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2026年03月12日17:09

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動画アリ!「氷上の奇跡」が繋ぐ46年の咆哮 — 2026年イラン危機の暗雲と、受け継がれる「不屈」の哲学 (ミラノ・コルティナ五輪2026男子アイスホッケーの続き)3部作 前編 イランと向き合うアメリカ政治 

<アイスホッケー{氷上の奇跡」が繋ぐ46年の咆哮 —— 2026年イラン危機の暗雲と、受け継がれる「不屈」の哲学>前編 イランと向き合うアメリカ政治


 2026年2月は、ミラノ・コルティナオリンピックにより、ウィンタースポーツが盛んな北半球の国々は大きく湧き上がった。現在パラリンピックへと引き継がれている。古代オリンピックの精神「停戦」に基づき、各国政府は国際情勢の対応にも慎重にならざるを得ない。五輪終戦のタイミングを持って、パラリンピックを無視するかのように、アメリカのトランプ大統領はイランへの軍事作戦に踏み切った。連日エネルギー危機が叫ばれ、パラアスリートの活躍は埋もれてしまっている。資源を輸入に頼る日本は、原油高騰による経済低迷が危惧される。円安も重なり、悪いインフレに伴う生活苦が現実的なものになる。レギュラーガソリン価格200円越えと指摘された。米国とイランへの軋轢は、1979年に始まり、47年越しの2026年に再熱した。当時と現代、時を越えてスポーツ史でつながるのはアイスホッケーの代表チームだった。1980年のレークプラシットオリンピックの代表チームと政界のジミー・カーター大統領の焦点に立って進めていく。

第1章  1980年と2026年をつなぐ国際情勢とスポーツ史
第2章 アメリカの関与 独裁色が強まる
第3章 ついに革命が発生。アメリカの反撃
第4章 1980年のオリンピックの仕組み

     

 第1章 1980年と2026年をつなぐ国際情勢とスポーツ史

東日本大震災から15年の節目を迎えた2026年3月11日、世界ではイラン情勢の悪化によるエネルギー危機の兆候が見え始めている。アメリカとイスラエル軍による攻撃は2月28日に始まった。奇しくもオリンピック閉幕からわずか5日後のことである。目的はイランのイスラム体制の打破だった。軍事作戦の期間は4週間から5週間と掲げているが、まったく終戦の見通しは立っていない。振り返ると、1979年までパフレヴィー朝による親米の国家だった。国民側は、米国に従属する王政には強い不満を示していた。1925年にレザー・シャーによるパフラヴィー王朝が開かれて以降、イギリスの資本と提携していた。内政では、ペルシャ文化の復興に力を注ぐ。1923年10月29日に建国宣言したトルコ共和国のように世俗性で、男女同権を提唱していた。

写真� .譽供次Ε轡磧爾亮楕�写真
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1935年3月に、太古の昔に根付いていたゾロアスター教の典『アヴェスター』の言葉から国名を「イラン」とした。一代目レザー・シャーの退位後、息子のパフレヴィー2世に代わった。第二次大戦は、ソ連と軍事的に提携していた。世俗的なイラン王国は、イギリスとソ連との板ばさみにあう。1951年5月に、首相の座にモサデグが就任すると、資源を国有化に踏み切る。国民への還元策により、高い支持を獲得した。大地主の家庭に生まれ、前カッジャール朝にも仕えた。イギリスとソ連の綱引きにあっている状態を断ち切り、自立を図った。その一環として、イランの石油資源を支配しているアングロ=イラニアン石油会社(AIOC)の資産の接収を通告した。戒厳令を敷いて操業を停止し、権力を集中させる。大国に屈しないリーダーシップは、イスラ−ム法学者(ウラマー)からも賞賛される。国民へ平等に還元する政策は共産主義とも通じた。ウラマーや共産主義者の間をつなぎ、民族統一戦線を基盤として国民的な合意を形成した。常に反対者を取り締まり、次々と国策を断行するモザデクに、資本家は反対する。1953年8月19日、軍部のイラン=クーデターによって逮捕され失権した。影で糸を引いていたのはアメリカの諜報機関CIAだったのである。

