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民族音楽学と音楽理論コミュのオリエンタリストは誰だ?

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宜しくお願いします。
電脳と申します。
edward saidのオリエンタリズムを
読んだのですが、引っかかる点が有りました。
民族音楽学の記事では音楽家、例えば
maddame butterflyのpucciniや
ビートルズ(インド影響下)をオリエンタリストだと
書かれています。


ジョンケージは禅に影響を受けたようですが
その音楽は全く禅をパロデイする物でもなく
日本を<時代遅れ>扱いするわけでも、偏見を押し付けるわけでもありません。

彼はオリエンタリストでしょうか?
しかし本当の所、オリエンタルに影響を受けたというだけで
誰でもオリエンタリストとされてしまうのは違うと思います。

現在のオリエンタリズムは受け皿が広すぎるため、
誰でも当てはまり、
その結果逆に言葉の意味が弱まる気がします。
植民地主義や白人優越主義などが
含まれていてかつ
オリエンタルの影響を受けた音楽のみが
オリエンタリズム
と定義されるべきではないでしょうか?

コメント(40)

日本人だと坂本龍一あたりですかね。
服部良一が李香蘭に提供した楽曲とか。
>しかし本当の所、オリエンタルに影響を受けたというだけで
誰でもオリエンタリストとされてしまうのは違うと思います。


 問題は、この「オリエンタル」とは何か、でしょう。サイードが再三言うように、「オリエント」という地理区分は存在しないわけです。異文化を、同等のものと見ずに、自分(自文化)の幻想を投影して理想化したり、逆に自分(自文化)の欠価値観から相手を見下したりするときに、「オリエント」が現われるのです。 否定的な見方をしていなければオリエンタリズムを免れるわけではありません。オリエンタリズムの問題は、相手を持ち上げようと否定しようと、それが自分(自文化)の価値観のかなり一方的な投影であり、それが実際に歴史上の暴力を生む契機にもなりうることでしょう。

 ただし、そうは言っても、実際に外国に行って、日本に興味を持つ外国人というのは多かれ少なかれオリエンタリストで、それ以外の人は関心さえ抱かないというのが現実です。そして相手がこちらに興味を持ってくれるからこそ、我々も対話が行いやすいし幻影をある程度修正する機会が得られるのだから、異文化交流において最小限のオリエンタリズムは、必ずしも悪ではなく、不可避でさえあると思います。

 ただしそれが、政治的に露呈したりや思想内容として公にされた場合には、一応批判はされる必要はあるし、また創作の美学的評価でも他者性の取り扱いとして一定の美学的基準になりえるでしょう。

 ちなみに、「中国四千年の○○」という言い回しに魅惑を感じるときの我々の視線にも、ある種のオリエンタリズムはあるんでしょうね。
ケージやビートルズがなぜオリエンタリストかと言うと、オリエンタルな音楽的特徴を搾取し、それらを現地に直接的に還元するでもなくもともと居た自分の土俵に帰っただけだからだと思います。

そこにどんな意図があったかとか、我々がその作品を聞いて悪いと思わないとか、そういうことは問題ではないと思います。

また、サイードに共感したからといって、オリエンタリストを忌み嫌う必要もないと思います。

プッチーニも坂本龍一も喜多郎も、オリエンタリストだってのは僕にはすごく分かる気がします。

サイードも、ケージもビートルズも喜多郎も好きだけど。
西洋の、アジアに対しての大ざっぱなイメージを利用すること自体がオリエンタリズム的(オリエンタリズムではなく)であるとするのは、すこし単純化しているような気がします。そして音楽がテーマなので、ここは作者の意図の位相や、音楽の質、「自分が聞いてこう感じた」ということを大切にすることも有意義だと思いますが、いくつか周辺の話題を。

最近だと宇多田ヒカルの問題があります。アメリカ進出にあたって「男性を求めるアジア女性」というイメージを利用しました。これは非常に興味深いです。アメリカ文化からみると「自由な女性」と「男性の欲望に結局は乗せられている」という両方ですし、そもそもアジア女性はアメリカ社会のマイノリティーなので、在米アジア人にとっては心地よいイメージではないでしょう。「だれのためのイメージか?」という問題です。

