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民族音楽学と音楽理論コミュの伝統と新しいもの。

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伝統的な音楽と新しい音楽はどのような関係にあるのでしょうか?
日本ではここ10年くらいで各地に太鼓のコミュニティが
たくさんできました。なかにはもともと太鼓の伝統がない土地から
日本的なセンスをもった太鼓を新たに始めるところがでてきています。これは純粋な伝統ではないのですが、異文化からみれば
まぎれもなく日本文化です。ガムランやベトナムの器楽、
中東音楽は西洋クラシックの影響を受け、変化しつづけています。
西アフリカ音楽における強い語りの文化は長い時間を経て
アメリカでラップというジャンルを形成します。クラシック音楽
の大家バッハは実は当時、「失われつつある古い音楽を
めずらしく守っている人」という存在でした。バッハはその
当時から既に古くて、「新しい!」古典派の音楽に取って
代わられる存在だったのです。どうやらわたしたちの
単純な思い込みとは異なって、古い音楽と新しい音楽は
複雑な関係をもっているようなのです。

コメント(26)

こんにちは。さっそくコメントありがとうございます。
このテーマを挙げたのは、民族音楽学で
新旧の概念というのはかなり重要なテーマだからです。
なにが伝統なのか、近代の音楽は何を捨てて何を得たのか?
アフリカ音楽は60年代以降の電気化のなかでポリリズムが
明確に後退しました。これはあたらしい表現や近代的
コンサート形式を得るのと引き換えになったものかもしれません。
このようにそれぞれの方の専門と興味にそって、
「新旧」について話してもらいたいと思います。特定の
トピックでは好きな民族音楽の紹介や過度に専門性の高い
話になってしまうので、より抽象的なテーマ設定に
したつもりでした。ということで「伝統と新しいもの」
というトピックは私の悩みというより、さまざまな
民族音楽文化を考える上でのたたき台、もしくは
切り取り方の提示とご理解ください。
新旧の問題で、このあいだ私の先生から聞いた話を
思い出しました。ヨーロッパ人がどういう順番で非西洋圏に
進出したかというはなしで、最初に軍隊が行き、次に
キリスト教の聖職者が行き、最後に商人がやってくる、
というはなしがされることがあります。これは当然すべての
事例にあてはまるわけではないのですが、これを前提に音楽を
考えると、西洋から被植民地に最初に軍楽隊(ブラス)
が持ち込まれ、つぎに教会音楽、最後に酒場のダンス音楽が
もちこまれる、というのです。おおざっぱなはなしですが、
なかなか示唆に富んでいると思いました。
雪之介さん、こんにちは。
そうですね。口頭でなにかが伝わっていく時のことを
思い出すと音楽の変化と似てますね。
昔話がディテールと時代性を変化させながら一定の構造を
維持したりするのと共通しているものもあると思います。

新しいものもやがては古くなる、西洋文化が強力なのは
新しさそのものが伝統化している点にあります。
音楽の場合「新しいことの連続を尊ぶ伝統」から一定の距離
をおいたひとりが團伊玖磨でした。
友人と話していて、2年前のクラブミュージックは
「これはちょっと古いけどね」といいモンテヴェルディ
みたいな古楽は「かっこいい、新鮮だ」って言うんです。
わたしはボストンの疲れた中古CD屋さんで羽田健太郎の
ミクロコスモスを見つけたことがあります。あの感じも
オーパーツの目撃にちかいですね。(笑

意図するものとはまったく違うイメージとして
サウンドが伝わることは容易に想像できます。
日本に入ってきたエレキギターの音はアメリカから
もちこまれた若者文化の象徴でしたが、今、ある家族が
歪んだギターを聞いたらおじいさんには西洋の喧噪に聞こえ、
お父さんには反体制の叫びに聞こえ、長男には昔ハマった
ダサイ音楽に聞こえ、テクノしかきいたことのない末っ子には
クールなサウンドに聞こえるのかもしれません。

自分のつくった音楽も100年の間に飽きられ無視され再発見され、
行ったこともない異国の大音楽家に大きなインスピレーションを
与えたら楽しいですね。ワーゲンを運転していた人は
70年後に自分の車の映像が国営放送で放送されオーパーツ
扱いされることを想像できなかったでしょう。(笑
随分止まっているトピですが、興味を覚えて書き込みます。
伝統的な音楽が新しく現代化していく、という文脈では、やっぱりそれまでのコンテキストからどう切り離されていくか? 現代的な文脈(コンサート、ラジオ、テレビなど)へと切り換えられ、そのなかでどう変化していくのか、ということがあるように思えます。

