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2023年05月25日10:35

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【2000年10月】関西から二度目の青森の旅

シドニー五輪中の北海道旅行から、関西在住中の二度目の東北地方の旅行まで一月も経っていませんでした。参加していた地球温暖化抑制のための新エネルギー源探索のプロジェクトが停滞し、気に入っていた関西生活も三年目の半ばでは精彩を欠きつつありました。9月の末日には、一年前から参加していたクラシック音楽のインターネット掲示板のオフ会が梅田で開催されたのに出席し、旅に目覚める前からの生き甲斐だった音楽の世界がリアルワールドでも拡大していきました。二年前の北海道旅行で出会った女性の実家が大阪の下町の商店街のCDショップだったので、クラシック音楽の掲示板で紹介されたCDを見つけて購入したりして売り上げに貢献するようになりました。

青森県への旅は二年ぶりでした。行きの飛行機が満席で京都から新幹線を二本、特急列車を乗り継いで出かけます。10月7日(土)の午前6時前、奈良市の自宅を出発したとき、辺りは青い色に包まれていました。東北の天気予報をインターネットで見たところ、青森は9日に一時雨であり、八甲田山の登山が雨に祟られる可能性があります。本日の天気も一週間前には晴天が予想されていたのに当日には天候が悪化して、失望と不安の中での出発です。京都発6時49分の「のぞみ42号」(東京着9時24分)に乗って、一週間分の日記をしたためます。

東京駅に到着してから東北新幹線への乗り継ぎに50分を費やしました。先に到着した列車を見送り、一本先の列車の列に並んだのですが空席が見つからず、仙台までドアのところに立って外の景色を眺めて過ごしました。休日の東北方面の列車の混雑を思い知らされます。東北へ列車で行くのは1996年1月に雫石にスキーに出かけて以来でした。田んぼや山の風景が窓外に広がって懐かしい気分にもなります。東京駅の切符売り場の係員に東北の訛りがあるのに気づいてから、東北の旅モードにスイッチが入っていたようです。

盛岡駅到着は12時半、駅ビル地下の「磯よし」は混んでいましたが、待たずに二人用の席に座れました。ウニとイクラの両方を満載した「海宝丼」は定番メニューです。生ビールのジョッキが冷えていなかったのが少し残念でしたが、その後に生酒、生牡蠣、ホヤの塩辛を追加注文すると、牡蠣は新鮮でホヤはクセが少なくて食べやすく、東北の味覚を満喫するのも久しぶりです。

盛岡から青森までの新幹線が開通していなかったので特急列車で二時間かかり、青森からは普通列車で弘前に向かいます。ディーゼル車の中でルーズソックスの女子高生の津軽弁が聞こえてきます。弘前の二駅手前の川部駅でしばらく停車している間に時刻表をチェックしたところ、五能線に乗り替えて二駅目の林崎駅まで行ってくる余裕があることが判明しました。線路の両側に一面に広がる収穫期のリンゴ畑の風景を眺めずにはいられません。ほとんど衝動的に降車して17時8分発の五能線の列車に乗り込みました。林崎地区のリンゴを眺めるのは7年ぶり二回目です。前回は空前絶後の台風の被害に遭って収穫を控えた大量のリンゴが地面に落下して痛々しい状況だったものの、枝の上に残った様々な種のリンゴの色彩が花園と見紛うばかりでした。林崎駅に日没前の17時14分に降り立つと目の前に山頂が尖った岩木山の真っ黒な姿が立ちはだかりました。今回はリンゴの収穫最盛期には少し早くて、肉付きが良くなって枝がしなっているものの色付きはまだの実が多いようです。明日もう一度眺めに来てもガッカリするかもしれないので、比較的収穫期の近そうな実のなった枝を選んで暗くなった空をバックに三枚撮影した後、リンゴ畑を後にしました。

