mixiユーザー(id:48382454)

2023年09月14日00:13

9 view

09月14日の日記

今日の出来事:770年−道鏡が下野国薬師寺別当に配流、1155年−大蔵合戦、1180年−源平合戦:石橋山の戦い、1582年−中富川の戦い、1767年−明和事件:江戸幕府によって山県大弐や藤井右門らが処刑、1862年−生麦事件、1868年−会津戊辰戦争:本宮奪還戦、1868年−北越戊辰戦争:新潟奉行勤向・松長長三郎切腹、1868年−秋田戊辰戦争:銀山越の戦い、中村越の戦い、矢島陥落

今日は、道鏡が下野国薬師寺別当に配流です。道鏡は、奈良時代の法相宗の僧で物部氏の一族・弓削氏の出自で、弓削櫛麻呂の子です。俗姓が弓削連である事から、弓削道鏡とも呼ばれます。「平城宮」改修のため都を一時、近江国「保良宮」に移した際、病を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受ける事となりました。「藤原仲麻呂の乱」で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、太政大臣禅師に任ぜられました。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進しました。大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂は、偽って豊前国の宇佐神宮より天皇の位を道鏡に譲れとの神託があったと道鏡に伝えました。道鏡はこれを信じて皇位に就く志を抱きましたが、和気清麻呂が勅使として参向し、この神託が虚偽である事を上申したため、道鏡が皇位に就く事はありませんでした(宇佐八幡宮神託事件)。称徳天皇が病死すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守りましたが、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没しました。

次に、大蔵合戦です。河内源氏の当主・源為義は摂関家を後ろ盾としたのに対し、長男・源義朝は都から東国へ下って南関東へ勢力を伸ばし、院近臣を後ろ盾としました。源義朝は、父の官職を超えて下野守に任じられ、関東を地盤として都の武者としての地位を高めました。源為義は長男・義朝への対抗策として、北関東に嫡子とした次男・源義賢を下向させました。源義賢は上野国を本拠とし、武蔵国最大の武士団で留守所総検校職・秩父重隆の娘を娶り、「養君」となって武蔵国比企郡大蔵に館を構えました。秩父重隆は、甥・畠山重能と父・重綱の後妻との間で家督を巡って対立し、隣国の新田氏や足利氏と利根川を挟んで抗争を繰り返していました。秩父重隆の対抗勢力である新田氏、足利氏、畠山氏らは源義朝とその長男・義平親子の勢力と結び、父・重綱の後妻は義平の乳母でした。源義朝は曾祖父・頼義以来ゆかりのある鎌倉の亀ヶ谷に館を構え、相模国一帯に強い基盤を持っていました。都へ戻った義朝に代わり、その地盤を受け継いだ義平は本拠である鎌倉より北上をもくろみ、叔父・義賢と秩父重隆の勢力が上野、武蔵の武士団を糾合して南へ勢力を伸ばそうとする動きを見せると、両者は武蔵国で衝突する事になりました。源義平が率いる軍勢が突如、武蔵国の大蔵館を襲撃し、源義賢、秩父重隆が共に討たれました。わずか15歳の義平はこの戦いで大いに武名をあげ「鎌倉悪源太」と呼ばれるようになります。この時、源義賢の子で2歳の駒王丸は畠山重能の計らいで、源義朝・義平親子と義賢との間を揺れ動いた武蔵武士団の一人で、どちらの側にも従った事がある斎藤実盛により、駒王丸の乳母夫である信濃国の中原兼遠のもとに逃がされました。この駒王丸が後の木曾義仲で、命の恩人である斎藤実盛とは「大蔵合戦」から28年後の「篠原の戦い」において首実検の場で悲劇的な対面をする事になります。後の「保元の乱」の前哨戦となり、修復不可能となった源義朝と為義らの親子・兄弟対立は、「保元の乱」で悲劇的な決着が付けられる事になります。

