この論考によって、仏教思想、特に「空」の解釈について長年感じてきた違和感に関して、一応の決着がついたと思います。お読み頂けると幸いです。
空の思想と実在論
空の思想においては、神もなく自己もなく、世界すら存在しない。しかし一旦「空」を体験すると、自己も世界も清浄なものとしてよみがえるのだという。立川武蔵「空の思想史」によると、仏教思想は空の思想も含め、おおむね唯名論の立場だという。唯名論では神秘的な存在や超自然的な実体を認めないはずなのだが、なぜそんな神秘体験のようなことが可能なのか。
私が20代の頃、インド旅行中にゴアで、鍼灸のドクターだというイタリア人マウロに出会い、海辺の村で来る日も来る日も哲学問答をしていた。彼の持論は「世界は存在しない」だった。世界は唯一者という光源によって映し出された映画のようなもので、本当に存在するのは光源だけだというのだ。
マウロは1980年頃、サンタナ(ロックミュージシャン)の影響で「ヒッピーみたいな感じで」インドを旅行したそうだ。そしてあるグルに出会い決定的な体験をして以来、「世界は存在しない」という考え以外持てなくなったという。彼は言った。「君は夜眠っているとき、世界を知覚しない。その間世界が存在すると言えるのかい?」彼の言っていることは屁理屈に聞こえた。私は彼に言った。「もし世界も人々も存在しなければ、それらのものを大事に思わなくなってしまうのではないか?」
彼は「愛が溢れてくるんだ」と言った。彼の語ったことは、空の体験の後、世界が清浄なものとしてよみがえるという空の思想に非常によく似ていると思う。
インドには悟りを目指す方法として、ジュニャーナ(智の道)とバクティ(愛の道)がある。ジュニャーナ派の聖者ラマナ・マハリシは「肉体は私ではない」「五感で感じられるものは私ではない」と否定を繰り返すことで真我アートマンに至ろうとした。この否定の作業には空の思想と共通する部分がある。ただし空の思想では、アートマンのような恒常不変の実体を認めない。
なぜ仏教は恒常不変の実体を認めない唯名論的立場を取るのか。そこには、単なる哲学的見解だけでなく、執着から生じる苦からの解放という実践的な目的があった。
中観派の祖 竜樹(注1)は、業と煩悩は分別、すなわち概念作用から生じると考えた。主語と述語があって意味を成す世界にいる限り、我々は悟り得ないというのが竜樹の立場だった。彼は高度な論理学を駆使して世界も自己も存在しないことを証明し、高度な概念操作を通じて概念作用自体を止滅させようとした。
竜樹は、過去、現在、未来の存在を否定し、因果関係をも否定した。例えば多くの言葉を費やして大真面目で「行く人は行かない」ことを論証しようとしたが、仏教思想を知らない人にとっては「アキレスと亀」のようなトンデモ理論か笑い話のように思える。
唯名論とは、「良心」や「イデア」のような「普遍的な概念や抽象的な実体」は実在せず、単なる名前に過ぎないと考える哲学・形而上学の立場であり、あの世、霊魂など、目に見えない世界や実体を否定する、または、その実在についての明言を避ける。それに対して実在論とは、人間の認識の外側に何かが実在するという考え方であり、目に見えない実体が存在するという考え方である。
仏教諸派はおおむね唯名論に属するそうだが、例外もあり、如来蔵思想(3世紀頃〜)やチベット仏教は「色や煩悩は実体を欠いているが、真如としての空は実体を欠いていない」と考える。「中観派においても、空は一種の智慧あるいは境地として考えられ、空が完全なる無と考えられているわけではない」(空の思想史)
空が完全な無ではなく、ある種の智慧あるいは境地だからこそ、「一旦”空”を体験すると、自己も世界も清浄なものとしてよみがえる」という体験が可能になる。中観派の徹底した本質否定の論理では、自らの宗教的体験を説明できないという矛盾がある。空を、可変的な「目に見えない実体」と捉えるのが妥当ではないか。
