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2024年05月08日00:09

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05月08日の日記

今日の出来事:1429年−百年戦争:ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放、1534年−勢場ヶ原の戦い、1609年−琉球侵攻:琉球の尚寧王が薩摩藩に降伏、1847年−善光寺地震、1868年−北関東戊辰戦争:武井の戦い、第一次小山戦争、1942年−第二次世界大戦:珊瑚海海戦、2001年−武富士弘前支店強盗殺人・放火事件

今日は、百年戦争:ジャンヌ・ダルクのオルレアン解放です。イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、17歳の少女・ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城しました。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、次々と包囲砦を陥落させ、イングランド連合軍を撤退させました。ジャンヌは仲間の兵隊たちを鼓舞する役目を堂々と果たし、戦闘に於いては進んで危険な突撃を敢行しました。ジャンヌの鼓舞により、オルレアンの兵隊たちの士気は上がりました。ジャンヌは左肩に矢を受け傷を負いました。このオルレアン解放がジャンヌ・ダルクを「救世主」、「聖女」と称える出来事となりました。

次に、勢場ヶ原の戦いです。勢場ヶ原の戦いは、中国地方の大名・大内義隆と豊後の大名・大友義鑑との間で行われた合戦です。北九州の覇権をかけた合戦で、大友・大内間の最大の戦闘となりました。大内氏は九州北部の豊前、筑前、東は石見、安芸、西は筑前、肥前、筑後など、多くの地域を勢力下に置いていました。昔から豊後守護の大友氏とは、豊前や筑前などで勢力争いが続いていました。大内義興は大友氏と戦いながら、筑後の少弐氏などとも戦い、北九州の覇権を強めていきました。大内義興の死後、息子・大内義隆が後を継ぎました。大内義隆は陶興房を九州に派遣し、北九州を攻略するように命じました。1533年、筑前・秋月に侵攻した陶興房は、大友義鑑の率いる軍勢に敗れました。1534年、大内義隆は周防に帰還していた陶興房を大将とする3000の軍を下関に送り、大友氏の本拠・豊後を平定しようとしました。大内軍は進軍し、豊前・宇佐郡糸口原に布陣しました。大友義鑑は、国東吉弘城主・吉弘氏直、寒田親将を大将とする2800を豊前・大村山に送り込み、大内軍の豊後侵攻に対抗させました。総勢5800の軍勢が豊後、豊前の国境に集まりました。大友軍は1000騎を大村山上に、豊前、豊後を結ぶ道の立石峠に木付親実と田北鑑生の1000騎、地蔵峠に志手泰久と野原昌久の800騎を布陣しました。また、本軍とは別に大神鎮氏と林鎮治の300騎が鹿鳴越に陣を構えました。大内軍は、間者を用いて大友軍の動きを調べ、虚報を流して大友軍を翻弄しました。宇佐郡地頭・佐田朝泰の進言を容れて佐田越えの後、5月8日早朝に勢場ヶ原に抜けると、大村山に籠もる大友軍を奇襲しました。大友軍は混乱し、広瀬裕則が立石、地蔵の両峠を守る軍勢を呼び戻して、坂落としにて大内軍を蹴散らそうと提言しました。しかし、吉弘氏直は、大内軍は疲労しているため小勢でも勝利を得る事ができると主張し、この提言を却下しました。そして、山を馳せ下って敵軍に突進しました。大友軍は、寒田親将が杉重信を一騎討ちで討ち取るなどし、よく戦いました。しかし、数で勝る大内軍は鶴翼の陣に切り替え、前後左右から大友軍を攻め、壮絶な死闘が展開されました。先頭に立って陣頭指揮を執った吉弘氏直は、矢が馬に当たり転落しました。その後、徒歩で戦いましたが、矢疵を受けて倒れました。さらに白兵戦で大友軍は壊滅し、吉弘氏直を助けようとした寒田親将、広瀬裕則らが戦死しました。立石、地蔵峠に残っていた1800の軍勢は、「弔い合戦」と称して反撃しました。午前11時頃より、各地で奇襲、急襲を繰り返して大内軍を翻弄しました。緒戦の勝利に油断していた大内軍は対抗できず、すぐに崩れて大敗しました。大人数が討たれ、主将・陶興房も負傷しました。逆転敗北となった大内軍は、寄藻川沿いに豊後高田方面へと退却し、海路周防に撤退しました。結果的に大内軍が撤退し、戦略的に大友軍の勝利となりましたが吉弘氏直、寒田親将と言う2人の総大将を失いました。その後も両者は交戦していましたが、1538年に室町幕府第12代将軍・足利義晴の仲介を受けて和睦し、大内義隆による九州平定は頓挫しました。そして、再び大友氏の台頭が本格化する事になります。