>M. F.さん
ブーレーズの気持ちは比較的わかりやすいです。数学はフランスの大きな伝統ですから方法として安全ということですね。(笑
これに関しては実はライヒも考えが近いです。ブーレーズと同質の慎重さがありました。ケージはタイプとしてはデュシャンなのでイメージ上はフランスの好事家っぽいといえないこともないんですが(笑。プッチーニに関しては、カウンターワーグナーであり、当時としては、それほどたいした東洋趣味でもない気がしますよね。ずっと後のバルトークの「中国の不思議な役人」のほうがひどいです。

>さおさん
最近、2001年に日本で企画されたアジアの舞台文化交流の伎楽のビデオをみました。もうむりやりな文化交流で汎アジアと適当に想像した伎楽をやっていたんですが、しかし見終わった後、それを鑑賞する側が気になってしまう、舞台の質が実は問題だったのだと思いました。つまり伎楽のレストアがいんちきだとかいう点よりも、そのディスプレイ自体が稚拙なほうがより問題だということです。ですから、とりあえず厳密なオリエンタリズムを脇においておいたとして、オリエンタリズムを知っている人が「ああ、これオリエンタリズムだ。」と感じてしまうような音楽作品は、マイナスの評価を受けている可能性が強い、ということはいえると思います。現在のワールドミュージックではモンド的に「これはオリエンタリズムです。」というイメージの創出まできているわけですが、どうでしょうか。
>異文化を、同等のものと見ずに、自分(自文化)の幻想を投影して理想化したり、逆に自分(自文化)の欠価値観から相手を見下したりするときに、「オリエント」が現われるのです。 否定的な見方をしていなければオリエンタリズムを免れるわけではありません。

日本のR&Bやヒップホップによる米国黒人の輸入と翻訳も
強烈な憧憬が背後に有り、理想化していると見れるでしょうか?
米国黒人のファッション、言葉遣いや動きをまねている
これらのジャンルは米国の流行を追っているだけでしょうか?

米国は自分の価値観を世界に広めたがる傾向が
有りますが、(ex.イラクなどの民主主義化)
近年に見る米国文化のグローバリゼーションは
米国と均質化する国々のアーチストによる
オリエンタリズムだと言えるしょうか?
>さおさん
「トゥーランドット」は、中国・紫禁城の話です。
エジプトのピラミッドの前でアイーダを上演するのを真似たのかしら?
ちなみに「アイーダ」は、エジプト政府の依頼を受けてヴェルディが作ったそうですね。
はじめまして
おもしろい話題なので参加させてください

100年前、50年前はいざ知らず
現在社会においては大量の情報が瞬時に手に入る時代になりましたよね
ものすごいスピードで文化交流が起きている
アメリカもヨーロッパも南米も遠い国ではないです
そして
100年後はどうなっているのか
わからない
個人の様々な価値観から
良いものを良いと考え
クロスオーヴァーさせていく
そして良質なものだけが
歴史に残っていく
その影響を受けた者が
また新しいものを産む
賛否両論は世の常
芸術においては
個人の価値観しか存在しない
エンターテイメントはまた別ですが・・・。

スペインのイビザ島では25年も前から
自由な発想で
ワールドミュージックとクラブサウンドがクロスオーヴァーしている
北欧人とアフリカ人のユニットなど珍しくない
それに目をつけた
スティングが
イスラム人とデュエットしてエンターテイメント的に成功させていたり(クラブシーンから1年かけてヒットしたらしい)

アンダーグランドでいろんなものが生まれているのも事実
それを良いと思うか悪いと思うかも個人の自由
いろんな音楽が
現在進行形で発達中で
オリエンタリズムを定義づけるのは難しいのではないのでしょうか?

