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2021年05月05日09:11

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仏教コミュの「出定後語」

皆様、おはようございます。

仏教コミュの「出定後語」についての、コメントをメモ(記録)と致します。

柱書:

「出定後語」

フリクラさんのご記述内容

2021年04月24日 09:38

富永仲基(1715年〜1746年)。天才的仏教学者。

日本で初めて大乗非仏説論を立てるが当時の仏教界からは当然受け入れられなかった。

長らく世に出なかった仲基の著書「出定後語」。

「加上説」の論法で経典を整理してゆく手法は何事にも捉われない独創的なものである。

例えば、「八識論」の解釈。

釈尊は六識(眼耳鼻舌身意)を立てるが、のちに七識(末那識)、八識(阿頼耶識 ālaya-vijñāna)と「加上」されていくとある。

九識(阿摩羅識 amala-vijñāna)については「玄奘はこれを認めない」と詳しい。

さらに十識(乾栗陀耶識 hṛdaya-vijñāna)まで言及しているには驚く。

大乗非仏説は若干32歳で亡くなった仲基の優れた研究成果である。

(追記:日本の仏教は大乗仏教である故に非仏説となる)

コメント(47)

[24] モリオバッハ

2021年05月01日 10:20

フリクラさん、皆様、おはようございます。

フリクラさん、富永 仲基について、教えて戴きありがとうございました。

今まで富永仲基について、知らなっかったため、32歳の生涯を診て、私と同じ様な思想観、思考観に興味を持ちました。

富永仲基(1715年〜1746年)は、私がクラシック音楽家として一番大好きなヨハン・セバスティアン・バッハ(1685〜1750年)と同じ時代に生き、古代中国の音楽から日本の雅楽に至るまでの音律の変遷をたどり、20歳代の時の著作『楽律考』があることが1937年に発見されたとの様相で、益々、
興味が湧いてきた次第です。

私自身、高校生時代(1963〜)年から、立正大学附属高校で、必須科目として、「日蓮上人の生涯」を1年間、「法華経」を2年間、マスターしました。

また、同時期に、近所のプロテスタント教会(東京都墨田区の東駒形教会)のKKS(高校生のための聖書研究会)に3年間通い続け、バイブル(旧約聖書と新約聖書)をマスターした次第です。

私は、幼少の頃から理系人の思考法で、クラシック音楽とオーディオ、鉄道について、探究して参りました。

何事も、現場観察を基に、様々な事象を検証してきたのです。

富永仲基も、種々の比較実証実験を介して、検証したきたのであれば、感心です。

私も高校生時代から、法華経について、バイブルについて、思考法が間違っていて、可笑しいことを、法華経の担当先生(校長・日蓮宗の高僧)や教会の牧師や長老さん達に伝えてきた次第です。

この世で、お釈迦様(2600年前)やイエス様(2000年前)が、本当に存在していたのであれば、存在していたことを証明する証拠資料・証拠物件(甲第一号証)を提示して欲しいことを校長先生や牧師に言いましたよ!!

校長や牧師は、躊躇して、頭を抱えながら、そのような証拠は、一切ありませんと明言されました。

このことが、宗教にのめり込んだ瞬間となりました。

仏陀の言葉(寄せ集めのスッタニパータ)やバイブルの巻末の奥付を診ても、書誌的事項が何一つも掲載・表示されいませんよね!!

