7/2(金)
昨7月1日、日本全国で新型ウィルスの新規陽性者は1754人、死亡者24人確認された。本日の新規陽性者は1763人、死亡者22人である。23日に行われる五輪の開会式は、午後8時から午後11時30分に終る見通しだと明らかになった。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6577104
大会1年遅れで開幕したUEFA EURO2020は、ベスト8が出揃った。前回まで3回にに渡って、フィンランドの歴史と共にサッカーの試合を紹介した。同チームの1次リーグ敗退を機に、今回ウクライナ共和国の歴史を紹介すると共に、サッカー代表チームの試合をレポートした。
人口は2020年時点で4150万人、国土は日本の1,6倍、1922年から1991年まで69年に渡り、旧ソヴィエト連邦を構成した15の共和国の一つである。1991年8月24日に独立を宣言して、節目の30年を迎えた。16世紀から穀倉地帯と化し、20世紀のソヴィエト時代大規模農場と共に工場地帯として経済を支えた。豊かな土地に目を付けられ、大国に支配され続けた過去を持つ。今回元祖ウクライナであるキエフ・ルーシ国を中心に紹介する。
目次
・第1章 キエフ・ルーシの始まり
・第2章 モンゴル襲来
・第3章 独立を願うウクライナ人
・第4章 UEFA EURO2020 ベスト16 スウェーデン 対 ウクライナ戦レポート
参考文献:物語 ウクライナの歴史 黒川祐次著 2002年8月15日 中公新書より刊行
第1章 キエフ・ルーシの始まり
ウクライナ人の始まりは、西暦882年ヴァイキングの末裔リューリックと摂政のオレーグ公が建国したキエフ・ルーシ国にある。ルーシーとは、北方のノルマン形人種の呼び名である。既にリューリックとオレーグは、現ロシア連邦のノブゴロド公国から、現ウクライナの首都キエフに都を移した。西暦912年オレーグの死後、リューリックの息子イーゴリー1世が、公として即位する。正式に公国となり、リューリックの故郷である北方のヴァーリャック人と、東側のアジアに起源を持つ人種と交流を持ち、「東スラブ人」になる。
写真 掲載元 gooブログ ヨーロッパの歴史9
https://blog.goo.ne.jp/taitouku19/e/cd8e6f6fcbcb9b2de30aa07c52e89538
スラブ人とは、北方のゲルマン系と東方のトルコ系の血が入った人種のことを指す。礎を築いたのはハザール可汗国である。ハザール可汗国は6世紀半ば以降、カスピ海から黒海沿岸まで領土を拡大した。最盛期は7世紀半ばから9世紀半ばにかけての200年、ビサンツとイスラム帝国に匹敵する大国として君臨した。世界で唯一国の宗教としてユダヤ教を採用し、東方のイスラム系や遊牧民の侵入を阻止した。「パクス・ハザーリカ(ハザールの平和)」の下で、東スラブ人は国家を築いた。ハザール人自身は、戦闘的な遊牧民族から外交を重視する政策をとる。キエフ・ルーシの侵攻により、10世紀頃には衰退し、歴史書には1075年を最後に現れていない。
写真=ハザール王国の歴史
https://inri.client.jp/hexagon/floorA4F_ha/a4fha100.html
ハザールを支配下に置いたキエフ大公国の発展に力を注いだのは、10世紀から11世紀にかけて大公の座についたウラジミール1世である。当時繁栄を誇っていたビサンツ帝国に侵攻すると、皇帝パシレイオス1世に提案を持ちかけた。黒海の利権を巡って争う対ブルガリア王国との戦いに向けて、軍隊を出すことを条件に、妹のアンナを后として貰いうけたのである。西暦988年正式に婚姻関係を結ぶと、ギリシャ正教に改宗した。
