mixiユーザー(id:42723144)

2021年10月20日00:29

179 view

エスタニスラウ神父とインド

ある方にエスタニスラウ神父とプンジャジの交流についてお知らせしたら、神父とインドの関係について何か知らないか訊かれたので、MARCEL CAPELLADES RÀFOLSによって記された伝記 "Pare Estanislau Maria Llopart El monjo, l’ermità" からインドとの関わりについて調べてみました。

最初は第二ヴァチカン公会議以降の他宗教との交流の影響のようなものを想定していたのですが、それに先立つChristian Ashram Movement
クリスチャン・アシュラム運動というものがあるのを知りました。
https://en.m.wikipedia.org/wiki/Christian_Ashram_Movement

インドに住んでいた元修道士のEnric Aguilarがプンジャジを連れて来たのが1972年1月か2月。スペインを去ってベツレヘムに向かうのが1972年12月14日ですからスペインでの隠修生活の最後の年です。(この二人の出会いについては「エスタニスラウ神父伝記拾い読み2」に記しています)

インド思想をエスタニスラウ神父に伝えたのはAntoni Blay Fontcobertaです。伝記によると聖十字架の庵の最初の訪問者とありました。
最初に隠修生活を始めたのが1961年5月1日(ミリアムさんの略歴だとエスタニスラウ神父は1961年4月27日に許しを得て聖なる洞窟で隠修生活を始めるとあるので、許しを得たのが4/27、実際に移ったのが5/1)
1965年9月13日に聖十字架の庵に移ったので(ミリアムさんの略歴だと9月14日になっています)このころの事だと思います。
Antoni Blay FontcobertaはWikipediaによると「心理学者であり、トランスパーソナル心理学の先駆者」とあります。

Raimon Panikkarがエスタニスラウ神父のインド行きについて修道院長が相談した友人として出て来ますが、父がインド人のヒンドゥー教徒、母がカトリックのスペイン人です。
聖十字架の庵を訪ねて来た人の一例に彼の母親が出ていて、彼女はエスタニスラウ神父を彼女のグルと見做していたと伝記の第12章に記されています。
エスタニスラウ神父はシャンティヴァナム(サッチダーナンダ・アシュラム、ベネディクト会の修道院)からインドへの招待状を持っていたとあります。
シャンティヴァナムの創設者のモンシャナン神父
Abbé Monchaninとアンリ・ル・ソーHenri Le Saux(Abhishiktananda)の写真を隠遁の庵に飾っていたそうなので、聖十字架の庵にインド人が沢山訪れたのは、この辺の人間関係からの広がりでしょうか?

----------
以下伝記からの引用など参考資料です。
伝記はカタロニア語をGoogle翻訳で英訳と日本語訳を比較参考して手直ししたもので正確さは保証できません。

第12章 L’ERMITÀ DE LA SANTA CREU 聖十字架の庵

なぜ、彼はあそこに住もうと思ったのか?私たちの会話の中で、もちろん彼の過去の生活のことや逸話が出てきました。
「私がモンセラートの学校にいた頃、ある日、志願者たちは、瓦礫とその隣にある洞窟しかないこの聖十字架の庵にハイキングに出かけた。」エスタニスラウ神父(当時はまだアマデウ)は、男子生徒の監督であるP.リカールに言った。「いつの日か、この洞窟に住むことになるでしょう。」

[聖十字架の庵に]最初に訪ねてきた人Antoni Blay Fontcobertaは、彼の本と作品でよく知られています。ブレイは洞窟でエスタニスラウ神父に会いました。エスタニスラウ神父をインドの思想に紹介したのは彼でした。医師であり心理学者であり、ヒンドゥー教の思想、特にオーロビンド・ゴーシュの哲学に精通している。ブレイは西洋人に非常に適した精神的な教育法を構築するようになり、そこで彼は東と西の本質を統合しました。彼が残した仕事はそれを証明しています。非常に親密な友情が彼をエスタニスラウ神父と結びつけました。彼を通して、隠者はヒンドゥー教の精神性と神秘主義を知るようになるでしょう。隠者は、特に2人の偉大なヒンドゥー教の巨匠、ラマナ・マハルシとスリ・オーロビンドに恋をします。そして特にスワミ・ラムダス、おそらく現代インドで最高なキリスト者であるヒンドゥー教のマスターです。
隠修士のお気に入りの本の1つは、彼が聖十字架の庵で持っていた数少ない本の中でいつも見たもので、訪問者とのアルナチャラの賢者の会話のコレクションである『ラマナ・マハルシの福音書』でした。隠修士は彼に会いにやって来た私たちに時々それについてコメントしたものです。
------