写真��1951年当時のモサデグ首相
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 1953年のイラン軍部のクーデター、1979年のイスラム革命は、2026年現在の対立へと至る、消えない火種となったのである。

  第2章 アメリカの関与 独裁色が強まる

 世界の資本主義陣営を牛耳るのは、イギリスにとってかわって、アメリカだった。1953年の軍部クーデターを支援して以降、イランへの関与を強めた。民衆を封じ込め、国王への権力集中させることで、外部からコントロールする。従って、パフラヴィー二世による独裁体制を支援した。その一つが1963年に進めた「白色革命」である。長期にわたって秘密警察(SAVAK)を用いて反体制派を徹底的に弾圧した。宗教色は一切排除し、アメリカ資本を受け入れた。巨大な天然資源は、資本家に搾取され、市民は恩恵を受けられなかった。1979年の革命まで、複雑なプロセスを経ることになる。

以下の通り、要点を整理した。


1.農地改革の失敗: 確かに表向きに市民の感情を和らげるため、大地主から土地を没収して農民に分配した。規模が小さいゆえ利益は上がらない。食い詰めた農民が都市部に流入。テヘランなどの大都市周辺に、巨大な貧困層(スラム)が形成された。

2.伝統と世俗化の衝突: 急激な欧米化、男女同権、イスラム教の軽視は、伝統を重んじる保守的な国民やイスラム法学者(ウラマー)の反発を招いた。

3. 権力の腐敗と「SAVAK(サバク)」の恐怖政治

石油収入で潤った王室や特権階級が贅を尽くす一方で、一般庶民は物価高にあおられる。

4.監視社会: 国王直属の秘密警察SAVAK(サバク)が、大学、職場、街角のいたる所で目を光らせた。反体制的な言動をとれば、拷問や処刑される。極限の恐怖政治が、国民の声を押し殺していた。アメリカをバックに強権政治をふるっていた。

5.1953年の記憶: 知識層やナショナリストの間には、「自分たちが選んだモサデグをアメリカと組んで潰した」という国王への根深い不信感が、世代を超えて受け継がれていた。

6. 1970年代後半の経済破綻

1973年のオイルショックでイランには巨額のオイルマネーが、逆効果を生む。

狂乱物価: 国王が無理な巨額投資と軍備拡張を進めた結果、インフレが発生する。家賃や食料品が高騰し、都市部に流入した貧困層の生活は破綻した。

7.ジミー・カーターの「人権外交」: 1977年にアメリカ大統領に就任したカーターが「人権」を重視し、国王の弾圧を批判した。アメリカとパフレヴィー王政の不和により、国民の声を抑制できなくなる。

写真�� ジミー・カーター大統領(1977年3月16日撮影)
フォト

 1978年に転機を迎える。後ろ盾となっていたアメリカのカーター大統領は、イスラエルとエジプトの間での和平に向けた協力者になる。アラブとイスラエルの橋渡しの政策へ舵を切っていた。

 1978年〜1979年:崩壊へのカウントダウン 国民の抑圧されていた感情が堰を切ったようにほとばしる。軍部の裏切りにより、王は亡命した。

 1978年前半:宗教的な連鎖
聖地クム(1月)から始まり、40日おきに各地で「追悼デモ→発砲→新たな犠牲者」というサイクルが繰り返された。当時は、宗教的な抗議の意味合いが強かった。

1978年後半:経済的なマヒ(ストライキ)

 夏以降、抗議の主体は学生や宗教家から「労働者」へと広がった。きっかけは石油産業の労働者の大規模ストライキ。国王の唯一の財源である石油収入が断たれた。

1978年9月:「暗黒の金曜日」と決別

 テヘランでの無差別発砲により、国民の心は完全に王政から離れた。


写真�ぁ^店�の金曜日の一幕 パフレヴィー国王の肖像画を燃やす市民
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1978年12月:イスラム暦「ムハッラム」の熱狂