また、都市居住の若者などが、田舎でまだ演奏されているような伝統音楽をポップス調に変えることによって都市で伝統音楽を再生させる、ということもみられますが、その時、僕が疑問に思うのは、ポップスに伝統音楽的要素を取り入れたのか、伝統音楽をポップス的に再構築したのか、どう判断すべきなんだろうってことです。
僕がずっと通っていたペルーのアンデス地域では、ワイノという音楽のバリエーションは非常に広く、いろいろ人に聴かせると、結局どれがワイノかわからなくなる、というほど豊かです。でも、彼らはどれがワイノでどれがちがうか、はっきりと聞き分けます。現代的なポップス化したワイノも彼らにとってはワイノであり、ワイノを知らない人からすると、ただのラテンポップスにも感じられてしまう。このあたりの微妙なラインが私の非常に気になるところです。
ちょっとまとまっていませんが、とりあえず、思いついたことをつらつらと。
こんにちは、よきしさん。
>そのなかでどう変化していくのか、
それは民族音楽学者の山口修さんがいう「脈絡変換」というものですね。現に今ここで、変化している音楽文化を記述するという意識からいって、現代的マスカルチャーのなかでどのような社会的存在になっていくのかというのは一番の問題になると思います。「新しい/古い」でいえば、そこには欧米型ポップ音楽対伝統音楽という区分だけでなく「新しいマスカルチャーと古いマスカルチャー」などさまざまなベクトルが同居しています。リアルな話でいえば、音楽研究はその形態上、過去にさかのぼりにくいので新鮮なテーマをみつけないとどうしようもないという現実があります。ロサンゼルスのヒスパニック音楽研究などのUrban Ethnomusicologyや、トリニダードのヒンドゥー音楽研究などのディアスポラ系研究といった80年代以降の顕著です。

>どう判断すべきなんだろう
これは個々の事例で判断の基準が変わりますが、そのガイドラインもまたむずかしいです。音楽的な判断と、共同体の変化と、音楽文化のディテールは大抵の場合一致していませんし、それは立場や見方によって根本的に変化します。若者のバンドで言えば、「ポップスに伝統音楽的要素を取り入れたのか、伝統音楽をポップス的に再構築したのか」というのは同じ意味である場合も多いです。どちらにせよバンドの楽器で伝統音楽のTimbreや拍子、モードを置き換える行為は、北米で20世紀中葉に定式化した電化スモールバンドアンサンブルで、自文化の音楽をやってみることにほかなりません。

黒人音楽を取り込んだ電化ヨーロッパ世俗音楽ということからすれば、南米の場合は北米と同じ文化的背景をもっていますから、日本の伝統音楽のバンド化よりもはるかに親和性がありますが、しかしそれでもなお文化的かつ音楽的に消化しているか、という判断は一番やっかいですね。ビジン英語になってないアメリカの傘の下の文化である、戦後日本の英単語がミックスされた歌詞への評価などもそうです。

>このあたりの微妙なラインが私の非常に気になるところです。
これも微妙です(笑。ワイノのことは全くしりませんが、音楽ジャンルがどう認知されるかは、究極的には厳密な認知科学的なブラインドテストが必要ですね。その共同体を均質なものとみなす傾向のあるインタビュー的民族誌では有効な回答が得られないかもしれません。

思い出したのは、誰の研究かわすれましたが、「ギリシャ人はギリシャ神話を信じていたか」というような視点です。古代ギリシャ人の、ギリシャ神話を信じるというのは、いったどういったレベルの意味において「信じる」だったのだろうかかという問いです。私の死んだ祖父は、歌わないし、一部の歌謡曲しか理解できない人でしたが、どういうレベルで理解できなかったといい得るのかというのは実はギリシャ人の問題とそう遠くないような気がします。

ちょっと書きなぐってしまいましたが、アプローチについて思いついたまま羅列してみました。なにか参考になれば幸いです。
いまや「歴史を語るには地図を、地理を語るには年表を」といったふうでしょうか。
>くりーむさん、はじめまして。
曖昧というか、多義的であるということなんでしょう。個人的には、このトピックは、その2つの概念の複雑な駆け引きを民族音楽をテーマにして考えてみようと意図していました。

