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2022年05月17日00:01

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05月17日の日記

今日の出来事:1867年−高杉晋作死す、1868年−近藤勇処刑、1868年−戊辰戦争:飯山の戦い、1889年−府県制・郡制公布、1938年−日中戦争:徐州会戦で西住小次郎戦車小隊長が戦死、日中戦争初の軍神となる、1943年−チャスタイズ作戦が行われる、1956年−石原慎太郎原作の映画「太陽の季節」が封切り、石原裕次郎が映画デビュー、1985年−男女雇用機会均等法が成立

今日は、高杉晋作死すです。高杉晋作は、吉田松陰の門下生で「奇兵隊」を創設して、長州藩を倒幕へと導き、「四境戦争」で幕府軍を破って「大政奉還」へと導いた人物です。桂小五郎や久坂玄瑞たちと共に尊攘運動に加わり、江戸・京都で勤皇・破約攘夷の宣伝活動を展開し、各藩の志士たちと交流しました。1862年、幕府の異勅に抗議するため、同志とともに品川御殿山に建設中の「英国公使館焼き討ち」を行いました。1863年の「下関戦争」で高杉晋作は下関の防衛を任せられました。廻船問屋の白石正一郎邸で身分に因らない志願兵による「奇兵隊」を結成しました。その後、「教法寺事件」の責任を問われて総監を罷免されました。京都での「八月十八日の政変」で長州藩が追放されると高杉晋作は脱藩して京都へ潜伏しました。桂小五郎の説得で帰郷しましたが、脱藩の罪で野山獄に投獄されました。その後、出所して謹慎処分となりました。その後、長州藩は「禁門の変」で敗北して朝敵となりました。イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国連合艦隊が下関を砲撃した「馬関戦争」で砲台が占拠されると、高杉晋作は赦免されて和議交渉を任されました。この講和会議で、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきました。高杉晋作は、ほぼ全ての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れず、結局は取り下げさせる事に成功しました。もしこの要求を受け入れていたら、日本の歴史は大きく変わっていたと言われています。幕府による「第一次長州征伐」が迫る中、長州藩では「俗論派」が台頭しました。高杉晋作は福岡へ逃れて平尾山荘に匿われましたが、「俗論派」による「正義派」家老の処刑を聞くと、再び下関へ帰還しました。そして、伊藤俊輔(後の博文)率いる「力士隊」、石川小五郎が率いる「遊撃隊」ら長州藩諸隊を率いて功山寺で挙兵しました。この「功山寺決起」に「奇兵隊」ら諸隊も加わり、「俗論派」の首魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握りました。下関開港を推し進めた事により、攘夷・俗論両派に命を狙われたため、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ逃れ、日柳燕石を頼りました。しかし、桂小五郎の斡旋により帰郷しました。その後、「薩長同盟」の締結に加わりました。「第二次長州征伐(四境戦争)」では海軍総督として「丙寅丸」に乗り込み、周防大島沖に停泊する幕府艦隊を夜襲してこれを退けると、林半七が率いる「第二奇兵隊」等と連絡して周防大島を奪還しました。小倉方面の戦闘指揮では、まず軍艦で門司・田ノ浦の沿岸を砲撃させました。その援護のもと「奇兵隊」、「報国隊」を上陸させ、幕軍の砲台と火薬庫を破壊して幕府軍を敗走させました。その後、小倉城手前で肥後藩・細川家の猛反撃に合いました。しかし、幕府軍総督・小笠原長行の臆病な日和見ぶりに激怒した肥後藩・細川家をはじめとする幕府軍諸藩が撤兵し、将軍・徳川家茂の死去の報を受けた小笠原長行が小倉城に放火して戦線を離脱したため、幕府軍の敗北は決定的となりました。この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌年の「大政奉還」へと繋がりました。しかし、高杉晋作は肺結核のため、桜山で療養生活を余儀なくされました。1867年5月17日、江戸幕府の終了を確信しながら「大政奉還」を見ずにこの世を去りました。享年29でした。辞世の句は「おもしろき こともなき世を おもしろく」です。

