は或る自憑の境を得た
僕はどう行かうとも思はない
どの道をとらうとも思はない
僕の前には広漠とした岩畳な一面の風景がひろがつてゐる
その間に花が咲き水が流れてゐる
石があり絶壁がある
それがみないきいきとしてゐる
僕はただあの不思議な自憑の督促のままに歩いてゆく
しかし四方は気味の悪い程静かだ
恐ろしい世界の果へ行つてしまふのかと思ふ時もある
寂しさはつんぼのように苦しいものだ
僕はその時又父にいのる
父はその風景の間に僅かながら勇ましく同じ方へ歩いてゆく人間を僕に見せてくれる
同属を喜ぶ人間の性に僕はふるへ立つ
声をあげて祝福を伝へる
そしてあの永遠の地平線を前にして胸のすく程深い呼吸をするのだ
僕の眼が開けるに従つて
四方の風景は其の部分を明らかに僕に示す
生育のいい草の陰に小さい人間のうぢやうぢや這ひまはつて居るのもみえる
彼等も僕も
大きな人類といふものの一部分だ
しかし人類は無駄なものを棄て腐らしても惜しまない
人間は鮭の卵だ
千万人の中で百人も残れば
人類は永久に絶えやしない
棄て腐らすのを見越して
自然は人類の為め人間を沢山つくるのだ
腐るものは腐れ
自然に背いたものはみな腐る
僕は今のところ彼等にかまつてゐられない
もつと此の風景に養はれ育まれて
自分を自分らしく伸ばさねばならぬ
子供は父のいつくしみに報いたい気を燃やしてゐるのだ
ああ
人類の道程は遠い
そして其の大道はない
自然の子供等が全身の力で拓いて行かねばならないのだ
歩け、歩け
どんなものが出て来ても乗り越して歩け
この光り輝く風景の中に踏み込んでゆけ
僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、父よ
僕を一人立ちにさせた父よ
僕から目を離さないで守ることをせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
祇園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅荘樹の花の色
壮者必衰の理をあらわす
奢れる者も久しからず
ただ春の夜の夢の如し
『四十二章経』「第一章」(中国最古の仏教経典)

仏陀宣たまひけるは、汝弟子等よ、温かき親の膝下を辞して家を出て、諦(たし)かなる己が本体に達して、その有為転変の世の相(すがた)を離れたる無為真実の法を悟り了るものを沙門とは名くるなり。しかもこの沙門たるものは常に二百五十の戒法(おきて)を行ひ、其が動止進退も清浄にして四真の道行とて四段の階級を経て阿羅漢となる。

即ち阿羅漢は四段の最上級にあるものにして諸煩悩の賊を殺す大力量を具え、そして能く飛行変化自在にして寿命もまた長遠なり。若し帷幕の裡に住するも天地を動かすの活作略をなす。留まらず、滞らず大自由の心を得たるなり。

次なるを阿那含といふ。阿那含は寿命尽きてその霊神(みたま)は十九天に上りて阿羅漢を證(さと)る。

次なるを斯陀含といふ。こは一度天に上り、一度下界に還りて阿羅漢を證る。次なるを須陀洹(しゅだをん)といふ。こは七度生まれ、七度死して後阿羅漢を證る。

そしてこの法を悟る道は先ず煩悶懊悩の本を絶つにあり。煩悶懊悩の本を絶つは、愛欲を絶つにあり、愛欲を絶つことは恰も汝等其の手足を絶ちて復再び用ひざるが如きをいふなり。

第二十七章 異性
仏、諸(モロモロ)の沙門(シャモン)に告げたまわく、
『慎んで女人を視ること無かれ。若(モ)し見(オモイ)無くして視るも、慎んで與(トモ)に言うこと無かれ。若し與に言わば、心を勅(イマシ)め正しく行じて曰(イ)わく、
「吾は沙門為(ナ)り。濁世(ショクセ)に處(オ)るも、當(マサ)に蓮花の、泥に汚されざるが如くなるべし」と。

