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2023年09月18日00:09

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09月18日の日記

今日の出来事:1563年−毛利隆元死去、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が那谷寺に到着、1828年−シーボルト事件、1862年−対馬藩家老・佐須伊織暗殺、1931年−満州事変:柳条湖事件、奉天付近の南満州鉄道線路上で爆発、1944年−順陽丸撃沈、1971年−日清食品が世界初のカップ麺「カップヌードル」を発売

今日は、毛利隆元死去です。毛利隆元は、毛利元就の嫡男で第14代当主で吉川元春、小早川隆景の兄です。幼名は少輔太郎です。1537年、周防の大内義隆のもとに人質として送られ、山口で人質生活を送りました。大内義隆を烏帽子親として元服し、一字を賜り「隆元」と名乗る事が許され、大内氏に仕える武将の一人に加えられました。1540年、大内義隆から吉田郡山城に戻る事が許されました。1546年、毛利元就の突然の隠居表明により、家督を相続して毛利家当主となりました。しかし、これは毛利元就が後方で謀略活動を行うためでした。毛利元就は、隠居後も毛利家の実権を掌握しました。1549年、大内義隆の養女で大内氏の重臣・内藤興盛の娘と結婚しました。後に毛利隆元が生活していた屋敷(尾崎丸)の名前から尾崎局と呼ばれ、幸鶴丸(後の輝元)を生みます。1550年、井上党が粛清を受け、井上元兼ら重臣一派が殺害されました。その後、新しい毛利家の行政官僚組織として、毛利隆元直属の五奉行制度が発足しました。毛利隆元の側近・赤川元保を筆頭奉行とし、国司元相、粟屋元親、毛利元就の側近・児玉就忠と桂元忠が参画しました。1551年、大内義隆が重臣の陶晴賢によって自害に追い込まれると、陶氏の打倒を主張しました。1555年、父と共に陶晴賢を「厳島の戦い」で滅ぼしました。1557年、「防長経略」で大内義長を滅ぼしました。しかし、旧大内領に豊後の大友宗麟が西から、出雲の尼子晴久が北から侵攻したため、毛利元就は北の尼子氏に、毛利隆元は西の大友氏に対応する事になりました。毛利隆元は、弟・小早川隆景の支援を受けて大友氏を撃退しました。1559年に、毛利元就との連署で正親町天皇の即位料を献納し、「従四位下大膳大夫」に任じられました。1560年、第13代将軍・足利義輝に安芸の守護に任じられ、1562年に備中・長門の守護職、1563年に周防の守護職に任じられました。これによって毛利氏は、正式に中国地方の大名として認められました。1560年に尼子晴久が急死して尼子氏の勢力が衰退すると、毛利隆元は幕府の仲介を利用して大友宗麟と和議を結び、尼子討伐に全力を傾けました。しかし、1563年9月18日、尼子攻めに参加する途上で、毛利氏傘下の備後の国人・和智誠春からの饗応の直後、安芸の佐々部で急死しました。享年41でした。死因は毒殺と言われ、訃報を耳にした父・毛利元就の悲嘆しました。その後、毛利元就は和智誠春、柚谷元家、湯谷実義、赤川元保らを暗殺の疑いで誅伐、又は切腹に追い込みました。毛利家の家督は毛利隆元の嫡男・輝元が継ぎましたが、若年のために毛利元就が実質的な当主として主導権を握り続けました。和智誠春は、1568年に吉川元春、小早川隆景に従って伊予へ遠征した帰路に弟・柚谷元家と厳島神社に監禁されました。その後、脱走を図って神社本殿に立て籠もりましたが、弟と共に殺害されました。和智誠春の子・元郷は、毛利元就に謝罪して和智家の存続を許されましたが、弟・元家の子の湯谷実義は抵抗して滅ぼされました。赤川元保は毛利元就に責任を追及され、弟・元久、養子の又三郎と共に蟄居謹慎処分の後、1567年に自刃に追い込まれました。その後、赤川元保は和智誠春の饗応を受ける事に反対していた事が判明し、その潔白が確認されました。毛利元就は自身の行いを深く恥じ、赤川元保の兄・赤川就秀の次男・元通と甥の元之に赤川家を再興させました。

次に、松尾芭蕉が那谷寺に到着です。山中温泉にしばらく逗留した芭蕉は、小松へ引き返す途中でこの寺を詣でました。境内は奇石がさまざまな形で重なり、その上に古い松が生え並び、萱ぶきの小さなお堂が岩の上に懸け造りしてあって、いかにも尊くすばらしいところでした。ここで芭蕉は、この句を詠みました。「石山の 石より白し 秋の風」(秋の風は石山の石よりも白い感じが漂う。)