その次に、源平合戦:石橋山の戦いです。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵し、伊豆国目代・山木兼隆を襲撃して殺害しました。頼朝はわずかな兵で伊豆を出て、土肥実平の所領・相模国土肥郷(神奈川県湯河原町)まで進出しました。これに対し、平家方の大庭景親が俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら3000余騎を率いて迎撃に向かいました。頼朝は300騎をもって石橋山に陣を構え、以仁王の令旨を御旗に高く掲げさせました。谷ひとつ隔てて、大庭景親の軍も布陣し、さらに伊豆国の豪族・伊東祐親も300騎を率いて石橋山の後山まで進出し、頼朝の背後を塞ぎました。この日は大雨となりました。そのため、増援の三浦軍は酒匂川の増水によって足止めされ、頼朝軍への合流ができませんでした。頼朝軍は力戦しましたが多勢に無勢で敵わず、岡崎義実の子の佐奈田与一義忠らが討ち死にして大敗しました。大庭軍は勢いに乗って追撃し、頼朝に心を寄せる大庭軍の飯田家義の手引きによって頼朝らは辛くも土肥の椙山に逃げ込みました。大庭軍は追撃の手を緩めず、逃げ回る頼朝軍の残党は山中で激しく抵抗しました。土肥実平が、ここは自分の領地で頼朝一人ならば命をかけて隠し通すので、皆はここで別れて雪辱の機会を期すよう進言すると、皆これに従って涙を流して別れました。北条時政と二男の義時は甲斐国へ向かい、嫡男の宗時は別路を向かいました。しかし、宗時は途中で伊東祐親の軍勢に囲まれて討ち死にしました。大庭軍に梶原景時という武士がいて、頼朝の居場所を知りましたが情をもってこれを隠し、この山に人跡なく、向こうの山が怪しいと大庭景親らを導き、頼朝の命を救いました。この事が縁で、後に梶原景時は頼朝から重用される事になります。

その次の次に、中富川の戦いです。中富川の戦いは、阿波国の攻略を目指す長宗我部元親と、これを阻もうとする十河存保ら三好氏諸将との間で起きた戦いです。1582年、織田信長は三好康長を先鋒、織田信孝を主将として「四国攻め」の兵を起こしました。このため、阿波侵攻を進めていた長宗我部元親は兵を退きました。しかし、「本能寺の変」により、後ろ盾を失った三好康長は阿波を捨てて退却しました。こうして、長宗我部氏は阿波攻略を再開しました。長宗我部元親の子・信親は、一宮城、夷山城を奪い返し、勝瑞城を攻め落とそうとしました。長宗我部元親は待つように指示しましたが、長宗我部信親は手勢を率いて海部に至り、長宗我部元親の弟・香宗我部親泰を頼りました。しかし、長宗我部元親は将兵や領民の疲労を考え、近沢越後守を使者として長宗我部信親を岡豊城に呼び戻しました。長宗我部元親は岡豊城内で軍議を催し、「一領具足」の意見を採用して阿波への出兵を決めました。長宗我部元親軍は南海道を北進、牛岐城に入城して戦評定を行った後、9月12日に夷山城、一宮城に至ると、勝瑞城を目指して行軍しました。十河存保は、一宮、夷山の両城を放棄して勝瑞城に兵力を集中させていました。翌13日に井戸村付近で全軍を集結させると3隊に分けると、香宗我部親泰が3000の兵を率いて中富川の南岸に着陣しました。翌14日、長宗我部元親は全軍に出撃命令を下し、正午頃に先陣の香宗我部親泰隊は中富川の北岸目指して突っ込みました。これに対して十河存保軍は勝瑞城を本陣とし、阿波国・讃岐国の三好氏配下の勝興寺城の将兵5000余を先陣とし、大手付近に2000の兵、後陣として3000の兵を配して防塞を築きました。長宗我部信親、長宗我部親吉隊が率いた1万4000の主力が南東より、香宗我部親泰隊は西南より進み、合計1万7000の兵が両翼から攻め立てました。これに、長宗我部元親と和議を結んでいた一宮城主・小笠原成助、桑野城主・桑野康明らが6000の兵を率いて、黒田ノ原から中富川に押し寄せました。十河存保軍の反撃により、長宗我部軍も一時は怯みましたが、兵の数の差を活かして勝瑞城まで追い詰めると包囲しました。この時、雑賀衆の援軍が長宗我部軍に加わりました。9月19日に大雨が5日間降り続き、後方の吉野川と中富川が氾濫して板野平野一帯が洪水で湖化したため、長宗我部軍は民家の屋根や木の上に登って避難しました。この状況をみた十河存保軍は、城兵を小舟に乗せて屋根の下や木の下から長柄の槍で串刺しました。後に、阿波で流行る「鳥刺し舞」はこの時の戦いによるものです。長宗我部軍は本陣を光勝院に移し、板野平野の水が引き去った後、陣形を立て直して再び攻勢を開始しました。勝瑞城の内外で白兵戦となり、両軍入り乱れた乱戦となって双方に損害が出ました。本陣で指揮した十河存保は、玉砕覚悟で敵本陣へ攻勢を掛けて最後の決戦に挑もうとしましたが、側近・東村備後守の諫言によって勝瑞城へ退きました。長宗我部軍は、再び勝瑞城を包囲しました。10月17日に十河存保は降伏し、勝瑞城の明け渡して讃岐国・虎丸城へ退去しました。この戦いで、三好軍900、長宗我部軍600で死者数の合計は1503名に上りました。十河存保軍に属していた著名な城主の殆どが戦死しました。この戦いの後、阿波の諸城は長宗我部氏に降りました。長宗我部元親は、降伏した諸将で一宮城主・小笠原成助、富岡城主・新開道善に三好康長に内通した疑いをかけて謀殺しました。翌1583年、木津城の篠原自遁が香宗我部親泰の攻撃を受けて淡路に敗走すると、長宗我部元親は阿波国をほぼ平定しました。