林崎駅の待合室で東京駅からの経過を日記に記しました。18時前に日没を迎えて真っ暗です。弘前駅からひろさきユースホステルまで2kmの道を迷わずに歩いて8時頃に到着しました。ユースでの夕食の提供が無く、風呂が狭いことも知っていたので、ユースお勧めの寿司屋と銭湯(天恵の湯)へ出かけます。10分くらい歩いて繁華街の近くの小さな店を見つけました。カウンターが6席、後方に畳の座敷があります。大将は6〜70歳くらいに見えます。中年男性と色白の美人のカップル、オジサンが飲んでいて大将と津軽弁で話しているので聞き取れません。カップルが帰った後、別のオジサンが入ってきて繁盛しています。上寿司に鮑の握りも含まれ、さすが青森と言う新鮮さです。トロの握りとタコの頭を追加で注文し地酒も飲みました。またイカのゲソの刺身も出してくれました。全部で5000円ほどという安さでした。(ユースの近くには1000円で美味しい定食が食べられる店があったようです。)大将と二人のお客さんとは青森のこととか旅行についてなど話をしました。翌日にはシドニー五輪の女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんが弘前でのレースに参加しに来るという情報も聞きました。寿司屋を出た後、天恵の湯ではラジウム鉱泉に浸かって温まりました。

ユースに戻るとホステラーの到着が相次いでいました。東京からの若い女性一名、日本語の上手い色の黒い外国人女性を同伴したアフロヘアーの男、日本人女性と金髪の女性との二人旅がいます。私の現住所である奈良出身の静岡の男とヨーロッパの旅行について話し込みました。ひろさきYHは常に猫を飼っていて、二年前にいた「ヒナコ」はピンク色の斑のあるグレーの猫ですが、食堂に入ってきたのを構おうとしても懐かずに逃げていきました。翌朝に三毛猫の「サクラ」と再会し、こちらは太っていて大人しいのですが、抱き上げて下ろすときに唸り声を上げました。

10月8日(日)は7時過ぎに出発です。ユースから近い弘前城公園内を武家屋敷街の方面へ抜けました。多少霞んでいますが岩木山の姿がくっきりと見えて、山に見守られた町の魅力を感じます。公園内をジョギングする人や散歩する人もいますが、人影はまばらです。紅葉の見ごろには早すぎて公園の周囲の木々の葉の色も鮮やかさがありません。武家屋敷の公開時間には早すぎる時刻だったので、弘前駅へ向かいました。パリのノートルダム大聖堂のような白い教会を眺めたのは8時半です。武田鉄矢のような長髪を後ろで束ねた牧師さんが出てきて中を案内してくださいました。プロテスタントの教会で100年以上の歴史があり、内部は簡素な造りですがグランドピアノが設置してありました。リュックサックを背負った私の旅姿を見て、バックパッカーですかと聞かれましたが、当たらずとも遠からずです。更に10分程歩いて古い赤レンガの弘前昇天教会を訪れました。カトリック教会なので聖像を頂いた祭壇があり、先ほど訪れたプロテスタント教会とは雰囲気が違います。襖で仕切られた小部屋もあります。

弘前駅に辿り着いたのは9時20分頃です。9時30分の弘南鉄道に乗車し黒石へ向かいます。10時15分のバスに乗り「リンゴ試験場」を二年ぶりに見学しました。前日の林崎駅周辺のリンゴ畑は見学を全く想定していませんが、こちらは全てが肥料の与え方や病虫の試験用であると知りました。真っ赤に熟してはち切れそうな果実や、成熟の途中でピンク色の表面が官能的にさえ見える果実や、贈答用に「寿」の文字を刻印するため黒いテープでマスキングした果実など、様々なステージのリンゴを見るだけでも大きな収穫です。晴れて来たので青空に赤い色が映えます。バス停の位置を見失ったので、黒石の市街まで30分以上掛けて歩きました。11時40分の弘南鉄道の列車まで少し余裕があったので、雪除けのアーケードの連なる「こみせ」のある通りを歩きました。酒蔵などの建物を眺めて5年前のGWに訪れたことがあるのを思い出し、もう少し時間を掛けて散策したくなり、一時間に一本の列車の発車時刻が迫るのが残念です。