その次に、シーボルト事件です。オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出す事が禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、景保は獄死しました。シーボルトは国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。樺太東岸の資料を求めていた高橋景保にシーボルトがクルーゼンシュテルンの「世界周航記」などを贈り、その代わりに高橋景保が伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図をシーボルトに贈りました。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとしました。シーボルトは江戸参府から出島に帰還し、この旅行で1000点以上の日本名や漢字名植物標本を収集しました。日本の北方の植物にも興味をもち、間宮林蔵が蝦夷地で採取した押し葉標本を手に入れたく、間宮宛に丁重な手紙と布地を送りました。間宮林蔵は外国人との私的な贈答は国禁に触れると考え、開封せずに上司に提出しました。間宮林蔵がシーボルトから受け取った手紙の内容が発端となり、多くの高橋景保ら多くの日本人が捕らえられ取調べを受ける事になり、シーボルト自身も処分の決定を待つ事になりました。シーボルトは訊問で科学的な目的のためだけに情報を求めたと主張し、捕まった多くの日本人の友人を助けようと彼らに罪を負わせる事を拒絶しました。自ら日本の民になり、残りの人生を日本に留まることで人質となる事さえ申し出ました。高橋景保は獄死し、自分の身も危ぶまれましたが、シーボルトの陳述は多くの友人と彼を手伝った人々を救いました。シーボルトは「日蘭修好通商条約」の締結により追放が解除となり、1859年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府の外交顧問となっています。

その次の次に、対馬藩家老・佐須伊織暗殺です。幕末の対馬藩は、朝鮮貿易が不振となって財政の悪化が深刻になりました。幕府からの上納金の負担が払えなくなり、大老・井伊直弼に畿内に移封させて欲しいと願い出ました。井伊直弼は承諾しましたが、1860年の「桜田門外の変」で暗殺されてしまいました。翌年、ロシア軍艦「ポサドニック号(艦長・ピリリョフ、乗員360名)」が対馬の浅茅湾に上陸した「ロシア軍艦対馬占領事件」が発生しました。これにより、島内で尊皇攘夷の声が高まりました。大浦教之助を中心に幾度判兵衛、大浦作兵衛、樋口謙之亮ら41名が「義党」を結成し、8月23日に脱藩しました。その後、大島友之允が加わり、9月17日に高輪・泉岳寺に着くと「四十七士」の墓に詣でました。江戸では、藩主・宗義和の世子・善之丞の目付・勝井五八郎と御使者・多田荘蔵が加わって44名となりました。翌18日、藩士達は幕府と移封交渉を行なった江戸詰家老・佐須伊織を殺害しました。これにより、勢いを得た「義党」は藩政の主導権を握り、長州藩の尊皇攘夷派と同盟を結び、孝明天皇から攘夷勅書を得ました。そして、藩政刷新を理由に「義党」は藩主・宗義和に対して隠居を求めました。宗義和は善之丞(義達)に家督を譲って隠居しました。しかし、1864年の「第一次長州征伐」で長州藩が敗北すると、宗義達の母方の伯父・勝井五八郎が保守俗論党(佐幕派)と共に「勝井騒動」を起こし、藩の主導権を握っていた義党(尊王攘夷派)の家老・大浦教之助ら107名を処刑しました。その後、1865年に勝井五八郎ら「保守俗論党」も「義党」の残党に暗殺され、対馬藩の混乱は続く事になります。

そのまた次に、満州事変:柳条湖事件です。柳条湖事件は、満洲事変の発端となった事件です。「張作霖爆殺事件」の首謀者・河本大作大佐の後任の関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と関東軍作戦参謀・石原莞爾中佐が首謀しておこなわれました。奉天特務機関補佐官・花谷正少佐、張学良軍事顧問補佐官・今田新太郎大尉らが爆破工作を指揮し、河本末守中尉らが工作を実行しました。関東軍司令官・本庄繁中将、朝鮮軍司令官・林銑十郎中将、参謀本部第1部長・建川美次少将、参謀本部ロシア班長・橋本欣五郎中佐らも、この謀略に賛同しました。1931年9月18日午後10時20分頃、中華民国の奉天の北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊されました。関東軍は、これを張学良ら東北軍による破壊工作と断定し、直ちに中華民国東北地方の占領行動に移りました。実際には、爆破は関東軍の虎石台独立守備隊の一小隊が行ったものであり、関東軍の自作自演でした。この爆破事件のあと、南満洲鉄道の工員が修理のために現場に入ろうとしましたが、関東軍兵士によって立ち入りを断られました。また、爆破直後に現場を急行列車が何事もなく通過していることからも、この爆発がとても小規模だったことがわかります。事件現場の柳条湖近くには、国民革命軍(中国軍)の兵営である「北大営」がありました。関東軍は、爆音に驚いて出てきた中国兵を射殺し、北大営を占拠しました。関東軍は、翌日までに奉天、長春、営口の各都市も占領しました。奉天占領後すぐに、奉天特務機関長・土肥原賢二大佐が臨時市長となりました。土肥原の下で民間特務機関である甘粕機関を運営していた甘粕正彦元大尉は、ハルピン出兵の口実作りのため、奉天市内数箇所に爆弾を投げ込む工作を行いました。

