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2021年06月23日23:24

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UEFA EURO2020企画(3)19世紀ロシア帝国統治下のフィンランド大公国の108年 サッカーEURO2020 第3節 フィンランド 対 ベルギー戦のレポート  

6月23日(水)

東京オリンピックに参加するウガンダ選手団8人のうち、新たに1人がPCR検査の結果陽性が判明した。選手団から空港検疫で感染が判明した1人を含め、合計2人の陽性が明らかになった。

 今回、フィンランドの歴史と共に、サッカーの試合レポートを書き上げた。人口550万人、森と水の国といわれるフィンランドは、12世紀からスウェーデンとロシアに支配されてきた。前回は、フィンランドサッカー史と共に1809年から始まった帝政ロシア時代を経て、1918年の独立1年後の内戦までを描いた。今回第1章と第2章では、1809年から1917年まで108年に渡ったロシア帝国内の大公国時代について掘り下げていく。第3章はサッカーEURO2020 第3節 フィンランド 対 ベルギー戦のレポートである。

目次
・第1章 ロシア帝国内の大公国として保障された自治
・第2章 ニコライ2世の下自治が侵害される
・第3章 EURO2020 B組第3節 フィンランド 対 ベルギー戦レポート

 前回の関連日記 6月19日付け 6/19(土)五輪開催について。北欧フィンランドの歴史 男子・サッカー UEFAEURO2020 6月16日(水)第2節フィンランド 対 ロシア戦のレポート
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1979571097&owner_id=32437106

   第1章 ロシア帝国内の大公国として保障された自治

12世紀から19世紀まで700年近くスウェーデンに支配されていたフィンランドは、大国ロシアにも揺るがされてきた。ロシアは、18世紀初頭のピョートル1世の時代から西ヨーロッパの緩衝地帯としてフィンランドを狙っていた。1808年、当時ロシアのロマノフ王朝第14代皇帝アレクサンドル1世とスウェーデンのグスタフ4世との間で、「第2次フィンランド戦争」が起こった。事の発端はナポレオン戦争にある。1806年10月、プロイセン王国と同盟を結んだロシア帝国は、ナポレオンが率いるフランス軍にイエナの戦いで敗れた。プロイセン領ティルジットにおいて、ロシア帝国とプロイセン王国が、それぞれフランスと個別に講和会議を開いた。7月7日にアレクサンドル1世と、7月9日にプロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム三世と直接結んだ「ティルジットの和約」により、ヨーロッパ北東部の地図が変わった。アレクサンドル一世は、ナポレオンの要求どおり、イギリスに対する大陸封鎖令に参加すると約束した。プロイセンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム三世は、ポーランド領を削られ、ザクセン王が君主となる「ワルシャワ公国」を認めた。またナポレオンは、エルベ川の左岸全域を確保し「ウェストファリア王国」と名づけ、自身の弟ジェロームに統治を任せた。ロシア帝国は、大陸封鎖令の参加を拒否したスウェーデンのグスタフ4世に宣戦布告し、フィンランドを舞台に戦争を行った。1809年9月に、戦況で不利にたったスウェーデンが、講和に応じ「フレデリクスハムンの和約(ハミナの和平)」を結び、フィンランドをロシアに割譲した。

 写真=フィンランドの地図 掲載元 フィンランドの観光地 http://www.i-wanna-travel.com/r5-finland00.html
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 必ポーランドは、1771年、1793年、1795年の3度に渡り、ロシア帝国、プロイセン王国、オーストリア王国によって、分割され、地図上から姿を消した。

