mixiユーザー(id:15503697)

2024年05月20日19:06

7 view

無言歌は続く





 朝は雨降り とりあえず鍼治療へ 肩も腰も痛いね 若くて綺麗な先生が見てくれて針を打つ 終わりのマッサージは いつもお手伝いをしている人がしたので 所定の時期が来て治療にあたれる待遇になったものと推察 女性の手は暖かいね 

 その後薬屋さんでお買い物 なんやかんやで9000円 食べるもの以外で結構使ったな 帰宅後ちょっとのんびり 

 昼になる いただいたうどんがまだ一回分残っていたのでそれを茹でる 多分ひと月くらい経っているが カビ一つでない今の生うどん ある意味恐ろしいかな 250グラムを適宜分けて食べる パン40グラム ヨーグルト

 午後は枇杷の袋がけ ちょっと黄ばんできたね

 そしてお茶に大相撲 

 夕飯に 昼過ぎに買い物に行って鯵の開いた生を買ってきて シソの葉亜でくるんでバタ=で焼いて 醤油で味付け うまいね 一尾半ずつ食べる 一尾残る 明日だな それにサラダ 葉物中心 


 さて今宵一枚目の音楽は ワーグナー管弦楽作品集

 1. 『ニュルンベルクのマイスタージンガー』第1幕への前奏曲
 2. 『タンホイザー』序曲
 3. 『トリスタンとイゾルデ』第1幕への前奏曲
 4. 『トリスタンとイゾルデ』から『イゾルデの愛の死』
 5. 『パルジファル』から『聖金曜日の不思議』
 6. 『神々の黄昏』から『ジークフリートの葬送行進曲』

 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(指揮)

 録音時期:1949年12月19日(1,6) 1951年4月25日(5) 1951年5月1日(2) 1954年4月27日(3,4)
 
 フルトヴェングラーというドイツが生んだ史上稀にみる大指揮者を語るうえで ベートーヴェンとともに重要な作曲家はワーグナーといえる 1949年〜1954年のライヴ音源 1950年代に大きく活躍したフルトヴェングラー カラヤン ベーム クナッパーツブッシュ ワルターらの演奏は今なお必ず紹介され続ける歴史的名盤で音質が悪かったとしても再度発売されリマスター版により良くなっていくというのは近年のお決まり 聞いているのは新しくない昔のCD

 今宵次の音楽は ベストオブクラシック 
 フランス音楽の名曲(1)ドビュッシーとラヴェル



  成田空港開港記念日
 
 1978年のこの日 千葉県成田市に新東京国際空港(現 成田国際空港)が開港した 
1966年7月に千葉県三里塚に空港建設が閣議決定されてから12年かかっての開港だ 地元の意向を無視した決定に対し強力な反対運動が展開 死者も 当初の開港日の4日前に過激派ゲリラが突入して管制塔の機器が破壊され 開港がこの日まで延期 開港式典は機動隊の戒厳の中で行われた この時の空港の総裁と父が仲良くて よくご一緒させていただいた 父が亡くなった後も 母子でお付き合いがあり よく昼食を共にしたっけな 場所は新都心の郵政省関係のビルのレストラン あんな偉い人に奢ってもらうんだから 人生は不思議だったね 私は偉い人は全く知り合いがいないが ある衆議院議員さんには最近すっかり名前と顔を覚えられてしまい 先だっては留守中に奥さんが来られたようで それくらいかね

 
 写真は枇杷のの袋がけ ジューンベリーが赤くなってきた そのうちブルーベリーも色づいて ラズベリーも花が咲いている フェイジョワも花芽を持ってきたな 我が家は洒落た果実があるね レモンも花盛り ジャバラも咲いていたっけ 


 昨日は西田幾太郎氏の生まれた日であったな 愛読書で岩波から随筆集が出ている 以前にもアップしたがいい文章なのでまた載せておこう 青空文庫より 短いので全文掲載しました