そのまた次の次に、順陽丸撃沈です。順陽丸は日本の貨物船で、「太平洋戦争」の時期には捕虜や労務者を強制労働のため各地へ運ぶ輸送船(連合軍からは「ヘルシップ(地獄船)」と呼ばれた)となっていましたが、インドネシアの沖合でイギリス海軍の潜水艦の雷撃を受けて撃沈し、多数の死者を出しました。「順陽丸」はスマトラ島のプカンバル−ムアロ間の鉄道建設に投入される1377名のオランダ人捕虜と64名のイギリス人(オーストラリア人含む)捕虜、8名のアメリカ人捕虜と4200名あまりのジャワ人労務者を乗せて、ジャワ島バタヴィアのタンジョンプリオク港を出港しました。2日後の9月18日、イギリス海軍潜水艦「トレードウィンド」の雷撃により沈没しました。これは、5620名が死亡する当時世界最大規模の海難事故になりました。生存者723名は救助後、ビルマへ送られ鉄道建設に従事させられる事となりました。

最後に、日清食品が世界初のカップ麺「カップヌードル」を発売です。日清の社長でチキンラーメンの開発者である安藤百福が、紙コップで食べられるラーメンをと発案して作られました。チキンラーメンの日本国外進出を目指してアメリカ人バイヤーに売り込んだ際、手近に箸や丼が無いこれらの人々が砕いたチキンラーメンを紙コップに入れ、これに熱湯を注いでフォークで食べていた事がヒントになりました。ラーメンが丼と箸という枷を逃れて日本国外進出するための戦略商品でした。当時の紙コップはロウを使ったパラフィン紙を利用していたため、売り込みから戻った同社長はホテル内で試しましたが「紙コップ臭くて美味しく食べられなかった」と後に述べています。この事から後に「環境ホルモン報道問題」による影響から、他社のカップ麺容器が紙コップ製に置き換えられた時期でも、本製品のカップ素材は発泡スチロール製のまま長らく変更されませんでした。また、日本向け製品で用いられているアルミ箔と紙を貼り合わせた構造の密封性の高いフタは、安藤百福がアメリカから帰国する際の機内食で出されたマカダミアナッツの密封パックで使われていたものをヒントにしました。安藤百福はこのパックを開封したものに加え、未開封のものを別に1つもらって持ち帰り、容器の開発時の資料としました。その現物は今も日清食品で大切に保管されています。

今日の誕生日:トラヤヌス、結城晴朝、ジークフリート・マルクス、伊藤左千夫、グレタ・ガルボ、内藤陳(元トリオ・ザ・パンチ)、森本毅郎、落合信子、神谷明、マック赤坂、高橋よしひろ、土井隆雄、五十嵐めぐみ、うじきつよし(KODOMO BAND)、中井貴一、石橋保、井原正巳、大貫亜美(パフィー)、濱田万葉、稲本潤一、上良早紀、ライアン・ムーア、近野成美、福田彩乃、山田裕貴、杉野遥亮

今日の記念日:敬老の日、海老の日、かいわれ大根の日、しまくとぅばの日

今日の「今日訓」:本日は、「敬老の日」です。兵庫県多可郡野間谷村の門脇政夫村長と山本明助役が1947年に提唱した「としよりの日」が始まりです。「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」と、農閑期に当り気候も良い9月中旬の15日を「としよりの日」と定め、従来から敬老会を開いていました。これが1950年からは兵庫県全体で行われるようになり、後に全国に広がりました。その後「としより」という表現は良くないということで1964年に「老人の日」と改称され、翌年に野間谷村からの政府への繰り返しの働きかけもあり、国民の祝日「敬老の日」に制定されました。2002年までは毎年9月15日を敬老の日としていましたが、祝日法改正によるハッピーマンデー制度の実施によって、2003年からは9月第3月曜日となりました。長寿の象徴である海老を「敬老の日」に食べる事で「海老の日」、9月は総会が開催された月で18日は数字の8を横にして、その下に1を付けるとかいわれの形に似ている事から「かいわれ大根の日」、「く(9)とぅ(十)ば(8)」の語呂合わせで「しまくとぅば(沖縄の言葉)を記念する日」になりました。
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