サラリーマン時代、28年間、特許(知的財産)侵害訴訟事件に携わってきて、出願前に公知・公用・文献公知(特許法第29条規定)を主張するために、証拠文献(物件)の奥付の開示が、重要なポイントでした。

また、国立国会図書館や日比谷図書館、中央図書館の受け入れ印(スタンプ)に、年月日が刻印されていれば、証明になり得たのです。

人類史上、お釈迦様やイエス様が存在していた証拠資料や物件もなく、特許管理(知的財産管理)を28年間従事していて、2000年前の当時の学者が、創作物として、聖典や教典(神話物語)を描き、恰も、人類史上、お釈迦様やイエス様が、存在しているように、誤認混同(勘違い)させるように、記述された歴史書です。

ここに、宗教の絡繰りがあるのです。

歴史学(世界史・日本史)ほど、いい加減な学問はないことを、若人時代からアピールしてきた次第です。

人類史上は、勝ち負けの戦争の繰り返しで、勝者が、過去記述された事象を勝手に書き換えてしまうのですから。

史実を精査すれば、データーのねつ造、改ざん、書き換えは、今に始まったことではなく、昔々から存在していたことが判明出来るのです。

日本の各地の寺院に、お釈迦様の骨と言われた仏舎利が多々あります。

各仏舎利に、骨が存在すれば、DNA鑑定で、判明出来ますが、全ての骨のDNA鑑定で、一致したとしても、お釈迦様が存在した証拠物件とはなり得ないのです。

私は、DNAの鑑定で、全て異なると推察しているのです。

玄奘法師にしても、卑弥呼にしても、聖徳太子にしても、この世に存在していた明確な証拠資料(物件)が、何一つもありません。

八識論、十識論の観は、面白過ぎです。

仏教での十界思想(地獄・餓鬼〜菩薩・仏)やキリスト教の十戒思想にも通じる観です。

仏教での10の数は、全てを表現し、キリスト教の12の数も、全てを表現しているのです。

お釈迦様の10人弟子、イエス様の12人弟子の開示(表示)です。

お釈迦様やイエス様は、人間一人ひとりの精神界(魂・心・気持ち)の「真心」(持って生まれた清い心)を表し、各弟子達は、人間一人ひとりの「邪心」(邪気・邪鬼・ワガママ:大人になるにつれて、他人を騙したり、罵ったりする心)を表していることに気づければ、世界中のどの神話物語も、「真心」と「邪心」の葛藤劇を演じてるとして診得てきます。

富永仲基(1715年〜1746年)も32年の生涯で、これらの事象に気づけたか否か判りませんが?

宗教と音楽を共通する者として、ご教授して戴き、感謝の念で溢れています。

如何でしょうか?

感謝感激です。



[41] 堅皇さん

2021年05月04日 19:23

>>[39] いっさん

> 本当に念仏なんかで救われるのか?と思っていました。

どうでしょう。
人は基本利己的な生き物なので
全く利益を感じないものに嵌ることはないと思っています。
嵌るからには何かしらの恩恵を感じたから感じるからだと思っています。

なので救われたと言ってる人の感情を否定する気は毛頭はありません。
それによって何かしらの利益はあるんでしょう、またあったのでしょう。

いわゆるアンチと呼ばれる方々の多くはそこを否定したりするのですが
それもまた違うと思ってます。

ただ、これは言い換えればそこが宗教の活用できれば良いところであり
翻って最も怖い部分とも言えるところでもあります。

> 信仰というのは、そういうものから無関係・無関心な人から見たら、なんだか訳のわからん不気味なものかもしれません。

そうですね宗教に対し無知な人から見ると
やはりそれは不気味っすよね。
不気味を別角度で捉えると不思議とも言うのかな。

何故に不気味や不思議に思うかと言えばそれはまた無知だからとも言えます。

で、仏教における仏とは何ぞやと言う話になれば悟りや覚りとも表現されたりするわけですが
不気味や不思議は原因究明されてしまえば不気味や不思議じゃなくなるわけですよね。
なので仏とはこれら不気味や不思議が吹き飛んだ状態の事を指すのかなと思います。

いっさんはあらかじめ
「私は、仏法などどうでもよく、ただ自分がこの世で楽に生きれたら良いんだ、」
ともおっしゃってるので
そもそも興味のない話だとも思いますけどね。



