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2023年09月08日00:03

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09月08日の日記

今日の出来事:1180年−源平合戦:源頼朝が伊豆国で挙兵、1564年−第五次川中島の戦い:塩崎の対陣、1600年−関ヶ原の戦い:伏見城落城、1689年−奥の細道:松尾芭蕉が小松に到着、1951年−サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印、1999年−池袋通り魔殺人事件

今日は、源平合戦:源頼朝が伊豆国で挙兵です。伊豆へ流された源頼朝は、乳母の比企尼や母の弟である祐範の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていました。周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕しました。この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父・源義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていました。そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ていました。頼朝監視の任に当たっていた北条時政は、山木兼隆に嫁がせるため娘・政子を山木兼隆の下に送りますが、政子はその夜の内に抜け出して頼朝の妻となりました。そして、長女・大姫を儲けました。後白河法皇の皇子・以仁王が、平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発令しました。伊豆国の源頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられました。以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死しましたが、源頼朝は動かずに、しばらく事態の成り行きを静観していました。しかし、平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企てました。その動きを知り、自分が危機の中にある事を悟った頼朝は挙兵を決意しました。安達盛長を使者として、源義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけました。挙兵の第一攻撃目標は伊豆国の目代・山木兼隆と定められました。山木兼隆は元々は流人でしたが、平時忠と懇意であったために目代となり、急速に伊豆で勢力を振るうようになりました。また目代であるがゆえに旧知行国主系の工藤氏、北条氏の攻撃の標的とされる事となりました。挙兵を前に、源頼朝は工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉らを一人ずつ私室に呼び、それぞれと密談を行いました。そして挙兵の前日に、佐々木定綱、経高、盛綱、高綱の佐々木四兄弟が参陣しないので、源頼朝は盛綱に計画を漏らした事を悔いました。しかし、挙兵当日に洪水により遅れ、急ぎ疲れた体で兄弟が参着すると、頼朝は涙を流してねぎらいました。そして、深夜に一行は進発しました。途中の肥田原で北条時政は佐々木定綱に、山木兼隆の後見役の堤信遠は優れた勇士であるので軍勢を分けてこれを討つよう命じました。佐々木兄弟は堤信遠の館に向かうと、子の刻に佐々木経高が館に矢を放ちました。堤信遠の郎従が応戦して矢戦になり、佐々木経高は矢を捨てて太刀を取って突入しました。堤信遠も太刀を取って組み合いになりました。佐々木経高が矢を受けて倒れますが、佐々木定綱、高綱が加わり、遂に堤信遠を討ち取りました。また、堤信遠は田方郡に勢力を築きつつあり、北条氏にとっては競合関係にある豪族でもありました。北条時政らの本隊は山木館の前に到着すると矢を放ちました。その夜は三島神社の祭礼で山木兼隆の郎従の多くが参詣に出払い、黄瀬川の宿で酒宴を行っていました。館に残っていた兵は激しく抵抗しました。堤信遠を討った佐々木兄弟も加わり、激戦となりました。源頼朝は警護に残っていた加藤景廉、佐々木盛綱、堀親家を山木館へ向かわせました。特に加藤景廉には長刀を与え、これで山木兼隆の首を取り持参せよと命じました。加藤景廉、佐々木盛綱は山木館に乗り込み、山木兼隆を討ち取りました。館に火が放たれ悉く燃え尽きました。襲撃隊は払暁に帰還し、頼朝は庭先で山木兼隆主従の首を検分しました。源頼朝は、山木兼隆の親戚の史大夫知親の伊豆国蒲屋御廚での非法を停止させる命令を発給しました。こうして、源頼朝は挙兵しました。

次に、第五次川中島の戦い:塩崎の対陣です。「川中島の戦い」の最終戦で、塩崎の対陣とも呼ばれています。上杉輝虎(後の謙信。上杉政虎が、将軍・足利義輝の一字を賜って改名)は川中島に出陣しましたが、武田信玄は決戦を避けて塩崎城に布陣し、睨み合いとなりました。上杉輝虎は、関東へ出兵して北条氏康と戦い続けていました。武田信玄は常に上杉輝虎の背後を脅かしました。上杉輝虎の武田信玄への憎悪は凄まじく、居城であった春日山城(新潟県上越市)内の看経所と弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)に、「武田晴信悪行之事」と題する願文を奉納し、そこで信玄を口を極めて罵り、必ず退治すると誓っていました。1564年、飛騨国の姉小路良頼と江馬時盛の争いに、信玄が江馬氏を、上杉輝虎が姉小路氏を支援して介入しました。上杉輝虎は武田信玄の飛騨国侵入を防ぐため、川中島に出陣しました。武田信玄は善光寺平南端の塩崎城まで進出しましたが決戦は避け、対陣となりました。2ヶ月後、両軍が撤退して終わりました。以後、武田信玄は東海道や美濃、上野方面で勢力を拡大し、上杉輝虎は関東出兵に力を注いだため、川中島で戦いが行われる事はありませんでした。

