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民族音楽学と音楽理論コミュの民族音楽の舞について、どう思いますか?

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私はダンスと音楽活動は別のものだと思っていたのです。
ところが、20年近く前になりますが雅楽の「歌舞(うたまい)」を見たり、更にオイリュトミーや能を鑑賞して、これらは流れという音楽表現の延長にある余韻を視覚化したものでは?と考えるようになりました。メロディーと言葉と舞は一体という感覚です。

音楽の神である弁天様が水の神様でもあるのは頷けます。空気や水という形を留めず常に動くパワー(神秘)は人間の心のうつろいにも通じそうです。

なかなか様々な民族音楽の舞いを見るチャンスが無いので、皆様の音楽舞の印象や音楽との関わりについてのご意見を
よろしくお願いします。

私が直接見たことがあるのはフラ、ガムラン、フラメンコ。アイヌの舞はショーになっていたように思います。
本場で見たというお話、大歓迎です。

コメント(53)

「舞」と「踊り」は、区別するんですね。
「舞」と言いますと、先日舞台公演のためにインドの古典舞踊クーリヤッタムの所作を習いました。
また、その公演は小さな国際フェスティバルでも上演されたので、そこではジャワの宮廷舞踊「ソロ」に触れることができました。
このどちらもまったく日常の延長ではない高度で洗練された様式を持っていました。
「型」の持つ包括性とでもいうのでしょうか、単なる運動では得ることのできない自在さを得られます。
その所作・仕草の語彙の豊富さには目を見張ります。
ンゴマは度々目にする単語ですね。是非とも実際体験してみたいです。

僕も話をつい原理的な方向性に求めてしまいがちですが、随分盛り上がりましたね。興味深いです!しかしながら能やクーリヤッタムの話が出てきましたが、(僕は残念ながらあまり詳しくはないのですが)その芸術性を語る上では演劇性を無視できませんね。単なる身体表現以上に、演劇には感情の表現などの演出力が必要不可欠ですし。確かに「踊る」事と「舞う」事は区別する必要があるのかもしれませんね。もちろんぴったり背中同士はくっついている関係のように思えますが。英語で言えば[dance]一言でしょうけど・・・日本語っていいですね。

あとついでに・・・「三位一体」ですよね?細かい奴ですいません。
マビ・マンジさん、向山さんをご存知ですか?初めてニャティティの演奏を許された女性アーティストです。
先日、六本木でンマゴの紹介コンサートがありました。

舞い(イメージ重視)踊り(運動重視)なのかな? 区別することが出来るのだろうか?そんな疑問もありますね。
明治の教育改革が日本の伝統を遮断してしまった反省から教科書にわらべ歌等が掲載されるようになったのですが、既に時遅しの感じがあります。すっかり手足を不在の音学になっている〜

こういう話題が日本の音楽観を拡げられたらステキでしょうね。
コイさんの文化と身体表現の違い、なるほど納得。
オリンピックは西洋の考え方なんですよね。

農耕の文化では調和重視だから、日本人は二つのモノサシを持っていることを自覚すべきなのでしょうね。
舞〜様式性が高い。真(楷書)。
踊り〜様式からの自由が大きい。行または草。
即興の有無と捉えてもよいかも。
シンヤさん、ご指摘ありがとう。ですよね。はは。
お恥ずかしいかぎり。いつもこんな事ばかりしている愚か者です。

舞 ー 楷書。踊り ー 行、草。わかりやすい!

様式化された伝統芸能の" 舞 "についてはいくつか上がっていますが、庶民の芸能、今も地方に息づく舞踊ってどうなんでしょう。
ダダスコダーダー。宮沢賢治の詩に出てくる東北の「原体剣舞連」って言葉はないんでしたっけ?勅使河原三郎というダンサーの公演で、児童が踊っているのを随分前にみました。
高田みどりさんの企画。豊潤の韓国かな?で、民謡と踊りを観た記憶が、、、。