 老いたる者は母と以為(オモ)い、長じたる者は姉と以為い、少(オサナ)き者は妹と以為い、幼き者は子として、之を敬うに禮を以てせよ。

 意(イ)殊(コト)に當に諦(アキラカ)に惟觀(ユイカン)すべし。
 頭自(ヨ)り足に至るまで自ら内に視よ。
「彼(カノ)身(シン)は何の有(ウ)ぞや、唯(タダ)悪露(アクロ)と諸の不浄種を盛るのみ」と。
 以て其(ソノ)意を釋(サト)れ。』」





ジョン・レノンの『イマジン』を次のサイトからコピーしました。
http://day.aimnet.ne.jp/kanrinin/kanrinin5.htm

--------Imagine---------
Imagine there's no Heaven
It's easy if you try
No Hell below us
Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...

Imagine there's no countries
It isn't hard to do
Nothing to kill or die for
And no religion too
Imagine all the people
Living life in peace

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will be as one

Imagine no possessions
I wonder if you can
No need for greed or hunger
A brotherhood of man
Imagine all the people
Sharing all the world

You may say I'm a dreamer
But I'm not the only one
I hope someday you'll join us
And the world will live as one

想像してごらん 天国なんて無いんだと
ほら、簡単でしょう?
地面の下に地獄なんて無いし
僕たちの上には ただ空があるだけ
さあ想像してごらん みんなが
ただ今を生きているって...

想像してごらん 国なんて無いんだと
そんなに難しくないでしょう?
殺す理由も死ぬ理由も無く
そして宗教も無い
さあ想像してごらん みんなが
ただ平和に生きているって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
きっと世界は1つになるんだ

想像してごらん 何も所有しないって
あなたなら出来ると思うよ
欲張ったり飢えることも無い
人はみんな兄弟なんだって
想像してごらん みんなが
世界を分かち合うんだって...

僕のことを夢想家だと言うかもしれないね
でも僕一人じゃないはず
いつかあなたもみんな仲間になって
そして世界はきっと1つになるんだ


http://www.e-freetext.net/mdstj.htmlより

アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案

 この大きい街を歩いたり、田舎を旅行したりすると、目の前にはゆううつな光景が展開される。通りを歩けば、街路や人家の入り口に女乞食が群がっている。その女乞食の後に、三人、四人、六人と子供がついてきている。みな襤褸《ぼろ》をまとい、道行く人に施しを乞うているのだ。

 彼女たちはまっとうな暮らしができるような仕事に就けず、日がな一日うろつきまわり、無力な子供たちのために食を乞わねばならない。子供が成長したとしても、仕事がないので泥棒になるか、懐かしい故郷を棄てて、スペインから王位を窺《うかが》う者のために戦うか、バルバドス島[#注一]に身を売ったりしなければならない。

 当事者であれば、以下のことに同意してもらえるだろう。我が王国において、厖大な量の子供が、乞食である母親(父親のときもある)の腕に抱かれたり、背中に背負われたり、後ろを歩いていたりしている。子供たちは悲惨な状態にあって、非常に多くの問題をもたらしている。それゆえ、子供たちを社会にとって健全かつ有用な社会的財産にするための、公正で、安価で、簡単に実行できる方策を発見できる者がいるならば、その者は社会にとって望ましい人であるから、国家の保護者として銅像を設置するに値しよう。

 だが私の目的は、ただ公然たる乞食の子供を救うにとどまらない。より広義の目的は、ある特定の世代における子供全体の数を減らし、その子供を産んだ親を実質的に援助し、それによって通りで慈悲を乞う人々を助けようとすることにあるのだ。

