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2022年05月20日21:44

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ドゥーチュィムニー「沖縄の本土復帰50年とこれから:アジア太平洋の安定、繁栄に向けた長期構想を」

 宮城 大蔵


長い歴史の中で、沖縄は度々国際政治の動向に振り回されてきた。沖縄返還から5月15日でちょうど半世紀。これまでの歩みを振り返るとともに、筆者は「地域の平和と繁栄の中にある沖縄」実現に向けた政治と外交の取り組みが必要だと指摘する。

沖縄の歩みと日本
沖縄の歩みは日本、中国、アメリカと、諸勢力の動向に影響を受けてきたが、歴史を振り返れば、とりわけ日本が対内的に統一され、その力が外に向かって膨張するときに大きく左右されることになった。その端緒となったのが薩摩による琉球侵攻(1609年)だ。豊臣秀吉は国内で天下統一を果たすと、明国征服も視野に入れて二度にわたって朝鮮出兵を行い、それに前後して琉球王国は薩摩の軍事侵攻を受け、以後、その支配下に組み込まれることになった。

時代を下って明治維新になると、日本国内では幕藩体制が解体されて中央集権化され、朝鮮半島に向けて勢力圏を構築していくが、その過程で琉球王国は解体されて沖縄県となる。

そして太平洋戦争ではその末期に「本土決戦」と「一億玉砕」が呼号される中、米軍は本土侵攻の足掛かりとして1945年3月末、沖縄への上陸を開始し、住民を巻き込んだ熾烈な地上戦によって県民の4人に1人が命を落とした。総力戦が行き着く先の惨劇であった。

本土復帰後の沖縄
戦後においては日本が主権を回復した後も、沖縄は極東における軍事拠点としてアメリカの統治下に留め置かれ、1972年になって日本への施政権返還が実現した。今年はそれから50年目の節目となる。

沖縄には「復帰っ子」という言葉がある。本土復帰の1972年に生まれた子供たちという意味だが、「復帰っ子」ももう50歳になる。ちなみに筆者は68年生まれなので、「復帰っ子」よりも少し上で、両親は沖縄出身だが、私自身は東京で生まれた。父は復帰前の沖縄から本土に進学して、そのまま中央官庁に就職し、私が小学生の時に沖縄に転勤となった。 

当時の沖縄でよく覚えているのは「730」の標語やポスターが街中にあふれていたことだ。「730」とは7月30日のことで、復帰から6年後の78年、7月30日をもって自動車の走る方向がそれまでのアメリカ統治時代の「右側通行」から日本本土と同じ「左側通行」へと切り替えられた。逆走が生じることになったら一大事だ。さまざまな手段で大々的な周知キャンペーンが行われたわけである。

転校する前の東京の小学校では、「沖縄に行くなら毎日、海で泳げるね」と盛んに言われたが、実際には学校にプールがないこともあって泳げる子は少なく、そもそも住んでいた浦添市の海沿いは米軍基地で占められていた。小学校6年の時に新しくプールができたが、側溝からハブが出てきて騒ぎになり、捕獲作業を恐る恐る遠巻きにして皆で見つめた。

当時は本土復帰に伴う、「730」のような移行措置がまだ進行中で、その一方で、米軍統治下で立ち遅れたインフラ整備が「本土並み」を目指して進められていた時代だったのだろう。
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