アンディ・ウォーホール
「わかろうと思う人にだけ僕は語る」

理論を超えた向こう側の自由な発想に
新しい地球文化として
100年後に存在しているかもしれない

すみません
皆様みたいに博識でないので
思うがまま書かせていただきました
M. F.さん
>文化的搾取という点からしてそれは遥かに徹底しないものであった、

それは今の日本に植民地時代の文化的なクロスオーバーがあまり反映されてないことからもわかりますね。イギリスとインドの関係などはもっとも成功した(もっとも失敗した)事例です。大書きの「インド音楽」もロックバンドのクイーンもその結果ですか。

電脳陛下さん
アメリカの流行を追っているだけという形容はある意味、しあわせですね。言葉の壁のおかげで音楽の表面的な模倣で済みますから。もしそうでなかったら「追っている」ではない、本当のマージナルになります。

さおさん
オリエンタリズム云々以前ということでいえば、小泉首相の発言もどんな和洋折衷かということですね。90年代以降のサブカル的な和洋折衷では、いたたまれないですけど、大正時代あたりのシルクスクリーン的なデザインならどうでしょう。フランスの技術でリファインされているということからいえばすでに折衷ですし、そもそも「花鳥風月」自体もオリエンタリズム的な産物です。

breakaleg!さん
国家プロジェクトとクラシック音楽といえば日本の奉祝2600年がすぐに思いつきますよね。

ビオさん、こんにちは。
確かに19世紀的な世界支配が終わっているのでオリエンタリズムと簡単に形容するのは、難しいです。ただ、おっしゃってるようなムーブメントも欧米のアドと、マネージメントで我々にとどいているわけです。つまりクラシック音楽のCAMIなどに象徴されるようなブッキングビジネスです。それを「ワールドミュージック」ということばでナイーヴにディスプレイすることに対して、「オリエンタリズム」という概念は時にはカウンターとして有効だと思いますし、サイードもそう考えていたのでしょう。
かならずしもサイードに依拠することが是とは思いませんが、
トポスにこだわりすぎるのは逆にあぶないですね。

「帝国に外部はない」ではないですが、ロゴスの内部(サイードはたしか”テクスチャルな”という言葉をよく使っていましたね)こそがオリエンタリズムの領土です。つまり、西洋音楽のカウンターとしての純○○音楽、と言った時、その国境線こそオリエンタリズムによって引かれている。

これはグローバリゼーション対ローカル、という対立構造にも関わってくる問題です。

そうした時、必ず世界そのものへの志向というのも出てくる。最近で言うなら、坂本龍一の『LIFE』(彼はYMOではオリエンタリズムをちゃかしたのだが)やF・グラスなんかの交響曲なんかはまさにそうですね。ヴェンダースが一時期、世界映画を欲望したのと同様で、アンチグローバルの目線からもグローバルと同根なものが出来てしまったりする。これも難しいところです。

わたし自身は80'sのワールドミュージックブームは(その中心のひとつだった3ムスタファズ3の”正体”が象徴するように)ハイプだったと思いますが、ビジネス的な意味でも混ざり合った結果、聴く側の「耳」も無罪ではなくなった訳で、オリエンタリズムの成否というのはわたしたちの耳に(も)ある、と。もとより予め平均律(=ロゴス!)に調教されてしまっているなか・・・

しかし、京都の着物デザインも大正〜昭和初期の折衷のなかで斬新で定番なものができていったことを考えると、小泉なんぞがなんと言おうが、結局は創る側と着る=聴く側のセンス、かな。
>坂本龍一やF・グラス

その組み合わせは全く気がつかなかったです。そういえばふたりは似ていますね。「構造的聴取を壊した薄い音楽ってクールだよ。」という本人のセリフに「あなたの音楽も薄いですね。」と素朴に答えると、なぜか本人がムッとしそうな感じとか(笑

閑話休題。

>もとより予め平均律(=ロゴス!)に調教されてしまっているなか・・・

黒人のブルーノートも西洋音階が押し付けられる過程で差別化され、意味が浮上したものなのでしかたがないかもしれませんね。日本での平均律(というより機能調性)の代替手段としてのブルーノート、と考えると、平均律よりもブルーノートのほうが今日的なアメリカングローバリゼーションの脅威かもしれません。(笑
「拡散するブルーノート」っていう風ですか。

>京都の着物デザインも大正〜昭和初期の折衷のなかで
そうですね。大正期の日本画なんて、それはそれはさまざまな
可能性が懐胎しています。結局死産しましたが。
もう少し質問していいですか?

スペインやフランスのジプシー達のストリートミュージックは
オリエンタルと言えないのでしょうか?