また、唯識思想にも実在論的な考え方が見られる。唯識の立場では、阿頼耶識も含め、すべての識は因縁によって生滅する無常なものであり、永遠不変の実体ではない。しかし阿頼耶識は心の深層に存在し、経験世界を形成し、輪廻転生の主体となるという働きの側面から見ると、緩やかに変化しつつもアイデンティティーを保ちつつ実在するものとして扱われる。このような考えは唯名論の範疇を超えている。
古代中国の老荘思想においては、この世界を成立させている根元的な存在が許されている。それは五感で感知できない等の理由によって、しばしば”無”と表現されたが、中観派が考えたような空や無ではない。このような古代中国の”無”の考え方は、中国仏教における”空”の理解に対しても大きな影響を与えた。
中国において発展した天台や華厳の仏教において、空性はある種の実体あるいは根本とみなされた。華厳や天台において「空」は無というよりは、根本という意味合いが強く、空は、さまざまなものの形や働きがそこから現れて来る根本と考えられた。この考えはもはや唯名論ではなく、実在論である。
天台宗や日蓮が奉じた法華経は、”すべての生きとし生けるものが仏となり得る”と説いている。この考え方は、”すべての生類に仏性がある”とする如来蔵思想(3世紀中頃)とは区別されるべきであるが、すべての生類が仏となることが可能であるという限りにおいては如来蔵思想と共通している。(如来蔵思想では生まれつき仏性を持っているとされるが、法華経では、各人が仏性の「種」を持っており、「身・口・意」の行いや縁によって花開くとされた)「仏になれる」という考えや如来蔵思想にも実在論的な要素がある。
日本には古来、山川木岩などの自然物に霊魂や生命が宿っているというアニミズム的考えがあり、認識の外側に何かが実在すると考える点で実在論と共通点を持つ。
空を実体として考える中国仏教と日本古来のアニミズムが日本の仏教に影響を与えたと考えられる。中国と日本では、色即是空が「色・形あるものは、そのままが真実の相である」と解釈されるようになり、それが諸法実相の思想につながっていく。諸法実相は、目に見えない空も、目に見える現象界としての色もありのままの真実の姿として肯定する世界観である。
「日本人は、桜の花は散るから美しいと考える。無常なところに美しさがあるのであって、無常なままの桜の姿が真実を表しているのだと考える」(空の思想史)
「山川草木悉皆成仏」は法華経の「仏になれる」という思想が元になり、中国で老荘思想の影響を受け、さらに日本で天台本覚思想として独自に発展したもので、その後の日本の文化や美意識に大きな影響を与えた。
このように、仏教は表向き唯名論の看板を掲げながらも、歴史的には実在論的な「生命の肯定」に大きく舵を切ってきた。私がこの実在論的な考えに惹かれるのは、伝統的な初期仏教や中観派の論理に対して、ある種の「味気なさ」や「寒々しさ」を感じざるを得ないからである。
伝統的な仏教の多くにおいては、世の中に存在する全てのものは、人間の心の働き(業、煩悩)による因と縁、および物質的、環境的な因と縁によって生じたと考えられている。もしそこに神秘的な要因が何もないなら、現代の無神論的、唯物論的進化論に似た、味気ない世界観だと思える。これらの宗派では、世界は、神の不在のまま、因と縁によって生じたとされるが、人間を超えた存在による因や「意図」なしに人間や山川草木などの世界が存在すると考えるのは無理がある。そして「神的存在のおかげで世界が存在している」という考えがないため、具体的な身の回りの環境への「水平方向の」感謝は説かれるが、それは人間を超えた目に見えない次元にある崇高な神的存在に対する「垂直的な」畏敬の念とは異なる。
森羅万象に目を向ければ、春になれば桜が咲き、鳥は歌い、人は命をつないでいく。そこには瑞々しく息づく命の連鎖が確かに存在する。しかし、中観派の冷徹な「本質否定」の論理は、「目に見えない生命の流れ」を「霊魂の類」であるとして否定するため、この「生命の現実」を説明することが困難だった(注2)。
