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2022年01月13日13:14

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01月13日の日記

今日の出来事:1184年−源平合戦:室山の戦い、1392年−明徳の乱、1849年−調所広郷自害、1945年−三河地震発生、1994年−工藤新一がAPTX4869をジンに飲まされて体を小さくされる「名探偵コナン誕生」

今日は、源平合戦:室山の戦いです。1183年に木曽義仲と源行家は平氏を追い落として入京しましたが、その時から序列を争う両者の不和が現れました。弁舌が立ち、後白河法皇に取り入る源行家と、粗野な振る舞いで法皇の不興を買う木曽義仲との関係は悪化していきました。木曽義仲は、後白河法皇の再三の要請で西国の平氏追討に向かいましたが、「水島の戦い」で敗北して都へ戻りました。木曽義仲が法皇や公卿を連れて北陸へ向かうとの風聞が流れ、翌日には木曽義仲がこの風聞は源行家が広めた嘘であると否定しました。法皇に取り入って出し抜こうとする源行家と、西に平氏の脅威を抱えながらそれを阻止しようとする木曽義仲の関係は険悪を極めました。木曽義仲の在京軍勢はすでに瓦解を始め、源行家は木曽義仲と別行動を取るようになりました。源行家は西国の平氏追討の任を朝廷から公式に受けると、京から出陣しました。源行家の軍勢はわずか270余騎でした。同じ頃、鎌倉の源頼朝から代官として派遣された源義経と中原親能の軍勢が近江国に到着し、都の情勢を伺っていました。平氏、鎌倉、法皇、源行家と四面楚歌に陥った木曽義仲は、完全な孤立状態に追い詰められ、「法住寺合戦」となりました。一方、源行家は播磨国・室山に陣を構える平知盛・平重衡が率いる平氏軍を攻撃しました。五段構えに布陣した平氏軍は、陣を開いて攻め寄せる源行家軍を中に進入させて包囲しました。源行家は郎従百余名を討たれながら大軍を割って逃げ、高砂まで退きました。その後、海路で本拠地の和泉国に到着し、河内国を越えて長野城へ立て籠もりました。この源行家の惨敗により、平氏側では「水島合戦」に続く勝利を得て、都奪還の気運が高まりました。即時上洛を主張する平知盛と、反対する平宗盛との間で口論となりました。都では平氏上洛の噂が流れ、近江国に控える鎌倉軍の動きを警戒する木曽義仲を刺激しました。木曽義仲は平氏に起請文を送って和平交渉に乗り出すと、奥州の藤原秀衡に源頼朝追討の院庁下文を出させようとしましたが、不調に終わりました。諸勢力が水面下で様々に動く中、事態は「宇治川の戦い」へと展開していく事になります。木曽義仲は翌年の正月、河内国長野城に立て籠もって反旗を翻した源行家を追討のため樋口兼光を派遣し、源行家はそこでも敗れて紀伊国の名草へ逃げ込みます。源行家は木曽義仲滅亡後、再び都に戻って源義経に接近し、鎌倉との対立を煽る事になります。