バイオリンの原型がシルクロードを渡ってきたのなら
クラシックと呼ばれる室内管弦楽のルーツはどこにたどり着くのですか?

西洋音階そのものが
グローバリゼーションではないのですか?

すみません
また違う角度から書いてしまいました
>ビオさん
ヨーロッパも複数あった、という視点から見ると東欧のテイストを使ったリストのように当時の枠組みとしてはオリエンタル的と無理やり言えないこともないです。しかし、ユダヤとジプシーは舶来の珍奇なものではなくて内なる差別文化です。19世紀の話ですが、パリ万博でガムランはディスプレイされてもジプシー音楽は紹介されません。彼らはヨーロッパの下層音楽の担い手でした。大航海時代以前に既にヨーロッパ文化の被差別層だったというあたりが分かれ目でしょうか。

月並みな起源論なのですが、クラシック音楽には2つの相があります。教会音楽と軍楽です。両方とも集団の統率が本質的な機能です。図式的にいうとその娯楽としての側面を発展させたのが近世の世俗権力(王様)であり、それを奪ったのが市民階級です。狭義のクラシック音楽というと演奏会形式の出現を待つわけで、かなり時代が下ります。

>西洋音階そのものが グローバリゼーションではないのですか?

そうです。日本の場合は明治期にドイツとフランスから音階が輸入されましたが、「今日的なアメリカングローバリゼーション」というと昭和時代以後のブルーノート(を足されたペンタトニック)の大衆的受容ということになります。
tomoumiさん

ご丁寧にありがとうございます

僕の疑問が
このトピックから
脱線してますので
違う場所で
ご教授願えないでしょうか?
よろしくお願いします
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=547147&comm_id=111139

汎用BBSでいいですよ。研究者ではないので、教科書的なことしかわかりませんが。
 もちろん話をサイードだけに限定する必要はないんですが、サイードをめぐって議論する場合は、最初に電脳陛下さんが、自分の理解の鍵となっている部分を引用なさった方がよかったかもしれませんね。

 前回言葉足らずでしたが、オリエンタリズムは、単に自分の価値観の投影であるだけでなく、自分の内なる他者(自分が自分の中で認めたくない姿)を、実際の他者に投影したところから生じる理想化や差異化に関わるものですね。つまり本来は画一的でない自文化を均質なものとして表象するために、自らの中の異質性を押し付ける対象をも同時に要請することになる、と。(ただしここでいう内なる他者というのは、あくまでディスクールに即して標定できる範囲のものでしょうけれども。)

 となると「国境線こそオリエンタリズムによって引かれている」とするnosさんの指摘ともつながりますね。

 このようなオリエンタリズムが成立するためには、実際の他者を知り過ぎないでいられる距離が必要になってくるだろうし、サイードがこういう言い方をしているかどうかわかりませんが、その投影を温存するだけの経済的あるいは軍事的格差も決して無関係ではないだろうと思います。

 そう考えると、なるほどオリエンタリズムはエキゾチズムでもあるけれども、すべてのエキゾチズムが即オリエンタリズムになるわけではないと思います。


 ちなみに、アメリカのブラックカルチャーへの日本の若者の視線は、私がオリエンタリズムとみなさない理由は、まず(1)素朴な投影を成立させるにはあまりに情報輸入の速度と量が豊富であること、(2)ブラックカルチャー自体にサブカルチャーやカウンターカルチャーの側面があること、(3)日本とアメリカに上記のような極端な経済的・軍事的格差がないこと、を挙げておきます。実を言うと、プッチーニはよいとしても、ビートルズまでオリエンタリズムとする分析には私も首を傾げます。さらにサイードとは関係ありませんが、ジョン・マクラフリンなんかを見ると、オリエンタリズムの一言では語りつくせないインド音楽への情熱を感じますしね。

 
 それからグローバリズムに関して言うと、これは、私の理解では、一義的には、市場空間が世界規模で浸透して生じる均質化のようなものを指していると考えるので、ヨーロッパの先進国や日本の政策やそこに拠点を置く多国籍企業らの活動も含まれるでしょう(ちなみに市場空間自体が本来的にグローバルな運動をするものなので、急激で暴力的な浸透でなければグローバリズム全体が悪だとは単純に見なせないと思います)。