その次に、琉球侵攻:琉球の尚寧王が薩摩藩に降伏です。1602年、仙台藩領内に琉球船が漂着しました。徳川家康の命令によって、1603年に琉球に送還されました。以後、薩摩藩を介して徳川家康への謝恩使の派遣を繰り返し要求しましたが、中山王府はこれに応じませんでした。1608年には、徳川家康と徳川秀忠が水軍を起こそうとしていると聞いた薩摩藩主・島津家久が、大慈寺龍雲らを遣わして琉球王・尚寧及び三司官に対し、必ず朝聘するよう諭しました。しかし、三司官・謝名利山は従わずに侮罵し、使僧を辱めました。こうして、琉球征伐の御朱印が薩摩藩に下る事となりました。当時、琉球王国は「明」にも冊封しており、薩摩藩の侵攻に対して「明」に救援を求めました。しかし、「明」は一切救援を送らずに黙殺しました。琉球関係で日本に対して初めて抗議を行ったのは、「清」末期の1872年の「琉球処分」での琉球王国廃止、琉球藩設置に際してでした。当時の「明」は、豊臣秀吉の「朝鮮出兵」による朝鮮半島での日本との戦闘に、多大な出費と負担を強いられて国力が疲弊し、琉球支援のために渡海遠征を行える状態ではありませんでした。1644年に「明」は滅亡します。薩摩軍は総勢3000人、80余艘で、大将・樺山久高、副将・平田増宗でした。1609年3月31日に山川港に集結し、島津家久の閲兵を受けた後、順風を待って4月8日に出港しました。口永良部島から奄美大島に進軍し、4月20日に徳之島へ到着しました。13艘が徳之島へ先行し、一部の島民が抵抗しましたが、速やかに制圧されました。かなぐまには2艘が漂着しましたが、何事もありませんでした。湾屋には、8艘の薩摩船が漂着しました。約1000人がこれを包囲しましたが、船から降りた薩摩軍が鉄砲を撃ちかけて撃破し、50人を殺害しました。秋徳では、薩摩船3艘が到着したところを攻撃されましたが、30人を殺害して制圧しました。指導者の掟兄弟、兄・武良兼掟、弟・坊太賀那は棍棒、手下の百姓は竹槍や煮えたぎった粥でもって、果敢に接近戦を挑みました。薩摩軍も一時、海中に追いこまれる勢いでしたが、庄内衆の丹後守の狙撃で掟兄を射殺した事から形勢が逆転しました。しかし薩摩側も庄内衆の7人が打臥せられ、七島衆からは6人の死者が出ました。徳之島には王府役人・与那原親雲上が派遣されていましたが、島民を見捨てて山中に隠れているのを発見され、捕らえられました。本隊が秋徳港に到着後、奄美大島と沖縄本島の中間地点にあたる沖永良部を経由し、沖縄本島に向かいました。4月29日、薩摩軍は沖縄本島北部・今帰仁の運天港に到着しました。今帰仁城が空き屋だったため、方々に放火しました。王府は、菊隠宗意を和睦の使者に選び、名護良豊や喜安などを随行者しました。和睦申し入れを受けて、樺山久高は那覇港に行くつもりでしたが、那覇港の入り口に鉄鎖が張ってあると聞きました。そこで5月4日、首里への行軍を開始しました。薩摩軍は浦添城と龍福寺を焼き払い、首里に接近しました。琉球軍は島津軍より多い4000名の兵士を集めて対抗しましたが、敗れました。琉球軍の城間鎖子親雲上盛増は、鉄砲を被弾して討死しました。琉球軍は、戦意喪失して首里城に逃げ込みました。一方で中山王府の御典薬を勤めていた越前人・山崎二休が、首里城のアザナに立て籠って法元弐右衛門の部隊を撃退しました。その後、薩摩船が那覇港に入り、和睦が成立しました。列席者は薩摩側:大慈寺龍雲、市来織部、村尾笑栖。琉球側:具志上王子尚宏、菊隠宗意、名護良豊、池城安頼、豊美城續、江栖栄真、喜安、津見などでした。摂政・具志上王子と三司官が人質になる事で決着しましiた。6日、国王下城の前準備として、荷物の持ち出しが行われていました。この時、浦添親方の子息、真大和、百千代、真かるの三兄弟とその同志、総計20名が縄をもって首里城を脱走しました。直ちに追撃を受け、識名原で討ち取られましたが、加治木衆の武将・梅北照存坊が討死、法元弐右衛門が負傷しました。尚寧は、島津家久と共に江戸へ向かいました。途上の駿府で徳川家康に、江戸城で徳川秀忠に謁見しました。島津家久は、琉球の支配権を承認された他、奄美群島を割譲させて直轄地としました。尚寧と三司官は、「琉球は古来島津氏の附庸国である」と述べた起請文に署名させられました。これを拒んだ三司官の一人、謝名利山は斬首されました。また、琉球の貿易権管轄などを書いた「掟十五条」を認めさせられ、琉球の貿易は薩摩藩が監督する事となりました。こうして薩摩藩は、第二尚氏を存続させながら、那覇に在番奉行所を置いて琉球を間接支配するようになりました。以後、尚氏代々の王は江戸幕府の将軍に、使節(琉球国王の代替り毎に謝恩使・将軍の代替り毎に慶賀使)を江戸上りで派遣する義務を負いました。薩摩藩の服属国となって通商と技術の伝播を義務付けられましたが、清にも朝貢を続けました。しかし、琉球王国は独立国家の体裁を保ち、独自の文化を維持しました。1853年に黒船が那覇に来航し、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督が首里城に入って開港を求めました。黒船は翌1854年に再来航し、両国は「琉米修好条約」を締結して那覇が開港しました。当時、トカラ列島は薩摩国寄りの日琉両属体制下にあり、奄美諸島は琉球王国の支配下にありました。「琉球侵攻」後は、与論島までの領域が薩摩藩直轄領となりましたが、名目上は琉球王国の一部とされました。明治維新後の「廃藩置県」により鹿児島県に、1879年4月の「太政官通達」によって大隅国に編入され、日本の領域となります。

