7/5(月)
米・大リーグの大谷翔平が、史上初となる投打の部門でオールスター戦に選出されたことが明らかになった。また日本時間未明に行われた試合で、リーグトップをいく31号本塁打を放った。日本人として2004年の松井秀樹の本塁打記録に早くも並んだ。
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今回、男子サッカーの欧州王者を決めるUEFA EURO2020の準々決勝進出を記念に、ウクライナの歴史を再度紹介する。前回は、現ウクライナ政府が後継国と主張する9世紀から13世紀まで存続したキエフ・ルーシー大公国を中心に書き上げた。
関連日記 7/2(金)五輪開会式の終焉時間 サッカーEURO2020企画(4)ウクライナの歴史(1)キエフ・ルーシー国について 決勝トーナメント1回戦 ウクライナ 対 スウェーデン戦レポート
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今回は、14世紀から16世紀までのポーランドとリトアニア統治時代が舞台である。最後にサッカーチームが始めて勝ちあがった準々決勝のイングランド戦のレポートである。
目次
・第1章 東ヨーロッパで勢力を伸ばすリトアニア
・第2章 リトアニアとポーランドが共和国として統一する。
・第3章 ウクライナの豊かな穀倉地帯の秘密
・第4章 EURO2020 イングランド 対 ウクライナ戦レポート
第1章 東ヨーロッパで勢力を伸ばすリトアニア
ウクライナ共和国は、2020年時点で人口4140万人、首都キエフは2017年時点で288万人である。東ヨーロッパ最古の首都であり、スラブ圏の東方教会発祥の地として知られる。
写真=キエフの町並み 掲載元 今すぐどっかへ
https://do-cca.com/2018/07/05/beautifularchitecture_saint-sophias-cathedral/
9世紀から13世紀に10から15の公国のゆるやかな連合となる「キエフ・ルーシー国」が、東ヨーロッパにおいて交易の中心地として栄えた。13世紀にバトゥが率いるモンゴル軍の侵攻にあい、それぞれの公国の主は、正教を保護されながら、服従を強いられた。1349年に、現在のウクライナ共和国の9割の人口が集中する土地を抱えるハーリチ・ヴォルイニ連合公国が消滅する。ハーリチ公国はポーランドに、ヴォルイニ公国はリトアニア領となった。
ウクライナは、ポーランドとリトアニアの支配下において、民族運動も制圧された。モンゴル侵攻以前、現在のロシア、ウクライナ、ベラルーシは、一つの国家だった。14世紀から17世紀の間、3つの民族に分割し、それぞれ独自の言語を持つようになる。
14世紀リトアニア大公ゲディミナス(在位1316年から1341年)が、東南進出を果たす。先代のミンダウガス公(在位1240年?から1263)の時代に始めて統一されたリトアニア大公国は、カトリックを信仰するドイツ騎士団、またはキエフ公ダニーロとの戦闘を続けていた。ミンダウガス公の時代は領土拡張を阻まれたものの、後のゲディミナスの時代はウクライナの北部とベラルーシの全域を治める。首都をヴィリニュスに置き、自らルーシーの王と名乗った。ロシア帝国やポーランドの貴族は、ゲディミナス家から派生している。
ゲディミナス大公が亡くなった後、ウクライナ全域に侵攻した。西暦1362年には、戦闘において完全無欠の強さを誇ったキプチャク汗国との戦いに、東ヨーロッパの国として始めて勝利する。リトアニアは、ウクライナ内で西部ハーリチ地方を除く9割の領土を、ベラルーシ全域を含め、キエフ・ルーシー国の半分以上を版図に治めた。わずか1世紀足らずの領土拡大は、世界でも例を見ない成果だった。
写真=リトアニアの首都ヴィリニュスの町並み 掲載元 iStock
リトアニアの急拡張の要因は、いくつかある。一つはドイツ騎士団との戦いで力をつけたことだ。13世紀にポーランドの公が、東側のモンゴル人の侵入を阻止するべく、十字軍遠征部隊、いわゆる騎士団をバルト海沿岸の土地を与えたことに始まる。リトアニア人は、先史時代からバルト海に広く住んでいたものの、カトリックでも正教でもなかった。ドイツ騎士団と日々戦ううちに、戦闘能力を身につけたのである。