>breakaleg!さん
いい言葉ですね。情報として扱うときはそれらが別々の方が便利だから別々だというだけで、それを理解する人間は総合的なものとして消化することに努めないといけないです。

>ぷちとさん、こんにちは。
前半の3つのパラグラフはおっしゃるとおりです。盲目的でもいけないし、また相対的な視点によるイデオロギーの暴露という段階で満足していてもよくありません。

>クラシック好きの友人の前で、

クラシックも実際は紆余曲折の歴史を持っていますし、日本でもこれからはクラシックを300年ほどのGerman art musicとして考えるだけではなく、複数としての、ばらばらで豊かな文化としてクラシック音楽を楽しめる傾向が強まっていくと思います。(もし日本社会が今世紀も20世紀後半並みに安定しつづけるのであれば)
あれはポール・ヴェーヌの研究でしたか。ご指摘ありがとうございます。

>コミのみなさんへ

伝統と新しいものの概念構造はある程度でてきているので、さらに「この音楽はこうではないか」というような具体的な音楽に関する経験や意見も、よろしくお願いします。わたしはアメリカ人に「なんで武満は12音階なんて戦前のウィーンのローカルな音楽使ったんだ?日本のペンタトニックのほうがかっこいいだろ。」といわれて困ったことがあります(笑 「戦争中、外国の新しい音楽に飢えていた状況を理解してください。」くらいしか言い返せませんでした。
おはようございます。
J.A.シーザーのコピバンをやっているんですが、言葉に合わせての混合拍子が多い。柘植げんいち(変換できなかった、、、)先生のイラン音楽の論文を思い出します。
言葉、詩、が音楽の枠組を決定するというものです。和太鼓の定番、『三宅』『屋台囃子』なんかも混合拍子になりますが、4小節単位というのに私たちは毒され過ぎているのかもしれません。
日本語の自然なリズムってなんなんでしょう?
日本で言えば雅楽などの宮廷音楽、声明や神楽など祭礼音楽、能楽や歌舞伎などの芸能音楽、地唄や箏曲など家庭音楽、こういったものが伝統音楽として一般に認識されているように思います。

最近の津軽三味線や大太鼓によるアクロバティックな演奏などは日本の伝統楽器を使った音楽としてはある意味で伝統音楽と言えますが、その音楽性は必ずしも伝統に由来しているものではないと思われ、先述の古典音楽と同列に語るのは難しいと思います。結局何年経ったら伝統かというのか難しいのです。個人的には少なくとも三世代くらいは続けて変わらない事を目標として欲しいです。

たしかに伝統とは形を変えない事が基本でありながらも、やっぱり時代性に沿って変化をしてきたわけです。歌舞伎も当時としては異端だったわけですが、受け継がれて伝統となったわけです。

基本的に現状保持が目標であること。または何世代にも渡って完成する、またそれを目指す事が伝統の伝統たる由縁だと思います。つまりその音楽、または芸能、文化などにおいても、由来のみで伝統かどうか判断すべきではなく、これから先目指す方向性により伝統と新しいものとははっきり分けられるべきだと思います。
落語やJAZZや旅芝居や吉本新喜劇や沖縄民謡や河内音頭
のようにマンネリのようでも
伝統を守りつつ変化して新作を出し続ける事

個人的に新作の出ない保守化した芸能は死んでいると思います
伝統の保持は演奏技術の保持と言う意味だけじゃないのではと思います
何であれ黄金時代は活発に新作が出た筈ですから
古くから伝わるものを学ぶ事によって偉大な時の流れとそこに生きた人々への尊敬の念が生じ、何か大きな存在を知る事になる。

伝統とは道のことではないでしょうか。

もちろん新しい物でも創りだす人によっては道になりえると思いますが・・・
>新作の出ない保守化した芸能は死んでいる
は言い過ぎではないかと感じます。確かに常に更新され続けていく中で吟味され洗練されていく事は重要だと思います。しかし作品として新しいかどうかは特に問題ではないと思います。新作が発表されない例といえば雅楽でしょうか。しかし保守的であったためにこれだけ長い期間形を変えずに続いたような気さえします。反対に江戸の浄瑠璃などは流派があまりに乱立しましたが、結局大きな流れとして残っているものは少ないです。伝統とは残ってなんぼでしょうから、新作がいくらでても半世紀後とかに流れとして残っていなければ伝統としては意味がないと思います。確かに古いものだけが残るのも、もはや意味はないのですが。

芸術とは何事も現実社会の投影、またはそのプロセスだと思います。ある事象を「写実」や「抽象化」などの様々な回路で消化し、再び投影したものだと思います。その投影のプロセス(精神面・物理面を含む)が伝統的な発想として個性を確立していればそれが伝統の芸能だと言えるのではないでしょうか?