そのまた次に、明和事件です。江戸幕府による尊王論者弾圧事件です。甲斐国出身の山県大弐は、江戸へ出て兵学・儒学を教え、大義名分に基づく尊王思想を鼓吹しました。「宝暦事件」に連座した藤井右門は江戸に出て山県大弐の家に寄宿し、江戸攻略の軍法を説きました。幕府は上野国小幡藩の内紛にかこつけて両名を逮捕し、不敬罪として山県大弐を死罪に、藤井右門を磔刑に処しました。さらに、「宝暦事件」により重追放となった竹内式部にも累を及ぼして遠島に処しました。また、小幡藩主の織田家は出羽国高畠への移封の上、織田信長の子孫と言う事で認められていた国主格の待遇も廃されました。

そのまた次の次に、生麦事件です。薩摩藩主・島津忠義の父で藩政の最高指導者・島津久光は、幕政改革を志し、700人の軍勢を引き連れて江戸へ出向いていましたが、幕府人事への介入といった目的を達成し、勅使・大原重徳とともに京都へ帰る運びとなりました。島津久光は江戸を出発しましたが、率いた軍勢は400人あまりでした。行列が武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)に差しかかった折り、騎馬のイギリス人と行き会いました。横浜でアメリカ人経営の商店に勤めていたウッドソープ・チャールズ・クラーク、横浜在住の生糸商人ウィリアム・マーシャル、マーシャルの従姉妹で香港在住イギリス商人の妻であり、横浜へ観光に来ていたマーガレット・ボロデール夫人、そして、上海で長年商売をしていて、やはり見物のため来日していたチャールズ・レノックス・リチャードソンでした。4人はこの日、東海道で乗馬を楽しんでいました。行列の先頭の方にいた薩摩藩士たちは、正面から行列に乗り入れてきた騎乗のイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬して道を譲るように説明しましたが、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思いこみました。しかし、行列はほぼ道幅いっぱいに広がっていたので、結局4人はどんどん行列の中を逆行して進みました。鉄砲隊も突っ切り、ついに島津久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れたところで、供回りの藩士たちの無礼を咎める声に今度は「引き返せ」と言われたと受け取り、馬首をめぐらそうとして、あたりかまわず無遠慮に動きました。その時、数人の藩士が抜刀して斬りかかりました。4人は驚いて逃げようとしましたが、リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの重傷を負い、桐屋という料理屋の前から200メートルほど先で落馬し、追いかけてきた藩士にとどめを刺されました。マーシャルとクラークも深手を負い、ボロデール夫人に「あなたを助けることができないから、ただ馬を飛ばして逃げなさい」と叫びました。ボロデール夫人も一撃を受けていましたが、帽子と髪の一部が飛ばされただけの無傷で、真っ先に横浜の居留地へ駆け戻って救援を訴えました。マーシャルとクラークは血を流しながらも馬を飛ばし、神奈川にある当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ駆け込んで助けを求め、ヘボン博士の手当を受ける事になりました。リチャードソンに最初の一太刀をあびせたのは奈良原喜左衛門で、さらに逃げる途中で鉄砲隊の久木村治休が抜き打ちに斬りました。落馬の後、「もはや助からないであろう」と介錯のつもりで止めをさしたのは有村俊斎(後の海江田信義)でした。尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから「薩英戦争」が起こる事になります。