もう一つ勢力急拡大の要因は、新しい文化への溶け込みが早かったことにある。リトアニア人の貴族は、正教に改宗し、ルーシー独自のルテニア語を公用語として採用した。後世のウクライナの歴史家は、キエフ・ルーシーの文化をリトアニア人が受け継いだと主張している。
リトアニアは、東ヨーロッパ屈指の広さを持つ国へと成長していく中、ポーランドも互角に渡り合う。ルーシー時代に広まった正教に改宗したリトアニアに対し、ポーランドは根っからのカトリック国家だった。南方のボヘミアやモラヴィア王国によって、南方政策を阻まれ、領土は小さいままだった。14世紀のカジミエシ三世(大王、在位1333年から1370年)の時代に、ハーリチ・ヴォルイニ公国の公位継承問題に干渉し、リトアニア大公国をけん制した。ウクライナは領土の9割をリトアニアに持っていかれる中、西部のハーリチ地方はポーランドに支配された。近代都市リヴィフが属するハーリチ地方は、第2次世界大戦までポーランド領と化した。なお1771年、1793年と1795年の3度に渡るポーランド分割の際、ハーリチ地方はオーストリア帝国に編入している。
写真=14世紀のリトアニア大公国の図 掲載元 毎日新聞 2020年12月9日付け記事より
https://mainichi.jp/premier/business/articles/20201106/biz/00m/020/013000c
第2章 リトアニアとポーランドが共和国として統一する。
東方進出を果たしたモンゴル弱体後、ポーランドとリトアニア、キエフ・ルーシが楚となるモスクワ大公国が力を伸ばした。
宗教観が異なるポーランドとリトアニアは、ウクライナを巡って争いながら、急接近するようになる。カジェミエシ大王には跡継ぎがなく、後継者問題が深刻化した。一時ハンガリー王ラヨシュ1世(在位1370年から1382年)がポーランド王を兼ねた。ラヨシュ1世には、男子に恵まれなかった。彼の3女ヤドヴィガ(在位1384年から1399年)が女王の座につく。後継者としては、即位時女王ヤドヴィガは、独身で婿を探していた。ポーランド貴族の力を借りて、国に干渉しない他国の貴族を候補に選んだ。女王ヤドヴィガと婚姻関係を結んだのは、ゲディミナスの孫に当たる若きリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤゲヴォ)だった。女王ヤドヴィガと夫ヨガイラによる体制が確立し、1385年にリトアニアをポーランド王国の王冠に編入することが決まった。「クレヴォの合同」という。ヨガイラ(リトアニア大公としての在位1377年から1392年、ポーランド王としての在位1386年から1434年)は1386年、史上初となるポーランド王とリトアニア大公を兼ねた。
ポーランドは領土は小さいながらも王の力が強い。対して領土拡張に成功したリトアニア大公国は、キエフ・ルーシー国のように、いわゆる地方分権型だった。県知事が力を持っていたのである。国の最高位大公の座は世襲制だった。クレヴォの合同により、両国の関係性は強まった。リトアニア大公国は、ゲディミナスの孫ヴィタウタス大公(在位1392年から1440年)が、支配地域を広げ、ドニエステル川とドニエプル川から黒海までの土地を獲得した
リトアニア大公国は、皇帝や王が不在ながら、東ヨーロッパの大国へ向かう過程で、モスクワ大公国との国境を巡って争うことになる。
1558年から1883年までの25年に渡り、リヴォニア(現在のエストニア南部とラトビアほぼ全域)戦争が起こる。タタールの頸木を切ったイヴァン3世の息子イヴァン4世が、西ヨーロッパとの通商のため、壁となって塞がるリヴォニア騎士団に宣戦布告したことに始まる。イヴァン4世は、傀儡国家としてリヴォニア王国を建てることを目指していた。対抗する勢力は、リヴォニア騎士団のゴットハルト・ケトラー、デンマークのフレデリック二世、スウェーデンのエリク14世である。リトアニア大公国も1561年に同盟軍に加わった。