 あのフランスの皇帝ナポレオンが去った後のヨーロッパの体制を決める1814年から15年のウィーン会議にて、フィンランドは大公国としてロシア帝国との同君連合として認められた。フィンランド大公はロシア皇帝が兼ねる。スウェーデン統治時代よりも自治権が拡大した。専制君主制のロシアに対し、フィンランドは立憲君主制である。会議を開くきっかけは、打倒ナポレオンを目指した第6次対仏同盟の結成にある。ナポレオン率いるフランス軍は1813年10月16日から19日まで4日に渡り、ザクセン王国のライプチヒにて、対仏同盟軍と戦った。軍勢において、差が生じていた。ロシア帝国、プロイセン王国、スウェーデン王国、オーストリア帝国の同盟軍は36万、対してフランス軍は19万である。戦いに敗れたナポレオンは、皇帝の座を追われ、エルバ島に流刑になった。ナポレオンが築き上げたワルシャワ公国は、ロシアとプロイセンに分割された。ロシア領はポーランド立憲王国に、プロイセン領はポズナニ大公国、また一部地域は、オーストリアを含めて3カ国が共同統治するクラクフ共和国になった。

 フィンランドにおいて、スウェーデン統治時代から身分制議会が開かれていた。1816年には、セナーッティ(大公国評議会)が設置され、総督と議長を兼ねていた。外交や軍事の重要事項は皇帝に決定権があったものの、大公国内において、総督が舵取りを担う。公用語はスウェーデン語とフィンランド語である。経済面でもロシアとは切り離され、異なる通貨を使用していた。1819年に、首都がトゥルクからヘルシンキに変わった。1825年にアレクサンドル1世が崩御し、息子のニコライ1世へと引き継がれた。当時はヨーロッパ大陸内で
ナショナリズムが芽生える時期だった。1848年にフランスでは第2次革命が、オーストリア帝国のハンガリー領内では、コシュートの乱が起こった。民衆の力によって、既存の態勢が揺るがされていた。ニコライ1世は、フィンランドの独立運動をけん制するべく、検閲を強化した。フィンランド語での出版物を禁止する処置を下したのである。南方の黒海沿岸にかけて領土を拡張するロシア帝国は、オスマン帝国との間で黒海周辺の利権を巡り、争いが起こった。1853年から56年までの3年間に渡る「クリミア戦争」が勃発した。

 写真=黒海周辺の勢力図 掲載元 山川&二宮ICTライブラリ https://ywl.jp/content/LTE20
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軍の力ではロシア帝国が、オスマン帝国を圧倒していた。フィンランドからも徴兵され、最前線で戦ったのである。ロシアの黒海進出に、イギリスとフランスが危機感を抱いた。後にイタリア統一を果たすサルデーニャ王国と共に、劣勢のオスマン帝国を支援した。産業革命により、機械化が進んだイギリスとフランスの支援を受けて、形成は一気に逆転する。工業発展が遅れていたロシア帝国軍との兵器の差は歴然としていた。クリミア半島のセバストポリ要塞の陥落を受けて、戦況はロシアに不利になった。一矢報いるべく、相手のオスマン領のカルス要塞を落としたことにより、完全な敗者にはなっていない。1856年3月30日に、戦時中亡くなった父ニコライ1世の後を継ぐアレクサンドル2世は、和平を申し出た。プロイセン王国とオーストリア王国が仲裁に入り、オスマン帝国とイギリス、フランス、サルデーニャ王国とパリ条約を結んだ。劣勢だったロシアの傷口は最小限にとどまり、領土削減を免れた。敗戦を機に皇帝アレクサンドル二世は、西欧に近づくべく、大胆な改革を行った。

 その一貫として、父ニコライ2世が亡くなる前から始まっていた鉄道建設を進めた。フィンランド大公国内において、1862年1月31日から首都ヘルシンキとハメーンリナ間で開通した。線路の長さは96km、大公国内の主要産業である木材を運ぶために活用される。運行本数は1日1本程度だった。

 1859年には、商売開業に関する法令が見直され、大都市から地方でも認められた。つまり商業の自由化を意味する。1861年に皇帝は国内で「農奴解放令」を発し、農民が土地に縛られることがなくなり、建設されつつある工場で働くことも多くなった。貴族のみ許された徴兵の拒否権は撤廃された。工業の発展のために、スウェーデンの統治時代が長かったフィンランド大公国の産業を活性化させる狙いがあった。現在首都ヘルシンキのセナーッティントリ(元老院広場)には、アレクサンドル2世の銅像が建つ。彼が即位した1856年から亡くなる1881年までの25年間、フィンランド大公国は、「自有化の時代」といわれている。