そのため大乗仏教の内部において、思想的な深化と大転換が行われなければならなかった。それが阿頼耶識をたえず流れる大河と見た唯識であり、空を「流動的イデア」「可変的流動的生命」として捉えなおす思想だった。外的物質的な因と縁だけでなく、目に見えない流動的生命的エネルギー(シェリングのいう能産的自然)のうねりを「空」として捉え、さらに慈悲を持つ人格的存在としての「大日如来」や「阿弥陀如来」を立てることによって、初めて私たちは「大いなる命に生かされている」という垂直的な畏敬の念を持つことができる。
この文脈において成立した華厳経の「生命のネットワーク」の思想(一即多・多即一、事事無碍)は、仏教の弁証法的かつ壮大な発展過程の到達点であり、東洋における偉大な「生命の思想」であると言える。
現代においても「空」は一般に「恒常不変の実体はない」という意味で解釈されている。しかし、この「空」の唯名論的な解釈は、現代において意義を持ち得るのだろうか。徹底した本質否定としての「空の思想」は、あくまで否定、解体のための「ハサミ」であり、生命を直接肯定しようとはしない。それは自然や人間を生かし存在させている、超越的であるとともに内在的な神的存在(例えば大日如来)を積極的に肯定せず、神的存在への畏敬の念も、「目に見えない生命の流れ」も認めない。
自然や人間を超越し、自然や人間を存在させている神的存在を考えなければ、自然や人間の意味や価値の根拠も希薄になる。世界が「神なしに」、単なる「縁起によって」存在していると考えるなら、畏敬の念を見失い、自然や生命を自分より下に見て、人間にとっての利用価値だけを考えるのではないか。
私は、現代の様々な問題の多くは唯物論と畏敬の念の欠如に原因があると考えている。人間を超えた何かに静かに手を合わせる気持ちがないと、人間はどこまでも傲慢になり、遺伝子組み換えなど、「人間か触れてはいけない領域」に手を出してしまう。
現代においては、本質否定を旨とする一部の仏教徒の間に、「人間は死後、無になる」とする「断見」や唯物論に傾く傾向さえ存在する。これは、唯名論と唯物論との親和性が高いために生じる傾向かもしれない。
仏教的唯名論は、唯物論とニヒリズムという「現代の病」に対する処方箋としての意味を持つとは考えにくい。唯名論ではなく、「流動的イデア論」による実在論と畏敬の念こそが、唯物論への防壁として重要であり、現代において生きるに値する思想と言えるのではないだろうか。
空を「目の見えるもの(色)の元になる目に見えないもの」、そして「自然の中で生きて働く流動的イデア」として捉えることによって、仏教の壮大な発展の到達点である「生命のネットワーク」の思想は、現代において大きな意味を持つと言うことができる。
注1
・法華経(1〜2世紀に成立したと言われる)
「仏になれる」の思想を含む
・竜樹、中観派(2〜3世紀インド)
徹底した本質否定、概念の解体
・如来蔵思想(3世紀中頃〜)
「如来蔵経」「宝性論」「すべての人は仏性を宿している」という思想
・華厳経(4世紀頃)
一即多・多即一、事事無碍、生命のネットワーク
・唯識思想(阿頼耶識)(4〜5世紀)
阿頼耶識による流動的生命の基礎づけ
・天台宗(6世紀中国)
・密教(7世紀インド〜、中国、日本へ)
大日如来、超越的かつ内在的なエネルギーの神格化の頂点
・天台本覚思想(11世紀頃日本)
人は元々悟っているという思想
成立年代についてはWikipedia等で調べたもので間違えてる可能性があります。
注2
徹底した本質否定を行う中観派は、たとえ固定的なものでなく、可変的流動的なものだとしても、「目に見えない霊魂」を否定する。自然の中に息づく「目に見えない生命の流れ」は、形を変えた「可変的流動的な霊魂」そのものである。ゆえに中観派は「目に見えない生命の流れ」という本質に基づく「生命のネットワーク」の思想は認めない。
「内在的流動的イデア論」については私のウェブサイトの、以下のページで論じています。
https://aozorakissa.la.coocan.jp/words15.htm
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