次に、近藤勇処刑です。「鳥羽・伏見の戦い」で敗れた新選組は、幕府軍艦で江戸に戻りました。幕府の命で「大久保剛」と改名した近藤勇は「甲陽鎮撫隊」として隊を再編し、甲府へ出陣しましたが「甲州勝沼の戦い」で新政府軍に敗れて敗走しました。その際、意見の対立から永倉新八、原田左之助らが離別しました。その後、「大久保大和」と再度名を改め、旧幕府歩兵らを五兵衛新田(現在の東京都足立区綾瀬)で募集して下総国流山に屯集しましたが、香川敬三が率いる新政府軍に包囲され、越谷の政府軍本営に出頭しました。しかし、「大久保大和」が近藤勇と知る者が政府軍側におり、そのため総督府が置かれている板橋宿まで連行されました。近藤勇は「大久保大和」の名を貫き通しましたが、元隊士で「御陵衛士」の一人だった加納鷲雄に近藤勇であると看破され、捕縛されました。その後、土佐藩の谷干城と薩摩藩との間で近藤勇の処遇をめぐり対立が生じましたが、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で斬首されました。首は京都の三条河原で梟首されました。こうして新選組局長・近藤勇は散って逝きました。

その次に、戊辰戦争:飯山の戦いです。旧幕府軍の歩兵差図役頭・古屋佐久左衛門は、「江戸無血開城」に先立って400人程の部下を率いて江戸を脱走しました。隊の名を「衝鋒隊」とし、日光−会津−新潟−高田と移動し、各地の旧幕府領を頼って転々としました。そして、信濃国の旧幕府領へ向かう事にしました。その途中には飯山藩がありました。飯山藩は、富倉峠を越えて飯山藩領に入ろうとする「衝鋒隊」を出迎えました。一方で飯山藩は、須坂藩、松代藩へ救援を求めました。すでに、尾張藩から追討の命令を受けていた松代藩はすぐに、1607名の兵を飯山へ向けて出発させました。その他、松本藩550名、田野口藩63名、高島藩93名、岩村田藩59名、須坂藩100名などが次々と尾張藩の命により進発しました。飯山藩に近い須坂藩は、飯山入口にあたる千曲川の渡しに到達しましたが、飯山藩から援兵辞退の使者が到来したため引き上げました。松代藩は、飯山藩が旧幕府軍に味方したと激怒しました。松代藩、須坂藩、尾張藩が中野に布陣しました。上田藩が福島宿着、松本藩が丹波島宿着、田野口藩と岩村田藩が小布施に着陣し、飯山への総攻撃を5月17日としました。午前8時頃、安田口を渡河してきた「衝鋒隊」を千曲川右岸で狙撃し、戦闘が開始されました。千曲川を挟んで激しい銃撃戦を繰り返し、腰巻き渡しの守備隊も加勢して一進一退の攻防となりました。「衝鋒隊」は飯山城内の大砲を借りるため、城の大手に近づいたところを飯山藩は一斉に銃撃しました。飯山城でも「衝鋒隊」と激しい銃撃戦が繰り広げられ、千曲川で銃撃戦をしていた「衝鋒隊」の部隊は飯山城へ撤退しました。そして、援軍が到着して側面から「衝鋒隊」を攻撃しました。飯山城下からは火の手が上がり、「衝鋒隊」は越後国へ退却しました。飯山城下は7割が焼失し、藩の会所や米蔵も焼失しました。飯山藩主・本多助成は弁明をして、新政府軍に許されました。やがて、東山道総督府・岩村精一郎が城下に入り、長州奇兵隊と信濃連合軍が北へ進撃し、北越戊辰戦争を戦う事になります。

その次の次に、日中戦争:徐州会戦で西住小次郎戦車小隊長が戦死です。1938年5月17日午後6時半頃、宿県南方の黄大庄付近にて、高粱畑をかき分け前進していた一行は、戦車の進路前方にクリークを発見しました。西住小次郎は、戦車の渡渉可能な場所を探しに下車して、単身斥候を行いました。そして、指揮官旗を水面に突き刺して地点を確認し、高橋清伍中隊長に報告に赴こうとした直後、背後から対岸の中国兵に狙撃されました。銃弾は西住小次郎の右太腿と懐中時計を貫通し、左大腿部の動脈を切断しました。すぐに部下の城秀雄伍長と砲手で当番兵の高松高雄上等兵が戦車から飛び出して西住小次郎を担ぎ込み、別の戦車2両が前面に出てクリークと西住小次郎の間を遮って盾となりました。西住小次郎は出血多量で意識朦朧となりながらも、高松高雄上等兵に高橋清伍中隊長へクリークの渡渉可能地点を伝達するよう命じました。部下たちによって自身の戦車の中へと戻された西住小次郎は、衛生隊軍医の服部から応急措置を受けて止血しましたが、すでに手遅れでした。自らの最期を悟った西住小次郎は、高松高雄ら部下と高橋清伍中隊長、そして内地の家族への別れの言葉を告げると午後7時30分ごろ、「天皇陛下万歳」の言葉を最後に息を引き取りました。 享年24でした。死後、陸軍歩兵大尉に特進しました。