 写真=民衆の前で農奴解放令を発布するアレクサンドル二世 掲載元Japanese Class.jp
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 アレクサンドル2世は、フィンランド大公国内に関しては寛容な態度をとる一方、同じ帝国領土内のポーランド人の居住区には、厳しく取り締まった。1815年、ナポレオンの廃位後に作り上げたポーランド立憲王国に認めていた自治を1963年1月に完全撤廃したのである。きっかけはポーランドの伝統的な小貴族(シュラフタ)による蜂起である。武力でもって鎮圧し、自治権を取り上げた。

 参考:ポーランドの大貴族はマグナート、中小貴族はシュラフタという。

 庶民の間でもロシア皇帝に対する不信感が高まり、秘密組織が出来上がっていた。帝政ロシアを倒し、貧しい農民が地主から税を搾り取られることなく、平等な世界を掲げていたのである。後の社会主義革命に繋がる「ナロードニキ運動」は、1860年代から70年代に帝政ロシア領で活発化していた。1961年に農奴解放令が出されたとはいえ、貧しい農民は、土地を得るためには地主から多額のお金を払わなければならなかった。貧富の差は、事実上埋まっていない。先代のニコライ1世時代の1925年に起こったデカプリストの乱の首謀者は実のところポーランド人だった。

 フィンランドに広範な自治を認める一方、ポーランドを弾圧したアレクサンドル2世は、ロシアの産業の発展に力を注いだ。彼は、1881年に馬車で別宅から宮廷に向かう途中、ポーランド人の地下組織に仕掛けられた爆発物によって、命を落とした。

 後を継いだのは息子のアレクサンドル三世である。フィンランドをのぞく、帝国内の他の地域において、言論の弾圧を行った。1881年から1894年までの13年間、皇帝の座についたものの、大胆な改革とは無縁である。ロシア帝国内では、鉄鋼業が栄え、鉄道網の発達により、輸送能力が上がっていた。彼の亡き後、息子のニコライ2世が即位した。彼は、1971年に成立したドイツ帝国をにらみ、フィンランドの監視体制を強化した。

       第2章 ニコライ2世の下自治が侵害される

ニコライ二世は、即位した1894年から1917年までの23年間、フィンランドの自治を大幅に制限し、従属国と化した。その発端は1899年2月に、自治を制約する「2月宣言」である。フィンランド大公国の国民は、抗議の声をあげたものの、最高権力者である皇帝には逆らえなかった。大公国の代表者が、2月宣言の撤回を求めて52万筆を集め、首都サンクトペテルブルクに足を運んだものの、全く取り合ってくれなかった。前年1898年には、初めてフィンランド総督のポジションについたロシア人のボブリコフによって、権限が奪われていた。1901年には、フィンランド軍が、ロシア軍に統合された。

 写真=ロシア人のフィンランド総督ニコライ・ボブリコフ ウィキペディアより
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 ロシアに組み込まれていくことにフィンランド国民も危機意識を持った。歴史学者は、当時フィンランド大公国内では3つのグループに分断したと考えている。一つは、ロシアに対して譲歩しようとする「協調主義者」(和協派)である。もう一つのタイプは、不服従運動によって諸権利を守ろうとする「憲法主義者」(消極的抵抗派/護憲派)、3番目は[
積極抵抗派」、いわゆる急進派だ。フィンランド国民は、ロシアからの報復を恐れ、静かに意志を伝える「憲法主義者」が中心だった。ロシア人のフィンランド総督ボブリコフは、憲法主義者の中で目立った人物を、シベリア送りや国外追放の処分を下した。フィンランド国内においてロシア化を着々と進める中、日露戦争の最中1904年に積極的抵抗派に属した青年から銃殺された。

