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2021年06月23日14:10

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母介助日記6月23日(水曜)朝分



昨夜の寝付きは十二時、八時半起床で八時間半睡眠。
起き抜け、粘性黄色痰。寝汗→ふとんはぎ→ふとんかぶりを繰り返した、風邪気味か。

羽鳥モをとぎれとぎれ聴きながら朝食の支度。
九時四十五分、母朝食開始。
十時四十五分、母完食。
十一時、甘い物配給。
朝食後、降圧剤、整腸剤。仏壇セット、ソファーメイク、ふくらはぎマッサージ。
居間を換気してラジオ体操して十二時半。

母が朝食の食べカスをつばを吐いたティッシュゴミと一緒に大きいビニール袋に入れて普通のゴミ箱に捨てている。流し台の上に生ゴミバケツや用意した食べカス専用袋に入れようとしない。どうしても私が求めたやり方の裏をかこうとする底意地の悪さ。流し台の上の生ゴミは頻繁に袋ごと密閉して処理するから小バエを呼ばないが、普通のゴミ箱に食べカスがまざると頻繁には処理しないから小バエがたかる。
今朝は、自署練習長の、いつも住所をやり忘れるので、赤のサインペンで「住所→」と書いておいたが、わざとやらない。それを指摘すると渋々やったので見てみると、静岡の「静」の字を「青」だけ書いて「争」を書いていない。もう母の日常で頭を使うのはご飯と甘い物、文句指図愚痴の他は、私に言われたことに抗うことだけになっているようだ。頭を使わなくなるよりマシと思うので腹は立てないで、再発防止策を逐次講じる。それでもその上をやってくるが、これも介助の一環と思っている。
父の生前には、両親の夫婦仲の悪さやその朝から晩までの諍いは、全て我儘で横柄な父のせいだと思っていた。父は、夫婦のことは子供には分からない、と言っていた。今は、父母の双方に原因があったと思っている。今のような母の性格を、私は父生前に見たことは無かったが、父は若い頃から対峙してきたのだろう。私が都心を引き払って伊豆に同居すべく引っ越す決断をするに至った家族会議で、じつは老老介護が精神的にもやってられないという母のことを考えて、離婚という選択肢も上がったが、父は反対せず、母はそこまでする必要はないと。父だけ老人施設に入る選択肢も上がったが、父は応じる構えだった。父としては晩年くらい離れて暮らしたいという気持ちだったのかも知れない。
思えば、その前の私が東京と行き来していた時に、脳梗塞で倒れた二、三週間後の父が家出して捜査願いを出して東京で鉄道警察に確保されるという騒動があった。あれも特段東京に行きたかったのではなく、家を出て母から離れたかったのかも知れない。父の場合、誰かを相手に自分のことを話すことでしか発散できないタイプなので、母と顔を付き合わせた諍いの日々は精神の死を意味したのかも知れない。幸い私は、一人遊びに子供の頃から慣れていて、あれこれ考えたり工夫するのが好きなので、家の中でも母と顔さえ合わせなければ発散できている。その点、父は家出するしかなかったのだろう。

過去記事の「森の民」「焼畑」関連の加筆の続き。
昨夜みた中国古代物DVD二枚目でまた生糸の話題が出て来た。生糸はそのままでは腐るか黴びるかしてダメになってしまうと初めて知った。「安曇野」で秘密裏に養蚕をして生糸を産出していたとして、現地か、どこかに運んでか絹布に織らねばならなかったと判明。近々、北陸地方の弥生時代の機織りの道具の遺物をチェックしてみよう。
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