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2023年08月12日00:05

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08月12日の日記

今日の出来事:紀元前30年−古代エジプト・プトレマイオス朝の最後のファラオ・クレオパトラが自殺、1580年−花隈城の戦い、1864年−佐久間象山暗殺、1866年−第二次長州征伐(四境戦争):小倉口の戦い(大里の戦い)、1868年−会津戊辰戦争:棚倉落城、1935年−相沢事件、1945年−ソ連対日参戦:麻山事件、1962年−堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」で日本人初の太平洋単独横断に成功し、サンフランシスコに到着、1985年−日本航空123便墜落事故:群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(御巣鷹の尾根)に墜落し史上最悪の航空事故となる

今日は、古代エジプト・プトレマイオス朝の最後のファラオ・クレオパトラが自殺です。クレオパトラは、古代エジプト・プトレマイオス朝最後のファラオで「世界三大美女」の一人です。ジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)派とグナエウス・ポンペイウスら元老院派との間で内戦が勃発し、父王時代からの繋がりでクレオパトラは元老院派を支援しました。ポンペイウスの子・小ポンペイウスはアレクサンドリアを訪れ、クレオパトラに兵員と食料の協力を要請した時、女王は小ポンペイウスに対し、予想を上回る兵員と食料を提供しました。この際に小ポンペイウスの愛人となりました。しかし、このクレオパトラの動きに不信を募らせたプトレマイオス13世派は、アレクサンドリア住民が親ローマ主義のクレオパトラに対して起した反乱に乗じてクーデターを決行し、クレオパトラを東部国境のペルシオンへと追いやりました。ポンペイウスは「ファルサルスの戦い」にシーザーに敗北した後、エジプトに上陸しましたが、プトレマイオス13世派に殺害されました。ポンペイウス追討のためにエジプト入りしたシーザーは、和解を図ろうとして、両共同統治者をアレクサンドリアに招集しました。当時、クレオパトラはペルシウムでプトレマイオス13世派と戦闘しており、アレクサンドリアへ出頭するのは容易ではありませんでした。女王は自らを寝具袋にくるませ、シーザーのもとへ贈り物として届けさせ、王宮へ入る事に成功しました。この時、クレオパトラはシーザーを魅了し、彼の愛人となりました。これを知ったプトレマイオス13世は怒り心頭に発し、王冠を外して地面に叩きつけました。プトレマイオス13世はシーザー軍を攻撃しました。シーザーはエジプトへ到来したローマ軍を使って、「ナイルの戦い」でプトレマイオス13世をナイル川で溺死させました。女王はカエサルの子・シーザリオン(カエサリオン)をもうけました。しかし、シーザーがブルータスに暗殺されると、シーザリオンを連れてエジプトに帰りました。「フィリッピの戦い」では「第二回三頭政治」側では無く、ローマ東方地区へ勢力を広げていたマルクス・ユニウス・ブルトゥスらの勢力を支援しました。戦いはブルトゥスらが敗北し、三頭政治側のマルクス・アントニウスはクレオパトラに出頭を命じました。クレオパトラは美の女神・アフロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくってタルソスへ出頭し、瞬く間にアントニウスを魅惑しました。その後、2人の間には双子の男女のアレクサンデル・ヘリオスとクレオパトラ・セレネ、さらにもう一人の男の子プトレマイオス・フィラデルフォスが誕生しました。アントニウス派とプトレマイオス朝の連合軍とオクタウィアヌスが率いるローマ軍が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突しました(アクティウムの海戦)。この海戦の最中にクレオパトラは戦場を離脱し、アントニウスもクレオパトラの船を追って逃亡し、ともにアレクサンドリアへ戻りました。クレオパトラ死去の誤報に接したアントニウスは自殺を図りました。アントニウスは瀕死の状態でクレオパトラのところに連れて来られましたが、息を引き取りました。クレオパトラ自身はオクタウィアヌスに屈する事を拒み、贈答品のイチジクに忍ばせていたコブラに身体(胸)を噛ませて自殺しました。オクタウィアヌスは彼女の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れました。エジプトを征服したオクタウィアヌスは、「シーザーの後継者」となる虞れがあるシーザリオンを殺害してプトレマイオス朝を滅ぼし、エジプトをローマに編入して皇帝直轄地(アエギュプトゥス)としました。クレオパトラがアントニウスともうけていた3人の子供たちは、オクタウィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられ、養育されました。