 帝政ロシアの首都サンクトペテルブルクでは、ボブリコフ暗殺の報を受けて、後任としてオボレンスキーを選んだ。ロシア化政策に激しく抵抗するフィンランド国民に同調するかのように後任のオボレンスキーは、緩和策をとった。帝国内では大日本帝国との戦いによって、フィンランド国内での蜂起を恐れたのである。1905年1月22日、帝政ロシア本国では、戦争に伴う物資の不足により、国民が首都サンクトペテルブルクにおいて、戦争中止を求め、行列を作った。中国とロシアとの国境沿いの利権を巡り、大日本帝国と戦争を継続姿勢を貫く。皇帝ニコライ二世の命令により、軍の射撃隊が、民衆に銃を向けて、発砲した。いわゆる「血の日曜日事件」である。2000人から3000人の犠牲者が出たといわれている。民衆を敵に回した皇帝は、すっかり信用を無くしていた。民主主義とはかけ離れた帝国内で、国民はあらゆる方法で意思表示をする。同1905年10月には、モスクワで鉄道員がストライキを決行する。全国的に労働者のストライキが多発し、経済活動の停滞を招く。皇帝ニコライ二世は、「10月宣言」を出し、国会(ドゥーマ)の開設を約束し、首相の座にウィッテを立てた。開戦翌年の1905年9月5日、大日本帝国と「ポーツマス(アメリカの町)条約」を締結し、無賠償とともに領土割譲無しの講和を結んだ。

 写真=ポーツマス条約を結ぶ日露の代表団 掲載元 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/
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翌1906年には、ウィッテが首相から降りて、ストルイピンが務めた。ストルイピンは、農業共同体(ミール)を解体し、自作農をしやすい環境を整備した。ミールから離れ、土地を持った農民だが、生産性は上がらず、失敗に終った。ストルイピンは1911年に暗殺されている。

 フィンランド国内では、1899年の2月宣言の撤回に対する声が強くなり始める。1905年にゼネラルストライキにより、4階級制の議会が廃止された。ニコライ2世は融和策をとり、1907年には普通選挙を認めた。ヨーロッパに先駆けて、女性にも選挙権が与えられたのである。社会民主党が200議席中80の議席、老フィン人党が59議席と好成績を収めた一方、青年フィン人党は26議席、スウェーデン人党は24議席となった。

 フィンランド国内の混乱を一端収めた後、再度抑圧する政策に乗り出す。1910年3月にフィンランドの自治に制約を加える法律を制定させると、1912年には平等法を成立させた。フィンランド大公国内在住のロシア人にもフィンランド人と同等の権利を与えたのである。フィンランドの議会セナーッティは、事実上ロシアの出先機関となった。めまぐるしく情勢が変わる中、フィンランドの知識階級の中では、独立運動が活発化する。自治を侵害されながら、突如ロシアの締め付けから開放される。1914年8月から始まった第1次世界大戦により、日露戦争のときのように物資の不足により、食べ物のパンさえ手が届かないほど値段が高騰していた。1917年2月に、一般市民ばかりか、皇帝の味方だった貴族階級さえも、デモ隊に加わった。議会からも見放された皇帝ニコライ二世は退位する決断を下したのである。304年続いたロマノフ王朝の終焉である。後を引き継いだのは、貴族階級が中心だった臨時政府である。さらに階級社会を見直すべく、市民は声をあげ続ける。1917年11月、一般労働者や農民の代弁者となったウラジミール・レーニンが率いるボリシェビキ(後の一党独裁体制を敷くソヴィエト共産党)が、臨時政府を打ち倒した。いわゆる1991年12月30日まで続くソヴィエト政権の誕生である。フィンランド大公国は、ソヴィエト政権誕生を機に、1917年12月6日に独立宣言を出した。当時の政府ボリシェビキも容認した。

 写真=10月革命で臨時政府を倒したボリシェビキのリーダー、ウラジミール・レーニン yahooブログより https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201711130000/
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 スウェーデンとロシアに支配され続けたフィンランドは、1922年に国際社会に認められたソヴィエト連邦と緊張状態が続く。1939年から1944年まで第2次世界大戦の一環として、両国の国境沿いのカレリア地域を巡り、対ソヴィエト戦争を行った。ナチス・ドイツと協力して戦ったものの、兵器や人員を含む戦闘能力で差をつけられ、敗戦した。戦後、ソヴィエト連邦と融和を図りながら、西側諸国とも交流を持ち、中立政策を掲げた。現在、IT技術を駆使して経済発展をを遂げ、自由と平等を謳う「福祉国家」として歩み続けている。