リヴォニア戦争により、リトアニア大公国の未来が変わる。イヴァン4世との戦いで国力を消費したことにより、ポーランド王国に援軍を求めた。1569年にルブリンで会議を開いた結果、同君連合をとる形となった。ルブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が誕生した。3年後の1572年に、ワルシャワ連盟協約により、国王自由選挙制度が始まった。国内の多宗教を認めて、平和に保つこと、また王の跡継ぎが決まらない場合の空位期間は新王未定とする。その際主権をカトリック教会の首座大司教に引渡し、インテレクス(ラテン語で空位期の君主を指す)とすることである。最も画期的なのは、シュラフタ(中小貴族)が投票権を持ち、マグナート(大貴族)が立候補権を持つ選挙制度だった。シュラフタは、所属する県で投票を行う。地方選出の代議員が、各候補の投票数をセナト(共和国元老院)に報告する。最終的に獲得票が最も多い候補者が、召集議会によって、正式に王として承認される。
実際選挙に近い制度は、1386年にポーランド貴族が、リトアニア大公ヨガイラを王様に推薦したことから始まっていた。
写真=ポーランド王国とリトアニア大公国が統一した歴史的な町ルブリン 掲載元ポーランドガイドより
https://poland-abc.xyz/lublin
王の有力候補として、リヴォニア戦争において、対抗勢力のモスクワ大公国のイヴァン4世の名が挙がっていた。イヴァン4世は、ポーランドの中級・下級貴族に支援したことにより、王候補として有力視されていたのである。実際ポーランド・リトアニア側から2度に渡って、使節団が派遣されていた。イヴァン4世は、モスクワ大公国の地位を諸国並みに下げるつもりもなく、ポーランドに王冠は必要ないとの立場を主張する。実際ポーランドにおいて、絶対君主を否定し、議会を通さず、課税は認められなかった。強い国づくりを目指すイヴァン4世との方針に合わず、王の候補から外された。結果的にフランスのヴァロワ朝からアンリが戴冠した。彼は前年1572年のカトリックとプロテスタントが対立したユグノー戦争中に起こったサンバルテルミの大虐殺の当事者として知られる。根っからのカトリック信者のアンリは、宗教観でポーランドの貴族と一致していた。彼は1574年にクラクフにて戴冠式に望んだ者の、王として制約の多さに耐え切れず、わずか4ヵ月後兄の訃報を機に、夜半ポーランドから脱出し、フランスに戻った。王様といえど、議会には逆らえないのである。王の権力を縛ることにより、貴族は自由な生活ができるものの、結果的に国力衰退に繋がった。フランス王国でアンリ三世として戴冠した。
ポーランドとリトアニアが合同した共和国の議会はセイムという。1年半の空位期を経て、セイムは教皇代理の意見を踏まえたうえで、神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン2世を推薦した。選挙権を持つシュラフタが、ピャスト王(ポーランド王)を選出するべく、共和国元老院に脅しをかける。ヤケヴォ朝最後の王ジグムンド1世の娘アンナが女王の座に付き、バートリー・イシュトヴァーン婿として迎え、共同統治する。アンナの婿は、ハンガリー出身で、トランシルヴァニア公(在位1571年から1586年)を兼ね、ステパン・バートリー(在位1576年から86年)と改名した。なおリトアニア代議員は、セイムを欠席したことにより、国王選出に関わっていない。