西暦1054年にキリスト教会の東西分裂が起こった。西方のローマ=カトリック教会に対し、東方の正協会として発展する。1453年5月29日にビサンツ帝国が、オスマン帝国のメフメト2世によって滅ぼされると、正教会の主役はロシアに変わった。ウラジミール2世は、東方教会を広めると共に、黒海の貿易により、富をもたらした。北方のノルマン系ヴァーリャック人を祖先に持つキエフ・ルーシは、ハザール汗国が築いたトルコ系の文化を吸収する。ビサンツが築いた正教を取り入れ、東スラブ人として躍進を遂げる。
写真 掲載元 コトバンク ロシア史
転機は12世紀にある。キエフ大公国は、独立した10から15の公国の緩やかな連合にとどまった。それぞれの公国内で、後継者を巡る争いも耐えなかった。原因は、兄弟相続から父子相続に変わったことにある。現にウラジミール1世の最初の妻の子ヤロスラフ1世(賢公)は、西暦1010年に長兄ヴィシェスラフの後継者として公の位についていた。なおヴィサンツから貰い受けたアンナは、2番目の妻の可能性が高い。ウラジミール1世は8人の妻と、12人の子供をもうけていたのである。最初の妻の子ヤロスラフは、父ウラジミール1世と同じく北方のヴァーリャック人の支援を受けて、ノブゴロドから南下し、キエフをそのまま征服した。ヤロスラフの時代からキエフの主を「大公」と呼ぶ。在位は1019年から1054年、遊牧民ペチェネク人を追い返し、キエフに平和と安定をもたらした。法改正にも勤しみ、慣習法を「ルスカ・プラウダ(ルーシの法)」として法典化した。ハンムラビ法典にちなんだ復讐心から引き起こす殺人は認めなかった。私利私欲から罪を犯した人物には、罰金刑を課す。死刑制度も廃止した。また教育にも熱心だった。西暦1037年にソフィア聖堂内に図書館を作り、キリスト経の聖典を翻訳した。賢公の名の由来は、文化の発展に貢献したことにある。ヤロスラフ賢公の死後、後継者争いにより、国は混乱した。遊牧民のポロヴェツ人が公国内に入り込み、秩序が乱れた。孫のヴォロデミール・モノマフ(在位1113年から1125年)の時代にようやく安穏と平和が戻ってきた。彼は、イングランド王ハロルド2世の娘ギーダを嫁にもらい、息子達に争いとは無縁でいて欲しいとの願いから、教訓を残している。「人に会ったら挨拶をする、妻を愛せよ。虚言と深酒と淫乱を避けよ。己の従者にも他人の従者にも、村々や田畑で乱暴を働くことを許すな」
それぞれ公国は、独立した国家だった。台頭したのは、北東部のウラジーミル・スーズダリ公国、北部のノブゴロド公国、南西部のハーリチ・ヴォルイニ公国である。ウラジミール・スーズダリ公国は、後のロシア連邦になるモスクワ大公国の元となった。キエフ・ルーシを構成する諸国は、東方から現れた遊牧民ポロヴェツ人とも戦争に発展した。致命的な敗北をしなかったとはいえ、構成国の形は大きく変わった。その原因は、貿易の衰退にある。12世紀まで十字軍の派遣によって、地中海からイスラム勢力を追い出したことにより、西欧からビサンツ帝国を挟み、西アジアへの交易ルートが復活したのである。地中海からキエフ・ルーシとを結ぶ南北ルートの重要性はなくなりつつあった。諸侯国の貴族や公は、貿易商を辞めて、地主になる。交易で栄えた大公国が、農業国と化した。
写真 掲載元 世界の歴史マップ キエフ大公国より
第2章 モンゴル襲来
キエフ・ルーシは、やがてモンゴルによって崩壊の道を歩む。西暦1237年、モンゴル帝国の礎を築いたチンギス・ハンの孫バトゥが、キエフ・ルーシの地に足を踏み入れ、北東部の公国を滅ぼす。西暦1240年に首都キエフを包囲し、公国の兵士と籠城戦の末、城壁を打ち壊した。年末にはキエフを完全に陥れたことにより、町を支配化に置いた。東ヨーロッパの諸国を征服したモンゴルに起源を持つ人のことを「タタール」と呼ぶ。歴史学において13世紀から14世紀までモンゴルの支配下に置かれた時代を「タタールの頸木(くびき)」という。
当時のモンゴル系民族は、配下に置いた公に対して、納税の義務を守ることを条件に自治を認めていた。交易による大幅な収入が獲得できるクリミアに関しては、直轄領とし、クリミア可汗国を築いた。