  或教授の退職の辞   西田幾多郎




これは楽友館の給仕が話したのを誰かが書いたものらしい、
而もそれは大分以前のことであろう。

 初夏の或晩、楽友館の広間に、皓々と電燈がかがやいて、多くの人々が集った。この頃よくある停年教授の慰労会が催されるのらしい。もう暑苦しいといってよい頃であったが、それでも開け放された窓のカーテンが風を孕んで、涼しげにも見えた。久しぶりにて遇った人もあるらしい。一団の人々がここかしこに卓を囲んで何だか話し合っていた。やがて宴が始まってデザート・コースに入るや、停年教授の前に坐っていた一教授が立って、明晰なる口調で慰労の辞を述べた。停年教授はと見ていると、彼は見掛によらぬ羞かみやと見えて、立つて何だか謝辞らしいことを述べたが、口籠ってよく分らなかった。宴が終って、誰もかれも打ち寛いだ頃、彼は前の謝辞があまりに簡単で済まなかったとでも思ったか、また立って彼の生涯の回顧らしいことを話し始めた。
 私は今日を以て私の何十年の公生涯を終ったのである。私は近頃ラムの『エッセー・オブ・エリヤ』を取り出して、「老朽者」という一文を読んだ。そしてそれが如何にもよく私の今日の心持を言い表しおるものだと痛く同感した。回顧すれば、私の生涯は極めて簡単なものであった。その前半は黒板を前にして坐した、その後半は黒板を後にして立った。黒板に向って一回転をなしたといえば、それで私の伝記は尽きるのである。しかし明日ストーヴに焼べられる一本の草にも、それ相応の来歴があり、思出がなければならない。平凡なる私の如きものも六十年の生涯を回顧して、転た水の流と人の行末という如き感慨に堪えない。私は北国の一寒村に生れた。子供の時は村の小学校に通うて、父母の膝下で砂原の松林の中を遊び暮した。十三、四歳の時、小姉に連れられて金沢に出て、師範学校に入った。村では小学校の先生程の学者はない、私は先生の学校に入ったのである。然るに幸か不幸か私は重いチブスに罹って一年程学校を休んだ。その中、追々世の中のことも分かるようになったので、私は師範学校をやめて専門学校に入った。専門学校が第四高等中学校と改まると共に、四高の学生となったのである。四高では私にも将来の専門を決定すべき時期が来た。そして多くの青年が迷う如く私もこの問題に迷うた。特に数学に入るか哲学に入るかは、私には決し難い問題であった。尊敬していた或先生からは、数学に入るように勧められた。哲学には論理的能力のみならず、詩人的想像力が必要である、そういう能力があるか否かは分らないといわれるのである。理においてはいかにも当然である、私もそれを否定するだけの自信も有ち得なかった。しかしそれに関らず私は何となく乾燥無味な数学に一生を托する気にもなれなかった。自己の能力を疑いつつも、遂に哲学に定めてしまった。四高の学生時代というのは、私の生涯において最も愉快な時期であった。青年の客気に任せて豪放不羈、何の顧慮する所もなく振舞うた。その結果、半途にして学校を退くようになった。当時思うよう、学問は必ずしも独学にて成し遂げられないことはあるまい、むしろ学校の羈絆を脱して自由に読書するに如くはないと。終日家居して読書した。然るに未だ一年をも経ない中に、眼を疾んで医師から読書を禁ぜられるようになった。遂にまた節を屈して東京に出て、文科大学の選科に入った。当時の選科生というものは惨じめなものであった、私は何だか人生の落伍者となったように感じた。学校を卒えてからすぐ田舎の中学校に行った。それから暫く山口の高等学校にいたが、遂に四高の独語教師となって十年の歳月を過した。金沢にいた十年間は私の心身共に壮な、人生の最もよき時であった。多少書を読み思索にも耽った私には、時に研究の便宜と自由とを願わないこともなかったが、一旦かかる境遇に置かれた私には、それ以上の境遇は一場の夢としか思えなかった。然るに歳漸く不惑に入った頃、如何なる風の吹き廻しにや、友人の推輓によってこの大学に来るようになった。来た頃は留学中の或教授の留守居というのであったが、遂にここに留まることとなり、烏兎怱々いつしか二十年近くの年月を過すに至った。近来はしばしば、家庭の不幸に遇い、心身共に銷磨して、成すべきことも成さず、尽すべきことも尽さなかった。今日、諸君のこの厚意に対して、心窃かに忸怩たらざるを得ない。幼時に読んだ英語読本の中に「墓場」と題する一文があり、何の墓を見ても、よき夫、よき妻、よき子と書いてある、悪しき人々は何処に葬られているのであろうかという如きことがあったと記憶する。諸君も屍に鞭たないという寛大の心を以て、すべての私の過去を容してもらいたい。
 彼はこういうようなことを話して座に復した。集れる人々の中には、彼のつまらない生涯を臆面もなくくだくだと述べ立てたのに対して、嫌気を催したものもあったであろう、心窃に苦笑したものもあったかも知れない。しかし凹字形に並べられたテーブルに、彼を中心として暫く昔話が続けられた。その中、彼は明日遠くへ行かねばならぬというので、早く帰った。多くの人々は彼を玄関に見送った。彼は心地よげに街頭の闇の中に消え去った。(昭和三年十二月)


 いい文章だね
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2024年05月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031 

最近の日記

もっと見る