共和国内で王が短期間で入れ替わる中、対モスクワ大公国とのリヴォニア戦争において、大きく優位に立った。バートリー王とマグナートのヤン・ザモイスキが、指揮をとる。1582年1月15日にモスクワ大公国とヤム・サポルスキの和約を結び、リヴォニアから撤退させた。ポーランド・リトアニア王国の勝利の決め手は、プスコフ(現ロシア連邦の都市)の包囲戦だった。降伏したイヴァン4世は、占領していたポラツク(現ベラルーシのヴィテプスク州)を共和国側に返還した。四半世紀に及ぶ戦争は、ポーランド・リトアニア共和国と休戦協定を結んだ翌1583年、モスクワとスウェーデンの間でプリューサ条約が締結され、終わりを迎える。モスクワ大公国は、傀儡国家リヴォニア王国の建国を諦め、スウェーデンにエストニア公国とイングリア(ネヴァ川流域のフィンランド湾)、リヴォニア北部の領有を認めたのである。不凍港を獲得するべく、バルト海に進出したモスクワ大公国は、衰退の道を歩んだ。イヴァン4世の死により、キエフ大公国の楚リューリック家の血が途絶える結果になった。
写真=イングリアとリヴォニアの位置を示した図 掲載元 世界の歴史マップより
https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%88%A6%E4%BA%89/
第3章 ウクライナの豊かな穀倉地帯の秘密
ウクライナは、リヴォニア戦争終結後、ポーランド・リトアニアによって統制される。貴族は力を持つ一方、農民は生活が苦しくなる一方だった。土地を離れることを許されず、地主には服従を強いられた。生活苦から税を免れようと裁判に訴えても、取り合ってくれない。いわゆる「農奴化」したのである。
ポーランド・リトアニア共和国の議会(セイム)は、ウクライナ国内において貿易にも制限をかけた。商人は、物を売り買いする際、貴族を介さなければならないのである。貴族は仲介料で稼ぎをえていた。
ウクライナを領有したことにより、ポーランド・リトアニア共和国内の貴族を中心に富を蓄える。国際情勢も味方した。人口増加が著しい西欧に、穀物を輸出するべく、ウクライナの穀倉地帯で低コストで大量生産を行ったのである。しわ寄せは全て農奴にいく。西ウクライナで生産された穀物は、ヴィスワ河口からグダンスクを経由し、西欧の各国々へと届けられた。1491年から92年の輸出量は1万3000トン、対して1618年には27万2000トンまで膨れ上がったのである。
ウクライナは、穀倉地帯として、ポーランド・リトアニア共和国、後に強大化するロシア帝国に狙われた。1721年に、モスクワ大公国は、祖先のルーシのラテン語名から、ロシアに改めていた。ロシア帝国崩壊後、ソヴィエト連邦誕生時にも、真っ先に併合される。第2次世界大戦時には、ナチス・ドイツにも占領された。
写真=ウクライナの地図 旅行の友 ZenTech
https://www.travel-zentech.jp/world/map/Ukraine/index.htm
なぜ穀倉地帯となるのか、気候と土地にある。国土の91%が平坦で、東側地域のバルダイ丘陵に端を発する全長2200kmのドニエプル川南北に渡ってが流れ、黒海へと注ぐ。ドニエプル川の中流から下流域は、流れが緩やかで、氾濫とは無縁である。川から水を引き入れることにより、大規模穀倉地帯と化した。作物の生育を支えるのは、チェルノーゼムと呼ばれる黒い土だ。別名土の皇帝ともいう。
チェルノーゼムは、決まった気候や環境の下で生成される。ウクライナの降水量は、日本列島の半分以下、高い樹木が育たず、草原になる。草の葉や根は秋になると枯れて土に戻る。雪が覆い尽くす冬場、養分がゆっくりと土の中に染み込む。栄養豊かな黒い土の層の下にある黄色い土の層も役立っている。280万年前から1万3000年前まで、10万年から4万年間隔で繰り返し襲う氷河期に、岩石が削られることで出きる。氷河に飲み込まれた岩石が、砕かれて、粉状になったのである。黄色い土は、氷河が運んだ栄養分も吸収していた。はるか昔に南下した氷河と季節ごとに芽を出しては、枯れていく草の葉や根によって、土の皇帝が作られていたのである。
写真=ウクライナの土 掲載元ロシアとウクライナ住むならどちらがいいですか
https://jp.quora.com/
豊かな土壌を維持するには、手入れも欠かせない。柔らかい黒い土は、風にさらすと、簡単に吹き飛ばされてしまう。対策として、畑の周りに木々を植え「シェルターベルト」を作り、穀倉地を守った。現在シェルターベルトの手入れが不十分と指摘されている。