 参考文献
・物語フィンランドの歴史 石野裕子著書 版元中公新書 2017年10月25日付
・新世界史B 山川出版社

第3章 EURO2020 B組第3節 フィンランド 対 ベルギー戦レポート
 

 6月21日、ロシアの旧都サンクトペテルブルクにて、B組第3節 フィンランド 対 ベルギー戦が行われた。両チーム過去の対戦成績は、フィンランドが4勝3分3敗で勝ち越している。FIFAランキングは1位のベルギーに対し、フィンランドは53位、今大会屈指のFIFAランキングで差があるチーム同士の対決となった。前半45分は0対0で折り返した。ベルギーが押しに押している展開で、フィンランドは枠内シュートが0本だった。最大のハイライトは、ベルギーが作り出した41分のシーンにある。ハーフ・ウェーラインより後ろからアザールが、デブライネにパスを出す。ハーフ・ウェーライン上のデブライネは、体を反転しながら、エリアすぐ外左斜めに構えたドクにロングボールを送る。ドクは、鋭く切り込みながら、右足でシュートを打つ。微妙に落ちていくボールを、左に体を倒したフラデツキーが、片手一本ではじき出した。好セーブを続けているフラデツキーは、アラユーリと抱擁を交わした。

写真=ドリブラーのエデン・アザール 掲載元 THE NEWS 24 https://then24.com/2021/06/22/video-with-or-without-eden-hazard-in-the-base-in-1-8th-final-are-you-doing-him-a-favor-yourself/
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 後半、メインスタンドからみて、右から左に攻撃するのがフィンランド、逆にベルギーは左から右に攻める。

 ベルギーは13分、デブライネが右サイドからのコーナーキックポジションに付き、エデン・アザールにパスを出す。アザールは、右足を振りぬいた。ジャストミートせず、腰を落としたGkフラデツキーが、ボールをキャッチした。フィンランドは、ドリブラーのアザールに対し、ウロネンがきっちりとつく。

ベルギーは、3バック(左フェルマーレン、真ん中デナイエル、右ボヤタ)を押し上げ、前線にパスを供給する。劣勢のフィンランドは16分、センターハーフのカマラが、2トップの1角を努める左に張るプッキにパスを出す。走りこみながらエリア内でボールを受けたプッキは、後ろから駆け上がるコンビを組むポポヤンパロに繋ぐ。ポポヤンパロは、斜め後ろのカマラに出す。カマラは、左足でシュートを打った。勢いがなく、GKクルトワがボールを抱え込むようにキャッチした。フィンランドはカマラ、プッキ、ポポヤンパロの3人でボールを奪ってから10秒足らずでフィニッシュに持っていった。枠内シュートも初めて記録した。

写真=フィンランドのカマラ(左側)とベルギーのデブライネ(右側)の攻防。右奥がスパルフ、左奥がプッキ News Concerns https://newsconcerns.com/finland-vs-belgium-live-euro-2020-latest-updates/
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優勢に試合を進めるベルギーは17分、エリアの左サイドに駆け上がったヴィッセルが、右足のアウトサイドでエデン・アザールにパスを出す。アザールは、右足でトラップすると、若干浮いたボールを左足でシュートした。右に体が寄っていたフラデツキーは、反対方向に重心を傾け、転がるボールを左手一本で防いだ。フラデツキーは、逆を突かれながら、間一髪ボールに手が届いた。