次に、花隈城の戦いです。1578年、「三木合戦」で羽柴秀吉軍に加わっていた荒木村重が突如、有岡城(伊丹城)で織田信長に対して反旗を翻しました。「有岡城の戦い」で有岡城を失い、尼崎城を追われた荒木村重は摂津最後の城となった花隈城に逃げ込みました。荒木軍を追撃してきた池田恒興と嫡男・元助は諏訪山に、次男・輝政は生田神社の森に、紀伊・雑賀衆の援軍は大倉山に花隈城を囲むように陣取りました。戦端は1580年3月17日、荒木軍が花隈城より出撃し、生田神社の森の池田輝政軍に攻めかかりました。同時に周りの池田軍が花隈城を攻撃し、総大将の池田恒興自身も自ら5、6名を討ち取るなどの乱戦になりましたが、結局勝敗はつかずに両軍が兵を退きました。次の戦闘は同年8月12日、周りの草などで偽装して近づいてきた池田輝政軍を、花隈城兵が追い散らしたところに池田元助軍が加わり、更に池田恒興軍も加勢して、大手門周辺で大激戦となりました。また別動隊が搦手より城内に侵入し、大手門を守る守備隊を背後から襲いました。これに後詰の軍として待機していた紀州・雑賀勢の援軍が加わり、花隈城を開城させる事に成功しました。この後、荒木村重は毛利氏の元へ亡命し、花隈城は廃城となります。織田信長が「本能寺の変」で横死すると堺に戻り、そこに居住しました。豊臣秀吉が覇権を握ってからは、大坂で茶人として復帰し、千利休らと親交を持ちました。「道薫」と名乗って「利休十哲」の一人となりました。

その次に、佐久間象山暗殺です。佐久間象山は、江戸時代後期の松代藩士で兵学者・思想家です。来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こりました。佐久間象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は松代での蟄居を余儀なくされました。佐久間象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、徳川慶喜に「公武合体論」と「開国論」を説きました。しかし、当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた佐久間象山には危険な場所でした。「池田屋事件」の黒幕とみなした公武合体派論者は、佐久間象山を生かしてはおけないと考えました。河上彦斎・前田伊左衛門・松浦虎太郎・南次郎の4人は暗殺を決行しました。夕方、外出先から帰ってきた佐久間象山は、三条大橋の側で馬馴らしをしていました。通りの角を折り曲がった瞬間、前田伊左衛門と南次郎が左右から挟み撃ちにするように斬りかかりました。足を斬られた佐久間象山は驚いてすぐさま鞭を叩き、馬を走らせました。松浦虎太郎が横から出てきて追いかけました。宿舎が目の前に迫ってきた所で、河上彦斎が馬の前にいきなり飛び出しました。馬はそれに驚いて棒立ちになり佐久間象山は落馬、間髪入れずに河上彦斎は初太刀を彼の胴に薙いました。佐久間象山が刀を抜こうとした瞬間、二の太刀が彼の頭を割りました。追いついた松浦虎太郎が最後に一太刀浴びせ、佐久間象山は絶命しました。暗殺を成し遂げた彼らは、急いで斬奸状を貼りだすと姿を消しました。