第13章LA PARTENÇA(THE DEPARTURE)出発・別れ
隠修士はどこに行きたかったのでしょうか?聖十字架の庵でのこの7年間、インドからの多くの人々が彼らの経験、彼らの本を隠者に伝えました。彼はインドに魅了されました。彼はラマナ・マハルシを崇拝し、オーロビンドの精神的な深さを賞賛し、ヒンドゥー教の僧侶サンニャーサのために祈った。窓のポルチコ(柱廊玄関?)には、インド南部のケララ州にあるシャンティヴァナムのアシュラムの創設者であるアンリ・ル・ソーHenri Le Saux神父とモンシャナン神父の写真が飾られていました。彼はルソー神父自身からの聖体拝領の言葉と招待状を持っていました。したがって、エスタニスラウ神父は、シャンティバナム[サッチダーナンダ・アシュラム]で「サッチダーナンダの隠者」と呼ばれた彼が自分をインドに迎えることができると考えていました。隠修士(エスタニスラウ神父)は、貧しくて静かな僧侶としての彼の召命は、インドのサンニャーサと完全に一致していると確信していました。
修道院長カッシアCassiàは友人のライモン・パニッカルRaimon Panikkarに相談しました。彼はそれに対して強く忠告しました:エスタニスラウ神父の脆弱な健康はインドの衝撃に耐えられないでしょう。インドのような気候や条件に適応する能力を持つのは若い人だけです。

第17章 インド
さて、当時の日記を読み直すと、インドで過ごした時間がどれだけ短いか信じられません。 40年が経ちました。私はこの日記をどれくらい見ていなかったのか。私はインドに1ヶ月ほど滞在しているような気分で暮らしていて、それが会話に出てきたときにコメントしました。しかし、私たちがインドに滞在 したのは7月3日から18日までのちょうど15[16]日間でした、私たちは少なくともクリスマスまで滞在する計画でインドに到着しました。日本行きは6か月間のオープンチケットを持っていて、インドから内陸の数便も持っていました。夏はリシケシュで過ごす予定でした。猛暑の後、南下しました。ライモン・パニッカルは10月にベナレスで私たちを待っていました。次に、賢者ラマナ・マハルシの山であるアルナチャラに行く予定でした。

第19章funamori 舟森
「師父ヨセフは師父ポイメン(羊飼いの意)に尋ねました、 『教えてください、どうしたら修道士になれますか?』長老は彼に言った:もしあなたがこの世界と次の世界で平和を見つけたいのなら、いつも言いなさい : 私は誰か? そして誰も裁かないように。」 この砂漠の師父の警句は、エスタニスラウ神父のお気に入りの主題の1つを非常に彷彿とさせます。 「私は誰ですか?」と彼は私たちにあらゆる状況で絶えず自問するようにアドバイスした質問でした。これは、ヒンドゥー教の不二一元論の最も純粋な例と見なされたアルナチャラの賢者、ラマナ・マハルシの質問です。エスタニスラウ神父は彼を非常に賞賛していました。エスタニスラウ神父はしばしばアドヴァイタ(聖なる・アドヴァイタと彼は言いました)という用語を使用しました。概念としてではなく、神との一体性、非二元性の彼の経験を表現するためにそれを使用しました。
--------
砂漠の師父の言葉の翻訳『砂漠の師父の言葉 ミーニュ・ギリシア教父全集より』谷隆一郎・岩倉さやか訳 知泉書院
148頁に該当箇所があり「わたしは何者だろうか」の注にヨブ記8.17-18、詩篇8.5が引用されています。

参考図書
The sayings of the Desert Fathers: the alphabetical collection.
By Benedicta Ward (Translator), Metropolitan Anthony of Sourozh (Preface by)
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する