そのまた次に、チャスタイズ作戦です。イギリス空軍第617飛行中隊による、ドイツ工業地帯のダムの破壊を目的とした作戦です。この作戦には「反跳爆弾」が使用されました。作戦後、同中隊は「ダムバスターズ」として知られるようになりました。この作戦により、搭乗員133名中53名が死亡し、3名が脱出して捕虜となりました。決壊したダムからは、3億3千万トンに達する水が下流のルール峡谷一帯に流れ出し、ダム下流域80kmにわたって被害を及ぼす水害を引き起こしました。この水害により、死者:1249名、死亡家畜数:6500頭以上、流失した橋梁:25箇所、操業不能に陥った軍需工場:125箇所、一時的に耕作不能となった農地:約3000ヘクタールの被害が出ました。

最後に、石原慎太郎原作の映画「太陽の季節」が封切りになり、石原裕次郎が映画デビューしました。「太陽の季節」は、石原慎太郎の小説で第1回文学界新人賞、第34回芥川賞を受賞した作品です。ストーリーは石原慎太郎の弟・石原裕次郎が、ある仲間の噂話として石原慎太郎に聞かせた話が題材になっています。映画化され人気を博しましたが、その内容が問題になり、制作者の内部機関だった「映画倫理規程管理委員会」が外部の第三者も参加する「映画倫理委員会」と改められるきっかけとなりました。また、海辺で無秩序な行動をとる享楽的な若者の事を指す言葉として、「太陽族」という言葉が流行語となりました。原作者の弟・石原裕次郎のデビュー作でもあります。役者の数が足りなくなったため、急遽出演することになったといいます。この映画は、長門裕之と南田洋子が結婚するきっかけともなりました。

今日の誕生日:慈円、エドワード・ジェンナー、横山隆一、松尾和子、安部譲二、島田陽子、曽我ひとみ、エンヤ、三輪テツヤ(スピッツ)、城之内早苗(元おニャン子クラブ)、斎藤陽子、五十嵐充(元Every Little Thing)、坂井真紀、大貫かおり(元おニャン子クラブ)、井ノ原快彦(元V6、20th Century)、中村礼子、生野陽子、松田翔太、小林香菜(元AKB48)、岩本照(Snow Man)、アンゴラ村長(にゃんこスター)、朝長美桜(元HKT48)、アドマイヤドン

今日の記念日:世界電気通信および情報社会の日、世界高血圧デー(高血圧の日)、国際反ホモフォビアの日、生命・きずなの日、お茶漬けの日

今日の「今日訓」:本日は、1865年に「国際電気通信連合(ITU)」の前身である「万国電信連合」が設立された事を記念し、1973年に「世界電気通信の日」と制定されました。2005年の「世界情報通信サミット」で「世界情報社会の日」とする事が決議され、翌2006年の「ITU全権大使会議」で2つの国際デーをあわせて「世界電気通信および情報社会の日」とする事が決定されました。「世界高血圧連盟」が2005年に「世界高血圧デー」を制定しました。2007年からは、日本で「高血圧の日」となりました。1990年に「世界保健機関」で国際障害疾病分類から同性愛を削除する事が決議された事を記念して「国際反ホモフォビアの日」、5月は「新緑の候」で生命の萌え立つ季節である事から17日は「ド(10=とお)ナー(7)」の語呂合わせで「生命・きずなの日」、お茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗円の命日(1778年5月17日)から「お茶漬けの日」となりました。「永谷園」の創業者・永谷嘉男はこの子孫です。
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