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2022年01月19日00:32

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01月19日の日記

今日の出来事:1160年−平治の乱が始まる、1868年−江戸薩摩藩邸焼討事件、1999年−奈良県明日香村で日本最古の貨幣・富本銭が発掘される

今日は、平治の乱が始まるです。「保元の乱」に勝利した後白河天皇は、「保元新制」と呼ばれる代替わり新制を発令しました。「九州の地は一人の有なり。王命の外、何ぞ私威を施さん」と王土思想を強く宣言したこの新制は、「荘園整理令」を主たる内容としていました。鳥羽院政期は全国に多くの荘園が形成され、各地で国務の遂行をめぐって紛争が起きていました。この「荘園整理令」はその混乱を収拾して、全国の荘園・公領を天皇の統治下に置く事を意図したもので、「荘園公領制」の成立への大きな契機となった新制でした。その国政改革を立案・推進したのが、後白河天皇の側近・信西でした。信西は改革実現のために、記録所を設置しました。長官である上卿には大納言・三条公教が就任、実務を担当する弁官からは右中弁・藤原惟方、左少弁・源雅頼、右少弁・藤原俊憲(信西の嫡子)が起用され、その下で21人の寄人が荘園領主から提出された文書の審査、本所間の争論の裁判にあたりました。国政改革推進のため、信西は平清盛を厚遇しました。平氏一門は北面武士の中で最大兵力を有していましたが、清盛が播磨守、頼盛が安芸守、教盛が淡路守、経盛が常陸介と兄弟で四ヶ国の受領を占めて、さらに勢力を拡大しました。また、荘園整理、荘官・百姓の取り締まり、神人・悪僧の統制、戦乱で荒廃した京都の治安維持のためにも、平氏の武力は不可欠でした。大和守に平基盛が任じられたのも、平氏に対する期待の現れでした。大和は興福寺の所領が充満していて、これまで国検をしようとしても神人・悪僧の抵抗により、ことごとく失敗に終わっていました。平清盛は武力を背景に国検を断行する一方、寺社勢力の特権もある程度は認めるなど柔軟な対応で、大和の知行国支配を行いました。さらに平清盛は大宰大弐に就任する事で日宋貿易に深く関与し、経済的実力を高めました。信西は、自らの子・成憲と清盛の女(後の花山院兼雅室)の婚姻によって平氏との提携を世間に示し、改革は順調に進行するかに見えました。しかし、ここにもう一つ別の政治勢力が存在しました。美福門院(藤原得子)を中心に東宮・守仁の擁立を図るグループ(二条親政派)です。美福門院は、鳥羽法皇から荘園の大半を相続して最大の荘園領主となりました。美福門院はかねてからの念願であった、自らの養子・守仁の即位を信西に要求しました。もともと後白河の即位は守仁即位までの中継ぎとして実現したもので、信西も美福門院の要求を拒む事はできず、1158年に「仏と仏との評定」、信西と美福門院の協議により後白河天皇は守仁親王に譲位しました(二条天皇)。ここに後白河院政派と二条親政派の対立が始まる事になりました。二条親政派は藤原経宗(二条の伯父)・藤原惟方(二条の乳兄弟、記録所の弁官の一人)が中心となり、美福門院の支援を背景に後白河の政治活動を抑圧しました。これに対して後白河は近衛天皇急死により突然皇位を継いだ事もあり、頼れるのは信西のみでした。信西自身も元は鳥羽法皇の側近で、美福門院とも強い関係を有している事から、状況は不利でした。後白河にとっては、自らの院政を支える近臣の育成が急務となりました。そこで後白河は、武蔵守・藤原信頼を抜擢しました。藤原信頼は、1157年に右近権中将になると蔵人頭、翌年に参議・皇后宮権亮、権中納言、検非違使別当と急速に昇進しました。藤原信頼の一門は武蔵・陸奥を知行国としており、両国と深いつながりを持つ源義朝と連携していました。