 私は数年間、この重要な問題について思いをめぐらし、他の方々の計画を慎重に見ていった。その結果、この方たちは大きな計算違いをしておられると考えざるをえなかった。確かに、生まれたばかりの赤ん坊は、丸一年間は母親の乳で育てられ、他の食べ物はわずかですむ。二シリングもあれば十分だろう。母親もそれくらいの金や残飯は、乞食商売で正当に稼げるだろう。私の提案は、子供が丸一歳になった時に救いの手を伸ばそうというものである。この提案を実行すれば、子供が両親や教区に負担をかけたり、死ぬまで衣食に苦労させるかわりに、何千もの人々に食料と(幾分かは)衣料を提供することになるのだ。

 私の提案にはもう一つ大きな利点がある。それは、堕胎を防止し、母親が私生児を殺すという恐ろしい事態を防ぐことができるのだ。ああ! そんなことが我が国で横行し、無垢な赤ん坊を死に追いやっているのだ。おそらく恥辱を隠すためというよりは出費を避けるためであろうが、これにはいかに極悪非道な者の胸にも同情の涙を催さずにはいられないであろう。

 我が王国における人口は普通百五十万とみなされている。この中に子供を産む夫婦はおよそ二十万組いるものと推定される。このうち三万組は、自分の子供を育てられる者として勘定に入れない。王国の現在の窮状では三万は多すぎるかもしれないが、そういうことにしておくと、十七万組が残る。流産とか、子供が一年以内に死亡する可能性を考え、さらに五万組を減ずる。従って、貧困層において毎年十二万人の子供が生まれることになる。

 そこで問題は、いかにしてこれらの子供を育てるか、あるいは援助するか、となる。この問題は、私がすでに言及したように、王国の現在の状況では、今まで提案されたどの方法によっても全く不可能である。

 手工業においても農業においても私たちは彼らを雇用できないからだ。家を建てたり(この国でという意味だ)土地を耕すこともできない。子供が六歳になるまでは、泥棒によって生計を立てることは、よほどこの商売に好都合な場所でなければまず難しかろう。ただし、子供たちはその初歩を、もっと早い時から学んでいることは確かだろうが、その間は「見習生」と見なすのが正しいだろう。キャヴァン郡にすむとある紳士に聞いた話によると、我が王国においてそういう技術を最も早く習得することで有名な地方でも、六歳以下というのは一、二例程度しか知らないということだった。

 商人によれば、十二歳に満たない少年少女は売り物にならず、十二歳を迎えても代価は三ポンドを下回るのが普通であり、最高値でも三ポンドと半クラウン程度になるにすぎないとのことだった。その値段では、両親や我が王国に利益をもたらさない。十二歳に育てるための衣食の負担はその四倍にのぼるのだ。
承前

 それゆえ私は、謹んで以下に私案を提出する。おそらく諸君にはなんら異議はないものと存ずる。

 私はかつて、ロンドンで知り合った非常に物知りなアメリカ人から話を聞いたことがある。彼曰く、よく世話された健康な赤ん坊は、丸一歳を迎えると、とてもおいしく、滋養のある食物になるそうだ。シチューにしても、焼いてもあぶっても茹でてもいいとのことだった。たぶんフリカシーやラグー[#注二]にしてもいけるだろうと思う。

 それゆえ、私は諸君に以下のことを考えていただこうと思っている。すでに計算した子供十二万人のうち、二万人を繁殖用に残しておく。男はその四分の一でよい。それでも、羊や牛や豚よりも割がいい。その理由は、こういった子供たちは結婚の結果生まれたものであることはまれだし、未開人の間では結婚なんてあまり尊重されないみたいであるから、それを考慮すれば、男一人で十分女四人に子供を生ませられるであろう、というものである。

 残りの十万人は、満一歳になったら、国中の貴族や富豪に売りつける。母親に言い含めて、最後の一月にはたっぷりお乳を吸わせ、まるまると太らせて、どんな立派な献立にも出せるようにしておくことが肝要である。友人へのもてなしには子供一人で二皿分作ることができる。もし家族だけで食べるなら、四分の一もあればリーズナブルな料理となろう。塩か胡椒で少し味付けして、殺してから四日目に茹でればいい料理になるだろう。冬には特に十分煮込む必要がある。