現代のロシアの歴史家は、こぞって12世紀から14世紀は、暗黒の時代として、タタールの頸木を描いている。一方モンゴル系民族は、世界征服を目的とし、納税の義務以外に、服従を強いることはなく、ウラジミール1世が取り入れた正教を保護した。聖職者は納税の義務から解放され、裁判権を与えられていたのである。地中海から北東へ延びる交易ルートも復活し、現在のイタリアを構成するヴェネツィア、ピサ、ジェノバから商人が訪れた。モンゴル直轄領クリミア南岸は貿易の拠点として進展する。
タタールの頸木と呼ばれる時代に、キエフ・ルーシ時代で遮断された交易ルートが蘇り、農業国から商業国へと戻りつつあった。モンゴルは、決して略奪者ではなく、納税と引き換えに自治を認めていた公国内で、後継者争いも起こさず、治安を安定化させた。
キエフ・ルーシを形成する大部分の公国は、モンゴルの監視下に置かれた。一方で南西部のハーリチとヴォルイニが合体した公国は、1240年にキエフ陥落後も1世紀あまり存在したのである。このハーリチ・ヴォルイニ公国は、最盛期に現ウクライナの人口の9割が住む地域と一致している。キエフ・ルーシの後継国と主張するウクライナ政府の言い分は、最後まで残ったハーリチ・ヴォルイニ公国の領土にある。両公国の合併は、1199年である。
2つの公国を統合したヴォロデミール・モノマフの玄孫(ひ孫の子)に当たるヴォルイニ公ロマンは、キエフを離れ、ハーリチ地方にとどまり、町を作った。息子ダニーロ(在位1238年から1264年)は、モンゴル軍と上手く交渉をし、戦争を起こすことなく、和平を申す。ダニーロは、モンゴル直轄領のキプチャク汗国の都サライまで赴き、バトゥに臣従の例を示した。一方で、打倒モンゴルを掲げ、ローマ法王に十字軍の力を借りたいと願い出た。結果的に十字軍を後ろ盾に戦争を起こすことはなかった。タタールの頸木から逃れたことにより、ダニーロは、法王から「ルーシーの王」の称号を与えられた。ハーリチ地方には、息子レフの名をとり、後に町ごと世界遺産に登録されるリヴィフを建設した。
写真=リヴィフの町 掲載元 TABIPPO
https://tabippo.net/ukraine-lviv/
ダニーロの死後は、他国の干渉により、崩壊に向かう。1340年にヴォルイニはリトアニアに、ハーリチはポーランドに併合された。ヴァイキングの末裔オレグがキエフに都を作って450年、最後の男系レフ二世(在位1315年から1323年)は、始祖リューリクから数えて14代目である。元祖ウクライナは、一端滅亡した。
第3章 独立を願うウクライナ人
ハーリチ・ヴォルイニ公国を分割統治したポーランド王国とリトアニア大公国は、1569年にルブリン(現在ポーランドの都市)合同によって、統一される。ウクライナの大部分は、ポーランド・リトアニア共和国に入った。
2国が合併したことにより、選挙王政が始まった。中小貴族(シュラフタ)が選挙権を持ち、大貴族(マグナート)が立候補の権利を持つ。1596年に、スウェーデン王国ヴァーサ家出身のポーランド・リトアニア共和国王ジグムント3世により、東方教会とカトリックを統一させる「ブレスト合同」を行う。ブレストは、現ベラルーシ共和国最西端の都市である。熱心なカトリック信者の王は、東方典礼を守りつつもローマ教皇の権威を認めるウクライナ東方カトリック教会を成立させたのである。
ポーランド・リトアニア共和国は、現ウクライナとベラルーシの大部分を併合している。カトリックを押し付けた結果、ウクライナ南方のステップ地帯に起源を持つ武装集団コサックの反乱にあう。ポーランド・リトアニア側は、ウクライナの武装集団コサックを、当時勢力を伸ばしつつあるオスマン帝国の防波堤として利用していたいきさつがある。独自の文化を持つコサックが歯向かうことを恐れ、兵員の数を調整するべく、登録制を敷いた。登録簿に入ったコサックは、軍人として一定の給金が支払われる。成果を出したものは、土地が与えられた。現ウクライナでいくつかの部隊に別れ、リーダーを選んだ。かつては部隊のリーダーが集り、ラーダ(中央会議の総称)を開いていた。ラーダで任命されたコサック全体のリーダーは、ポーランド・リトアニア共和国内で王様に次ぐ地位を与えられた。棟梁またはヘトマンともいう。