1155年に源義平(義朝・長男)が叔父・義賢を滅ぼした武蔵国「大蔵合戦」で、武蔵守であった藤原信頼の支援がありました。1158年に後白河院庁が開設されると、藤原信頼は院の軍馬を管理する厩別当に就任しました。源義朝は宮中の軍馬を管理する左馬頭で、両者の同盟関係はさらに強固となりました。源義朝の武力を得た藤原信頼は、自らの妹と摂関家の嫡子・基実の婚姻を実現させました。摂関家は「保元の乱」によって藤原頼長の所領が没収された上に、家人として荘園管理の武力を担っていた源為義らが処刑された事で各地の荘園で紛争が激化するなど、その勢力を大きく後退させていました。混乱の収拾のために代替の武力が必要であり、源義朝と密接なつながりのある藤原信頼との提携はやむを得ない事でした。後白河の近臣として他にも、藤原成親(藤原家成・三男)や源師仲が加わって院政派の陣容も整えられました。ここに、信西一門・二条親政派・後白河院政派・平氏一門というグループがそれぞれ形成される事になりました。二条親政派と後白河院政派は互いに激しく対立していましたが、信西の排除という点では意見が一致し、信西打倒の機会を伺っていました。一方、平清盛は自らの娘を信西の子・成憲に嫁がせていましたが、藤原信頼の嫡子・信親にも娘(後の藤原隆房室)を嫁がせるなど、両派の対立では中立的立場にありました。1160年、平清盛が熊野参詣に赴いて京都に軍事的空白が生まれた隙をついて、反信西派はクーデターを起こしました。1月19日深夜、藤原信頼と同心した武将らの軍勢が院御所・三条殿を襲撃しました。藤原信頼らは後白河上皇・上西門院(統子内親王、後白河の姉)の身柄を確保すると、三条殿に火をかけて逃げる者には容赦なく矢を射掛けました。警備にあたっていた大江家仲・平康忠、一般官人や女房などが犠牲となりましたが、信西一門はすでに逃亡していました。藤原信頼らは後白河上皇と上西門院を二条天皇が居る内裏内の一本御書所に移して、軟禁状態にしました。後白河上皇を乗せる車は源師仲が用意し、源重成・源光基・源季実が護送しました。翌20日には、信西の子息(俊憲・貞憲・成憲・脩憲)が逮捕され、全員の配流が決定しました。山城国田原に逃れた信西は源光保の追撃を振り切れず、郎等の藤原師光(西光)らに命じて自らを地中に埋めさせて自害しました。源光保は信西の首を切って京都に戻り、首は大路を渡され獄門に晒されました。信西が自害した23日、内裏に二条天皇・後白河上皇を確保して政権を掌握した藤原信頼は、臨時除目を行いました。この除目で源義朝は播磨守、嫡子・頼朝は右兵衛権佐となりました。しかし、藤原信頼の政権奪取には、大半の貴族が反感を抱きました。二条親政派も源義朝の武力を背景とした藤原信頼の独断専行を見て、密かに離反の機会を伺いました。この「三条殿襲撃」により、「平治の乱」がはじまりました。

次に、江戸薩摩藩邸焼討事件です。江戸薩摩藩邸焼討事件は、薩摩藩が江戸市中取締の庄内藩屯所を襲撃した為、江戸の三田にある薩摩藩の藩邸が江戸市中取締の庄内藩らによって襲撃され、砲火により焼失した事件です。この事件が「戊辰戦争」の開戦のきっかけとなりました。前将軍・徳川慶喜をはじめとする旧幕府の幹部は「小御所会議」により大坂城に詰めており、江戸には市中取締の藩兵のみが警護にあたっていました。この本拠の不在は薩長側にとって都合のいい状況で、旧幕府(徳川家側)と交戦する大義名分を欲する薩摩藩は、旧幕府の戦意を煽るための活動を開始しました。薩摩の意を受けて活動を開始したのは、相楽総三でした。三田の薩摩藩邸を根拠地として意思を同じくする「倒幕」、「尊皇攘夷」論者の浪士を、全国から多数招き入れて「御用盗」と称しました。彼らは薩摩藩士・伊牟田尚平や益満休之助に指導を受け、放火や、掠奪・暴行などの蛮行を繰り返して幕府を挑発しました。