 様々な要因を含め、十二ポンドきっかりの体重で産まれた子供は、十分な世話をすれば、二十八ポンドに増えていると計算できる。この食料がいささか高価なものとなることは認めよう。従って、地主に最適な食材となるだろう。彼らはすでに両親からおおいに搾り取っているのだから、子供に対する権利も一番持っていると言えよう。

 赤ん坊の肉は一年を通じて食べることができるが、三月に最も多く出回り、その前後には少なくなると思われる。なぜなら、著名なフランス人医師によって言及されていることだが、魚を食べるとたいへん体に精がつくので、旧教国においては、四旬節[#注三]の九か月後ごろに子供が多くなる傾向にある。それゆえ、そのころ市場にいつもより多く供給されることになるだろう。旧教徒の子供は、我が王国で産まれる子供の三分の一を占める。従って、私案には王国内の旧教徒の数を減らせるという副次的な効果が存在する。

 貧困層の子供を世話する費用はすでに計算してある(貧困層には農場労働者、工場労働者、農夫の五分の四が含まれる)。その費用は襤褸《ぼろ》も含めて年に二シリングである。一方、紳士階級は、よく太った赤ん坊なら生死を問わず十シリングを喜んで払うだろう。すでに言及したように、赤ん坊一人分で、特に親しい友人たちとか家族で食卓を囲むといった状況なら、滋養のある料理を四皿分作れるのだ。従って、大地主たちはよき主人になって、召使いたちの評判を良くしようとするに違いない。そして、母親は八シリングの利益を得る。これは子供をもう一人作るまでの仕事としては上等なものだ。

 より賢い利用法として(時代がそれを要求しているから書くことにしよう)、死体の皮を剥いでも良かろう。その皮膚を精巧に仕上げれば、すばらしい婦人用手袋や、紳士用夏物ブーツとして利用できるだろう。

 ダブリンシティーにおいては、屠殺場がこの目的に使えるだろうし、もっと便利な場所として、保証付きの肉屋がすべての仕事をこなすだろう。だが私は生きた赤ん坊を買ってくるのをお勧めする。赤ん坊をナイフで切らずに豚の丸焼きみたいに焼くのだ。

 有徳の士にして、その住む国を真に愛する人や、私の尊敬する人たちは、最近我が私案を気に入って、この問題を論じる際に私案に対する改良案を出された。それによると、王国に住む紳士の多くは、最近鹿が滅亡したものだから、鹿肉不足を十二歳から十四歳までの少年少女の肉でもって代用してもいいだろうと考えているそうだ。

 この国のあらゆる地方で、非常に多くの少年少女たちが、仕事や世話の不足により飢えている状態にある。その子供たちを、両親か、でなければ最も近い親族の手で売り出せばいい、と彼らは言っていた。
承前

 だが、優れた友人や功を挙げた愛国者に十分な敬意は払うのであるが、ご意見には賛成できかねる、と言わねばならぬ。男の子について、かのアメリカ人の知人は自分の経験からこう言っていた。学校に行くような年齢では、絶え間なき運動によって、一般に肉は硬く痩せた状態になってしまうし、まずくなってしまう。そういう子供を太らせるのは割に合わないのだそうだ。

 女の子については、学校に行く年まで育てることは、私案のもとでは社会の損失になるだろう。なにしろ、女の子たちはそこまで育てばすぐ出産できるのだ。おまけに、口やかましい連中から、そんな習慣は残忍だという非難(不当な非難なのだが)を、ともすれば受ける恐れもなくはない。実は私自身、いろんな計画を拝見して、目的はたいへんけっこうなのだが、残忍であるという点で強く反対せざるを得ない場合がしょっちゅうだったのだ。