土が腐食すると、作物の味も変わる。1922年にソ連に併合された後、ウクライナの農地は国営化した。1991年にソ連解体に伴い、独立すると、国有農地は、個別農家に分配された。2001年には、農地の売買を認める法律が可決されたものの、外国企業からの買収を危惧して、施行は見送られた。
豊かな資源を持つことにより、大国に目を付けられ、民族運動が阻害される。独立して30年、国の農業は管理体制が危惧されながら、今なお健在である。
参考文献
物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 黒川祐次著 中公新書より
リヴォニア戦争 ウィキペディア
GLOBAL+ ナチスも目をつけた土の皇帝より
https://globe.asahi.com/article/12344370
第3章 EURO2020 イングランド 対 ウクライナ戦レポート
現地時間7月3日(土)イタリアの首都ローマにあるスタディオ・オリンピコで、準々決勝第4試合 イングランド 対 ウクライナ戦が行われる。キックオフ前の20時30分時点で、気温28度、湿度48%、風速3,9m、メインスタンド側から見て、右陣地がイングランド、左陣地がウクライナで、試合が始まった。
立ち上がり4分、早くもキャプテンマークを巻くハリー・ケインのゴールでイングランドが先制した。左サイドからスターリングが、肩を当てるカンバーチェフのチャージを受けながら持ちこたえ、中央方向へドリブルする。ザハルニーとクリフボフの間に入ったケインにスルーパスを出した。ケインは、前目にポジションをとったGKブスチャンの位置を見ながら、右足の甲で滑り込むようにシュートを打つ。ブスチャンの右足に当って、左ゴールネットを揺らした。1対0.センターフォワードのケインは、飛び出しのタイミングを見計らい、オフサイドにならずにフィニッシュした。
写真=ゴールを決めるハリー・ケイン 掲載元Goal.com
立ち上がり早々1点を先取したイングランドがゆったりとボールを回しながら、ゲームをコントロールする。引いて守るウクライナは、カウンター狙いになる。16分、イングランドはマグワイアが、センターサークルの中のウォーカーにパスを出す。ウォーカーは、後ろ右斜めのストーンズにダイレクトでボールを送る。ボールの勢いがなく、芝との摩擦により減速した。ウォーカーからストーンズへの中途半端になったパスを、センターサークル付近からウクライナのヤレムチュクが拾い、ドリブルを仕掛けていく。パスの受け手となるはずのもう一人のセンターバックのストーンズが対応する。ヤルムチェクは、エリアの左側からシュートした。ニアポストをカバーしていたピッグフォードが、体を倒しながらセーブした。4試合無失点を続けるピッグフォードは、両手を広げながらどっしりと構え、シュートコースを切っていた。ミスを犯したことにより、イングランド守備陣は修整に入る。26分、ウクライナのヤルモレンコが出したパスを、センターサークル付近で2トップの1角ヤレムチュクが受けた。センターバックのマグワイアとストーンズがしっかりと体を当てて、ボール奪取した。
追加点を狙うイングランドは32分、左サイドのスターリングが、カンバーチェフを交わしながらエリアに入ると、折り返した。3バックの左に入るマトヴェンコが右足のつま先でクリアしたものの、中途半端になった。ミドルレンジに構えたトップ下のマウントが、エリアすぐ外から右足でシュートを打った。ゴール正面やや右に向かうボールを、重心を左に傾けたブスチャンがはじき出した。
後半の写真の掲載元
https://www.google.com/search?q=ukraine+vs+england&rlz=1C1BLWB_jaJP577JP577&oq=%EF%BC%B5%EF%BC%AB%EF%BC%B2%EF%BC%A1%EF%BC%A9%EF%BC%AE%E3%80%80&aqs=chrome.3.69i57j0i131i433j0i433j0i3l2j0l5.9691j0j4&sourceid=chrome&ie=UTF-8#sie=m;/g/11fq897yxj;2;/m/01l10v;tl;fp;1;;