ところで日本画を例に取りますと、元々の日本画のモチーフの消化の思考プロセス、および線で書くという基本的な手法、さらには定着材の材質まで、日本画の表現技法はかなり変容を遂げていると思います。日本画は伝統芸能としては受け止められていないとは思いますが、特にモチーフの捉え方の美的感覚がどんどんと新しい方向へばかり向かうのは寂しい事態だと思います。絵画は音楽と違いかなりの期間残りますから、古典技法ばかり追う必要もないのかもしれませんが、岩絵の具を使った絵画=日本画とまで完結してしまって果たしていいのか?と僕は感じています。

種々の伝統芸能が新しい流れを取り込むのは必然かと思いますが、伝統は何かを知る事こそが伝統を新しく刷新できる力になるのだと思います。
ええマアそうなんですが
消えていっていいんです
新作の99パーセントは
全盛期を別にすれば何のジャンルも
90パーセントの新作は屑でしょう
でもそういったのがまるででないのはあんまりです
日本画の伝統がいつ頃の流行をさすのか不勉強にして存じませんが
いつの時代も
保守的流派もいれば個人で出鱈目に近い事やる人もいるのでしょ
う当時の人もそんな事思っていた筈ですよあんなのが流行りやがってと
古い物は受け継いでほしいし失われた物も出来れば発掘してほしいですよ
ただ形骸化しているようなのが厭なんです
雅楽も初期は新作出まくってそれが淘汰され
今あるのは選りすぐりの楽曲なのでしょう
でも本当に付け加える事はないのか
もしかしたら新作は没になっているだけかもしれませんが


まとまりませんでした
はじめまして。面白いテーマだなあ、と思いました。
なんかうまく言葉に出来ませんが、楽器がこの世に残っていること自体がすでに大変に意義深いことであって、その楽器がすでになければ、ふるいも新しいも、何もなかった。誰かが、その楽器を、その音楽を、面白いと思った、やろうと思った、そのことが積み重なり、現在に至る。そして私たちは音楽を聴く。また面白いと思った人がその楽器を扱う。
新作をやろうが、古いものをやろうが、まず前提は、今に残っているその事実。そのことが大変に意義深いと思います。そのために、先人に対する敬意というものは、いくら払っても払いきれません。
何をしたいと思うかは、それは、もう各人の発想や思いでしょうから、新しかろうが古かろうが、保守だろうが革新だろうが、とにかく、ある音楽に触れ、触発されていることが積み重なっていることがあればそれでいいんじゃないかな、と思います。なんか、すごい個人的な思いみたいな意見ですいません。
はじめまして。
音あそび教室の風雅こまちです。
小学校で音楽を教えてきましたが、わらべ歌や民謡、神楽等暮らしとともに合った音楽に興味を持っています。
音楽は芸術になる前は政治の場での社交や健康増進など、実用的な側面もあったのだろうと思うのです。

難しくて長いレスが多いので、言葉より身体表現タイプの私に理解できるかどうか不安ですが、よろしくお願いします。

活動仲間にアフリカのルオー族のニャティティを演奏する女性がおります。ンゴマも日本の雅楽や神楽、能などは楽器演奏と唄と踊りが一体となった祭事という点で、共通性が高いと感じています。私は現在、仕舞を習っていて、明後日は発表会なのですが、生涯学習としておすすめの舞だなあと思っています。

歌いながら踊る(身体反応を伴う)ものを「音体操」とまとめて研究開発もしております。日本の各地の民舞や能は世界に誇れる財産なのではと感じる日々です。
初めまして。

小4〜現在21歳に至るまで地元、八王子の囃子連

に所属している物です。

八王子に現存する囃子は戦争の時に一度消滅し戦後

今の師匠達が数少なくなった囃子を知る師匠の所へ通い、覚え

地元に持ち帰り広めた物がほとんどと聞いております。

沢山興味深い意見が有りますが、

伝統芸能とは、僕個人とすれば、伝統させなければいけない地

元のための

芸能の一つであります。

次の世代に受け継ぎたいと強く思い

伝統させる事が

伝統芸能なのだと思います。

なのでどんな物でもそう思えれば行く行くは

伝統芸能なのでは無いでしょうか?