100万人規模のデモが連日発生。「国王退陣」がもはや国民の総意となり、軍も統制を失っていった。

1979年1月:国王の亡命と「空白」

群集の力に軍部さえ屈した。身の危険からパフレヴィー国王は1月16日に出国。主を失った国家が混沌とする中、2月1日にホメイニ師が「最後のピース」として帰還する。

   第3章 ついに革命が発生。アメリカの反撃

1978年、市民は積極的に街へ出て、抗議を続けた。武器を持たずに、戦車の前にも立ちはだかった。勢い余った兵士が発砲したことによる、民間人の犠牲者が出ると、俄然緊迫感が増す。パフラヴィー王政の追放を掲げる市民は、40日間喪に服すと、1979年以降デモの規模を拡大する。兵隊も国王を見限り、市民を後押しした。1979年2月に、反乱を起こした空軍兵士から市民へ武器が渡ると、体制打破へ一気に傾いた。1979年2月1日、武装した市民を加勢したのは、イスラム法学者のルーホッラー・ホメイニ師だった。国軍と市民の間で激しい攻防が繰り広げられ、緊迫感が漂っていた。国軍に撃墜される懸念が渦巻く中、亡命中のパリからテヘランの空港に降り立ったのである。身の危険をさらすことで、市民達を力強く鼓舞した。1964年にパフラヴィー国王から追放され、15年ぶりに母国の地に降り立った。安全な国外から、ただ発破をかけていたわけではない。崩壊寸前の国家に飛び込んだ『賭博師』に近い存在だった。空港を包囲する戦車を無効化したのは、軍の命令ではなく、彼を待ち構えていた数百万の市民である。

一連のイラン・イスラム革命は、国内の体制転換にとどまらない。世界のエネルギー地図を塗り替えた。革命政権はそれまでパフラヴィー国王の保護下で利権を独占していた国際石油資本(メジャーズ)を追放する。よりイラン国民に還元するべく、石油産業の完全な国有化を断行した。資源保護を理由に、サウジアラビアに次ぐ世界第2位を誇った原油生産量を劇的に削減し、一時的な輸出停止にまで踏み切ったのである。

 写真�ァ.曠瓮ぅ砲隆�を掲げるイランの市民達(1979年2月11日)
フォト

イラン・イスラム共和国の政策転換に伴う『供給の蛇口』が突如として閉められた衝撃は、市場にパニックを引き起こした。供給不足は世界全体で約4〜5%程度であったものの、先行きへの不安から石油の買い占めが加速する。原油価格はわずか1年で約3倍近く(1バレル13ドルから40ドル近く)まで跳ね上がった。1973年の第4次中東戦争を契機とした第1次に続き、この『第2次オイルショック』は、先進諸国に深刻なインフレと不況へ陥れた。日本でもガソリンスタンドに長蛇の列ができるなど、市民生活を根底から揺るがす事態となった。

 西側諸国では協調して対応をとることを迫られた。米国で対応に当たったのは、民主党から公認を受けた第39代ジミー・カーター氏(1924年10月1日生まれー2024年12月29日没)だった。1979年は転機となる年だった。3月26日にホワイトハウスにエジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相を招待した。既に前年となる1978年9月17日に米大統領府が所有するキャンプ・デービット荘にて、両首脳は協議を開いている。カーター大統領を挟み、民族の壁を越えて二国が歩むうえで合意が交わされていた。一連の成果により、ベギン首相とサダト大統領は早くも同1978年にノーベル平和賞を受賞している。1979年3月26日に、米ホワイトハウスにて、両首脳は改めて握手を交わす。前年の合意内容に沿い、エジプト・イスラエル平和条約として結実した。

 6月18日には、ソ連との軍拡競争で一定の歯止めをかけるべく、オーストリアの首都ウィーンにて、ブレジネフ書記局長と対面する。SALT�供並萋鷦\鑪�兵器制限交渉)を締結し、話し合いにより、解決することで一致した。

 ソ連との間で緊張を説くと、西側の先進国が主導して開かれるサミットへ出席する。舞台は日本の首都東京だった。彼は6月24日に大統領専用機にて羽田空港に降り立った。翌25日に記念式典が開かれ、昭和天皇陛下にも挨拶する。当時の大平正芳首相と1度目の日米首脳会議に臨むと、同夜天皇陛下主催の晩餐会に出席した。