弘南鉄道の車窓からもリンゴ畑の風景や岩木山の雄姿を眺められ、運動公園は高橋尚子選手を迎えているマラソン大会で賑わってテントや露店で一杯です。昼食は弘前駅ビルの一番上の階の食堂に入りましたが、窓の外の景色に見覚えがありました。以前2回入ったことがあり、1回目はホステラー同志でした。ビールと上寿司、ビールがアサヒスーパードライの瓶しかないのが残念だったので、日本酒を追加しました。JRで青森到着は14時前、リンゴを大量に販売している店でオバちゃんが盛んに声を掛けてきます。市場は残念ながらお休みで、寿司屋だけ営業していました。

14時30分のバスで八甲田方面へ向かいます。渋滞でバスが進まないことを覚悟していましたが、飛び石連休で翌日が月曜だったせいか奥入瀬までほぼ定刻に進行しました。途中の萱野高原のあたりで家族連れやカップルの車の路上駐車のせいで多少流れが悪く、睡蓮沼のあたりの違法駐車が多くて車の行き違いに交互通行を迫られましたが、「おいらせユースホステル」の入り口となる焼山のバス停には16時過ぎの定刻に到着しました。バス停からユースまでの坂道を登っていたホステラーは、他に若い女性が一名いました。胸が大きくてスタイルが良く色白で黒髪の美人ですが、表情がなんとなく硬くて冷たい印象です。東日本の県名が苗字の東京の人でした。関東出身の関西在住の私は西日本の女性に一番魅力を感じるようになっていた一方、首都圏の女性から警戒されるようなキャラクターも育っていたかもしれません。

ユースは満室ではないもののホステラーが2〜30名くらい宿泊し、車で来た人が多かったようです。誰か旅仲間との再会を期待していたら、4年前の夏に礼文島の桃岩荘ユースホステルの8時間コース(西海岸を歩き通す定番コース)を一緒に歩いたメンバーの一人だった篠原君が旅で出会ったらしい男1名と女1名を同行して車で来ていました。厚木の人でしたが最近故郷の八戸に帰ったところだそうです。中年のホステラーが結構いるのも前日のひろさきYHと同様で、5〜60代のオジさんや4〜50代のオバさんの一人旅もいます。日に焼けた40代独身女性の一人は、本格的な登山を行う人で百名山の制覇途上のよく喋る人でした。色白で大柄、胸の大きな若い賑やかな女の子が食事の支度を手伝っていたので、ヘルパーさんかと思ったら、目的を明確に決めずに東北を旅している「プー」(無職)だそうです。車で来たホステラーの話を聞きながら、珍しい鍾乳洞に連れてってもらう算段を試みています。

このYHも猫を飼っていて、黒縞の雄のまだ子猫で盛んにじゃれてきて抱き上げると嚙みついたりしますが、向こうから走り寄ってきたりして遊びたい盛りです。尻尾の先の骨が幾重にも捻じれて玉のようになっていました。ホステラーは多いけれど蔦温泉に連れていってもらえるとは限らないので、YHの風呂を初めて使用しました。入浴剤が入って、石鹸、シャンプーが揃って(YHでは常識ではない)感じの良いバスルームでした。夕食は前回同様、鮭のバター焼きや菜っ葉のお浸しなど品数が豊富で美味しく頂きました。食後に車で到着したホステラーがいて、蔦温泉に連れて行ってもらいました。東京から夜の東北道を飛ばしてきた人ですが、奈良も好きだそうです。研究職に近い仕事に携わっていると聞きました。

この日、宿泊していたホステラーに一名、精神障害が疑われるコミュ障の男がいました。ずんぐりしてギョロ目のフランケンシュタインのような濃い顔立ちで、ホステラー同志の会話に全く空気を読まずに割り込み自分勝手なコメントをネチネチと大声で繰り広げて顰蹙を買っていることに本人は全く気付かない様子です。近くの席の若い一人旅の男は露骨に嫌な表情を見せていました。その内、白人女性を連れた外国人のグループのテーブルに遠征したのですが、英語ができないので困惑されるばかりです。見かねて英語で話を通じさせた私を「国際人」呼ばわりしますが、英語が少しくらいできることは「国際人」なるものの資格ではないので意識の低さもバレバレです。居室が一緒だったので聞かされた話では、脳に障害があって手術を受けたことがあり、運転免許の取得は許可されたとのことです。その後「爆睡」したそうで翌朝は色々な人に「目が真っ赤ですか?」と繰り返しました。