[43] いっさん

2021年05月04日 20:40

>>[41] 堅皇さん

私のどこかに、親鸞や法然が、なぜ、そこまで念仏に価値を見出だしたのか、救われを感じながら、膨大な著作を残したのか、そこに少なからず興味はありました。

確かに宗教には長所短所があると思います。
長所は精神的安定感、すなわち安らぎとか信念とか希望とかでしょうか。
短所、これは私は以前、浄土真宗をやる前に、真光や真光の分派教団に所属した経験があるので実感として言えますが、真光について言えば、真光こそは世界の宗教を一つにする、神からつかわされた最後の教えであり、それ以前の宗教は真光が出る前に人類の欲望の行き過ぎにブレーキをかける役目に過ぎない、という教えがありました。
だから、私は真光をやっていた時は、自然と他の宗教を見下していました。真光が出る前は必要だったかもしれないけど、真光が出てきた今は、もう用済みなんだ、お役御免なんだ、だから、もうそんなもの拝んでも信じても何の役にも立たないんだ!と。
あと、真光の神様は最初は人類を救う大愛の持ち主だと教えられます。しかし、そんな神様すなわち真光から離れたら、せっかく入信したお陰で救われた先祖の霊達が、怒って真光から離れた子孫に戒告(要するに罰を与えること、子孫に不慮の事故や病気などの災難を与えること)する、などと言って恐怖感や強迫観念をあおる教えや指導がありました。
こういう教えを受けていると、自然と他宗教を見下すようになり、真光だけが真実だ、真光を一生懸命やらなきゃならない!先祖が怒るような事をしてはいけない!と強迫観念を持つようになります。独善的、排他主義、かたくなで偏屈な信仰者が出来上がります。これは宗教の短所の一例と言っても良いと思います。

浄土真宗に入って驚いたのは、お寺のご門徒の中で、浄土真宗をやりながら、他の宗教を信じているご門徒の方も居るという事実です。それに対してお寺の住職は、それは辞めて浄土真宗一本にしてください、なんてご門徒に言うわけでもありませんでした。住職の心の中でどう思っているかは知りませんけど、割りと自由なんだなと感じています。まあそれは個人の信仰の自由なんだから、他人がとやかく言う事じゃないと私は思っていますが。

あと、他宗教より浄土真宗が優れているとか、そんな教えは私は聞いた事は無いです。
ただ、ご門徒の方からたまに聞くのは、浄土真宗は楽です、という意見ですね。
お盆とかに仏壇にお膳をご先祖様にお供えする決まりも無いし、なんか仏教の他宗派に比べて浄土真宗はあまり決まりごとが少ないみたいです。人に優しい宗教なんだな、という印象はあります。

私が以前勤めたお寺の地域には、仏教会なる組織がありまして、そこには真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗などの各宗派のお寺さんが所属する組織でして、毎年4月8日は花まつりと言ってお釈迦様の誕生日を祝う行事を仏教会みんなで協力してやったりしてましたね。そこで私は日蓮宗の方への、日蓮宗は他宗派を認めないんじゃないか、という批判的な目が覆された経験があります。

真光に対して批判的な書き込みになりましたが、もちろんこれは私個人の真光信者であった経験から申し上げている事であり、現在存在している団体やそこに所属する信者の皆さんを否定するものでは決して無い事をご理解くださいますよう、改めて申し上げておきます。





[47] モリオバッハ

2021年05月05日 09:02

>>[43] いっさん

おはようございます。

貴殿も色々な宗教・宗派と関わり、色々と検証されてきたことで、最後に辿り着くべきところは、悟りの世界観です。

仏教界で、悟りの境地に辿り着かれたお坊さんは、弘法大師空海さんをはじめ、道元さん、良寛さん、一休さんぐらいしか診られませんよ!!