その次の次に、善光寺地震です。善光寺地震は、1847年5月8日に信州の善光寺平を震源とする直下型地震で、付近に多大の損害をもたらした逆断層型の地震です。当時は、善光寺如来の開帳の期間で諸国から参詣客が群集し、当日の市中は最も混雑していました。その夜8時を過ぎた頃、地震が発生しました。参詣客が宿泊していた旅籠街を中心に数箇所から火の手が上がり、3日間延焼しました。市中では家屋の倒壊焼失が2094軒、震災を免れたものが142軒という惨害でした。善光寺の如来堂、鐘楼、山門は倒壊しましたが焼失を免れました。しかし、死者は市中で2486名に達しました。被害が激しかったのは、長野、権堂村、妻科村、稲荷山、鹽崎村、中尾村、牟礼、大古間、野尻等で、全震災地を通じて死者総数8600人、全壊家屋21000軒、焼失家屋は3400軒を数えました。

そのまた次に、戊辰戦争:武井の戦い、第一次小山戦争です。江戸城明け渡しに反対する幕臣が江戸を脱出しました。陸軍奉行・大鳥圭介は自らが編成した「伝習隊」や旧家臣団の「草風隊」を引き連れ、市川に集結しました。ここで流山から旧新選組の土方歳三と合流しました。2000名となった旧幕府軍は、大鳥圭介を総督、土方歳三を参謀として2軍に分かれました。大鳥隊は小山・鹿沼廻りで日光へ、土方隊は下館・真岡・宇都宮廻りで日光へと、徳川家再興のために日光を目指す事になりました。これに対し、板橋の東山道総督府は大軍監・香川敬三が率いる救援軍を宇都宮へ派遣しました。
武井の戦い:武井村(現・結城市)で、祖式金八郎が率いる新政府軍と旧幕府大鳥軍・滝川充太郎が率いる伝習第二大隊が遭遇して戦闘となりました。しかし、新政府軍は総崩れとなって結城城目指して敗走しました。こうして、初戦は旧幕府軍の勝利となりました。
第一次小山戦争:大鳥軍本隊とは別行動の旧幕府軍「貫義隊」、「草風隊」、郡上藩「凌霜隊」400は、正午頃に小山の犬塚で、新政府軍監・平川和太郎が率いる彦根藩、笠間藩、壬生藩兵と遭遇し、戦闘となりました。この戦闘で旧幕府軍が新政府軍を打ち破り、新政府軍は後退しました。
こうして、「北関東戊辰戦争」の幕開けとなりました。