翌10月9日(月)は曇っていましたが、旅行前の天気予報では雨天も予想されていたので、それよりはマシです。八甲田ロープウェイを使って頂上駅から八甲田大岳を目指す予定だったのですが、ペアレントさんから混雑するロープウェイを使わない酸ヶ湯(すかゆ)温泉→大岳→毛無岱→酸ヶ湯温泉という4時間のコースを勧められたのでそちらに変更しました。バスの時間まで余裕があったので、弘前滞在時の分の日記を書いて過ごしました。9時半に焼山を通る青森駅行のバスに乗車したホステラーは4名くらいです。東京から来た30歳くらいの女性と酸ヶ湯温泉に着くまでの約一時間、北海道や海外などの旅行の話をしました。バスの車内のテープの観光案内は、八甲田連山の話、紅葉や木々の植生、津軽地方の方言についてなど前日のバスと全く一緒の内容でした。

酸ヶ湯温泉旅館から少し離れた登山口に向かう人は他に誰もいませんでした。登り始めて30分経過してから、やっと出会った登山者を一人また一人、次に熟年の夫婦を追い抜きました。青森や弘前よりも高度がある分、紅葉が進んでいます。山間の木々が赤、オレンジ、黄色、緑のまだら模様を見せています。遠くに岩木山の影もうっすらと浮かび上がります。岩場を越えてしばらく平らな道が続く途中に湧水があります。バスで一緒だった女性のお勧めスポットです。浴槽のような水溜から樋を伝って流れています。冷たくてミネラル分も多そうな美味しい水でした。

やがて八甲田大岳の山頂が目の前に見えてきましたが、つづら折りの登山道が全長にわたって露わになっているので山頂までの道のりのしんどさを感じさせます。岩肌に張り付いたような登山道をロープ伝いに登って山頂を目指しながら、時々振り返って黄色やオレンジ色の斑になった下界の景色が見下ろしました。スタート地点の酸ヶ湯温泉も遥か下に見えます。ここまで登ってきた自分自身を褒めてやりたい気分になります。

八甲田大岳頂上に辿り着いたのは12時頃です。曇っていますが、岩木山、青森の市街地、陸奥湾、下北半島と見渡すことができました。前々日に弘前YHに宿泊していた男に会いました。朝早いバスに乗ってロープウェイの方から登ってきたそうです。山頂で弁当を食べたら美味しそうですが、持参した食料は酸ヶ湯温泉で買ったチョコレートと焼山のバスターミナルで買ったペットボトルのお茶と缶入りのリンゴジュースだけで非常食としても足りません。気温は高くはないのですが、登り道で長袖のシャツだけでなくジャンパーまで汗でぐっしょりとなって絞れば流れ落ちそうです、頂上は風が強くて冷たいので、汗を乾かして体を冷やすのを警戒し、長居せずに下山することにします。

酸ヶ湯温泉から山頂まで登ってきたのは少数派だったようで、下山道は多少混み合いました。中年以上の人が多く、東北弁もたっぷり聞こえてきます。普段の生活が京都府と奈良県の県境の往復で関西弁に囲まれているので東北の訛りが新鮮なのも、今回の旅の収穫を感じます。まだ体力が十分残っていたので、一か月前に紅葉の大雪山を歩いた時の高揚感がそのまま蘇ったかのように足取りが軽く、前を歩いている人に次々に道を譲られました。湿地の毛無岱の紅葉を眺めるのは三度目で、7年前、2年前と同様、曇り空の下でしたが、木道の階段の上から見下ろす下毛無岱の彩りの美しさには息を飲みます。赤、黄、オレンジ、緑の鮮烈な色彩が木道の両側の湿地帯に散らばって花畑のような景色が展開してこの世のものとも思えないほどです。階段を降りずに腰かけて見入っている中年女性も数名います。しんどい登山を経てここまで辿り着いた甲斐があり、八甲田山を訪れた収穫もここに極まったという気分になります。