さらに次に、会津戊辰戦争:本宮奪還戦です。糠沢、本宮が新政府軍の手に落ちた事によって、北の二本松城と南の郡山の中間点を抑えられ、郡山の列藩同盟軍は孤立する形となりました。守山、三春、白河といった郡山を囲む要所にも続々と新政府軍の増援が到着し、列藩同盟軍の動きが封じ込まれました。列藩同盟軍の一部は黒羽藩領に放火といったゲリラ戦を仕掛けましたが、新政府軍も真名子、虫笠といった村落に放火してその拠点を脅かしました。そのため、本宮を奪還するため、郡山から仙台藩兵を中心とする列藩同盟軍が出陣しました。この時、列藩同盟軍は総司令官の坂英力ではなく、浅川で指揮をとった塩森主悦でした。塩森主悦は新政府軍の占拠する本宮は、東を阿武隈川に接していたため、残る北、西、南の三方向からの包囲を企図しました。しかし、総司令官が郡山に残るために動員できる兵力は総兵力の一部であり、北と西の部隊に兵力を割く事ができませんでした。そのため、包囲を果たす事ができず、かえって新政府軍に各個撃破されていきました。列藩同盟軍は各戦線で抵抗しましたが、やがて個々に撤退して戦闘は終結しました。この戦闘により新政府軍の死傷者は26名、列藩同盟軍は仙台藩が51名、二本松藩で93名の死者を出しました。

さらに次の次に、北越戊辰戦争:新潟奉行勤向・松長長三郎切腹です。松長長三郎は、新潟奉行・白石下総守の組頭・田中廉太郎の部下でした。当時、新潟は北越の良港で横浜から武器弾薬などを輸送する重要な拠点でした。新潟の重要性に気付いた新政府軍と「奥羽越列藩同盟」との争いがありました。白石下総守は、田中廉太郎を同行して江戸に上り、徳川家に新潟の処置について指示を仰ぎました。徳川家からは、新政府に引き渡すよう下知があったため、白石下総守は北陸道総督府に出頭しました。白石下総守は新潟奉行を免じられて江戸に留まりました。田中廉太郎は新政府に召しだされ、新潟に戻るように命じられました。田中廉太郎は新潟に戻り、その後に身柄を拘束されました。このため、松長長三郎は新潟奉行勤向となりました。「奥羽越列藩同盟」は松長長三郎を呼び出すと拘束し、連日の取調べを行ないました。10日後の1868年9月14日、松長長三郎は自刃しました。松長長三郎は、旧幕府軍と新政府軍との双方に去就を疑われたため、切腹しました。この翌日に、新潟は陥落する事になります。