最後に、第二次世界大戦:珊瑚海海戦です。珊瑚海海戦は、大日本帝国海軍と連合国(アメリカ合衆国・オーストラリア)軍で行われた海戦です。珊瑚海で日本海軍の空母機動部隊とアメリカ海軍を主力とする連合国軍の空母部隊が激突し、歴史上初めて航空母艦同士が主力として戦った海戦です。この海戦は対抗する両艦隊が互いに相手の艦を視界内に入れないで行われた、歴史上最初の海戦となりました。日本海軍の作戦指揮官は、第四艦隊司令長官・井上成美中将でした。4月16日、連合艦隊司令部は「セイロン沖海戦」に勝利して日本に帰還中だった南雲機動部隊より、第五航空戦隊(空母・「翔鶴」、「瑞鶴」)を引き抜いて第四艦隊に編入しました。5月3日、第十九戦隊は軽空母「祥鳳」と特設水上機母艦「神川丸」が、艦載機支援のもとツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島へ上陸しました。日本海軍のツラギ上陸を察知したフランク・J・フレッチャー少将は艦隊を北上させ、4日朝に空母「ヨークタウン」からツラギに向け攻撃隊が発進しました。駆逐艦「菊月」と掃海艇3隻を撃沈、敷設艦「沖島」と駆逐艦「夕月」が至近弾と機銃掃射によって小破、「神川丸」の零式観測機2機を喪失しました。5月7日、第四艦隊司令長官・井上成美中将は、水上機部隊に「デボイネ南東165浬にある敵航母に蝕接を確保せよ」と命じ、米軍機動部隊の撃滅を下令しました。午前9時30分、九九式艦上爆撃機36機のみで急降下爆撃を行いました。この攻撃で駆逐艦「シムス」は轟沈、給油艦「ネオショー」は航行不能となって漂流し、駆逐艦「ヘンレー」によって処分されました。米軍レキシントン攻撃隊とヨークタウン攻撃隊の雷爆同時攻撃を受けて、軽空母「祥鳳」が沈没しました。乗員839名中、生存者は艦長・伊沢石之助大佐以下203名でした。5月8日、空母「瑞鶴」から嶋崎重和少佐が率いる31機、空母「翔鶴」から高橋赫一少佐が率いる38機、両空母合計69機の攻撃隊が進軍を開始しました。ヨークタウン攻撃隊は空母「瑞鶴」と「翔鶴」を発見、後方の「翔鶴」に狙いを定めました。「レキシントン」攻撃隊も「翔鶴」を発見しました。合計3発の450kg爆弾が命中した「翔鶴」は沈没はしませんでしたが、飛行甲板は完全に使用不能となり、戦死者76、行方不明33、戦傷者114を出しました。最初に瑞鶴雷撃隊が空母「ヨークタウン」を、翔鶴雷撃隊が空母「レキシントン」を狙いました。しかし、空母「レキシントン」に目標を変更し、上空で激しい空中戦が繰り広げられました。空母「レキシントン」は12分間の戦闘で魚雷2本、250キロ爆弾2発命中、至近弾5発を受けました。そして、被雷によって漏れだしたガソリンが気化して引火、大爆発を起こして消火不能となりました。空母「レキシントン」は駆逐艦「フェルプス」の雷撃により自沈しました。連合軍の損害が正規空母1隻沈没・1隻大破なのに対し、日本海軍の損害は正規空母1隻大破・軽空母1隻沈没であり、戦術的には日本海軍の勝利でした。しかし、日本海軍も多数の航空機と搭乗員を失い、ポートモレスビー攻略という当初の作戦目標を放棄しました。この海戦でアメリカ軍は空母「レキシントン」を失い、損傷した「ヨークタウン」は真珠湾に帰港しました。このため、次の「ミッドウェー海戦」で戦力を100パーセント発揮できるのは「エンタープライズ」と「ホーネット」だけという苦境に立たされました。

今日の誕生日:アンリ・デュナン、ハリー・S・トルーマン(第33代アメリカ合衆国大統領)、赤木圭一郎、アレックス・ヴァン・ヘイレン(ヴァン・ヘイレン)、吉川美代子、かたせ梨乃、榊原郁恵、中原めいこ、オレステス・デストラーデ、池田貴族(元remote)、新田純一、さくらももこ、西村由紀江、カジヒデキ、曙太郎、ルイス・エンリケ、赤坂晃(元光GENJI)、荒川弘、中田有紀、黒瀬純(パンクブーブー)、影山優佳(元日向坂46)、サクラローレル、一堂零、ゴーヤーマン、牡牛座のアルデバラン、さくらももこ

今日の記念日:世界赤十字デー、ヨーロッパ戦勝記念日、第二次世界大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日、ゴーヤーの日、松の日、声の日、ごはんパンの日、万引き防止の日、童画の日、小鉢の日

今日の「今日訓」:本日は、赤十字社の創設者、アンリ・デュナンの誕生日である事から「世界赤十字デー」、1945年5月7日にドイツが「第二次世界大戦」の降伏文書に調印し、5月8日をもってヨーロッパでの全ての戦闘が中止された事を記念して「ヨーロッパ戦勝記念日」、数千万人はいるという「第二次世界大戦中に命を失った全ての人に追悼を捧げる日」、1981年に、初めて「日本の松を守る会」の全国大会が開催された事を記念して「松の日」、1925年5月8日に「武井武雄童画展覧会」が開かれ、「童画」という言葉が日本で初めて使われた事から「童画の日」、「ゴー(5)ヤー(8)」の語呂合わせで「ゴーヤーの日」、「こ(5)え(8)」の語呂合わせで「声の日」、「ご(5)はんパ(8)ン」の語呂合わせで「ごはんパンの日」、「ご(5)よう(8)」の語呂合わせで「万引き防止の日」、「小(5)鉢(8)」の語呂合わせで「小鉢の日」となりました。
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