 したがってグローバリズムは、共犯関係にあるかもしれませんが、アメリカ的価値観の押し付け(といってもそもそもそれは一時期のアメリカの政策上の方針なわけで)そのものとは同一視しえないと思います。

 あと、文化や芸術のグローバルな普及には、商品として加工しやすいといった市場的な理由があったり、また一定の合理性や普遍性があるため避けて通りにくいという事情があったりと、必ずしも西欧・米というローカリティを軸にしたものではないと思います。平均律は、古代トルコの9平均律や理論的に追求された53平均律などがありますが、12平均律は、これはこれで大した発明だとは思いますね。もっとも12平均律の考え方は、別に西欧オリジナルではなくて、紀元前の中国でも「12律」という言葉がすでにあるそうですが。
イメヌさん
詳しい説明ありがとうございました。

>そう考えると、なるほどオリエンタリズムはエキゾチズムでもあるけれども、すべてのエキゾチズムが即オリエンタリズムになるわけではないと思います。

ここは非常に納得できました。

>12平均律

簡単に自分は音階の輸入といってしまったのですが、音階そのものは世界の他の文化にとって大きなインパクトではなかったような気がします。それが3度と6度の音程が強調されるようになって機能和声(3和音の運用のルール化)の輪郭が現れたとき、非常にユニークな伝統となったのです。例えばジャズの場合はクラシック以上に平均律の構造が意識され、その上に旋法が乗っかっていますが、機能和声自体は薄いというフォームです。西洋音楽のもうひとつのユニークな点は時間の定量的な記述です。これは西洋音楽だけが開発に成功したデバイスです。
はじめまして。
インドにこの前行ってきて、ヨーガもしています。
インドでのキールタンがすごく好きで、
インド・音楽検索でたどり着きました。
私は全然知識はありませんが、
ここでたくさんのことを学ばせて頂けたらと思い、
参加しました♪
よろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくお願いします。

音楽のエキゾチシズム(シ!)に関してなんですが、ちょっと見落としていた点がありまして。それは、音楽のエキゾチシズムのなかには、野蛮な国の珍奇なもの、それから高貴なものという項のほかに、「古代を想起させる」という項があるということです。知ってのとおり西洋音楽の古代とはギリシャ/ローマの音楽ですが、これはオリエンタリズムからこぼれおちるのだけれども、重要かなと思い、意見をうかがいたいと思いました。DebussyのSyrinx for Flute SoloとRavelのDaphnis et Chloeなどが思いつくのですが、ここまでくるとワーグナーなども見えてくるのですがどうでしょうか。(ちょっと漠然としています。。)

なぜ気になったかというと、昨今の社会状況を見ると「日本伝統音楽を紡ぐ」ことが、これから以前よりも盛んになると思われるので、こうしたなかで、日本の古楽的エキゾチシズムがどう変化していくのか、という問題があります。そして江戸期以前の音楽だけでなく、チンドン屋や軍楽も90年代より文脈化していますが、これが結局「日本伝統音楽の補強」になるのでしょうか。気の長い話なのですが、あと30年ほどで戦争体験者がほとんどいない世界で私たちは音楽に触れることなるので、考えてしまいました。
M. F.さん

>憧憬よりも逸話性に倒れ込むのを避ける意味合いが強いのではないか

ここをもうちょっと具体的にいってもらえるとありがたいです。

オペラはだいたい聞くのですが、文学的な面からはほとんど知らず、ロマン派のストーリーテリングの問題といったものにはまったく無知なので、このコミにおられるであろう19世紀オペラに詳しい方に引き継いでいただきたいテーマです。後期ロマン派からベルクまでのきれいなラインを継ぎ足せずに申し訳ないです。『トロイ人』はなんとなくわかりますね。ベタなテーマだなって批評家からみられたんでしょうか。

>それ以前には参照は極めて漠然としたものであった、

これはわかります。ブツとして蓄積する造形作品と違って、音楽にはレコードの発明が必要です。French Schoolでオケ楽器の進化が止まったということも音楽において”「歴史的な」概念”が誕生する契機になっているのかもしれません。それにしても造形芸術全般と音楽における新古典とロマン派の関係はちょっと用語として難渋なところですね。