どちらも、人がシンプルな状態でそこに在る。という美しさが際立っていました。
風雅こまちさん。
向山さんとはとても親しい仲です。
彼女のニャティティの2人の師匠とも仲がいいです。ルオー族の。
彼女が歴代ニャティティ弾きの系列に入れるかどうかの卒業試験的なNGOMAの場には行けませんでしたが、その数ヶ月まえに、彼女と、その師匠と深夜のニャティティのマシンダーノ(ニャティティ弾き同士の勝負)に行きました。彼女の師匠のオクム・オレンゴは7時間ぐらい演奏しっぱなしです!当代随一のニャティティ弾きで、連戦連勝です。詳しくはまた今度に。
 興味深かったのは、ルオーの世界は呪術が非常に盛んで、マシンダーノの”場”に入るまで、いくつかの警戒すべき手続きがありました。

風雅こまちさん、なんと!10/6のSuperDeluxeのNGOMA JAPANI vol.1に来てくださったのですね!あの嵐の中を!!!
ありがとうございました!
 僕はそのイベントの主宰団体であるンゴマ・ジャパニの代表をしております。
 そして、オープニングでギリヤマ族のゴンダという太鼓の楽曲を叩いておりました。15分間ぐらいですが。赤い帽子でグリーンの生地にオレンジの花柄のアフロをきておりました。司会もしておりました。あの中国拳法のかたは私と向山の師匠です。

風雅こまちさんの:舞い(イメージ重視)踊り(運動重視)
という考えにかなり共感いたします。

●『踊り』と『舞』についての一考察。
 今の私なりの考えですが、『踊り』と『舞』は未分化な所がかなりあると思いますが、
 ○『舞』はイメージなどを空間に身体を媒体として“描く”ような空間的アプローチの割合が大きいのかなと思います。
(空間を切る、”線”、“面”を描く、凝固する,融解する、体の分化、”変容”、”状態”、”質”の変化、”キャラクター”また、その変化、、、。)

 ○『踊り』は『舞』よりは下半身のステップなどをより多く使うものかなと思います。リズムを足で刻んでゆくというのでしょうか。時間的、律動的アプローチが強いのかなと思います。

イメージの空間展開と時間展開の割合でどちらかに傾いて行くのかなと思っております。
 数年前までは即興ダンスをしていました。そのとき、そんな考えになりました。
 演劇的な切り口は経験が無いので言えませんが、この側面でも考察すると面白いと思います。
ケンケンさん
なんか嬉しいです。私が最も好きな詩の1つ、宮沢賢治の「原体剣舞連」が出てくるとは! 私はこの詩を暗唱している日本でも数少ない人間だと思います。(笑)マニアック!
 しかも12年ほど前、実際の『原体剣舞』を見に行きました。偶然その日はあるお家の“祝い事”のため、原体剣舞がおこなわれました。
保存会の菊池さんという方が保存して行くために頑張ったおられました。
 “原体剣舞”は『踊り』だと思いました。
 “鹿踊り”も踊りだと思いました。

シンヤさん。 私も間違っておりました。「三位一体」ですね。
マビさん、世の中は狭いね〜
宮沢賢治の「原体剣舞連」はおもしろそうですね。私は秋田出身なのですが鹿踊りに似た祭りは秋田にもありますよ。

花巻の賢治館に一度だけ訪問しましたが、そのコーナーは記憶がありません。賢治の世界も難しい。私は実は学生時代は地学を学び、土への賢治のこだわりをもっと知ってもらいたいなあと感じています。
「賢治の学校」は日本で唯一のシュタイナー学校でもあるのですが、日本にシュタイナー研究者は多いけれど、実際の児童への授業実践に研究者の成果は注がれていないと思います。教育現場の先生のスキルだけでは、シュタイナーの思想やオイリュトミーも常時活動として取り組めない。

マニアックな研究と思われている状態から民衆の心が求める活動へ。ンゴマには期待しています。人類発祥の地の文化を知ることで、それぞれの国の文化を見直せるのでは。
音体操Web学会というページは、アフォーダンスやミラーニューロンなど脳科学の研究成果などについても語り合い「音と身体活動と言葉の一体化」を深めていきたいと思って制作しました。
(残念ながら書き込みは閑古鳥〜)

