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2021年05月21日17:51

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応挙の幽霊画・・・

 今日のネットのニュースを見ていたら、
 青森県弘前市の久渡寺に残る幽霊画「返魂香之図(はんごんこうのず)」が
 円山応挙(1733年〜95年)の真筆であることが、
 弘前市文化財審議委員の調査で明らかになったとの、東奥日報の記事がありました。

 弘前市には、先月行ったばかりですし、
 応挙は初めて足のない幽霊を描いたと言われているので、興味を持ちました。
 これまで、応挙の幽霊画で真筆とされているのは、
 アメリカのカリフォルニア大学バークレー校付属美術館に寄託されている
 絵だけだったとの事です。
 応挙は、大衆に人気のある画家です。
 明治時代に作られた落語に「応挙の幽霊」がありますが、
 応挙の幽霊を有名にしたようです。
 この影響なのでしょうか、多くの応挙の幽霊画と称する絵がありますが、
 真筆と認められたのは2例目で、国内にあるものでは初との事です。

 今回の調査で、同寺に絵を寄進した弘前藩家老森岡主膳元徳が、
 妻と妾を相次いで亡くし、その供養のため応挙に描かせた後、
 奉納したとみられることが判明したとも報じられています。
 森岡元徳を調べてみると、
 1771年(明和8年)に家老となりますが、
 飢饉の連続に対して庶民の救済をせず、
 1784年(天明4年)、家老を免職となり、蟄居させられ、
 翌年、罪を詫び、自宅の物置で自害した人物だったとの事です。

 東奥日報の記事によると、森岡元徳が1780年から83年にかけて、
 後妻、妾、孫を相次いで亡くしていたことが確認され、
 「返魂香之図」はその直後の1784年2月、
 久渡寺に奉納された記録が残っているとの事です、
 森岡元徳が家族を失い、応挙に「返魂香之図」を描かせ、
 久渡寺に奉納した一連のストーリーが浮かび上がったと報じられています。
 調査に当たった弘前大学の関根教授は、
 「愛する女性たちや跡継ぎを次々に失い、
  飢饉の結果責任も負うことになった主膳が、
  森岡家の所領にあった、ゆかりの深い久渡寺に絵を奉納し、
  身辺整理を済ませて自害した」と推論しているとの事です。

 ここまで絵に関する経緯が明らかになったのは珍しいと思います。
 森岡元徳と京都にいた応挙が、
 どのように繋がるのかが明らかになると完璧だと思います。
 なお、久渡寺では、「返魂香之図」を公開すると雨が降るので、
 雨乞いに効験があると伝承されているとの事で、
 この絵が亡き妻を想い描いたという説がある事から、
 その命日とされる旧暦5月18日の正午から1時間限定で公開されるとの事です。

 東奥日報の記事は下記です。
 「返魂香之図」の写真もありますので、宜しければご覧ください。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cadcb8a4bfe309f5f2064f7c5a6a5968c8016858


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