エンドが代わって、後半開始わずか50秒、イングランドに大きなチャンスが生まれた。エリアすぐ外左斜め45度からのフリーキックをショウがけると、カーブを描いたボールがゴール前に入る。センターバックのマグワイアがヘディングで合せた。GKブスチャンは全く動けず、左ネットに突き刺さった。2対0.マグワイアはガッツポーズした。
写真=ヘディングシュートを打つマグワイア
続いて9分、エリアの左サイドに入ったスターリングが、左足のアウトサイドで、ショウにパスを出す。エリアの外からショウはゴール前にクロスを送った。ザハルニーとクリフヴォルの間からやや下がってハリー・ケインが、ヘディングシュートを打つ。ショートバウンドしたボールに、GKブスチャンの手は届かず、右ネットを揺らした。3対0.今日2得点をあげたケインは、ポジショニングがよく、自らマークを外して、フリーの状態でヘディングした。1点目と同じく、相手のDFと駆け引きに勝ったことにより、ゴールに繋がった。
ハリー・ケインの3点目
前半の終盤ウクライナはボール保持率が上がったものの、後半の立ち上がりに続けて2失点したことにより、チーム全体の運動量が下がっていた。イングランドは、センターバックの2枚がハーフウェー・ライン付近まで上がり、右サイドバックのウォーカーが、高い位置をとる。3点ビハインドのウクライナは、トップのヤレムチュクを残して、引いて守りながら、チャンスをうかがう。前線からプレッシャーがかからず、防戦一方である。16分、センターサークルの中からウォーカーが、ゴール前に直接ボールを送った。スターリングをカバーしたカンバーチェフが、ヘディングでクリアした。エリアすぐ外からハリー・ケインが直接右足でボレーシュートを打った。右ネットに向かうボールを、横飛びしたブスチャンがセーブした。今日2ゴールのケインは、足元の技術が高く、ボールの落ち際を狙って蹴り上げていた。枠をとらえたとはいえ、ここはブスチャンの好セーブに阻まれた。続く右サイドからのコーナーキックを、トップ下のマウントがけると、カーブを描いたボールがゴール前に入る。後半立ち上がりから投入されたヘンダーソンがヘディングシュートを打った。GKブスチャンの手は届かず、鮮やかに左ネットを揺らした。4対0.セットプレーのマークがずれた分、ヘンダーソンは完全にフリーになっていた。
ゴールを決めた直後のヘンダーソンの表情
一矢報いるべくウクライナは27分、ヤルモレンコからボールを貰ったマカレンコが、エリアすぐ外からシュートを打った。GKピックフォードがパンチングで前に押し返した。イングランドは、準決勝を見据え、ハリー・ケインやスターリングをベンチに下げて、守備固めに入る。ウクライナは、トップのヤルムチェクを中心に、体力の消耗により、前線からのプレッシングが明らかに低下している。
写真=ゴールキックを蹴るピックフォード
試合は、4対0でイングランドが、ウクライナに快勝した。前後半の立ち上がりの3点を含め、イングランドが大事な時間帯に奇襲攻撃をかけたことにより、ゲームのコントロールに成功した。ウクライナは、所々競り合いでは勝っていたものの、左サイドのスターリングのドリブルに手を焼いていた。ゴール嗅覚に優れたハリー・ケインもしばしマークを外してしまう。90分間、ボール保持率はイングランドの51パーセントに対して、ウクライナは49パーセントである。シュート数に関して、イングランドは10本のうち枠内6本、ウクライナは7本のうち枠内2本である。試合中の走行距離は、イングランドの105、99kmに比して、ウクライナは105,27km、スタッツでは大きな差がない。明暗を分けたのは決定力に尽きる。勢いにのるイングランドは、ホームで開催されるベスト4へ、ウクライナは2006年ドイツ大会以来、16年ぶりのWカップ出場を目指し、秋に再会されるWカップ予選で仕切りなおす。イングランドの勝負強さが発揮された1戦だった。
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