山上の説教とも言われる山上の垂訓は、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章から7章と『ルカによる福音書』第6章にある、イエスが山の上で弟子たちと群集に語った教えのことだが、本気でこれが実践できるなら確かに世界は平和になるニャ。
敵を愛し迫害する者のために祈りを出来るかどうかが、鍵を握るのですね。
要は相手の気持ちや立場にどれだけ立って考えられるがが、問われるのニャ。
自分だけでなく相手にも譲歩の余地を残した妥協案を先に出せた方が、交渉で大きく点を稼げるのニャ。
下手な真似をするよりそこで手を打った方が、互いの損が少ないから…。
これが本気でやれれば、相手に誠意は伝わるのでニャ。
戦争とは力ずくで臭い物に蓋をする真似であって、問題の解決ではなく先送りに過ぎないのニャ。
しかも恨みや怒りや疑心暗鬼でこじれにこじれた状態で先送りする…。
最悪のやり方なのニャね。
相手が変わるのをただ待つより、こちらが積極的に相手の事情を思いやった対応をするしかないニャろ。
もちろん原則は譲らないで、ニャ。
どんなに譲歩や思いやりがあろうと、占領下や格下の立場では屈辱でしかない…。
譲歩や思いやりが平和の営みとなるのは、対等平等の関係にある場合だけなのニャ。
もつれやこじれを力ずくで抑え込むと、事態を余計にややこしくする…。
無理に解こうとするより、愛と寛容と忍耐によって時間をかけて新しい関係を築くしかないのニャ。
問題は、誰が真っ先に手を上げるか…。
真っ先に手を上げたものが徹底的に謙虚になって、事態を収めるしかないのニャ。
聖書でイエスは、上席に座りたいならまず末席に座るように勧めると言うニャ。
もしその人が本当に上席に相応しいなら、周りが上座に招いてくれるのニャ。
自分よりも上席に座る人がいても十分に敬意を払われたことになり、恥をかかない…。
謙虚になれば、周囲が敬意を払ってくれるのニャ。
一つ聖句を上げておくニャ。
マタイによる福音書 6章
19 「あなたがたは地上に宝を積んではならない。そこでは、虫が食って損なったり、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
20 宝は、天に積みなさい。そこでは、虫が食って損なうこともなく、盗人が忍び込んで盗み出すこともない。
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