プライバシー保護もあり療法の実践発表の公開は難しいですね。
教育や福祉現場の実践事例を増やし、研究者の報告を重ねていくことで、新しい疑問が生まれ、追求が進むと感じています。
感想などございましたら、こちらもよろしくお願いします。
http://221.253.220.198/e-hiroba/index.html
(余談1)
宮沢賢治は没50年が過ぎ、著作権は切れています。
青空文庫より
_____________________


原体剣舞連
( mental sketch modified )




    dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 こんや異装〔いさう〕のげん月のした

 鶏〔とり〕の黒尾を頭巾〔づきん〕にかざり

 片刃〔かたは〕の太刀をひらめかす

 原体〔はらたい〕村の舞手〔おどりこ〕たちよ

 鴇〔とき〕いろのはるの樹液〔じゅえき〕を

 アルペン農の辛酸〔しんさん〕に投げ

 生〔せい〕しののめの草いろの火を

 高原の風とひかりにさゝげ

 菩提樹〔まだ〕皮〔かわ〕と縄とをまとふ

 気圏の戦士わが朋〔とも〕たちよ

 青らみわたるこう気をふかみ

 楢と掬〔ぶな〕とのうれひをあつめ

 蛇紋山地〔じゃもんさんち〕に篝〔かゞり〕をかかげ

 ひのきの髪をうちゆすり

 まるめろの匂のそらに

 あたらしい星雲を燃せ

    dah-dah-sko-dah-dah

 肌膚〔きふ〕を腐植と土にけづらせ

 筋骨はつめたい炭酸に粗〔あら〕び

 月月〔つきづき〕に日光と風とを焦慮し

 敬虔に年を累〔かさ〕ねた師父〔しふ〕たちよ

 こんや銀河と森とのまつり

 准〔じゅん〕平原の天末線〔てんまつせん〕に

 さらにも強く鼓を鳴らし

 うす月の雲をどよませ

   Ho!Ho!Ho!

      むかし達谷〔たった〕の悪路王〔あくろわう〕

      まっくらくらの二里の洞

      わたるは夢と黒夜神〔こくやじん〕

      首は刻まれ漬けられ

 アンドロメダもかゞりにゆすれ

      青い仮面〔めん〕このこけおどし

      太刀を浴びてはいっぷかぷ

      夜風の底の蜘蛛〔くも〕おどり

      胃袋はいてぎったぎた

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 さらにただしく刃〔やいば〕を合〔あ〕わせ

 霹靂〔へきれき〕の青火をくだし

 四方〔しほう〕の夜〔よる〕の鬼神〔きじん〕をまねき

 樹液〔じゅえき〕もふるふこの夜〔よ〕さひとよ

 赤ひたたれを地にひるがへし

 雹雲〔ひゃううん〕と風とをまつれ

   dah-dah-dah-dahh

 夜風〔よかぜ〕とどろきひのきはみだれ

 月は射〔ゐ〕そそぐ銀の矢並

 打つも果〔は〕てるも火花のいのち

 太刀の軋〔きし〕りの消えぬひま

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah

 太刀は稲妻〔いなづま〕萱穂〔かやほ〕のさやぎ

 獅子の星座〔せいざ〕に散る火の雨の

 消えてあとない天〔あま〕のがはら

 打つも果てるもひとつのいのち

   dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
(余談2)
ここにいらしている方は、やはり踊りに関わった方が多いようですね。 

「 mental sketch modified 」
多摩川上水沿いにある某美大の卒制の展示会で、
これをタイトルとする作品(インスタレーションとダンス)を
作ったことを思い出しました。
事前に撒いたDMにはイメージダンス写真と春と修羅の序文を。

マビ・マンジさん、偶然を特に重んじるボクは、
このシンクロニシティに感激しました。
今回、改めて読み直してみて、この詩はほんとうに日本語の調べが美しい。
「メロディーと言葉と舞は一体という感覚」にも共鳴しているとのでは?