その次に、関ヶ原の戦い:伏見城落城です。鳥居元忠は、1539年に松平氏の家臣・鳥居忠吉の三男として生まれました。徳川家康(松平竹千代)が、今川氏の人質時代からの側近の一人でした。徳川家康の三河統一後、旗本先手役となって旗本部隊の将として戦いました。長兄・忠宗は1547年の「渡の戦い」で討死、次兄・本翁意伯は出家していたため、1572年に父・忠吉が死去すると家督を相続しました。1558年の「寺部城攻め」、1570年の「姉川の戦い」、1572年の「三方ヶ原の戦い」に参加しました。「諏訪原城の戦い」では斥候として敵陣に潜入し、敵に発見されて銃撃を受けて足に傷を負いました。1575年の「長篠の戦い」では、石川数正と共に馬防柵の設置を担当しました。1581年の「高天神城の戦い」にも参戦しました。1582年の「天正壬午の乱:黒駒合戦」では、徳川家康の背後を襲おうとした北条氏忠・氏勝軍の別働隊1万を甥・三宅康貞、水野勝成ら2000の兵で撃退し、約300の北条勢を討ち取りました。徳川家康より、甲斐・都留郡を与えられて岩殿城に入り、やがて谷村城主となりました。1585年、上杉景勝へ通じた真田昌幸を討伐しようとした「第一次上田合戦」では、大久保忠世、平岩親吉と共に7000の兵を率いて上田城を攻撃しましたが、撃退されました。1590年の「小田原合戦」では「岩槻城攻め」に参加しました。徳川家康が関東に移封されると、下総・矢作城4万石を与えられました。豊臣秀吉の死後、天下人の座を狙う徳川家康は、度重なる上洛命令を無視した上杉景勝を公儀に反抗する逆臣として征伐すると称し、「会津攻め」を開始しました。1600年、鳥居元忠は伏見城を預けられました。徳川家康は伏見城に宿泊して、鳥居元忠と酒を酌み交わして「手勢不足のため、伏見に残す人数は3000で苦労をかける」と述べると、「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正の両人で事足ります。将来、殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要です。もし、大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけて討死する他にないので、人数を多くこの城に残す事は無駄であるため、一人でも多くの家臣を城から連れて出てほしい」と答えました。こうして、徳川家康は畿内の守りとして鳥居元忠、内藤家長、松平家忠、松平近正ら1800名ほどの兵を伏見城に残すと、徳川軍主力を率いて「会津征伐」に向かいました。これを好機と見た石田三成は、毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継ら反家康派の諸大名を糾合して挙兵し、家康が大坂城西の丸に残していた留守居役を追放し、家康に対する13か条の弾劾状を叩きつけました。西軍総大将・毛利輝元の名で、伏見城の守将・鳥居元忠に対して伏見城を明け渡すように命令を出しました。伏見城を任されていた木下勝俊は早々に退去しましたが、鳥居元忠はこれを拒絶したため、西軍は大挙して伏見城を包囲、攻撃を開始しました。伏見城攻めの総大将は宇喜多秀家、副将は小早川秀秋で、その他に毛利秀元、吉川広家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、長束正家、鍋島勝茂などが参加し、総勢4万人の大軍でした。これに対して、守備軍は鳥居元忠を総大将とした1800人でした。伏見城は豊臣秀吉が築き上げた巨郭ですが、兵力差から考えれば短時日で決着するはずの戦いでした。しかし、攻城側は苦戦を強いられました。城将の鳥居元忠とその兵達が予想外の奮戦を見せ、また包囲軍の内部にも石田三成らに強制的に西軍として与させられた者がおり、戦意が上がらなかったなどの要因があったためでした。この状況を打開するため、五奉行の長束正家に伏見城内にいた甲賀衆の妻子一族を捕縛させ、内通しなければ家族を磔にすると脅迫しました。長束正家は近江水口岡山城の領主で、甲賀衆に属す家臣がいましたが、伏見城内にも徳川氏の伊賀衆の他に甲賀衆がいました。甲賀衆はこの脅迫に応じ、伏見城内で火事を起こしました。この裏切りによって支えきれなくなった鳥居元忠は、13日間の攻防戦の末、鈴木重朝と一騎打ちの末に討死しました。内藤家長、松平家忠、松平近正も共に討死しました。鳥居元忠のその忠節は「三河武士の鑑」と称されました。この時の伏見城の血染め畳は、鳥居元忠の忠義を賞賛した家康が江戸城の伏見櫓の階上におき、登城した大名たちに鳥居元忠の精忠を偲ばせました。徳川家康は鳥居元忠の死を悲しみ、その功績によって嫡男・忠政は磐城平藩10万石を経て山形藩24万石の大名に昇格しました。また、鳥居元忠の子孫が江戸時代に不行跡によって2度も改易の憂き目にあった際、鳥居元忠の勲功が大きいとして減封による移封で断絶を免れました。東京都港区麻布六本木五丁目にある坂の東側に、鳥居元忠の屋敷があった事で「鳥居坂」と呼ばれるようになりました。