写真�Α�1979年6月25日カーター米大統領(左)と握手する大平正芳首相
写真�А^貳霧�開された吉田茂邸の会議室
フォトフォト

来日3日目の26日に、場所を神奈川県中郡大磯町の吉田茂邸に舞台を移して、2度目の日米首脳会議が行われた。現在吉田茂邸は、町が管理する公共施設と化している。会議室もほぼ手付かずのまま保存されていた。

来日4日目の6月27日、静岡県下田市の下田中学校にて、タウンミーティングを開いた。一般庶民の目線にも立ち、質疑応答を受け付けていた。家族の大切さを説き、核兵器廃絶へ向けてソ連と重要な取り決めをしたと説明している。



来日5日目から6日目。6月28日から29日の二日間にわたり、いよいよサミットが開かれる。サミットの提唱者フランスのジスカールディスタン大統領、イギリスのサッチャー首相、西ドイツのシュミット首相ら、重鎮が出席した。同じ時期に開かれたOPEC(石油輸出国機構)の総会をにらみながら、イラン革命以後の第2次石油危機を乗り切る対策を中心に協議した。その結果、80年代に向けて石油輸入量の抑制目標や新エネルギーの開発などで意見が一致した。

 

石油危機とソ連とも向き合ったカーター大統領は、政治生命を揺るがすもう一つの問題に直面する。同じ1979年11月4日、イラン国内で革命を支持していた学生によってアメリカ大使館が包囲されたのである。アメリカ大使館での人質事件は、実にカーター政権の対応力が問われた。現地に人材を派遣して、リアルタイムで進捗状況を確認する。人質の安否確認をしながら、救出タイミングを計っていた。安易に軍を投入すれば、人質が危険にさらされる。現地イランから逐一報告を受けていた。1980年4月24日から25日、陸・海・空・海兵隊を動員して、空から救出を試みる。名づけて「イーグルクロー作戦」である。人質を無傷のまま解放することができれば、支持率の上昇も期待される。ところが、ヘリコプターの操縦ミスなどにより、失敗した。出動したヘリ一機がイランの砂漠地帯で米軍輸送機と衝突事故が起こった。兵士8人が犠牲になり、次の一手が打てなかったのである。

2015年8月20日、90歳10ヵ月半を迎えたカーター氏は、記者会見にて、脳腫瘍を患っていることを打ち明けたうえで、在任4年間の出来事を振り返った。「ヘリをもう一機派遣すれば人質を確保し、(大統領の)再選も果たしていたかもしれない」

写真�─�2015年8月20日、会見するカーター大統領
フォト

救出作戦失敗で、人質の家族から動揺が広がり、政権への求心力が大きく下がった。手をこまねいているカーター大統領に対して、対抗するソ連は大胆な行動に出る。1979年12月、共産主義者を保護する口実で、内戦の最中のアフガニスタンへ侵攻した。アメリカ国内からもソ連へ対抗する声が絶えなかった。確かに共産主義勢力と戦うムジャヒディーン(イスラムの戦士)には武器を供与したものの、直接介入を避けた。アメリカ議会は、軒並み抵抗の意思を示す。カーター大統領とブレジネフ書記局長の間で署名したSALT�供並萋鷦\鑪�兵器制限交渉)の調印を見送った。年明けには米国のニューヨーク州でレークプラシットオリンピックの開催を控える。カーター大統領も決断を迫られた。1980年2月、冬季五輪の開幕を前に、モスクワ夏季オリンピック(同年7月19日から8月3日)のボイコットを表明し、西側諸国へも働きかけたのである。4年間のアスリートの努力を犠牲にしての抗議活動は、後世に禍根を残したとの見方もある。彼は同年大統領選挙戦にて、共和党から出馬したドナルド・レーガンに大敗し、一期4年で任期を全うする。レーガン大統領が就任する1981年1月20日に、仲介国アルジェリアの計らいにより、アメリカ大使館内で隔離された52人の人質が444日ぶりに無傷で解放された。後年、元大統領補佐官などが、レーガン陣営の陰謀説を暴露している。1980年の大統領選挙戦を前に、カーターの再選を阻むためにイラン側と秘密交渉を行った。人質の健康状態に気を使い、長期間軟禁状態に置くように働きかけたのである。1984年の大統領選挙戦にて、現職レーガンが、民主党から出馬した前モンデール副大統領に圧勝した後、明るみに出た。アメリカ人を人質にとった学生側の要求は、経済制裁の解除と、亡命したパフラヴィー国王の引渡しだった。アメリカは、革命後のイランへの経済制裁を解除していた。もう一つ大きな問題はパフラヴィー国王は、立てこもり中の1980年7月27日に、亡命先のエジプトの首都カイロにて60歳10ヶ月弱の生涯を閉じている。人質を盾にして包囲する明確な理由がなかったのである。