その次の次に、第二次長州征伐(四境戦争):小倉口の戦い(大里の戦い)です。長州藩兵と小倉藩兵は関門海峡を挟んで対峙しましたが、再び長州藩兵は上陸作戦を開始しました。海岸線沿いと山間部の両方から小倉藩の重要拠点の大里を目指して進撃しました。この大里砲台に強襲を仕掛けましたが、「奇兵隊」第四銃隊隊長・阿川四郎が戦死するなどの損害を受けて撃退されました。また、大里砲台近くの御所神社には小倉藩兵の数少ない銃隊が籠り、松林内から長州藩兵に銃撃を加えました。これを駆逐しようと同じく「奇兵隊」第四銃隊・堀滝太郎が攻めかかりましたが、彼もまた銃弾に倒れました。次第に戦況は長州藩兵の優勢となり、小倉藩兵は力尽きて、赤坂方面に撤退しました。長州藩兵も追撃する余力がなく、再び下関に撤退しました。

そのまた次に、会津戊辰戦争:棚倉落城です。白河城にて新政府軍と列藩同盟軍の攻防が繰り拡げられていましたが、土佐藩の増援が到着し、薩摩藩、長州藩、東征大総督参謀・奥州追討白河口総督の鷲尾隆聚と阿波藩が到着すると、ようやく積極的な軍事行動に移る兵力が揃いました。新政府軍の北上にあたり、まずは東に列藩同盟軍の棚倉藩がありました。板垣退助が800の別働隊を率いて棚倉藩へ向けて出兵しました。棚倉城は仙台藩と相馬中村藩が守備にあたっていましたが、平潟に上陸した新政府軍に対応するため、棚倉の列藩同盟軍は平潟へ移動して手薄となっていました(磐城戦争)。そのため、棚倉城は1日で陥落してしまいました。棚倉藩主・阿部正静は、棚倉城が陥落すると降伏しました。新政府より列藩同盟に参加した罪を問われて、4万石削減の6万石に減封となった上、家督を養子・正功に譲って強制隠居処分に処せられます。白河と棚倉を抑え、北上の体勢の整った新政府軍は平潟方面軍の磐城平藩の攻略を待ちます。

そのまた次の次に、相沢事件です。皇道派青年将校に共感する相沢三郎陸軍中佐が、陸軍省で統制派の永田鉄山軍務局長を殺害した事件です。「三月事件」、「満州事変」、「十月事件」が起こり、日本陸軍は統制経済による高度国防国家への国家改造を目指す統制派が、革新派の青年将校や皇道派と対立しました。「士官学校事件」、皇道派の真崎甚三郎教育総監の更迭により、反対派を一掃しようとしました。林銑十郎陸軍大臣から辞職勧告を通告されると、真崎甚三郎は反論しました。皇道派の将校らは、林銑十郎大臣の行動を統帥権干犯と非難しました。「士官学校事件」の背後に永田鉄山がいると判断した相沢三郎は、永田鉄山の殺害を決意しました。台湾転任を前に上京途中に伊勢神宮と明治神宮に参拝し、「もし、私の考えている事が正しいなら成功させて下さい。悪かったならば不成功に終わらせて下さい」と、祈願しました。陸軍省に到着すると相沢三郎が一番尊敬していた山岡重厚整備局長を訪ね、談話中に給仕を通して永田鉄山少将の在室を確かめた後、軍務局長室に闖入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山を殺害しました。相沢三郎は死刑となり、銃殺刑となりました。

