多くのキリスト教の宗派では、神との和解は大きなテーマの一つになっているのニャ。
それは、全ての人は禁断の木の実を食べたアダムとイブの子孫として二人の原罪を引き継いでいるとされるからなのニャ。
それでマリアのイエスの受胎は、「無原罪のお宿り」として…。
キリスト教芸術の最大の主題の一つに、なっているのニャね。
誰が神に許されるのか、どうすれば神に許されるのか…。
多くの神学者が、悩んできた課題ニャね。
誰もが神から「あなたの罪は許された」と言われたいからですね。
新約聖書で、イエスに「あなたの罪は許された」と言われた人達のようにニャね。
しかし、神はそう簡単に「あなたの罪は許された」と仰って下さるわけではないのニャ。
では、どうなさるかと言えば忘れて下さるのです…。
アダムとイブは、禁断の実を食べたことを忘れて戴けたので皮の衣を頂戴しましたけど。
私達にある罪は、私達自身の判断ミスによるのニャ。
アダムとイブによって私達は選択の自由を手にした結果、判断ミスを犯してしまう運命も背負っているからなのニャ。
御父に忘れて戴くのは、私達自分の判断ミスなのですね。
私達は、失敗からたくさんの教訓を得るからなのニャね。
それでは、私達のミスを御父に忘れて戴くにはどうすればいいのかと言うことになります。
教訓を学ぶことが悔い改めとなるけれど、御父に忘れて戴くにはまだ不十分なのニャ。
悔い改めてさらに独り子であるイエスの執り成しを求めて、御父に祈るのニャ。
イエスの贖罪の死を私の贖罪として受け止めてくださいと、祈るのですね。
言ってみれば、私達はみなイエスの贖罪を代わりに受け止めていただくたびに御父に借りを拵えているわけなのニャ。
自分の十字架を背負ってついてきなさいと言うのは…。
これからの全生涯をかけて、返済する御父に対する借りを忘れることなくついてきなさいって…。
それで疲れたら、イエスのくびきを自分の肩にかけて助けて頂きながらやり方をしっかり学んで少しずつ御父の目にかなう返済方法を覚えていきなさいというわけニャね。
なるほど、私達に永遠の命があるわけだわ。
永遠の命とは、復活した後の話ニャね。
ええ、そうです。
限りのない時間をかけないと返済出来ない借りを、御父に作っちゃうわけだから。
イエスの名によって御父に祈るたびニャ。
ログインしてコメントを確認・投稿する