10/6にンゴマのイベントですか、、、次の折には参加したい!
その嵐の夜に僕は、奄美の歌い手、朝崎郁恵さんのライブに行ってました。
まるで呼吸しているだけのような歌は、ひどく胸に沁み入ります。
満月の日に毎月東京は青山で行われているライブ。
次回の11/3はアイヌのミュージシャンと共演です。
「月見ル君想ウ」です。って関係者じゃないですよ(笑
ケンケンさん、もしかして「日本語であそぼ」でも紹介してませんでしたか?
原体剣舞連

さっそく教材としてダッダダの部分を使ってみます。
「北風小僧の寒太郎」や「木枯らしのエチュード」を使って
風をイメージした動きを冬場は取り入れています。

「水仙月の四日」の絵本を持っています。娘によく読んであげました。ピューピューという吹雪を体験していない子にイメージさせるのは難しかったです。
ケンケンさん!
シンクロニシティですね!
私も感激です!

ケンケンさんもダンスをなされておられるんですね!

私個人の思いでは、この詩は日本語の詩の中でもまれに見る傑作だと思います。
 この詩を声を上げて読みますと、何時,いかなる時でも、どんどんどんどん熱くもり上がってしまいます。
言葉のリズムとイメージの飛躍が凄いですね。時空間も超えるし、オリジナルな言葉もたくさんあるし。
 ホントに私の宝物です。
『型』って凄い力を持っているなと思いました。
毎回、それを行うことによって、身体をある状態に持って行ってくれますから。
個人的には、『宮沢家所蔵本』のバージョンの方が音韻的にグッときます。“角川文庫 中村稔=編”です。
例:「こんや異装の、、、」→「こよい異装の、、、」etc.
ぜひ、比較してみて下さい。

朝崎郁恵さんですか!素敵な方ですね!
2年ほど前、僕の彼女のバンドが一緒にやりました!これまたシンクロニシティかも!

☆ンゴマのイベントは次回は10/28(土)にあります。詳しくは私の日記を見て下さいませ!
こまちさん、NHKの「日本語であそぼ」、レンタル屋でCD借りて聞いただけですが、それには収録されていませんでした。でもどうでしょう、あの子どもが発声するのには原体剣舞連は難しくないですかねぇーーーーあれ?あの声で脳内再生してみたら様になったぞ、、、
明日は舞踏家、大野一雄の100歳イベントです。
31日にはシュタイナーの影響から竪琴を奏で歌う、木村弓さん。
(いい会場だとの噂、初SuperDeluxeです!)
3日にはまた奄美の朝崎さん&アイヌの楽器。

普段は然程でもないのですが、、、、(今時系ですよ)
土の匂いが漂う方ばかりのライブに伺います。

そしてここ数日のここでの共鳴、、、
この流れ、なにに誘われているのでしょうか。

なので土曜のンゴマのイベント、上馬込であるんですね。
都合つけて行きます!

(そろそろ本題に戻りましょうね、、、、汗)
サムルノリ、盆踊り、阿波踊り、アフリカン、幼稚園、バラライカ系とかのフォークダンス、どっかの国インド、タイとかの音楽、沖縄の呑み会、、、

あれ
ほとんどそうやないかなぁ?
違った?
とんさん、そうなんですよね。
音楽を狭いものに限定して押し込めていたのは、明治から始まった学校の音楽教育だったんじゃないかな?と、音楽教師にも反省が出ています。(カラオケに振りを付けて歌うことも)
それでも、格式のある学校という権威を背負っている先生方は
すんなり移行出来ないみたいです。

子供の無心のお遊戯も80歳の能楽師が極めた無心の芸術も
技量の差はあっても精神的には同じなのかなと。音楽が感情を表すために身体、共有したり共感したりする魂があるから成立しているのでしょう。
日本人が虫の声に共感する心を持っているから、音楽として作用するのであり、同じ音でも雑音と感じる人には訴えない。

大地のサウンドを超ハイテクなビルの横SuperDeluxeで響かせるっていうのが、味がありますね〜
SuperDeluxeはライブハウスです。
コンクリートの打ちっぱなしの倉庫風の空間ですので、アーティストのイメージで演出も工夫できる自由度の高い会場だなと思いました。
地下に降りて行くので、空間の天井も高いのがいいです。

