水温む、みずぬるむは、割とありふれた春の半ばの季語。
初春やまだ春とは思えぬ寒さの中で春の訪れを感じる何かとは違う、
「ああもうたしかに春なのであるな」と実感するのが、
春の半ばでの「水温む」
季語の理屈ではそうなるのだが、
どうにも実感に乏しい。
感覚的には、非常に貧しい情感しか持ち合わせていない理屈俳人が、
いかにも「こうなのだ」と使いそうなダメワード。
センスがない。
これは言葉の問題ではなく、扱う人間の素養が問題なのだけれど、
扱いやすい、わかりやすい言葉である上に、
「水」というやわらかく透明感があって流動的な、
「そそるイメージ」を乗せることができるので、
便利使いされてしまうがゆえの、陳腐化だ。
陳腐になりがちな言葉を、きちんと鋭く昇華させないと俳句とは言えないのにね。
実際に、仲春くらいでは「水温む」を実感することはあまりないと思う。
それはもちろん、毎日水道水を使っているからで、
たしかに緩やかに、春の深まりともに水温も上がっていくのだけれど、
*水道の水源や環境によっても違うのだけれど、
だいたいでいうと、1〜2月の最も冷たい時期から、
気温の上昇とセットでするすると温度が上がっていく。
ある日「水の温みにハッとする」ような心理映像があまりないからだろう。
海や川で「水に入ってたつきを得る」人ならば、
水温むなのかと思うのかもしれないが、
その場合、実際に水温が上がるのは(徐々に上がってはいるが)かなりあとだ。
素人が手を突っ込めば、ヒャア冷たい!となるのが、初夏までの水である。
*どうでもいいけど、「たつき」って変換してくれない。
方便とか活計と書くのだけれど、たぶん読めない人大多数ってやつ?
今日、「水温む」を唐突に実感する。
正確には、水の温度が上がったのではなく、
気温が一気に下がったために、
相対的に「水がぬるい」と感じたわけだが。
でもこれは、けっこう「はっとする」レベルの体感であって、
世間の景色を眺めながら頭の中で「ああもう水が温いのであるなあ」などと、
陳腐な想像をするよりも、はるかに劇的な体験だ。
昨夜、ラベルを剥がすために水につけておいたマーマレードのビン。
冷たい水。
手を切るような痛みのある冷たさではなく、
ひんやりと涼やかな水。
手を入れて取り出して、
水道の下に持っていき、勢いよく水をほとばしらせたときに気づく。
うわ、温かい。
水道水の圧倒的な温度の違いに、恐れおののく。
夏場にありがちな、最初ぬるくて出しているうちに水温が下がるというあれもなく、
水道の水はただただいつまでも温まっている。
まさに「水温む」
8月半ば、お盆のあたりでだいたい唐突に訪れる一瞬の感覚。
明日は、今日と同じ温度でも「温い」とまでは思わない。
これこそ、「水温む」という季語にふさわしいと思うのだが、
そう換えてくれと言ったところで、廃人狂会の硬い頭には届かない。
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