楽しむ事は基本ですが、それだけでは伝統になりません。


ちなみに自分のやっている囃子は基本となる「地(じ)」

を覚えたら後はその囃子に合わせてアドリブもありの「崩し」

に走ります。

曲によってはJAZZっぽく皆でセッションできる物も有ります。
はじめまして。

tomoumiさんの、
「おばあちゃんが、子に、孫に伝える、身近な素材を使った、 土地の生活と共にある、素朴な、みんなで分かち合う、毎日の料理」にあたるかもしれないと思うのですが、
私の住む町にも、祭囃子があり、毎年夏祭りに地元の神社に夏祭りを奉納します。

西町、新町、北町、仲町、駅前と、それぞれの場所に伝わる
微妙に異なる篠笛と太鼓(中太鼓、大太鼓、鉦)のお囃子があり、
地域の古老や中堅の人たちによって伝えられています。
子供達は子供会で習い、好きな子はそのまま青年部に参加して
中心になっていきます。

小さな町のそんなに有名ではないお祭りですが
辻のであったところの四箇所に、各町の山車をすえて
お囃子を叩き合ったりする光景は、きっと昔からあって
人々の夏の楽しみだったのだと思います。

お囃子には地と攻めの部分があって、
攻めは速く激しいです。
大ザブロウさんの地と崩しがあって、アドリブやセッションというのは
面白いなあと思いました。

tueさんの
>伝統を守りつつ変化して新作を出し続ける事
で、思い出したのですが(論点少しずれますが)
今年、初めて歌舞伎座で歌舞伎をみました。
古典の作品と新作歌舞伎との両構えでしたが
満席で、内容もよく、皆の心をひきつけ、
多くの人たちに見てもらえるように
芸術面でも興行面でもとても努力しているんだなあと
思いました。

伝統の音楽を新しくアレンジしたり、
また異文化の音楽とセッションしたり、という試みは
最近色々なところでよくあるように思います。

私事ですが、芝居の音楽に関わっています。
(民話や童話を元に音楽劇を作り学校や劇場で公演)
今やっている『じごくのそうべえ』は
上方落語を元に書かれた絵本(田島征彦作)です。

芝居の始まりの序の部分で、落語の「出囃子」にあたる
お囃子風の曲を、西洋楽器のチェロと和太鼓、鉦、
笛とを合わせて試してみました。(結構なじんだ
組み合わせでした。)

伝統的な音楽(能の謡いも地うたや祭囃子、農作業唄のような民謡も)の中には
度々触れる機会があるものもあり、
そういうものは体の血の中にリズムや間が流れている
入っている、と感じるときがあります。

長い歴史で伝わってきた日本のリズムや間は
技術のしっかりした守り手がいればこそですが、
廃れずに、代々からだからからだへと
伝わっていくような気がします。
伝統芸能も明らかに進化しているし、現代作品でも伝統芸能を活かしている舞台もありますね。
スーパー歌舞伎なんかは現代劇と言える路線だし、劇団わらび座のミュージカルは懐かしさを民舞や民謡などで演出しています。
昨日の「棟方志功」も圧巻でした。まさに「洗練と懐かしさのハーモニー」 です。
実存する個性的な登場人物とラッセラーラッセラーのねぶたのお囃子や踊りが効果的。
劇場空間をタイムスリップさせる洗練された音楽(昭和初期の流行歌のアレンジ)と郷土芸能が懐かしさパワーでDNAを刺激する。青森の出身者でなくとも故郷を思う棟方志功の気持ちが全国の人々に訴える。
鍛治師だった父親から受け継いだ炎の魂、じゃわめく心、情熱をイメージする赤いシルエットと彼を支える妻は観音様イコール津軽の雪を思わせた。視覚的なコントラストとユニークな演技や台詞、シンプルだが迫力がある。

伝統とは魂の息吹のリレーということなのだろう。

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