お酒と軽食があるので、仕事帰りにひょいと今日は何をやっているかな?と様々なパフォーマンスを楽しめます。

私も先日行っただけなんですけど、昔から六本木は俳優座もあるし、様々な若者文化を発信してきた街ですからね。
人も中身は移り変わっても、かつ消えかつ結びてアートの川の流れは留まることがないのだと思います。
このトピでの出会いなので、ちょっとズレますが、書き込みさせてください。


昨日、馬込でのンゴマ・ジャパニのイベントへ行ってきました。
マピ・マンジさんが主催&企画したアフリカの民族音楽の日本人による演奏会です。

まず、とても素敵な時間を過ごせました。ありがとう。

会場は街に息づく民族音楽の店舗で、お客さんは赤ちゃん〜老夫婦とバランスよく幅広く。きっと皆、人繋がりでいらしているんだろう、あたたかな空間になっていました。

演奏は、マンジさんたちの太鼓からはじまりました。射るような真っ直ぐな眼差しがぐっと胸に迫る迫力の太鼓。「日本人がアフリカの音楽をどこまで体現できるものか?」なんて冷めた不安は一瞬に吹っ飛びます。

つづいて、アニャンゴこと向山さんのニャティティは「晴れを配る」アフリカンな開放で、明るい気合いがなんとも心地いい。コミカルなリズムで歌い踊り、時にお客さまにも踊りを誘って場内はドッと沸き上がります。僕は赤い衣装の踊り子さんがいたく気に入りました。すっと背筋を通しブレず、そして光を放つよう踊っていたのが、どうにも目に焼き付きます。

最後のサカキマンゴーさんの音楽は広大な大地のイメージを喚起させるものでした。また強制脱力の柔らかさがあり、角砂糖が水に溶け消えるように、身体の隅々まで弛緩してしまう音楽の力が顕著でした。


向山さんはこの2年弱で、まったくの無知からここまでやってきたそうです。
いやはや凄い凄い。壮絶なシンプルさをこの短期間で成し得るなんて。
絶滅寸前だという楽器ニャティティ。アフリカのルオー族の方からすると、外からの使者・向山さんは、救世主ような存在なんでしょうね。
購入したアニャンゴさんのCD、ニャティティ、ルオーの魂
さっそくヘビーローテーションで聞いてますです!



シンクロシリーズ
直前に誘い同行することになった友人へこの詳細を当日朝メールしたところ、1時間も経たぬうちにたまたま流していたラジオ(NHK FM ピーターバラカンの番組)でサカキさんの曲とこのイベントの紹介を偶然聞きました。びっくりしてました!、、、そりゃびっくりするよね。
ケンケンさん、さっそく出かけましたね。

音楽は新しく生まれていくものでもありますが、それぞれの民族はオリジナルに近いものを忘れてはいけないんだと思います。

日本人の日本文化知らず、何とかしなきゃ〜
日本の文化、特に音楽とかっていったいどのような物があるんでしょうか?

良かったら代表的とか有名、良い物とか教えて下さぃ☆
はじめまして!
私はダンスと踊りはももちろんひとつのものだと思いますよ。

前にチャイハネのアミナコレクション(アジア服)に行ったんですが、テーマは「踊り」でした。
ベリーダンスやフォークロア、地方の伝統舞踊も見れて
やっぱり音と踊りが最高に素敵に絡んでいました♪

ショーの間も民族楽器の生演奏がされてて、イベント会場が一体化してそのとき、民族音楽、踊り、ファッションの見方が少し変わったぐらい最高でした♪
とんさん、日本の音楽は歴史が古くて、階級社会だった頃には扱う音楽も分かれていたようです。
ぜひ別トピでじっくりやっていきましょう。

ピろ子さん、ベリーダンス見たのですか? いいですね。
あのセクシーなダンスは、てっきり王様や男性をもてなす踊りだと思っていたのですが、民俗学の本には最初は女性にしか見ることが許されなかったとありました。女性教育だったのでしょうかね。(アフリカの踊りで出産のことを踊りで教えている風景を見たことがあります。)