歩いてきた道を振り返ると、通り抜けて来た森の紅葉が鮮烈、まるで赤、黄色、橙色の絵の具を原色のままキャンパスに散りばめたようです。八甲田山の紅葉を眺めるのは三度目でしたが、今回が最も見頃に当たっています。鮮やかな紅葉の背後の八甲田連山など撮影し、木道で立ち止まって記念写真を撮影してもらい、散策路からの湿原や森林の紅葉のパノラマ写真もいくつも出来上がりました。東北の紅葉を堪能した幸福感と満足感で一杯になりましたが、酸ヶ湯温泉までの下山路では疲労が急激に募りだしました。2時半頃に下山した時は、足がクタクタで目の焦点も合わなくなり持病の違和感も広がっていました。座り込んで5分くらい休んだ後、温泉に向かいました。弘前YHに宿泊していた男に、また会いました。一足早く近道で下山したので毛無岱の紅葉を味わうことはなかったようです。おいらせYHのペアレントさんのアドバイスは貴重でした。

酸ヶ湯温泉は多くの登山客、湯治客、観光客で大賑わいです。男女混浴で浴槽に仕切りはありませんが、入り口が別々なのに従ってスペースも緩く分かれています。女性はおばあちゃんが多く、重力に逆らえなくなった体つきを隠しもせずに湯船の周りに並んでいます。50代以下の女性はタオルで上手く体を隠して浴槽に浸かっています。下山道で見かけた若いカップルの女性が入浴しているのを発見しました。体の前だけタオルで隠し、締まりのある腰回りとプリっと形の良いお尻を露わにした素敵な後ろ姿を魅せながら足早に脱衣所へ戻っていきました。

奥入瀬・十和田湖方面のバスに乗ったのは15時45分です。この年から体育の日が第2月曜と定められ、9日月曜の今日は連休の最終日なので宿泊者は減りました。おいらせYHに帰館した時のホステラーは、60代と思しき白髪交じりのロングヘアのオバサン、前日から連泊の東京の女の子、太ったライダー男だけでした。その後、沖縄出身の小柄な茶髪の女の子が遅れてきた他、ドライブ旅行の男4人組が到着しました。静岡で暮らしていた友人同士で良い人たちのようですが、個人旅行が基本のユースホステルでは男同志の旅はむさくるしく見えます。男4人組の車旅は、一名がリーダー、助手席にはアドバイザー、その後ろにコメンテーターがいて、残る一人は今何県にいるのかも定かではないボケ役となるのが通例です。私自身、昭和の学生時代は旅行と言ったら友人の車に同乗させてもらうだけの「ボケ役」を務めるしかなく、物足りなかったのが一人旅に目覚めるキッカケでした。ユースホステルで出会うグループ旅行者は、仲間内で固まって他の旅行者を寄せ付けない雰囲気があるので、あまり歓迎されない存在で、男同志のグループにユースで出会ったらその日のステイはハズレと思っています。

オバサンホステラーはYH宿泊歴が長いようで、夕食時には妙に気を遣って食事の用意を積極的に手伝い、「若い人はいいわね!」と他のホステラーに話しかけたりしています。四人組にも旅の予定について聞いて、私も同乗させてもらえないかしらと相談しかけるのは空気を読まない厚かましさであり、完全に無視されて当然でした。ユースで飼っている猫がやってきましたが、オバサンは猫嫌いらしく猫が近寄るのを露骨に嫌がっています。

この日はホステラーが少なめなので、YHの風呂は沸かさずに蔦温泉ツアーが決まってペアレントさんの車で連れて行ってもらいました。ライダーさんは大雪山の紅葉を見てきた後、帰宅せずに東北に降りてきて再び紅葉に巡り合ったとのことです。YHの食事について、他人の作る飯は美味いというのが実感だそうで、野宿が定番の旅を続けているようです。

蔦温泉からYHに戻ってからホステラー四人でビールを飲みました。沖縄の女の子は旅の予定が立っていないので、皆でいろいろアドバイスを重ね、十和田湖まで歩いてから引き返して下北半島へ向かうコースを決めたようです。東京の女の子とライダーさんは沖縄にも詳しく、東京の沖縄料理の店に良く行くけれど「島豆腐」の味だけは東京では再現できないと言います。47都道府県の内、沖縄県だけ行ったことが無い私は、ちょっと話題から取り残されました。(ゴーヤを初めて食べたのが一年後、タモリ俱楽部で鶴見の沖縄タウンが紹介されたのは4年後、江坂の日本酒&沖縄料理の店に週末に来店するのは11年後です。)