写真 掲載元 リトアニア駐日大使館より
https://jp.mfa.lt/jp/jp/8008/8009/8010
闘争心の強いコサックは、統一が難しく、度々部隊ごとに反乱が起こった。1648年、コサックの一つの部隊ザポロージャの一団フメリニツキーが率いる反乱は、ポーランド・リトアニア共和国の国家体制を大きく揺るがした。フメリニツキーは、カトリックを押し付ける国に反旗を翻したのである。またコサックが伝統的にトルコ領で行ってきた奴隷狩りや略奪行為を厳しく取り締まったことも一因である。1649年から1672年まで事実上コサックが独立した国家を築いたのである。歴史家はフメリニツキーの乱を「ウクライナ民族解放戦争」と呼ぶ。コサックのトップの称号にちなみ「ヘーチマン国家」という。
ウクライナを象徴するコサック国家は長く続かなかった。1654年にフメリニツキーが、モスクワ・ツァーリー国のロマノフ家2代目アレクセイ皇帝に保護を申し「ペレヤスラブ協定」を結ぶ。同年から1667年までロシア・ポーランド戦争が起こった。アンドソルヴォ条約により、ウクライナは分割された。右岸はポーランド・リトアニア共和国に残る一方、左岸は保護を求めたモスクワ・ツァーリー国に編入された。戦時中の1657年にカリスマ的指導者フメリニツキーの死により、コサックが部隊ごとに異なる動きをした結果、へーチマン国家は分割される結果になった。右岸ではコサック制度が廃止される一方、左岸では100年余り傭兵代わりにモスク・ツァーリー国から利用された。1767年、帝国の名がモスクワからロシアへ変わり、エカチェリーナ2世時代に自治権が取り上げられた。左岸ウクライナは、小ロシア県に組み込まれ、1786年にコサック制度は廃止された。ウクライナは、地図上から姿を消し、地方都市になった。独立の機会が訪れたのは、1917年2月の帝政ロシアの崩壊にある。同年10月に、社会主義者のボリシェビキが、権力を握り、議会ソヴィエトが立ち上がる。帝政ロシア領ウクライナでは、知識人が集り、中央議会ラーダが結成される。レーニンが率いるボリシェヴィキは、帝政ロシアの領土を維持するべく、広大な穀倉地帯のウクライナを完全に支配するため策を練る。ウクライナ東部に手先を送り込み、ハルキフにて傀儡政権を立てる。1917年12月にウクライナ社会主義共和国を樹立させた。18年3月3日に、ボリシェビキが率いるロシア軍は、ウクライナを支援するドイツ帝国と「ブレスト=リトフスク条約」を結び、一端撤退する。同18年4月29日、ウクライナ民族主義者中央ラーダ政府は駆逐され、ドイツ帝国の傀儡となる貴族階級が要職に就く「ウクライナ国」が誕生する。トップには、コサックの末裔であるスコトロパシドークイィ将軍が就き、150年ぶりにヘーチマンを名乗った。ヘーチマンの政変ともいう。ドイツを後ろ盾とする政府は、長続きしなかった。わずか8ヵ月後の同年11月11日に、ドイツ帝国が、4年に渡って続いた第1次世界大戦で降伏し、ウクライナから撤退した。ヘーチマン政府も倒れ、中央ラーダ政府時代のトップ、民族主義者シモン・ペトリューラが権力を握る。
写真=シモン・ペトリューラ 掲載元 JKRINFORM
彼は、来るべきボリシェビキとの決戦に備えていた。ドイツ帝国の崩壊により、ブレスト=リトフスク条約は無効となった。ウクライナ社会主義共和国を支援する目的で、ボリシェヴィキはウクライナ侵攻を開始し、全土を飲み込んだのである。民族主義者ペトリューラは、150年ぶりに主権を回復したポーランドに支援を要請したが、最後は見捨てられた。ウクライナは、独立を維持できず、1922年にソヴィエト社会主義連邦共和国の一員と化した。ソヴィエトが崩壊する1991年に3度目の独立を勝ち取り、これまで最も長く30年以上続いている。