最後に、秋田戊辰戦争:銀山越の戦い、中村越の戦い、矢島陥落です。山道口の列藩同盟軍は、及位川の橋の上で軍議を行ない、秋田領内に侵攻する事が決定しました。銀山越、雄勝峠、赤倉越、中村越、黒森越の五つのルートがありました。本道の雄勝峠は天然の要害なので無理攻めはせず、上山藩と仙台藩と二番大隊の砲半隊を投入して陽攻を行い、右翼の赤倉越・中村越は庄内藩一番大隊、黒森越は米沢藩450名、左翼の銀山越は二番大隊が向かい、四つに分かれて進撃しました。
銀山越の戦い:午前2時頃、酒井吉之丞が率いる庄内藩の2番大隊が、銀山越に入りました。山上近くで新政府軍の斥候に遭遇し、敗走させました。更に、銀山の谷間に新政府軍の防御陣地を発見しました。新政府軍(久保田藩、薩長軍)が銃撃戦を始めました。左右の山に登って銃火を防ごうとしましたが、出来ずに第二大隊は事実上撤退しました。二番大隊の隊長・酒井吉之丞は高所に立って、諸隊の引き上げを見届けてから撤退しました。新政府軍も疲弊していたので、追撃しないで院内へ引き上げました。
中村越の戦い:庄内軍の松平甚三郎が指揮する一番大隊は、物頭・山本丈右衛門が率いる松山隊と付従隊と共に赤倉・中村越付近に向かいました。赤倉越を確保して野陣を張り、中村越の本隊を支援しました。中村越に向かった本隊は、午前2時過ぎに及位を出発し、塩根川をさかのぼって峠につきました。峠の番兵は遁走しましたが、院内の村落を見た時に、前方に新政府軍の胸壁陣地が三箇所あり、先鋒の小隊は銃撃を受けて前進不能に陥りました。一番大隊の猪太夫隊の荻野勝蔵が新政府軍の胸壁陣地に突撃すると、新政府軍は動揺し始めました。猪太夫隊が高みより銃撃すると、新政府軍はこらえきれずに陣地を捨てて敗走しました。
黒森越の戦い:最右翼の黒森越は、本庄大和が率いる米沢藩の藩兵450名が金山の有屋口から攻め、中村に押し下りました。米沢兵が来ると新庄藩兵はたちまち敗走しました。米沢藩の初の勝利でした。これにより、薩長幹部から新庄隊隊長・北条左金太は責任を激しく叱責されて、自刃しました。
赤倉越の戦い:赤倉越を越えて、萱原にいた新政府軍の胸壁陣地を発見して、交戦しました。薩摩藩と佐賀藩の新政府軍は激しい銃火を浴びせかけ、庄内軍に死傷者が続出しました。庄内軍の代わりに松山藩軍が戦いましたが、死傷者が続出しました。列藩同盟軍は数時間持ちこたえましたが、突破できずに引き上げました。庄内軍は戦死者5名、負傷者8名を出しました。
矢島陥落:一方、海道口軍の庄内軍三番大隊と四番大隊は、鳥海山を越えて矢島藩・矢島陣屋に攻め込みました。矢島藩主・生駒親敬は陣屋を自焼して撤退、秋田藩の久保田城下に逃げました。

今日の誕生日:赤塚不二夫、茅島成美、矢沢永吉(元CAROL)、あさのあつこ、澤井幸次、モートン・ハルケット(a−ha)、パッパラー河合(元爆風スランプ)、駒田徳広、福澤朗、ドミートリー・メドヴェージェフ(第3代・ロシア連邦大統領)、中村獅童 (2代目)、安達祐実、成宮寛貴、上戸彩(元Z−1)、高橋愛(元モーニング娘。)、宮田俊哉(Kis−My−Ft2、舞祭組)、秦佐和子(元SKE48)、大森元貴(Mrs.Green Apple)、桜木心菜(私立恵比寿中学)、磯野海平、磯野波平

今日の記念日:メンズバレンタインデー、セプテンバーバレンタイン、心・血管病予防デー、コスモスの日

今日の「今日訓」:本日は、「メンズバレンタインデー」です。男性が女性に積極的に愛を表現する日で、バレンタインデーにチョコレートを贈るのに対し、この日にはプレゼントとして下着を贈ります。また、「セプテンバーバレンタイン」でもあります。女性から別れ話を切り出してもよいとされる日です。「ホワイトデー」から半年後の9月14日は、パートナーに対して「愛情」「真心」「調和」などの花言葉を持つコスモスの花を添えたプレゼントを贈り、互いの存在に感謝する日で「コスモスの日」、紫色の物を身に付け、白いマニキュアを塗り、緑のインクで書いた別れの手紙を直接手渡すというのがルールです。「敬老の日」の前日という事で「心・血管病予防デー」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する