その行動の指針となった「お定め書き」にあった攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及びました。旧幕府も前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に「盗賊その他、怪しき風体の者は見掛け次第、必ず召し捕り申すべし。賊が逆らいて、その手に余れば討ち果たすも苦しからず」と厳重に市中の取締りを命じましたが、武装集団に対しては十分な取締りとなりませんでした。庄内藩は旧幕府が上洛のため編成し、その後警護に当たっていた「新徴組」を借り受け、薩摩藩邸を見張らせました。その後、騒乱行為はますます拡大していきました。1月6日に、竹内啓を首魁とするグループが起こした「出流山天狗事件」で敗れた数名が、江戸薩摩藩邸に逃げ込みました。1月9日に、上田修理を首魁するグループが起こした「八王子宿の変」、1月10日に、鯉淵四郎を首魁とするグループが起こした「荻野山中陣屋焼討事件」で逃げ込んだ先も薩摩藩邸でした。1月14日の夜には鉄砲や槍といった武装をした50名が「御用盗」のため薩摩藩邸の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた「新徴組」に追撃され、賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れました。賊徒側も反撃に及び、1月16日の深夜に「新徴組」が屯所としていた赤羽橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走し、薩摩藩邸に逃げ込みました。翌1月17日には庄内藩の屯所である春日神社前の屯所へ鉄砲が撃ち込まれ、使用人1名が死亡しました。1867年11月8日に薩摩藩へ「討幕の密勅」が下りましたが、幕府側はそれを回避するために1867年11月9日に「大政奉還」となり、徳川幕府は朝廷への政権返上を上奏しました。しかし、1868年1月3日に「王政復古の大号令」が発せられ、幕府は廃止されました。これらの状況下で続出する騒乱の犯人として、薩摩藩が裏に控えていると疑った旧幕臣たちと、将軍の留守を守る淀藩主の老中・稲葉正邦はついに武力討伐を決意しました。1868年1月18日に庄内藩江戸邸の留守役・松平権十郎に、「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下しました。これに対し、松平権十郎は薩摩藩が従うとは思えず、討ち入りとなる事は必至と見ました。庄内藩は先日銃撃の被害を受けており、討ち入れば私怨私闘の謗りを受けてしまうため、他藩との共同で事に当たらせるよう願い出て、旧幕府に聞き届けられました。これにより庄内藩に加え、上山藩、鯖江藩、岩槻藩の三藩と、庄内藩の支藩である出羽松山藩が参加する事になりました。戦闘の指揮は庄内藩監軍・石原倉右衛門が執りました。1868年1月19日未明、これらの藩が薩摩藩邸を包囲しました。ただし、庄内藩が受け持つ北門と西門のうち、西門付近では意図的に包囲を緩めました。これは、窮鼠とならないように用意された脱走経路でした。まずは交渉役の庄内藩士・阿部藤蔵が薩摩藩邸を単身で訪問しました。藩邸の留守役の篠崎彦十郎を呼び、賊徒の浪士を武装解除した上で一人残らず引き渡すよう通告しました。藩邸側は後日、こちらから出向いて返事をすると引渡しを拒否しました。阿部藤蔵を藩邸の外に送り出した篠崎彦十郎は、外の様子を探るために藩邸のくぐり戸を出ました。そこには庄内藩兵が待ち受けており、犯罪者引渡し拒否を知った兵に槍で突き殺されました。阿部藤蔵が「もはや手切れでござる」と呼びかけ、それを機に旧幕府方は討ち入りを決行しました。