■「五輪で陛下懸念」波紋広がる=政府、沈静化図る
(時事通信社 - 06月26日 08:01)
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結局西村の願望を語っているにすぎないのが困ったもんだ。
語ってはならない扱いであるなら述べてはならない。当たり前のことだ。
「忖度された被災者の意思」は不謹慎厨の「卑しさ」をそのままに表示することになる
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を言い換えるならば、
西村長官のようなタイプには、わかりやすい外形的な特徴がある。
「首尾一貫性がない」。
例えば、イギリスの国家意思自体は、国益の最大化という意味では首尾一貫している。
彼らは、「こんなことをしたら、陛下が喜ぶかも知れない」と思って、走り回っている為に、動線には法則性がない。
何故ならば、彼らが「対象」と呼んでいるものは、彼らひとりひとりの頭の中に像を結んだ「幻想」でしかないから、となる。
「西村が『陛下』だと思っているもの」こそが、西村にとっての「陛下」でしかない。
「陛下」が直接こちらに「指示」を出しているなら、その指示は権威付けされ、どの施策も首尾一貫する。
対照的に、西村にとっての「陛下の欲望と推定されているもの」は誰によっても権威付けされない。
なぜなら、「言挙げされていない」欲望に焦点化しているのだから。
「いや、殿、その先はおっしゃいますな。
何、こちらはちゃんと飲み込んでおります。
ま、どうぞここは、この三太夫にお任せください」
これがその本懐といってもいい。
「みなまで言わずと」的制止のあとに「殿の意思」として推定されるのは、多くの場合、「三太夫の抑圧された欲望」である。
三太夫は「私が殿の立場だったら、きっとこう考えるだろう」ということを推定する。
彼は、相手の欲望を読み取っていると思っている当のそのときに、「自分の欲望」を語る。
「せこい」やつが対象の意思を想定すると、対象は「せこい性格」を持ったものとして観念される。
西村が「陛下の意思だと思っているもの」は、それぞれの
「もし自分が陛下だったら、へこへこへつらってくる人間に向かって何を要求するか?」
という自問への答えの部分でしかない。
ここまで、「そういうこと」と書いてきたのは言わずもがな「忖度」となる。
即ち「忖度された陛下の意思」は西村の「卑しさ」をそのままに表示することになる。
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