当時レーガン陣営と結託していたCIAは、イランへの武器売却で得た資金を、他国の政権転覆作戦へ振り向けた。社会主義政策を実行するオルテガ政権と戦う中米ニカラグアの反政府勢力コントラと呼ばれるゲリラに送りつけたのである。「イラン・コントラ事件」は、冷戦末期のスキャンダルとして記憶されている。当時アメリカ議会は、コントラへの武器支援を禁止する法案を可決していた。レーガン政権は裏で手を回す違法行為を犯していたのである。敵対するイランへ武器を売り、その裏金で他国の内戦を操るという冷徹なリアリズム。2026年の今、トランプ大統領が『核武装阻止』を大義名分にイランへミサイルを叩き込む姿とも、どこか不気味な共通の響きを持っている。なおニカラグアのオルテガ大統領は1990年2月に選挙戦で敗れ辞任したものの、2007年に復帰し、現在も国のトップであり続けている。


 1980年から2026年、46年のときを経て、米国と中東史は一つにつながろうとしている。対照的にその46年、アイスホッケー界は、国が頂点に返り咲くまでの軌跡を描き続けていた。2026年のミラノ・コルティナ五輪の金メダルは、1980年自国のレークプラシット大会以来実に46年ぶりの快挙だった。当時学生主体で結成しながら、二次リーグにてソ連を破り、5連覇を阻んだのである。予想を覆す若い選手の活躍から、「氷上の奇跡(ミラクル・オン・アイス)」として、語り継がれている。1980年と2026年の二つの時代のオリンピックと政治に焦点を当てながら、氷上の奇跡への道筋を辿っていく。

写真�� ボイコットを呼びかけるジミー・カーター大統領
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   第4章 1980年のモスクワ・オリンピックをボイコットする

政治の世界において、米ソの間では1979年に一時的に緩和していたものの、1980年には俄然緊迫間が増していた。既に当時の第39代米カーター大統領は、モスクワ・オリンピックの米国代表のボイコットを表明していたのである。結果的に日本、韓国、カナダ、西ドイツを含め5カ国が応じた。日本では、春先にも参加を訴えるアスリートの声が連日テレビを通して報じられる。柔道の山下泰裕選手は4月21日に、緊急強化選手コーチ会にて、全アマチュアアスリートの思いを代弁した。8日後の全日本柔道選手権にて4連覇を達成している。『毎日新聞』1980年5月25日付朝刊にて、正式にボイコットを決まった際、淡々と心境を語る山下選手の声を報じた。すでに覚悟は決まっていたようである。4年後のロサンゼルス(アメリカ)オリンピックでは、骨折しながらも土俵に立ち、金メダルを獲得した。彼は全日本柔道連盟の責任者にもなり、引退後もスポーツに関わり続けた。