ウクライナは、2010年にロシア連邦によってクリミア半島一帯を併合され、領土を巡る軋轢を抱えている。大国の支配に苦しみ、独立には多大なエネルギーを要した。国民は、過去の歴史を学び、文化を発展させ、大国に抵抗した人々を英雄として称えている。ナショナリズムの原点は、1000年以上も前のヴァイキングの末裔が作り上げたキエフ・ルーシにあった。
第4章 UEFA EURO2020 ベスト16 スウェーデン 対 ウクライナ戦レポート
6月29日、スコットランドのグラスゴーにあるハムデンパークにて、UEFA EURO2020 ベスト16、第8試合、スウェーデン(E組1位)対 ウクライナ(C組3位)戦が行われた。両者は、9年前のUEFA EURO2012 ウクライナ・ポーランド大会の予選リーグ1節目でも顔を合わせている。ゲームの方は、スウェーデンが先制したものの、2004年にバロンドール(欧州最優秀選手賞)を受賞したシェフチェンコの2ゴールにより、ウクライナが逆転勝利を飾っている。シェフチェンコは同大会限りで現役を引退し、現在監督として代表チームの指揮をとる。現地は気温22度、湿度53%である。
メインスタンド側から見て、右から左に攻めるのがウクライナ、逆にスウェーデンは左から右に攻める。
写真 掲載元 twitter ユーザー r4lx
https://twitter.com/r4lx_j1897
https://twitter.com/r4lx_j1897/status/1409714695460712455
両チーム立ち上がりは、失点を避けて、リスクを犯さずに戦う。3バックを敷くウクライナは、相手の2トップ(ケルシェフスキー、イーサック)をマークする。対照的に4バックのスウェーデンは、両サイドバック(右ルスティング、左アウグスティンソン)が、度々上がる。ウクライナは10分、エリア内の右で2トップのヤルモレンコが、コンビを組むヤレムチュクにパスを出す。ヤルムチェクは、右足でシュートを打った。右に体を倒したオルセンが防いだ。
スウェーデンは12分、左サイドバックのアウグスティンソンが、サイドハーフのフォルスベリを追い越して、パスを受けた。ウクライナは、右アウトサイドのカンバーチェフが、体を張って対応した。
26分、均衡が破れた。ウクライナは右アウトサイドのカンバーチェフが、エリア内のヤルモレンコにショートパスを出す。フリーでボールを受けたヤルモレンコは、ディフェンスの位置を見ながら、エリアの反対サイドのジンチェンコを狙って、アウトにボールをかけた。2度バウンドしたボールを、ジンチェンコが左足でシュートした。ライナー性のボールは、重心を左に傾けたGKオルセンの手を弾き飛ばし、ネットに突き刺さった。ウクライナ先制!アシストしたヤルモレンコは、急いで戻ってきた相手のフォルスベリを交わすべく、左足のアウトサイドで逆サイドのジンチェンコにパスを出した。ゴール前を意識したスウェーデンDFは、ジンチェンコを完全にフリーにしていた。
写真=先制ゴールを決めるジンチェンコ 掲載元 MARKED SHOCKEDS
押し気味にゲームを進めながら得点を許したスウェーデンは29分、ゴールから距離にして25m、中央やや右からFKを得た。キッカーのセバスチャン・ラーションは、左ネットの方をカバーするGKブスチャンの位置を見て、反対サイドを狙いシュートを打った。壁の横を抜けていくボールは、バウンドしながら右ネットに向かう。体重移動したブスチャンが、両手でボールをはじき出した。
ボールを保持するスウェーデンは42分、エリアすぐ外で、2トップの1角イーサックからの横パスを、左サイドハーフのフォルスベリが受けてシュートを打った。左ネットに向かうボールは、GKブスチャンの指先を抜けて、ネットを揺らした。1対1.フォルスベリの大会3試合連続ゴールにより、スウェーデンが追いついた。
写真=ゴールを決めるフォルスベリ 掲載元
https://pick-kart.com/sweden-vs-ukraine-full-match-highlights/?nowprocket=1