 だが、友人を弁護するために以下のことをつけ加えておこう。彼はこうも言っていた。この方便は、有名なサルマナザアというタイワン人によって彼の頭に入れられた考えなのだ。その人は二十年以上も前にタイワンからロンドンにやってきて、そこで友人に話したのだそうだ。かの国においては、若者たちを死罪に処したときに、死刑執行人は死体を極上の食材として富豪に売り渡すのだそうだ。その例として彼が挙げたのは、十五歳の太った少女の話であった。彼女は皇帝を毒殺しようとしたかどで磔《はりつけ》にされ、その肉は帝国の首相や高級官吏たちに売られてしまったのだそうだ。その代金は四百クラウンだと言っていた。

 悲観的な気分になる人たちは、年寄りや病気持ちや不虞《ふぐ》となった貧民があまりに多いことに大きな懸念を持つ。そのような厄介者を国から除去するための方法を考えてくれと依頼されたこともある。だが、私はこの問題をちっとも心配していない。なぜなら、諸君も良く知っているように、貧民たちは、絶えず風邪や飢えや腐敗や害虫などでもって、考え得るかぎりの速度で死んでいくからだ。

 若い労働者についても、現在はまあ有利な条件下にある。彼らは仕事を得ることができないのであるから、食べ物をいつも切実に求めている。ある程度までは公共の仕事に偶然雇われるということがありうるが、彼らはそれを実行できるだけの力を持っていない。それゆえ、国も彼ら自身も、来るべき災難から幸運にも救われるのだ。

 脱線がすぎた。本題に戻ろう。私案の長所を見ると、明らかに最も重要視されるべき点が数多く存在している。

第一に、すでに見てきたように、旧教徒の数を減らす効果がある。彼らは毎年多くの子供を産む。この国における出産の多くは彼らによるものである。旧教徒は最も危険な敵とみなすことができる。なにしろ、彼らは王国を王位主張者に明け渡さんとする意図を持っており、善良なプロテスタントを一人でも多くいなくすることで、自分たちの優位を確保しようとしているのだ。新教徒は、家にいて国教会の牧師補に良心に背いて十分の一税を払うよりは、新教を奉じる国へ出ていく方を選ぶのだ。

第二に、貧しい間借り人に、貴重な財産を持たせることになる。法律上差し押さえの対象にもなるし、主人に小麦や牛に対する賃貸料を払う助けにもなり、なにがしかのお金も残すことができるようになるのだ。

第三に、国にとっても、十万人分の子供に対する二歳以降での養育費、これは一年につき一人あたり最低十シリングを要するが、これが年にざっと五万ポンド節約できる。これに加えて、新しい料理が考案され、王国の高尚な趣味を持った貴族たちの食卓にのることによる利益が加わる。この利益は国内で流通し、商品は完全に国内産業が成長するために使われるのだ。

第四に、母親たちも、子供を売ることで年八シリングの利益を確保できる上に、二年目以降子供を育てる手間から解放される。

第五に、この料理は、居酒屋にお客をたくさん呼び寄せ、抜け目のない酒場の亭主はこの料理に関する秘伝の料理法を入手し、その結果、店に気前がいい紳士が訪れるようになる。紳士方は、上流階級の作法でもってこの料理を評価していく。客を満足させる方法を理解した優秀なコックは、お客の好きなだけ贅沢な料理を作ろうとするだろう。

第六に、私案は結婚を奨励する効果を持つ。賢明な国家ならば、報酬によって結婚を勧める一方で、法律と罰則でもって強制するものだ。私案は母親が子供のことを心配して優しくする効果をもたらす。そして、貧しいがゆえに子供を手放す決心をしたときには、社会によって出費の代わりとなる利益を年ごとに提供されるのだ。

承前

 私たちは、人妻たちの間に正当な競争が起こるのに気がつくだろう。そう、どの女が最も太った子供を市場に提供できるか競い合うことになるのだ。男たちも、妊娠期間中は女に優しくなるだろう。子供を宿した馬や牛、まさに分娩しようとしている豚に対するがごとくに女を扱うようになるのだ。叩いたり蹴ったりなど(いつもやっていることだ)は流産を恐れて避けるようにするだろう。