 徐々に崩しに入ったベルギーは19分、相手の右アウトサイドのウロネンの突破を、ハーフウェー・ラインより後ろで右サイドハーフのトロサールが防いだ。トロサールはそのままボールを持ち上がり、ゴールから35m付近で、後ろから駆け上がったデブライネにパスを出す。デブライネは、オフサイドラインを見て、ワントップのルカクにスルーパスを送った。エリア若干内側のルカクは、トイボとアラユーリの間に入り、右足でボールを受けて、左足を振りぬいた。至近距離から放たれたライナー生のボールに、さすがのフラデツキーの手も届かず、右ネットに突き刺さった。ルカクは、ガッツポーズをするものの、主審からゴールの笛がなく、我に帰ったかのように立ち止まった。主審は、オフサイドの疑いを持ち、VAR(ビデオジャッジ)にゆだねた。ピッチの外に設置されたビデオ映像を確認したところ、ルカクのつま先がわずかに前に出ていることが判明した。主審は、ゴールを認めず、オフサイドと断定した。ビデオ判定によって救われたフィンランドのカネルバ監督は24分、引き分けを狙い、2トップの1角ポーヤンパロを下げて、中盤のアルホを投入した。センターのポジションに、カマラとロビンロッドと共に、交代で入ったアルホを置く。前線にはプッキのみ残った。

 写真=後半立ち上がりのプッキのシュートをボヤタがブロック 掲載元 90MIN https://www.90min.com/posts/finland-0-2-belgium-player-ratings-as-romelu-lukaku-fires-red-devils-to-top-spot
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オフサイドによりゴールを取り消されたベルギーは27分、左サイドからのコーナーキックをデブライネが蹴ると、カーブを描いたボールがゴール前に入る。3バックの右に入るヴェルマーレンがヘディングシュートを打った。ゴール前で大きくバウンドしたボールは、クロスバーの内側に当って、GKフラデツキーの肩に跳ね返り、ゴールネットを揺らした。ベルギー先制!日本のヴィッセル神戸に所属するヴェルマーレンは、フリーの状態になり、高い打点からヘディングした。フラデツキーは、ポストに跳ね返ったボールを、一瞬見失っていた。結果的に自身の肩に当ったって、浮いたボールをキャッチできず、ネットに吸い込まれた。記録上フラデツキーのオウンゴールとなった。

写真=フェルマーレンのヘディングシュート 掲載元 rediff.com https://www.rediff.com/sports/report/euro-pics-relentless-belgium-too-good-for-finland/20210622.htm
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勢いに乗るベルギーは35分、左サイドのデブライネ、シャドゥリとつなぎ、エリア内でルカクが、オシャウグネシーをターンで交わし、右足を振りぬいた。GKフラデツキーの横を抜き、右ネットに突き刺さった。2対0.勝負を決定付ける得点が入った。ポジショニングの良さと柔軟性、パワーの3つの要素を持つルカクの特徴が発揮されたゴールだった。

 写真=2点目のゴールを決めるルカク 掲載元au web ポータブル https://article.auone.jp/detail/1/6/11/103_11_r_20210622_1624312957116714?ref=top
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 残り時間ベルギーがボールを回しながらタイムアップの笛を待つ。終始守備に追われていたフィンランドは、体力の消耗により、前線から追い込むことが出来ず、引き気味だった。試合は2対0でベルギーが、フィンランドに勝利した。ベルギーは3連勝で勝ち点9に伸ばした。対照的にフィンランドは、緒戦に勝利した後、2連敗により、勝ち点3にとどまった。ベルギーは、個人個人のテクニック、スピードにおいて、圧倒していた。カウンター対策として、3バックを押し上げる。2トップのプッキとポポヤンパロに入るボールを未然にカットした。左ウィングのエデン・アザールをカバーするように、サイドハーフのシャドリが飛び出すと、大きなチャンスが産まれる。センターハーフのヴィッツェルとデブライネがこぼれ球をフォローしていた。ヴィッツェルは、ミドルシュートが得意であるものの、今日の試合は精度を欠いた。終始劣勢だったフィンランドは、致命的なファウルを犯すことなく、作戦通り守りに徹する。カウンターに移った際、前線に残るプッキにボールが収まると、展開が変わったはずである。83年間大舞台と無縁だったチームは、EURO初出場を果たし、歴史的な一歩を踏み出した。

 写真=試合後サポーターに挨拶するフィンランドの選手達 掲載元 AFP BB News https://www.afpbb.com/articles/-/3352831?pid=23455682
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選手たちは、次の2022年カタールWカップ欧州予選の突破に向けて、気持ちを切り替えているはずである。次なる目標に向けて、すでに戦いが始まっている。

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