最終日10月10日(月)は8時45分のバスに乗り、9時少し前に石ヶ戸から十和田湖までの9kmの奥入瀬渓流の散策に出発しました。沖縄の女の子が同じコースを歩く予定でしたが、上手く撒かれたのか姿が見えません。奥入瀬の紅葉の見ごろは、まだ先で木々の緑が黄ばみつつある程度でしたが、渓流は遡るほどに透明度が増していくので、岩にぶつかって飛沫を上げて渦巻く奔流やエメラルドグリーンの水がゆらゆらと煌めく様子を撮影しないではいられなくなるのは、四度目の散策でも変わりません。前日の登山の疲れか体調が悪化。持病の症状の出現で歩調が狂いだしました。いつの間にか沖縄の女の子が追い付いてきて、抜きつ抜かれつを繰り返す散策となりましたが会話はほとんどありません。十和田湖畔の子ノ口到着は11時半でした。

十和田湖遊覧を兼ねて休屋に向かう船に乗りこみ、女の子の方は11時55分の青森行きのバスなので余裕ですが、十和田湖の写真を撮りながら、見送りはしてくれません。遊覧船の船員の一人はスレンダーな美人でした。天気は悪くないのですが、持病の再発など体調も良くないので、甲板の固い椅子に座って湖を眺める気力も体力も尽きました。船室で一時間過ごしましたが、大好きな生ビールを飲む気にもなれません。休屋に到着してレストハウスに寄って休んでも持病は好転しません。きりたんぽ焼き一本だけを昼食として13時20分のバスで盛岡に向かいます。2時間位の乗車、東北自動車道から安比スキー場のある前森山や岩手山が良く見えました。眠り込んで気が付くと好摩SAで終点の盛岡もすぐです。

関西への帰路として、花巻空港から伊丹空港までの飛行機のチケットを取っていました。花巻空港までの行き方を駅員に聞いたらバスで行けと言われました。(JRの花巻空港駅から空港まで徒歩30分であることを知ったのは二年後でした。)駅前のバスターミナルで聞いたら次のバスは17時20分なので、行きと同じ地下街の「磯よし」に寄って、生ビールと「海宝丼」で早めの夕食としました。花巻空港は小さな空港で、職場への土産に相応しいものは大船渡名物の「鴎の玉子」しか見つかりません。東北旅行や出張の土産の定番の「萩の月」を買いたかったなら盛岡フェザン(駅ビル)で探すべきでした。花巻空港の売店には「萩の月」のコピーのようなお菓子が売られていました。

手荷物のX線検査で筆箱の中のカッターナイフ(鉛筆削り用)が引っ掛かり、CA預かりとなりました。帰りの飛行機の席は中央だったので景色は全く見られません。19時の定時に離陸しましたが、持病の悪化も抱えてしんどさだけが募るフライトでした。この時のフライトの辛い記憶から、11年後に再び関西暮らしとなっての「歩きつなぎの旅」は東北までの往復は新幹線しか利用していません。

東北旅行の分の日記の続きは、体調の回復を待って10月15日(日)にやっと八甲田山登山前日の青森発のバスから認めましたが、帰りのフライト後の記述がありません。30代最後の年に、国内旅行のマンネリ化が進行していたようです。一か月後にクラシック音楽掲示板の参加者とのオフ会が、さいたま市でのイギリス人ピアニストのリサイタル後にあって趣味の世界での人的交流が広がりました。更に京都でもクラシック音楽掲示板の全く別の参加者によるオフ会が開かれて、マニアックな音楽談義の場が繰り広げられました。出向元からリフレッシュ休暇取得の要請があったので、三度目の海外旅行先として選んだのはウィーンでした。12月初旬にクラシック音楽愛好家としての聖地巡礼を果たしたのですが、一人旅の心中は音楽仲間の代表のつもりでもあり、孤独感はありませんでした。一人旅人生が曲がり角を迎えつつあり、首都圏での生活への復帰が迫っていることを知る由もありませんでした。

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