後半は立ち上がりから激しい展開だった。スウェーデンは、左サイドバックのアウグスティンソンが高い位置をとる。10分、ハーフウェー・ラインより後ろから2トップの1角、イーサックがドリブルを仕掛ける。急いで上がってくる先制ゴールのフォルスベリにパスを出す。トップスピードを保ったフォルスベリは、エリアのライン上でボールをトラップすると、GKブスチャンのタイミングをずらすかのように、右足のインサイドで狙い済ましたシュートを放った。微妙にカーブがかかりながら落ちていくボールは、横飛びしたブスチャンの指先を抜けていくものの、右ポストに当って、反対サイドに転がった。フォルスベリは、頭を抱えた。パスの出し手となったイーサックは、柔らかいボールタッチと、スピードを持ち味とし、フォルスベリの足元にボールを送っていた。彼は、大会0ゴールながら、チャンスメイクに徹している。スウェーデンは20分に、フォルスベリの左サイドからのコーナーキックから、反対サイドのエリア内で2トップの1角ケルシェフスキが、左足でシュートを打った。左ネットに向かうボールは、横飛びしたブスチャンがセーブした。後半は、スウェーデンがボールを回しながら、両サイドを中心に展開する。ウクライナは、守りを固めてカウンターに入る展開である。試合は前後半90分で決着がつかず、延長戦に入った。15分ハーフ、計30分行う。
延長前半は右から左に攻めるウクライナに対し、スウェーデンは左から右に攻撃する。立ち上がり2分、試合の行方を左右するアクシデントが起こった。ウクライナは3バックの右に入るザハルニーのクリアボールが、ハーフウェー・ラインを超えていった。トラップを試みた途中出場のベシェーティンに対し、スウェーデンのダニエルソンがタックルで飛び込んだ。脛にキックを食らったベシェーティンは、左ひざが曲がりながら、倒れこみ、脛を抱え込んだ。主審は笛を吹き、VAR(ビデオアシスタントレフェリー)に判断をゆだねた。
写真=一連のシーン 掲載元 FOX DEPORTES
https://twitter.com/FOXDeportes
ダニエルソンは、故意ではないとはいえ、スライディングが遅れた分、スパイクの裏でベシェーティンをキックしていた。主審は、ダニエルソンの行為を危険なプレーと判断し、胸ポケットから取り出したレッドカードを突きつけ
、一発退場処分を下した。負傷したベシェーティンは、ツィハンコフと代わって、ピッチから退いた。ゲームは延長後半終了間際に動いた。プレー人数が一人多いウクライナは、左サイドのライン際からジンチェンコがゴール前にクロスを送った。腰を落としながら途中出場のドピクがヘディングでゴールに流し込んだ。ショートバウンドしたボールは、体を倒したオルセンの脇を抜けて、ネットを揺らした。2対1.ウクライナ勝ち越し。
写真=勝ち越し点となるヘディングシュートを打つドピク 掲載元 Breaking Latest News
ドピクは、相手のディフェンスの間に入り、GKオルセンの位置を見極めながら、クロスボールをヘディングで合せた。延長戦の序盤数的有利の状況に立ちながら、ようやく崩すことに成功した。ゲームは延長120分の末、ウクライナがスウェーデンに2対1で勝利し、初のベスト8に勝ち上がった。下馬評ではスウェーデンが有利と見られた展開で、ウクライナは序盤から攻めの姿勢を貫いた。3バックでゴール前を固め、両アウトサイドが前線に張り出した。前半26分のゴールは、3−5−2システムが利いた。スウェーデンは、後半ボールを保持する展開が長かった。2トップの1角イサクがボールを引き出すと、2列目のフォルスベリにスペースが開く。イーサックが敵をひきつけることにより、フォルスベリは大会3試合連続3ゴールを記録した。延長戦に入り、一人失ったことにより、後手に回った。ウクライナは、今回の勝利で勢いに乗ることが出来るのか、台風の目として注目されている。
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