その次の次に、奥の細道:松尾芭蕉が小松に到着です。金沢を発った芭蕉は、小松に着きました。ここで、この句を詠みました。「しほらしき 名や小松吹 萩すゝき」(「小松」という可愛らしい名前のこの地に、萩やススキをゆらして秋の風が吹いている。)

最後に、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約調印です。サンフランシスコ平和条約:第二次世界大戦におけるアメリカ合衆国をはじめとする連合国諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、両者の間で締結された平和条約です。アメリカ合衆国のサンフランシスコ市で署名された事から、「サンフランシスコ平和条約」となりました。この条約によって正式に、連合国は日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認しました。国際法上ではこの条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は終結したものとされます。日本の保有領土について、「日本は済州島、巨文島、鬱陵島」を放棄すること。」と記載されました。韓国政府より、独島(竹島)も放棄する事を求められましたが、米政府より、竹島は韓国の領土として扱われた事は無く、1905年以降日本領であるとして拒絶されました。日米安全保障条約:日本における安全保障のため、アメリカ合衆国が関与し、アメリカ軍を日本国内に駐留させる事などを定めた二国間条約です。

今日の誕生日:聖母マリア、玄宗皇帝、リチャード1世(獅子心王)、島津勝久、谷風梶之助、高崎正風、早矢仕有的、アントニン・ドヴォルザーク、堀江謙一、米良明久(ザ・グレート・カブキ)、木之元亮、福井謙二、鈴木亜久里、紺野美沙子、松井常松(元BOØWY)、松本人志(ダウンタウン)、中西哲生、秋本祐希、山口一郎(サカナクション)、本仮屋ユイカ

今日の記念日:白露、聖母マリア誕生、国際識字デー、クレバの日(908DAY)、クーパー靱帯の日、桑の日、新聞折込求人広告の日、マスカラの日、ハヤシの日、休養の日

今日の「今日訓」:本日は、二十四節気の一つ「白露」です。「陰気やうやく重りて、露にごりて白色となれば也」で、大気が冷えてきて露ができ始める頃です。聖母マリア誕生です。イエス・キリストの母、ナザレのヨセフの妻・聖母マリアが、ヨアキムとアンナの娘として誕生しました。「聖母」の他に、「聖処女」、「神の母」、「我らが貴婦人」などの呼称があります。新約聖書によると、マリア自身に天使ガブリエルが受胎告知に現れ、聖霊によりヤハウェの子・イエスを身籠ったとされています。 1965年、イランのテヘランで開かれた「世界文相会議」でイラン国王モハンマド・レザー・パフラヴィーが、軍事費の一部を識字教育にまわす提唱をした事を記念して「国際識字デー」、「ハヤシライス」を考案した「株式会社丸善ジュンク堂書店」の前身である「丸善株式会社」の創業者・早矢仕有的の1837年の誕生日から「ハヤシの日」、1969年9月8日に日本で初めて1つの紙面に複数の企業の広告を載せた連合形式の新聞折込求人広告を「株式会社クリエイト」が発案し、企画発行した事から「新聞折込求人広告の日」、日本を代表するヒップホップアーティストのKREVAは、2004年9月8日に「音色」でメジャーデビューし、「ク(9)レ(0)バ(8)」の語呂合わせから「クレバの日(908DAY)」、「ク−(9)パー(8)」の語呂合わせで「クーパー靱帯の日」、「ク(9)ワ(8)」の語呂合わせで「桑の日」、「クッキリ(9)ぱっちり(8)」の語呂合わせで「マスカラの日」、「休(9)養(8)」の語呂合わせで「休養の日」となりました。
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