 他にも多くの利点が挙げられるだろう。たとえば、樽詰めの牛肉を輸出する際に何千もの死体を混ぜることができる。豚肉増産の助けにもなり、いいベーコンを作る技術も進歩していく。ちなみに、ベーコンは、あまり豚を食卓に使い、むやみに殺すため、最近欠乏状態にある。だが、味や成長率の面で、太った子供の方が豚よりもはるかに良い。丸焼きは市長殿の祝宴においてすばらしい姿を提供するものだし、公共の娯楽としても役に立つ。これ以上は、話を簡潔にするために、とりあえず省略しておく。

 この都市で千組の家族が、赤ん坊の肉を買い続けてくれると仮定しよう。それに、陽気なパーティー、特に結婚式や洗礼式なんかでも食卓に出されるだろうから、私の推定では、ダブリンにおいて毎年二万人分が利用されるだろう。そうすると、地方で売られる分(たぶん少し安く売りさばかれる)は八万人分ということになる。

 私には、私案に対して異議申し立てがなされるなどと考えることはできない。だが、私案によって王国内の人口がうんと減るだろうという点は認めよう。また実際、それがこの提案を世に示す主な目的でもあるのだ。

 読者には、ぜひ以下のことを認めていただきたい。私案はひとえにアイルランドという特定の王国のための物であり、この地球上に過去、現在、未来いずれかの時点で存在し得るいずれの国のためでもないのだ。

 だから、私に他の手段を話さないでいただきたい。不在地主に一ポンドにつき五シリング課税するとか、自国産でない布地や家具を使わないとか、外国の嗜好品を使うような材料や道具を一切禁止するとか、王国の女性の過度な傲慢、うぬぼれ、怠け癖、娯楽好きを治療するとか、極端な倹約と節制の精神を導入するとか、国を愛することを学ばせるとか(この点では、我々はラップランド[#注四]人やトピナムプー[#注五]の住民とは違うのである)、党派ごとに憎しみあうことをやめて、約束の地に着くやいなやお互いを殺し合ったユダヤ人のようなふるまいをしないようにするとか、わけもなく国家や自分の良心を売り渡さないように少し用心しておくとか、主人に対して使用人に少しでも慈悲を垂れるよう諭すなどということを私に言わないでいただきたい。

 最後に、誠実、勤勉、熟練の精神を小売店経営者に植え付けるなんて事も言わないでほしい。もし革命が起こって、小売業者が国内産の物だけ扱うように命令されたとしたら、彼らはたちまちぐるになって、値段や数量や品質なんかで我々をごまかそうとするのだ。それに、小売業者たちは、たびたび熱心な勧誘を受けながら、正しい商売道を進んで提唱する気を起こしたためしはないのだ。

 繰り返し言うが、私に今あげたような提案や方策を聞かせないでほしい。そんな習慣を実行しようとする誠実、真摯な試みが生じる希望の少なくとも片鱗でも認められるまでは絶対言わないでほしい。

 私自身について言えば、長年にわたって無益で無駄で非現実的な考えを提案するのに疲れ切ってしまった。その成功を願うのは全くもってあきらめている。幸いにも上に述べた私案を思いついたのであるが、これはまったくの新着想であるから、これこそ真に価値ある試みとも思えるところがあるのだ。費用はいらず、トラブルも少なく、完全に自分自身の力で私案は実行できる。しかも、イングランドに負担をかけるような危険もないのだ[#注六]。赤ん坊の肉は輸出に不向きだからである。あまり柔らかく、形が崩れやすくて、長期の貯蔵に耐えないのだ。もっとも、塩漬けなんかにしなくても、我が国民をそっくりみんな食い尽くそうとしている国があることは、私にははっきり分かっているのだ。
承前