音と踊りの絡み合い、いい表現ですね。
カラオケが登場したので、楽器を弾かなくて歌えるようになり、空いた手足で振り付けが流行したのかな?とも感じていたのですが、
舞踊のルーツは、もっともっと深いのだなあと思います。
奥三河の「花祭り」という奇祭
鎌倉、室町時代に修験者が伝えた神技が起源だそうですが、
テーホヘテホヘとかけ声がわき上がり、参加者も水をかけられて高揚しながら会場に一体感が生まれる。
地元の当番の家で持ち回り、庭や土間で踊るそうだ。5歳から舞いは習ったものだと60代の男性もステップをきざむ。
日本にもわずかであるが、このような祭りが残っているのだ。
アフリカのンゴマは日本人が伝承してきた祭りの姿と重なる。

様々な地域の祭は政(まつりごと)と言われるが、音体操は21世紀の福祉政策そのものかもしれない。
こんばんは。

「舞」とはちょっとずれてしまいますが、
私の住む小さな町(湘南地方)にも昔から夏祭りがあり、
笛と太鼓の祭囃子があります。

西町、駅前、仲町、新町、北町〜と各町内に
微妙に異なる祭囃子が伝わっています。
子供会に入っている子供達は、6月頃になると
ベテランや青年部の先輩から太鼓や笛を習います。
(近所迷惑なので最初のうちは室内で古タイヤをバチで叩いています。)

特に有名なお祭りでもなく、地元の人が参加したり
楽しんだりするのですが、
このごろは改めて、貴重な文化だな、と感じています。

お祭りの日は宵宮の夕刻から、各町内が順番に
お寺の境内に作られた舞台で、お囃子を奉納します(奉納太鼓)。

それぞれのグループは、
小さな子供達から演奏し始め、順列を組んで、
最後の締めは青年達の力強い打ち込みや
娘達の華やかな打ち姿だったりします。

翌日も山車(屋根の上に昔の武将の人形を掲げた)が出て、
山車の上で太鼓と笛でお囃子が奏でられ、
それを大人子供皆で路地から路地をひき回します。
お寺の前のひとつの辻に、四方向に山車を向かい合わせて
各町内のお囃子の叩きあいをします。

隣町では、浜降祭といって、町中の神社から
海辺へとおみこしを担いで、夜明けに海へ入るというお祭りが
あります。

この近辺には無名でも昔から伝えられたお祭りと
祭囃子が多いようです。
いくつかの町のお囃子をききましたが、
小太鼓、大太鼓、鉦、篠笛の構成で、
「地」の部分と「攻め」の部分があり、
町によってそれぞれ異なりますが
明るく晴れやかな節とリズム、
おおらかで明るい感じが共通しています。

また、一昔前は、お盆の頃に盆踊りをやっていました。
地域に伝わる歌謡はないので、「炭坑節」などで踊るのですが
みんな、いい気分で踊っていました。

踊りは音楽表現のひとつで、体が唄っている、という気がします。
狂言の合間に地唄舞をみたことがあります。
お三味線と唄にあわせて、その唄の内容を象徴的に表現した舞が舞われていました。

聞きかじりの知識ですが、
フラメンコの中の女性の手の動きに、
葡萄の収穫の動作が含まれているというのを聞きました。

またソーラン節は昔学校で踊りましたが網を曳く動作ありました。
生活の中の具体的な動作の入った踊りは、
豊かな実りや収穫の喜びや感謝、
生きていく力強さが感じられます。

何年か前に、北米インディアンのプエブロ族の人たちとの
交流会で、彼らのグラスダンスを見ました。
ドンドンドンドンという、心臓の鼓動に近いリズムの太鼓にあわせ、羽飾りのついた頭を傾けながら大地を踏む、
独特の動きのある踊りでした。
これもとても力強い印象がありました。
とちさんはステキな町にお住まいですね。
体が唄っている〜これはいい表現ですね。体育の先生が運動は体の笑いだと言っていましたが同じ感覚でしょうね。