悟りの境地に辿り着けるか否かの判断基準を、他の宗教・宗派をどのように想っているか、診ているか、扱っているかを、基準として診てきた次第です。

上記の4人のお坊さん以外は、他の宗教・宗派を、邪教・邪道と見做し、自分自身の信仰している宗教・宗派を正当化している様相を垣間見ることが出来ました。

例えば、日蓮大聖人や親鸞聖人は、他の宗教・宗派を、大批判し、鎌倉幕府から、他の宗教・宗派から、嫌われ者として、診られていることに、お気付きでしょうか?

正邪の醜い争う事件が、鎌倉時代に頻発し、未だに、宗教戦争が続いていることをご存知だと想います。

私も高校生(1963年〜)時代から、立正大学附属高校の必須科目として、「日蓮上人の生涯」1年間、「法華経」を2年間、マスターし、宗教の授業後、いつも、放課後、宗教担当の先生(校長で、日蓮宗の高僧)と校長室で、30分〜60分、一対一で、禅問答の様なスタイルで、ディスカッションして参りました。

同時期(1963年時)に、近所のプロテスタント教会(東京都墨田区の東駒形教会)の日曜礼拝と高校生のための聖書研究会に3年間通い続け、キリスト教と仏教の比較・対比を精査・考察してきた次第です。

校長も、若人時、プロテスタント教会で、聖書をマスターされ、校長室での禅問答で、東西の宗教の比較論を話し合うことが出来、盛り上がりました。

高校生時代から、種々の宗教・宗派の施設を訪れ、現場検証の基づき、説法や説教の中身を精査・考察してきたのです。

また、高校生時代から、哲学も、お茶の水駅から観える孔子廟の説教にも参加していました。

更に、1982年から、朝起き会(倫理研究会)にも参加し、派遣講師の話の中身を精査・考察してきた次第です。

大半の宗教人・倫理人・哲学人は、宗教と倫理と哲学の相違観も判別出来ず、誤認混同・錯綜している状況・状態が検証出来ました。

集合論的な診方で精査すれば、判別出来る世界観です。

サラリーマン時代、28年間、特許管理(特許侵害訴訟事件)に従事し、そこで、様々な解析法(パテントマップ&ポートフォリオ)をマスターし、その延長線として考えた「宗教・倫理を実践するにあたっての一つの判断基準」を下記に表示したので、ご参照して戴ければ幸いです。

今後の宗教活動・実践・研鑽・研究に、お役に立って戴ければ嬉しい限りです。


(13)宗教・倫理を実践するにあたっての一つの判断基準
   http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1283229866&owner_id=19347649


如何でしょうか?

感謝。



追記:

[49] いっさん

2021年05月05日 11:53

>>[47] モリオバッハさん

あなた様の知識にはとても及ばないと思いますので、私が普段から気を付けている事を述べさせて頂きます。
この世界には様々な宗教と団体があり、それらを信じ心の支えにして生活されている方々がおられます。

私は、私も含めて、宗教を信じ生活している全ての方々が、心穏やかに、命生き生きと生活される事を願うのみであります。
浄土真宗・親鸞聖人の教えになにがしかの恩恵を感じながら生きている私ではありますが、だからと言って全ての方々に浄土真宗だけが唯一人類を救う事の出来る教えだ、などと主張する気は毛頭ございません。

あくまでも、今の私にとって、浄土真宗がたまたま合っているのかもしれないなあ、と思っています。

法然聖人が念仏の教え、浄土宗を開かれて後、時の朝廷から弾圧を受けた事は知っています。

日蓮上人が唱題目の教えを説かれた時にも、諸宗派からの迫害があったと聞きます。

宗派対宗派の法論もあったと聞いてます。安土法論、だったでしょうか、詳しくは知りませんが。

しかしながら、過去には様々な宗派間の対立はあったかもしれませんが、現在は共存の道を仏教諸宗派はとられているように感じています。

そして、過去の宗派間の様々な対立を知る事で、僧侶といえども煩悩だらけの凡夫であり、だからこそ、様々な対立を起こしたのかもしれないと、感じています。





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