 結局、私だって何もあくまで自説を押し通して、賢明な方々のご提案になる同じように無害で、費用もいらず、簡単に実行できる有効な手段を排斥しようなどとは決して思っていない。ただし、私案に反対して、それよりもっと優れた計画を出そうという著者あるいは著者たちには、ぜひ以下の二点を考慮していただきたいと思っている。

 第一は、現に存在している、ただの無駄飯食いの十万人がいかにして食物と衣類を手にいれるのかという点。第二は、王国中に人間の形をしたおよそ百万人の動物がいるという点。全員の生存は公共の資産に依存しており、そのために二百万ポンドの負債が生じている。乞食を生業としている人に加えて、事実上乞食同然の妻子を抱えた、農夫の大部分と農場や工場で働く人のことを考えるとそうなるのだ。

 私案を嫌い、大胆にも解答を試みんとするであろう政治家たちに、乞食たちの両親にこう聞いてもらいたい。あなた方は、私スウィフトが決めたやり方で、一歳の子供を食べ物として売ることを、大変幸せなことだと思わないか、と。

 子供を売れば、不幸な境遇に陥ることは永遠になくなるんだ、主人に虐待されたり、お金や仕事がなくて賃貸料が支払えなかったり、家族を維持できるだけの食べ物がなかったり、厳しい天気から身を守ってくれる家や衣服がなかったりすることで、苦痛を味わうことはもうないんだ。今言ったような、あるいはもっとみじめな暮らしを、子供たちが永遠に続けていかねばならないという先の見通しを避けるための、最もいい方法なんだが、どうするかね、と尋ねてほしいのだ。

 私は、我が良心に賭けて、私案に必要な仕事を遂行するにあたって、少しも個人的関心を持っていないことを誓う。ただ我が王国における公共的な利益を得るため、商業を振興し、赤ん坊のための準備をして、貧民を困窮から救い出し、金持ちに若干の楽しみを与えようとしているだけである。私には赤ん坊がおらず、従って一ペニーを得ることもない。末っ子は九歳だし、妻はもう子供を産める年ではない[#注七]。



[#注一]英領西インド諸島にある島。一六二五年以来、移民による開発が行われていた。

[#注二]ともに料理の名前。肉を細切りにし、フライやシチューにして、ソースをかけたもの。フリカシーの方は鶏、小鳥、兎などの肉を主として用いる。

[#注三]Ash-WednesdayからEaster-Eveまでの四十日間を、旧教徒は精進日として守り、キリストの荒野の苦行を記念する。この時期は獣肉を断つが、魚肉は食べてもかまわないそうだ。

[#注四]スカンジナビア半島の最北端部。風や嵐を起こす妖婆や魔法使いのすみかと昔は信じられていた。

[#注五]ブラジルの一地方で、未開にして蒙昧な民が住むところと考えられていた。

[#注六]産業経済面でのアイルランドとの競争はイングランドにとって不利であるという考えが、当時の英国政治家の対アイルランド政策の根底にあった。

[#注七]この最後の一文はうそである。スウィフトは生涯正式な妻をめとっていない。子供も作っていない。
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【このファイルに関して】
この作品の原文は、PROJECT GUTENBERG OFFICIAL HOME SITEにおいてあったファイルからとりました。翻訳に使った原文はSOGO_e-text_libraryにおいてあるものを使いました(とってきた後の改訂は反映していません)。
一部《》によってルビをふってあります。また、[]によって、注があることを示してあります。



【訳者あとがき】

 この文章を翻訳するにあたり、吉峯さんには岩波書店が発行している既訳のコピーを送っていただきました。そのおかげで、私に読みとれなかった部分がよく分かり、公開したα版で誤訳をしていたことも分かりました。私の呼びかけに答えていただき、誠にありがとうございました。