包囲する庄内藩兵たちも砲撃を始め、同時に西門を除く三方から薩摩藩邸に討ち入りを開始しました。迎え撃つ薩摩藩邸や薩摩藩お抱え浪士も応射するなどして奮戦しましたが、多勢に無勢で戦闘開始から3時間後、旧幕府側の砲撃や浪士らの放火によって薩摩藩邸はいたるところで延焼し、もはや踏みとどまれる状況ではありませんでした。当初より脱出を指示されていた浪士達は、火災に紛れて藩邸を飛び出し、二十数名が一組となって逃走を開始しました。相楽総三、伊牟田尚平らを始めとする数組が旧幕府の包囲網を抜き、浜川鮫州へと向けて走り続け、道筋の民家に放火するなどして追跡を錯乱しながら品川へ向かいました。彼らが目指すのは品川に停泊する薩摩藩の運搬船「翔鳳丸」でしたが、焼き討ちと同時に「翔鳳丸」は旧幕府の軍艦「回天丸」の接近を受け、沖合いへと逃げ出した後でした。浪士たちは漁師から小船を奪うと、沖合いへと船を出し、何とか「翔鳳丸」に乗り込もうとしました。この時、150余名の浪士が沖合いを目指しましたが、「翔鳳丸」は再びの回天丸の接近により、錨を揚げて江戸からの撤退を決断しました。かろうじて先に乗り込んだ相楽総三ら28名を収容し、残りは置き去りにして紀州へと向け出航しました。残された者は羽田方面へと船を向けましたが、上陸後に捕吏に囲まれて自決(桜国輔、松田正雄、小川香魚ら)または捕縛されました。この焼き討ちによる死者は、薩摩藩邸使用人や浪士が64人(篠崎彦十郎、立花直記、白石弥左衛門、児玉雄一郎、柴山良助、天辰雄右衛門、山下惣左衛門、内藤栄助、佐野金次、黒田松栄、落合孫右衛門、今村善兵衛、花崎錦蔵、岩元新次郎、大崎猪之助、竹内雅春、奥田元、竹内光次郎、山田兼三郎ら)、旧幕府側では上山藩が9人、庄内藩2人の計11人でした。また、捕獲された浪士たちは112人でした。この後、脱出した相楽総三らは「赤報隊」を結成して「偽官軍事件」を起こす事になります。事件の詳細が大坂城の徳川家の幹部の元へ伝わったのは1月22日、対薩強硬派として知られる大目付・滝川具挙と勘定奉行・小野広胖によってでした。老中・板倉勝静と前将軍・徳川慶喜は沸きあがる薩摩討つべしとの声を抑える事ができず、薩摩藩の目論見どおりに旧幕府は「討薩」への意思を固めました。旧幕府は朝廷へと「討薩」を上表し、軍を編成して京都に向けて進軍を開始しました。こうして「鳥羽・伏見の戦い」が勃発して「戊辰戦争」の開戦となります。

最後に、奈良県明日香村で日本最古の貨幣・富本銭が発掘です。富本銭は、683年頃に日本でつくられたと推定される銭貨です。708年に発行された「和同開珎」より年代は古く、日本で最初の貨幣とされています。平均の直径が24.44mmの円形で、中央には一辺が約6mmの正方形の穴が開いた円形方孔の形式です。厚さは1.5mm前後、重さは4.25g〜4.59gほどです。形式は、621年に発行された唐の「開元通宝」を模したものと推定されています。表面には、縦に「富夲」と書かれ、横には7つの点が亀甲形に配置された七曜星という文様があります。「夲」は「本」の異体字であると考えられています。材質は主に銅で、アンチモンを含みます。これは、融解温度を下げ鋳造を易しくするとともに、完成品の強度を上げるために意図的に使用されたものと考えられます。微量の銀、ビスマスも含まれています。「富本」というのは、唐代の百科事典「芸文類聚」が引く「東観漢記」の「富民之本在於食貨」(民を富ませる本は食貨に在り)という故事に由来します。七曜星は五行思想の陰陽と、木・火・土・金・水を表し、天地の象徴を示していると考えられています。「富本銭」は、1694年発行の「和漢古今寳泉図鑑」に「富夲銭」として登場し、1798年に刊行された古銭目録「和漢古今泉貨鑑」に、「富本七星銭」として図柄付きで載っており、昔から貨幣研究家の間では知られていました。