7月7日に母が他界した。享年102歳。絶対に忘れないであろう七夕が命日なんて母らしい。
介護施設に入所していた母は、5月末から固形の食事が摂れなくなり、流動食と水分だけの状態になった。
6月に面会した時は寝ていて話はできなかった。この時に看取り関係の書類に押印してきた。入院や栄養点滴など積極的延命はせずに、自然のままの看取りをお願いした。
やがて母は水分も摂らなくなり、寝ている時間が殆んどになり、会話もしなくなった。
すると、7月7日の午前中に施設から脈が弱くなって来たと連絡があり、とにかく施設に向かった。
昼に着いたら、母はまだ息もしており手を動かすこともあった。手を握ると握り返して来た。眼は開けなかった。
私は、母の手をさすったり握ったりしていたが母は寝たままだった。
3時頃になり、母の呼吸も安定していたので園の人に一旦家に帰りたいと伝えると、たぶん大丈夫でしょうと言われ、母に又来るからね。と言って帰宅した。
家の用事を片付け夕食の仕度をしていると、夜7時過ぎに園から連絡が。
今部屋に行ったら母の息が無かった。と。え、亡くなったと言うことですか?
そういう事です。
今医師を呼んでいて、死亡診断書を書いてもらいます。と。
私たち夫婦は急ぎ施設に向かうことになったが、こんな時に限って、夫が携帯を家に忘れていた。夫の帰りを待って8時前に家を出た。
取り敢えず子どもたちに連絡し、詳しくは後でと伝えた。
母の遺体を運ばないといけないので、ひそかに集めていた葬儀社のパンフの束を掴んで車に乗り、車の中から一番近い葬儀社に連絡した。
すぐ繋がり、9時30分頃までに施設に引き取りに来てくれることになった。さすが!
9時前に施設に着き、安置室に通されると、母は新しい浴衣を着て横たわっていた。家族で過ごせる和室の付いた部屋だった。
昼間生きていた時の母と違って、明らかに魂が抜けた入れ物の体に見えた。
母は施設に入って3ヵ月で逝ってしまったが、施設で友人も出来、楽しくおしゃべりも出来たらしい。寝たきりになってからも職員さんたちに優しく介護されて、寂しい思いもしなかったと思う。そして、苦しまず眠ったままで旅立てるなんて、老衰が幸せな亡くなり方なんだと痛感した。母は幸せだったと思う。
なので、私に悲しみは無かった。むしろ大往生を喜んであげたい。そして、涙は出なかった。
母を介護してからというものの、いつお迎えが来てもいいと思っていたので、やっとお迎えが来てくれて良かったね。という気持ちだったから。
暫くすると、葬儀社が引き取りに来た。私たちは施設の方たちに挨拶をして、葬儀社の車の後をついていった。また、母の荷物を引き取りに行くので、お礼はその時にしようと思った。
葬儀社の会堂に母を安置してもらい、葬儀の打ち合わせをした。
シンプルな直葬でお願いし、火葬場でお経をあげてもらう形式にした。
参加者は私たち夫婦と東京に住む長女家族3人の5人だけ。松本の次女には無理して来なくていいと伝えた。ドライな長女が参列するのは、息子に葬儀の経験を積ませたいかららしい。そういう理由ね。
客が居ないので、香典も無いので返礼もない。葬儀社には美味しくない事案だなあ。しかし、戒名もつけてもらうので、トータルで40万円くらいになる。全て見積書と金額提示で良心的。
23年前の父の葬儀では、参加者も多く花の祭壇や大きな会場や返礼、精進落としの料理、めっちゃ高い戒名で、ウン百万もかかった。見積も無く考査する間も無かった。時代は変わったものだ。
直葬、無駄を嫌う母らしい送り方だわ。
正直、母の親類も知り合いも皆存命していない。享年102歳は、恐るべし!
葬儀は7月11日に千葉市斎場で行った。その日は特に暑い日で、喪服が辛かった。娘たちも会場で着替えていた。特に火葬の件数が多く、喪服の人々が右往左往していた。
会場で初見の僧侶は身の丈2mもありそうな方で、目立つこと。
私たち家族は時間になると、火葬炉の前室で母を前にお経を詠んでいただいた。10分ほど立ったままで。
その後、喪主の私だけが火葬炉の前に行き、名前と遺体の確認を行い。母は荼毘にふされた。
約1時間半ほど個室で待っていたが、昼どきなので精進落としをしている家もあって、館内は美味しそうな匂いがあちこちから漂っていた。
娘の小3の息子は、空腹とみえて、私の持ってきた菓子やパンを食べていた。
火葬が終えたら家族で骨を拾い、残りは係りの人が一粒残らず骨壷に入れてくれた。骨壷だけは、母好みの藍色に美しい花の描かれたちょっとお高めのものにした。
すると、大きくて重くて、私では持てないので夫に持ってもらった。葬儀社の人に駐車場まで見送られ、斎場を後にした。
今回気がついたことだが、葬儀社も斎場も職員が殆んど女性だったこと。お悔やみの場には、いかつい男性よりソフトな女性の方が向いていると納得した。
帰りに、長女の夫が直葬って初めてだけど、大分普通の葬儀と違うと驚いていた。
なんせ、棺の中の母は死装束でなく浴衣、花も一切無かった。直葬のシンプルプランって、そうなんだと後で知った。燃えてしまうから、余計なものは要らないと言っていた母らしいか。
帰りに華屋与兵衛に寄って、皆で食事をした。暑かったので、冷房が嬉しい。
和食好みの孫は、冷たい蕎麦と抹茶白玉あんみつを食べた。渋い小学生だ。長女の婿殿とは暫くぶりに会ったが、昔より気さくになっていた。月日を感じる。
夕方になる前に、長女たちは鎌取駅から東京に帰って行った。私たちは家に向かった。
家に着いて、作ってあった後飾り祭壇に遺骨を安置してお線香をあげた。
夫は、自分の部屋でクーラーをかけて寝てしまった。朝から、ご苦労さま。
あわただしい一日が暮れて、ドッと疲れが出た。とうとう涙は一粒も出なかった。自分で思ったより母に対してクールな自分だった。
というより、母が生きている時に散々苦い思いをさせられ、悔し涙を流し過ぎたから、もう涙が出ないのだ。
母が嫌いだったことは変わらないが、鬼籍に入ってしまったら、あまり拘らなくなった。
母は執念深い人で、自分が嫌だと思った人や、恨みのある人は、故人になっても悪口をずっと言っていた。その人たちは死んじゃってるんだから、もう口にしなくて良いんじゃない?と、私が言っても訊かなかった。
私はその母を見て絶対に、ああはなるまい。と思って来た。だから、母が亡くなったので、もう母への嫌な思いは手放そうと思う。それだけで、肩が軽くなった。
残り少ない人生、マイナス感情をなるべく少なくして生きていきたいと思う。
これから、手続きやら供養やら、遺族がやらなければならないことは山ほどあるから、それだけはきちんとする。人は死後も人のお世話になるわけで、生きてる時の在り方が一番大事なのね。
我が家で一番明るくなったのは夫だった。母のイジメにずっと耐えて、私の夫でいてくれてありがとう。と、言いたい。
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