次に、明徳の乱です。明徳の乱は、南北朝時代に山名氏清、山名満幸ら山名氏が室町幕府に対して起こした反乱です。山名氏は新田氏の一族でしたが、山名時氏の時に鎌倉幕府に対する足利尊氏の挙兵に従い、足利氏に味方して功がありました。「観応の擾乱」では足利尊氏の弟・足利直義に加担して戦い、直義の死後は幕府に帰参しましたが、再び叛いて南朝に降りました。その後は、直義の養子・直冬を助けて戦い、山陰地方に大きな勢力を張りました。2代将軍・足利義詮の時代に、切り取った領国の安堵を条件に室町幕府に帰順し、山名時氏は因幡・伯耆・丹波・丹後・美作の5か国の守護となりました。山名時氏の死後も、山名氏は領国を拡大しました。惣領を継いだ長男・師義は丹後・伯耆、次男・義理は紀伊、3男・氏冬は因幡、4男・氏清は丹波・山城・和泉、5男・時義は美作・但馬・備後の守護となりました。師義の3男・満幸は新たに播磨の守護職も得ました。全国66か国のうち11か国で山名氏が守護領国となり「六分一殿」と呼ばれました。室町幕府の将軍は守護大名の連合の上に成り立っており、その権力は弱体なものでした。1369年に3代将軍に就任した足利義満は、将軍権力の強化を図りました。1379年、「康暦の政変」により幕府の実権を握っていた管領・細川頼之が失脚し、斯波義将が管領に就任しました。足利義満は、細川氏と斯波氏の対立を利用して権力を掌握し、直轄軍である奉公衆を増強するなどして着実に将軍の権力を強化しました。さらに足利義満は、勢力が強すぎて統制が困難な有力守護大名の弱体化を図りました。1387年、幕府創業の功臣で、美濃、尾張、伊勢3か国の守護・土岐頼康が死去しました。甥・康行が後を継ぎましたが、足利義満は土岐氏一族が分裂するように仕向けて挑発し、土岐康行を挙兵に追い込みました。1389年に足利義満は土岐康行討伐の命を下し、翌1390年にこれを下しました(土岐康行の乱)。土岐康行は領国を全て取り上げられ、弟・満貞が尾張を領有し、土岐氏の惣領は叔父・頼忠に移り、美濃一国の領有しか許されませんでした。こうして、足利義満の次の狙いは11か国を領する山名氏となりました。山名師義は1376年に死去し、4人の息子・義幸、氏之、義熙、満幸が若年であったため、中継ぎとして末弟・時義が惣領となりました。これに対して、山名氏清とその婿・満幸が不満を示しました。1389年に山名時義が死去すると、惣領と但馬・備後は時義の息子・時熙が、伯耆は時義の養子・時熙の義兄弟の氏之に与えられました。しかし、病弱だった義幸の代官として幕府に出仕していた満幸は、自分が無視されたとしてこの件で不満を増大させました。1390年、足利義満は山名時義が生前、将軍に対して不遜であり、時熙と氏之にも不遜な態度が目立つとして、氏清と満幸に討伐を命じました。時熙と氏之は挙兵して戦いましたが、氏清が時熙の本拠・但馬、満幸が氏之の本拠・伯耆を攻め、翌1391年に2人は敗れて没落しました。戦功として氏清には但馬と山城、満幸には伯耆の守護職が新たに与えられました。備後も満幸の兄・義熙が継承しましたが、同年に細川頼之に交替させられました。このように、山名氏を分裂させて時熙と氏之を追放しましたが、氏清と満幸の勢力が強まってしまいました。足利義満は、今度は氏清と満幸に対して巧妙な挑発を行いました。逃亡していた山名時熙と氏之が京都に戻って清水寺の辺りに潜伏し、足利義満に赦免を嘆願し、足利義満が許そうとしているとの噂が広まりました。これに山名氏清は不安になり、足利義満を招いての「宇治の紅葉狩り」を直前になって病を理由に中止してしまい、足利義満の不興を買いました。山名満幸の分国・出雲で後円融天皇の御料である仙洞領・横田庄を押領して、御教書にも従わなかったとの理由で、満幸は出雲守護職を剥奪されて京都から追放されました。怒った山名満幸は舅・氏清の分国・和泉の堺へ赴いて「昨今の将軍のやり方は、山名氏を滅ぼすつもりである」と挙兵を説きました。山名氏清もこれに同意して、一挙に京へ攻め上る事を決意しました。山名満幸を分国丹波へ帰国させて、丹波路から京へ攻め寄せる準備をさせました。山名氏清は堺に兵を集めると共に、兄の紀伊守護・義理を訪ねて挙兵を説きました。義理は躊躇しましたが、遂に同意しました。山名氏清は大義名分を得るために南朝に降り、錦の御旗を下賜されました。幕府に山名氏清、満幸謀反の報が丹後と河内の代官より伝えられました。幕府重臣らは半信半疑でしたが、氏清の甥・氏家(因幡守護・氏冬の子)が一族と合流するため京都を退去すると、洛中は大騒ぎになって重臣達も山名氏の謀反を悟りました。幕府軍は京へ侵攻する山名軍を迎え撃つため、主力5000騎を「旧平安京」の大内裏である内野に置き、足利義満と馬廻(奉公衆)5000騎は堀川の一色邸で待機しました。山名軍は、氏清の軍勢3000騎が堺から、満幸の軍勢2000騎は丹波から京都へ進軍しました。丹波路を進む山名満幸の軍勢は、内野から三里の峯の堂に布陣しました。しかし、山名氏清は河内守護代・遊佐国長に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中から脱落して幕府方に降参する者が出始めました。1月12日夜、到着が遅れた山名氏清の軍勢は淀の中島に至り、3隊に分かれて京に進撃しました。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけました。1月13日早朝、山名氏清の弟・山名義数、小林上野介の700騎が二条大宮に攻め寄せて、大内義弘の300騎と激突して合戦が始まりました。大内軍は下馬して雨のように矢を射かけました。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野介は討ち死に覚悟で突撃しました。大内義弘は小林上野介と一騎討ちをして、負傷しながらもこれを討ち取りました。山名義数も討死し、山名軍は緒戦で敗れました。足利義満は大内義弘の武勇を賞して太刀を与えました。次に、山名満幸の軍勢2000騎が内野へ突入しました。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、畠山基国、京極高詮の3000騎でした。激戦となりましたが、足利義満の馬廻5000騎が投入されると勝敗は決しました。敗れた山名満幸は丹波へ落ちました。山名氏清の軍勢2000騎は二手に分かれて突入しました。大内義弘、赤松義則の軍勢と衝突しました。山名氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退しました。幕府に帰参していた山名時熙が50騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜きました。劣勢になった大内、赤松は足利義満に援軍を要請し、一色氏と斯波義重の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返しました。山名氏清の軍勢は浮き足立ち、足利義満が自ら馬廻とともに出馬すると潰走しました。山名氏清は落ち延びようとしましたが、一色勢に取り囲まれて一色詮範・満範父子に討ち取られました。こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去りました。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は879人でした。1392年正月、論功行賞が行われました。山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は反乱に加わって降伏し、許された山名氏家、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられました。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまいました。また、足利義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示しました。同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落しました。1395年、剃髪して僧になり九州の筑紫まで落ち延びていた山名満幸が捕らえられ、京都で斬られました。その後、足利義満は「明徳の和約」で南北朝合一を成し遂げると、1399年に大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼしました(応永の乱)。このように、足利義満は将軍権力を固めていきました。