>尤もこんな感想自体既に十年単位で時代遅れかもしれませんが。

そうでもないですよ。例えばWeb上で経済活動を行うことが一般化したのは21世紀にはいってからです。サンプリング音楽論は乱掘されて一息ってところですが、音楽ビジネスとリファレンスの関係などは現在、並走状態だと思います。先月、日本版ナクソスのmusic libraryもはじまりましたが、Grove Music Onlineも月額300円くらいで提供しろよ、とか日々感じます。(笑

ちょっと大雑把な話がつづいているのですが、本トピの「オリエンタリストは誰だ?」からいくとイメヌさんの

>したがってグローバリズムは、共犯関係にあるかもしれませんが、アメリカ的価値観の押し付け(といってもそもそもそれは一時期のアメリカの政策上の方針なわけで)そのものとは同一視しえないと思います

までが筋が整っているでしょうか。どの論旨からでも大歓迎なので、是非、感想意見情報をお願いします。JBはアフリカへの文化侵略だろ!みたいのや、「誰々はオリエンタリズムなんですか?」というのも論争的で良いと思います。無論、楽理系の話題もどうぞ。
>ワーグナーとオリエンタリズム

オリエンタリズムは対象の概念的植民地化ということと、それによる自己文化の根源化というものがありますよね。

ハイデッガーが「炎」という語をめぐってギリシア語からドイツ語へと根源の移行を推し進めたのに似て、ワーグナーは北欧神話をドイツ化する。ご存じのようにゲルマン神話にもともと存在しない神を持ってきたりしてしまう訳です。神々の性格も微妙に変えられる(オーディン等)。ついにはキリスト教系の神話まで根源化に使用する(パルジファル)。ニーチェはこの辺にカンカンになってしまうんですね。ところがファシストは喜ぶ。

今日的なトピックだとジーバーベルクによる映画化やメータのイスラエルにおける上演騒動など、けっして”終わっている”話ではないと思います。
M. F.さん

ははあ、なんとかわかりました。つまり

思想のダイナミズムを観衆寄りに視覚化するための道具立てとしてのゲルマン神話であって、その後の熱狂とは違い、必ずしもワーグナーの動機は、単純なゲルマン国体のディスプレイだけではなかった。そのため物語の改変も行っている。

そして

その末路を強烈に自覚しながらも、後期ロマン派の語法を音列技法でブラッシュアップしなくてはならなかったベルクらのストーリーの扱いは、リアリズムの新鮮さを持ちながら、記号的(神話的)な構造もしっかりと構築されていて、成功している。

ということでしょうか?

>《指環》を産業/市民革命時代のアレゴリーと見る

これは明らかにベンヤミン的なアウトラインの発想法ですね。ベンヤミンが言及しているか知りませんが、その点、18世紀のウィリアム・モリスも面白いです。当時のイギリスにおいてマルクス主義によってリニアな歴史観をつくりながらも、それゆえにスタイルは新古典的です。ベンヤミン流にいうと、後ろ向きで前に向かって走ってるって感じですか。(笑 音楽とマルクス主義はどうなんでしょう。結構語られているコネクションなんでしょうか。

>今日では想像し難いことですが、'30年代の舞台では

それは是非見たかったですね。30年代のワーグナーは今のアメリカのエンタメパワーでも不可能なくらい、集団催眠的なスペクタクル(レベルも高い)だったんでしょう。


ともあれ

オリエンタリズム>エキゾチシズム>アメグロ>>神話>オペラ>ドイツロマン派>ベンヤミン>?