 そもそも私は、この文章の存在を『あなたの知らないガリバー旅行記』(阿刀田高著、新潮文庫)で知りました。ここには『貧民救済私案』(正式題が長いので、こう略させていただきます)の内容が要約で述べられていました。そのブラックさにあきれつつ、引用されていた本文(『あなたの知らないガリバー旅行記』には、岩波文庫からの引用が書いてあったのです)のまじめさに惹かれてしまい、何とかして読んでみようと思うようになりました。ですが、目につくかぎりの本屋を捜しても、『ガリバー旅行記』はあるのですが、『奴婢訓』(『貧民救済私案』はこの中に収録されているのです)が見つかりません。業を煮やして、インターネットに落ちていた原文から翻訳することを思い立ったのです。

 取りかかってみると、古語で書かれているし、一文は長いし、前後関係が全然つかめません。最初のうちは『あなたの知らないガリバー旅行記』を参照していましたが、そのうち歯が立たなくなってきました。そこで、他の人の力を借りたくて、α版として翻訳途中のものを公開した上で、杉田玄白の訳者がよく立ち寄られている山形浩生勝手に広報部の部室に、ヘルプを出したのです。

 それはさておき、やっと完成したものを読んでみると、スウィフトのまじめさがよく現れています。一番の印象は、「残酷な方策が経済学的に合理的になることもあるのだなあ」という点です。赤ん坊を食ってさえいれば、母親に利益が残り、新しい料理ができ、国家も費用を節約できるのです。なんと空恐ろしい。ここまでの貧乏にはなりたくないですね。

 貧乏というテーマは、日本においては過去の問題になってしまいました。しかし、いまだに貧乏にさらされている人々はまだまだ多いのです。その意味で、『貧乏物語』(河上肇著、岩波文庫)とならび、この文章は必読と言えると思います。そのような文書を、プロジェクト杉田玄白に登録できたことに、安堵を覚えます。

 プロジェクト杉田玄白の訳者の皆さま、特に山形浩生様、吉峯耕平様に、謹んでこの翻訳を捧げます。
2001.8.14
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原作:A Modest Proposal for preventing the children of poor people in Ireland, from being a burden on their parents or country, and for making them beneficial to the publick.(from Project Gutenberg)原文はこちら。
原作者:Jonathan Swift
SOGO_e-text_library責任編集。Copyright(C)2001 by SOGO_e-text_library
この版権表示を残すかぎりにおいて、商業利用を含む複製・再配布が自由に認められる。プロジェクト杉田玄白正式参加テキスト。
翻訳履歴:2001年8月7日,翻訳初アップ。
2001年8月14日、岩波書店発行の既訳を確認した上で、訳文差し替え。
2001年8月24日、青空文庫の富田倫生さんのご指摘により訂正。
2001年12月18日、HIroyuki Tさんのご指摘により訂正。あわせて訳文を全体的に訂正する。
2002年8月5日、小林繁雄さんのご指摘により訂正。
2002年10月6日、訳文手直し。
SOGO_e-text_library(http://www.e-freetext.net/)
代表:sogo(sogo@e-freetext.net)

イギリスの聖職者・詩人・作家ジョナサン・スウィフトが1729年に発表した、当時のアイルランドの窮状に関する諷刺文書である。しばしば A Modest Proposal (穏健なる提案)と略称される。(ウィキペディアより)−もちろんカニバリズムを奨励しているわけではない。
アイルランドの窮乏の深刻さを告発し、救済をうったえているのである。後に1845年から数年間ジャガイモ飢饉が発生し、百万人以上餓死したときでさえ、カニバリズムは行われなかったという。(やすいゆたか)
>>[4]

>心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。


「心の貧しい者」というのはここではどういう意味でしょうか。心が満たされていない者、悲しみの内にある者という意味でしょうか。そういう今、悲しんでいる人たちも天の御国はまさにそのような人たちにこそ与えられて、必ず救われるよ、幸せになるよ、という意味でしょうか。
https://youtu.be/C7dLuw2ncxY

毎年
敗戦記念日には、あちこちのSNSで拡散させて頂いております。
今年は、田代ともや  で貼ります。
田代ともや 2016年 8月2日 大腸癌のため死去
享年不明

一応 声に出して歌いたい、反戦歌

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