その次に、調所広郷自害です。調所笑左衛門広郷は、薩摩藩の家老です。隠居していた前藩主・島津重豪に、才能を見出されて登用されました。後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務しました。薩摩藩が、琉球や清と行っていた密貿易にも携わりました。1832年に家老格、1838年には家老に出世し、藩の財政、農政、軍制改革に取り組みました。当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて、破綻寸前となっていました。これに対して調所広郷は、行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行ないました。一部の商人に対しては、交換条件として密貿易品を優先的に扱わせて利益を上げさせました。そして、大島や徳之島などから取れる砂糖の専売制を行い、大坂の砂糖問屋の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行いました。1840年には、薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復しました。その後、島津斉興の後継を巡って島津斉彬と島津久光による争いが御家騒動「お由羅騒動」に発展すると、調所広郷は島津斉興・久光派に与しました。島津斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、島津斉興、調所広郷らの失脚を図りました。1848年、調所広郷が江戸に出仕した際、阿部正弘に密貿易の件を糾問されました。1849年1月13日、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて自害しました。享年73でした。責任追及が島津斉興にまで及ぶのを防ぐため、自害しました。調所広郷の遺族は、島津斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられました。しかし、調所広郷の財政改革が無ければ、この後の薩摩藩による「倒幕」、「明治維新」の実現がありえませんでした。

最後に、三河地震発生です。三河地震は、1945年1月13日午前3時38分23秒に、愛知県の三河湾で発生した直下型地震です。1945年の敗戦前後に4年連続で1000人を超える死者を出した「四大地震(鳥取地震、東南海地震、南海地震)」の一つです。震源地は三河湾でした。「昭和東南海地震」よりも多くの死者が発生しており、死者1180人、行方不明者1126人、負傷者3866人、家屋の全壊は7221戸、半壊1万6555戸、全焼2戸、半焼3戸、その他2万4311戸とされていました。しかし、近年になって地震被害を報告した当時の帝国議会秘密会の速記録集が見つかり、これによると愛知県の幡豆郡と碧海郡で死者2652人となっています。死者が多かったのは幡豆郡福地村234名、西尾町、三和村、横須賀村275名(現・西尾市)、碧海郡桜井町(現・安城市)、明治村325名(現・西尾市、安城市、碧南市)、宝飯郡形原町233名(現・蒲郡市)などで、平坂町(現・西尾市)では堤防が4メートル沈下して79ヘクタールの水田が海水に没したほか、矢作古川周辺では液状化現象も見られました。前述の被害が甚大な地区では、どの家族にも死者が出るほどの高い死亡率でした。なお、震源を離れた葉栗郡や中島郡、名古屋市から一宮市付近でも一部で家屋の倒壊がありました。また、三河湾で小規模な津波の発生が確認されています。地震が発生した当時は「太平洋戦争中」で、当時の政府当局によって国民の戦意を低下させない事や軍需工場の被害を伏せるため、報道管制が敷かれました。地震発生の報道はされましたが、被害規模やその後の状況など多くが伏せられました。地震被害の報道がされなかった事で、近隣地域からの救護団も無く、地震直後の行政による組織的な救援活動が実施されませんでした。

今日の誕生日:平井英子、阿刀田高、いがらしみきお、伊藤蘭(元キャンディーズ)、太川陽介、秋本奈緒美、田宮五郎、長山洋子、CHARA、設楽りさ子、鈴木健、真矢(LUNA SEA)、大塚晶則、オーランド・ブルーム、大島美幸(森三中)、平山あや、ク・ハラ(元KARA)、中山優馬(元NYC)、稲村亜美

今日の記念日:ピース記念日/タバコの日、咸臨丸出航記念日、遺言の意味を考える日

今日の「今日訓」:本日は、1946年1月13日に高級タバコの「ピース」が10本入り7円で初めて発売された事で「ピース記念日/タバコの日」、万延元年(1860年)1月13日に江戸幕府の軍艦「咸臨丸」が、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎らの遣米使節を乗せて、江戸品川沖を出発した事で「咸臨丸出航記念日」となりました。これが、日本人初の太平洋横断航海となりました。相続法の改正で遺言書の方式緩和が2019年1月13日から施行される事と「遺(1)言の意味(13)」との語呂合わせで「遺言の意味を考える日」となりました。
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