ここまでくると、アドルノまで一息です。(無理矢理)
nosさん

物語のミックスは、民族音楽でも存在します。大航海時代とはつまりキリスト教の拡散なんですが、この時代、地域地域のフォークロアにキリスト教を接続するという技術が非常に発達しました。ゴスペルをはじめとして新大陸の音楽の多くがそういった土壌で生まれています。日本ではオラショです。口伝で継承されるので意味内容が正確に継承されず、魔術的、土俗的と形容されるものも多いです。よくしらないのですが、イスラム世界にも亜種イスラム教がたくさんあって、それらの宗教音楽は正統とされるクルアーンの詠唱からすると非常に社会的地位が低いようです。

M. F.さん

バレンボイムのプロジェクトは実際に成功しているんですか。つまり政治的な音楽の読み替えや創出の現実的な事例としての総括がされているのでしょうか。もしうまくいっている部分があるのならば、その技術から我々も学ぶことができます。

溶解人間PEMOさん

「問題があるけど、良い音楽だ」というのは「コロニアルな権力関係」が気になって心情的にひっかかるアレンジが施されているのだけれど、音楽の質が高く、聴きごたえはある、という意味ですよね。そこに「コロニアルな権力関係をつきくづしていくような、あたらしい可能性」を再度聴き取るのですか?
tomoumiさん

ご返事ありがとうございます。
ただ、キリスト教音楽のミックスというよりも、
M. F.さんがワーグナーのオペラにおけるオリエンタリズム、
という方向に話をされたがっておられるのかな、と慮って
”根源化”ということを提示してみました。
ベンヤミン−アドルノへの接続はとても興味があります。

溶解人間PEMOさん

わたしもレゲエが好きなのですが、ラスタそれ自体とキリスト教/ユダヤ教との関連に無自覚なひとがあまりに多数でいつも困惑しています。むしろレゲエ/スカのファンのなかにオリエンタリズム的な眺望が無いことの方が問題なのかもしれません。外にも内にも、むずかしいところです。
ちなみに、dubというレゲエにおける音楽的発明をボーダレスに捉えるための実験としてfree dubというコミュをやっています。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=104357
溶解人間PEMOさん

私もレゲエは一番いいケースだとおもいます。ちょっとものの本を読み返したんですが、土着キリスト教音楽という側面が初期は強かったようですね。それで無理やり聖書なんですが、ワーグナーもレゲエを支えるカルト思想も、ある特定の共同体による聖書の読み替えの音楽史、という感じで捉えられるんじゃないかなというアイデアがあったので34のような問題提示になったのです。ブラジルでもバロック時代、宣教師が賛美歌に地元の打楽器をくわえて、聖書のテキストを現地人にあわせて音楽とともに読み替えていきました。そういえば日本のキリスト教徒の数はずっと伸び悩んでいるんですよね。ここ15年ほどのアメリカ黒人音楽の大量流入もキリスト教が日本で根づいていないので、つまり「聖書の読み替え」というプロセスを経験していないので、一見消費的側面だけが語られるのかな、という感じがあります。あくまで印象ですが。そこからいくと将来日本で、聖書を日本のナショナリズムと接続してくる音楽がでてくるのでしょうか。(笑

nosさん

アドルノの「不協和音」をよみかえしてみたのですが、基本的には大衆を扇動する音楽は全部×になってます。(笑 戦後の大量消費型音楽受容、つまり我々が大衆メディアを通して夢中になる音楽の存在がくりかえし批判されています。たとえばフォーク楽器はクラシック楽器よりも習得が簡単なので、若者の努力の目を摘む幼稚な楽器だ、とかそんな感じの本なんです。残念ながらこの本ではほぼ民族音楽はスルーです。そもそもナショナリズムのなかで民族音楽という概念は育ってきたので、アドルノにとってこれはしかたがないところですが、しかしその視点にかかりきりになるのでなければ、鋭いこともたくさん言っているので、大切な本ではあります。

それにしても大英帝国の負の遺産が20世紀音楽に与えた影響は大きいです。クラシックでは不毛の地なんですが、イギリスの人口を考えると、その音楽的影響は巨大ですね。
溶解人間PEMOさん

サイードの本を読むべし、ということではなくて、そういう視座がいるのではないかなあ、というところです。例えばシズラなんかはアルバム出たら買うくらい好きなのですが、ゲイバッシングの精神にはうんざりします。日本におけるダンスホール輸入もその辺りどの程度まで自覚しているのか。
その意味でもスペシャルズは素晴らしいですよね!ご存じの通り2toneの黒と白は黒人と白人がまじわっている。

tomoumiさん

アドルノはジャズ批判などちょっと可笑しいですよね。彼の作曲した音楽も聴いたことがありますが、根はロマンをやりたいのに晦渋な・・という印象でした。

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