さらに次に、麻山事件です。満州国鶏寧県麻生区で、日本の哈達河開拓団が避難中にソ連軍と満州国軍反乱兵によって攻撃されて、集団自決した事件です。「ソ連対日参戦」により、ソ連軍の奇襲攻撃が開始され、ソ連の第1極東戦線に属する優勢な機械化部隊が押し寄せました。日本軍の前哨拠点の多くは全滅するまで抗戦しましたが、突破されました。開拓団などの日系住民の避難も開始されましたが、鉄道を利用できたものは一部で、多くは徒歩での移動となりました。哈達河開拓団主力の貝沼洋二団長以下約700人は、滴道に駐屯していた第126師団野砲兵第126連隊残留隊(指揮官:三島政道中尉)の約540人(朝鮮出身者80人を含む)の後を追う形で、林口県方向へ避難を開始しました。哈達河開拓団と野砲兵第126連隊残留隊は、麻山付近に到達しました。しかし、麻山は林口へ向けて進撃中のソ連第39狙撃師団(師団長:ヴェ・ア・セメノフ少将)と第75戦車旅団が通過中で、日本側はソ連軍の攻撃を受けて猛烈な遭遇戦に陥りました。野砲兵第126連隊残留隊は、改造三八式野砲・10センチ榴弾砲各3門で応戦しながら林口に向けて撤退しましたが、隊列後方を中心に損害が出ました。ソ連軍は、哈達河開拓団にも銃砲撃を加えました。開拓団は後方からもソ連戦車が接近中との情報を受け、もはや包囲された状態と判断しました。退路は北方の山地しか無く、疲労して逃亡継続が不可能と考えた婦女子は、貝沼洋二団長とともに自決する事にしました。わずかな男子団員が自衛用に携行していた銃により射殺する事で「介錯」し、凄惨な集団自決が行われました。男性団員の一部はソ連軍に対して夜襲をかけるなどしました。「麻山事件」での自決・戦死による団員の死者は421人におよびました。

最後に、日本航空123便墜落事故です。「日航ジャンボ機墜落事故」とも言われる日本航空123便、東京(羽田)発大阪(伊丹)行、ボーイング747SR−46が、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称・御巣鷹の尾根)に墜落した事故です。乗員乗客524名のうち、死亡者数は520名、生存者(負傷者)は4名でした。夕方のラッシュ時とお盆の帰省ラッシュが重なった事などにより、著名人を含む多くの犠牲者を出し、社会全体に大きな衝撃を与えました。2020年現在で、死者数は日本国内で発生した航空機事故では史上最多で、単独機の航空事故でも世界最多です。以下は、この事故で犠牲になった著名人です。坂本九(歌手)、北原遥子(女優・元宝塚歌劇団娘役)、中埜肇(阪神タイガース球団社長)、浦上郁夫(ハウス食品代表取締役社長)、塚原仲晃(大阪大学基礎工学部教授)、伊勢ヶ濱親方の妻子、吹田明日香(タレント)の母、ダイアナ湯川(バイオリニスト)の父

今日の誕生日:徳川家光(江戸幕府第3代将軍)、淡谷のり子、東てる美、陣内孝則、角松敏生、松永成立、北尾光司、青嶋達也、デビット伊東(B21スペシャル)、網浜直子、武田久美子、東幹久、竹若元博(バッファロー吾郎)、J(LUNA SEA)、諸星和己(元光GENJI)、吉岡秀隆、松岡充(元SOPHIA)、貴乃花光司、パク・ヨンハ、大渕愛子、亀田姫月、鈴野未光(NiziU)

今日の記念日:国際青少年デー、航空安全の日・茜雲忌、君が代記念日、太平洋横断記念日、配布の日、アルプスの少女ハイジの日、ハイチュウの日、最高気温の日

今日の「今日訓」:本日は、2013年に高知県四万十市江川崎で41度を記録し、日本の観測史上最高気温となった事で「最高気温の日」、1999年にリスボンで「世界青少年担当閣僚会議」が閉幕した事を記念して「国際青少年デー」、1985年に520人の犠牲者を出した「日本航空123便墜落事故」により「航空安全の日」、その遺族らがつくる「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」とも呼ばれています。1893年、文部省が訓令「小学校儀式唱歌用歌詞並楽譜」を布告し、小学校の祝日大祭日の唱歌に「君が代」など8曲が定められた事を記念して「君が代記念日」、1962年、堀江謙一が小型ヨット「マーメイド号」で太平洋単独横断に成功し、サンフランシスコに到着した事で「太平洋横断記念日」、「は(8)い(1)ふ(2)」の語呂合わせで「配布の日」、「ハ(8)イ(1)ジ(2)」の語呂合わせで「アルプスの少女ハイジの日」、「ハ(8)イ(1)チュウ(2)」の語呂合わせで「ハイチュウの日」となりました。
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