写真�� 柔道の山下泰裕選手 1980年4月21日
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一方1980年当時、イタリア、イギリス、フランスの西側3カ国は政治的にはボイコット運動を支持している。最終的に選手達の意向を汲み、それぞれの国のオリンピック委員会にゆだねた。3カ国は、個人資格の形で選手を派遣した。西側諸国の足並みの乱れが、カーター大統領の影響力の低下を如実に物語っている。ソ連を主体とした東側諸国は、報復として1984年の米国夏季ロサンゼルス・オリンピックをいっせいにボイコットした。不参加を表明した東側諸国の共産圏は、ソ連の影響下にある東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ブルガリア、キューバ、エチオピア、北朝鮮を含め9カ国である。当時軍事的中立を掲げていたユーゴスラヴィア、共産圏の主導権を争っていた中国も参加した。唯一経済と軍事でソ連とつながりのあるルーマニアは、ボイコットを拒否して、選手を送り出した。ブレジネフ書記局長の死去により、絶対的な指導者が決まらない中、東側諸国の間でもほころびが見え始めていたのである。翌1985年にソ連時代最後となるゴルバチョフ氏が書記局長に就任すると、西側と東側の間で和解が進む。1989年のマルタ会談を経て、冷戦終結宣言が出された。東西対立の緩和と軌を一にするようにオリンピックの方も動きがあった。1986年にIOC(国際オリンピック委員会)が、総会にて2年後の1988年以降プロ選手の全面参加を認める決議を採択した。つまり、西側と東側が対等に渡り合えたのである。

 政治がアスリートの夢を分断し、エネルギー危機が市民を不安に陥れる中、レークプラシッドの氷上だけは、純粋な『不屈の精神』が奇跡を待っていた。1980年と2026年をつなぐ、咆哮の物語はいよいよ核心へと向かう。

  

 写真出展先

写真� .譽供次Ε轡磧爾亮楕�写真 掲載元 FARAH PAHLEVI https://farahpahlavi.org/reza-shah-pahlavi/

写真�◆�1951年当時のモザデク首相 掲載元 ウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Mohammad_Mosaddegh

写真�� ジミー・カーター大統領(1977年3月16日撮影)Photo by Bernard Gotfryd
掲載元 LIBRARY OF CONGRESS 2025年1月2日付
https://blogs.loc.gov/picturethis/2025/01/president-jimmy-carter-in-photos/


写真�ぁ^店�の金曜日の一幕 パフレヴィー国王の肖像画を燃やす市民 掲載元 LEFT VOICE 2021年9月9日
https://www.leftvoice.org/black-friday-the-massacre-that-ignited-a-revolution-in-iran/

写真�ァ�1979年6月25日カーター米大統領(左)と握手する大平正芳首相 出展:時事通信社 掲載元 note 筆者 宮田律:2025年12月31日 01:43
https://note.com/miyataosamu/n/n46a1bbb0b6c0

写真�Α^貳霧�開された吉田茂邸の会議室 撮影者:筆者 2022年8月16日

写真�А.曠瓮ぅ砲隆�を掲げるイランの市民達(1979年2月11日)出展AFP通信 掲載元 ARAB NEWS 2020年1月13日付
https://www.arabnews.jp/article/45thanniversary/article_17775/

写真�─�2015年8月20日、会見するカーター大統領 掲載元 CNN.co.jp 2015年8月23日16時27分付 https://www.cnn.co.jp/usa/35069278.html


写真�� ボイコットを呼びかけるジミー・カーター大統領 掲載元 History First 2018年2月27日付 https://history-first.com/2018/02/27/president-carter-and-the-olympic-boycott-of-1980/

写真�� 柔道の山下泰裕選手(出展:KYODO) 1980年4月21日 NUMBER https://number.bunshun.jp/articles/-/847873?page=2

 参考ページ
パフレヴィー朝 世界史の窓より https://www.y-history.net/appendix/wh1503-133.html

1978年の暴動 イスラーム・中東トピックス http://www.isc.meiji.ac.jp/~tomyam/topics/topics07.html

東京サミット 外務省のページ https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/tokyo79/j05_a.html



下記 

前後編にわたったミラノ・コルティナ五輪のアイスホッケー競技解説

ミラノ・コルティナ五輪男子アイスホッケー解説
前編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991637230&owner_id=32437106&from=list_diary_title
後編 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1991701802&owner_id=32437106

オイル・ショックについて

・2023年5月16日付 新百合ヶ丘駅開業前後に起こった中東戦争、オイル・ショックを振り返る  https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1985069689&owner_id=32437106&from=list_diary_title

イラン・コントラ事件を記述

・2024年4月9日付 ニカラグア革命について
https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1987348036&owner_id=32437106&from=list_diary_title




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