労働歌も黒人だけの文化ではなく、日本人は働きながら唄う民族だったようです。作業手順の確認や息を合わせるのに適し、更に労働の苦痛を緩和してくれますからね。これって私にとっては当たり前の話なのですが、一般的には驚異の話題らしいです。歌や踊りがメンタルケアなのだという実感の無い人が多いのでしょうね。
各地の祭りを復活させていくだけでも、地域の元気が随分違ってくると思いますね。音楽は決してプロ活動だけが凄いのではなく、歌い継ぐ親から子への伝承には命のリレーの意味があるのだと感じています。
初めまして。

インドの音楽を習っています。(舞踊も以前やっていました)
トピではなく風雅こまちさんの

>働きながら唄う民族

についてですが、インドにもそういう類の曲はたくさんあります。どこの国にもあると思っていたのですが、一般には驚異の話題なのでしょうか。一般というのが日本内なのか世界なのかちょっと気になったもので…。


私がいるのは南インドですが、お寺に奉納する薬草をペーストにするとき、むしろ(ゴザ)を編むとき、農民の労働歌など
があります。

おっしゃるとおり、昔から歌や踊りがメンタルケアになるということはどの民族にも共通の感覚の気がします。
ぢえぢえさん、こんにちは。
音楽を仕事にしていない友人達では、趣味として愛好していても、もし職場で唄いながら仕事をされたら、ふざけていると判断し、注意するだろうなという話。

仕事中におしゃべりをしてはいけない。パソコンに向かって声を出している人はいませんし(スカイプを除く)、働きながら歌を歌えるのはトラック野郎の映画くらいでは?
農作業も機械化で個人作業になりました。
明治の初めに日本に来た西洋人の日記に、農作業も酒作りも、日本人は歌ばかり唄っていて、いつ仕事をするのだろう?とあったそうです。労働と歌は共存する文化だったものが、西洋風の工場労働者になったと考えるべきかのかなあ。
風雅こまちさん

わかりました。そういう意味だったのですね。
会社ではさすがに歌えませんし音楽を聞くこともままならないことでしょう。

思うに、歌と労働が共存するのは作業に一定のリズムがあるとき、または共同で作業するときに限るのではないでしょうか。
仕事の能率がそれによって上がったり、共同体としての意識を高めるために歌は必要不可欠だったのかも。もちろん歌の内容が作業に何かしら関係していることも大事ですね。

主に現代の一般のお仕事、何かを読んだり、書いたりするときは音楽を聞きながら集中出来ないと思いますし…。

仕事と音楽が切り離されて、日本人は本来踊るのが大好きな民族だったはずなのに、あまり歌ったり踊らなくなってしまったのは残念ですね。残っているところには残っていると思いますが…。

前後してしまいましたが、トピの話題についてちょっと書きますね。

>音楽表現の延長にある余韻を視覚化したものでは?と考えるようになりました。メロディーと言葉と舞は一体という感覚です。

おっしゃるとおり、音楽と踊りは一体のものだと思います。人間が作った音楽でなくても、風の音、鳥の声、水の流れる音などから動きを感じ取ったのではないかと思います。

インドのフォークダンスには人間を魅了した動物の動きをまねた踊りがあります。孔雀、トラ、ヘビ、馬など…。

舞台芸術になっているインド古典舞踊(南)にもその名残りがあります。
連日の能のワークショップに参加しての感想。
ONKAN主催のワークショップが国立能楽堂を皮切りに、狂言「昆布売り」の体験と能管の演奏のワークショップ、大小鼓も加わったお囃子と狂言の踊りのセッションという珍しい体験をしました。
印象に残ったのは、謡と鼓はある程度ノリを刻んでいくのですが、調性という概念を破った能管には独自の時の流れがあって、他の楽器や謡の演奏と違った時空を持つという話でした。更に、舞も演じるシテの独自の間合いなど、複雑な時の相乗効果で緊迫した舞台が構成されているのだなと理解しました。