「和漢古今泉貨鑑」を刊行した朽木昌綱は「富本銭」を「古寳銭」と分類し、「夲」は「本」字の代わりに使用されたものであると指摘しています。「富本銭」を含む朽木昌綱の収集品は、幕末に鉄砲の対価としてドイツ人に売却されたとされていましたが、1999年に大英博物館に収蔵されているのが発見されました。戦後の遺跡調査の進展もあり、「富本銭」の出土が相次ぎました。1969年に「平城京跡」から、1985年には「平城京跡」の井戸の底からも出土しました。1991年と1993年には、さらに古い「藤原京跡」からも相次いで出土されました。これにより、今まで最も古い貨幣とされてきた708年発行の「和同開珎」よりも古い可能性が出てきました。1995年には、群馬県藤岡市の「上栗須遺跡」から1枚出土しました。1999年1月、「飛鳥京跡」の「飛鳥池工房遺跡」から33点もの「富本銭」が発掘されました。それ以前には5枚しか発掘されていませんでした。33点のうち、「富本」の字を確認できるのが6点、「富」のみ確認できるのが6点、「本」のみ確認できるのが5点で、残りは小断片でした。完成に近いものの周囲には、鋳型や鋳棹、溶銅が流れ込む道筋である湯道や、鋳造時に銭の周囲にはみ出した溶銅である鋳張りなどが残っており、仕上げ段階に至っていない事から不良品として廃棄されたものと考えられています。「富本銭」が発掘された地層から、700年以前に建立された寺の瓦や、687年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土している事、「日本書紀」の683年の記事に「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述がある事などから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、1月19日に「和同開珎」よりも古く、683年に鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、大々的に報道されました。これにより、「最古の貨幣発見」、「歴史教科書の書き換え必至か」などとセンセーショナルな報道がなされました。その後、4月以降の追加調査では、さらに不良品やカス、鋳型、溶銅などが発見されました。溶銅の量から、実に9000枚以上が鋳造されたと推定され、本格的な鋳造がされていた事が明らかになりました。アンチモンの割合などが初期の「和同開珎」とほぼ同じ事から、「和同開珎」のモデルになったと考えられています。

今日の誕生日:道元、エドガー・アラン・ポー、水原茂、佐江衆一、丘みつ子、松任谷由実、柴門ふみ、白井貴子、新里玲乙奈(EVE)、松重豊、川井郁子、ウド鈴木(キャイ〜ン)、丸川珠代、中川礼二(中川家)、木村郁美、川本真琴、Cocco、宇多田ヒカル、加藤未央、石川梨華(元モーニング娘。、元美勇伝、ドリームモーニング娘。)、山本裕典、蒼山幸子(元ねごと)、松岡はな(HKT48)、伊勢鈴蘭(アンジュルム)

今日の記念日:空気清浄機の日、カラオケの日/のど自慢の日、家庭消火器点検の日、いいくちの日、イチジク浣腸の日

今日の「今日訓」:本日は、「い(1)い(1)く(9)うき」の語呂合わせで「空気清浄機の日」、1946年1月19日にNHKラジオで「のど自慢素人音楽会」(現在の「NHKのど自慢」)が放送開始された事で「カラオケの日/のど自慢の日」、1と19で「119」となる事と11月9日が「119の日」であるため、1月19日を「家庭消火器点検の日」、「い(1)い(1)くち(9)」の語呂合わせで「いいくちの日」、「イチ(1)ジク(19)」の語呂合わせで「イチジク浣腸の日」となりました。
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