シンプルな4つの楽器と謡(声)そして舞。世界最小限のオーケストラと言われる所以です。そして世界最古の舞台演劇として2001年に世界遺産になったことは、音楽教師でも知らない人が多かったです。
昨日は仕舞を切り口にシテ方能楽師の先生をゲストにした音あそび教室でした。最年少は2歳〜上は70代の女性まで、本当にいつも3世代交流は様々な人が一同に集まります。先生も子供は初めてで、参加者の年齢層が広い勉強会に打ち合わせの段階では戸惑いがあったようでしたが身体表現がバリアフリーだと言うことを肌で感じてくださったようです。
音楽の魅力は心や肌で感じるものだということを、大人が忘れてはいけないなと思いました。「月を観る」の型では、直接に見上げる視線と、扇に月を写してその反射で観る人の顔を照らすライトアップの二重構造のお話も興味深く、シンプルなのに心を打つ芸能の深淵に触れた気がしました。
 皆さんのお話を聴いていてふと思いました。音楽のリズムに合わせて体を動かすものと、あまり合わせる気のないものとは区別するべきなのではないかと。

 西洋音楽の拍節は、音楽に「合わせて」踊ることによって育ってきたとのことです。逆に、そういう合わせ方をする必要がないならば、拍節を整える必要が無くなるのかもしれません。なぜならば、規則正しい拍節は、次に体を動かすタイミングを予測することを容易にするからです。

 そう考えると、「リズムに合わせて体を動かす」というものと、そうならないもとでは、かなり異質なものなのではないでしょうか。
Licht anさん

小泉文夫コミュでこれかな…というタイトルをみつけました(断定はできないのですが)。読んでみたいです。

小泉文夫著作選集?「人はなぜ歌をうたうか」
学習研究社
私は子供の頃に家になまはげが来たという経験を持つのですが、なまはげ祭りに音楽があるか?と聞かれると記憶がありません。
しかし、新潟の鬼太鼓(オンデコ)は和太鼓パフォーマンスだけでなく、舞踊も一体となった神事です。
「なまはげ」ではホラ貝とともに鬼が家を回るのですが、曲と踊りの音楽の奉納もあったのではと思っています。地元の人間に訪ねてもわからないことが多く、どなたかご存知ありませんか? 民族音楽については音楽教育者よりも郷土史など民俗学の方々の研究が進んでいると思います。よろしくお願いします。

世界のジョークなのか「クルド人がハイジャック犯だったら、太鼓を叩けば踊り出すからすぐに捕まる」というのが新聞にありました。グローバル化でそういった伝承が難しいのは日本だけではないようです。
民族音楽と舞い、文字言語との関係
アフリカのある部族では、初潮を迎えた少女に大人の女達がダンスで夫婦の和合、妊婦の心構えや身体の変化〜を教えるのだそうです。(テレビで踊りも見ました)
文字言語による伝承が音楽と舞いを分けていったのでは?と考えるのです。文字を持たない多くの言語では、絵画や舞い、歌などで伝承するのですから、文字の無かった日本でも平安以前は、さかんに歌を詠み、踊り、語ったのでは?

こういう切り口だと、文学系のサイトの方がレス頂けるのかもしれませんね。
52: 風雅こまちさん、こんにちは。

いつも大変興味深く読ませてもらっています。文字がひとつの刃物になって、身体のなかにあった文化を切り分けていったというところでしょうか。確かに文字の読み書きは、一旦他の行動を止めざる得ない行為です。「見る」のとちがい、文字を読んでいる瞬間瞬間は、内面の思考に意識を集中させている感じがあります。

宗教改革における聖書という道具がもたらした大衆の意識の変化というのは、そういった部分に追うところが多く、本が聖書しかない時代の聖書のもたらす内面性は、非常に役割の大きいものだったと推測できます。これは切り分けの到達点である近代の鑑賞概念の原型にもなったとも思いますが、これはプレイヤーと鑑賞者が制度的に分離している状態ですね。

話が逸れてしまいました。アフリカの芸術と性の問題は、民族音楽と舞を考える上での大きな刺戟です。私もそうなんですが、民族音楽と性、音楽理論と性という話は、ぼやっとしてるとあっという間にスルーされることが多い気がします。それでピンときたのは、小泉文夫と寺山修司の対談です。民族音楽を肴にして、性を語り続ける寺山を、小泉が名人芸的に受け止めるのが大変愉しかったのを思い出しました。

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