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2021年03月22日16:03

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【そもそも人間学とは何か】 精神を溌剌とさせる三つの心掛け

知古嶋芳琉です。

 私が師事した安岡正篤師は、

人物なるものの根本的な内容の第一は

活力と気魄(きはく)と性命力であると説かれました。

ではこれらに代表される溌剌とした精神を発揮し、

長期にわたって持続させるためにはどうすればいいのか?

この点について、

先生ご自身が採用されていることをご紹介します。

これも実践しなければ

無駄な知識が増えるだけに終わります。

出典は、人間学講話『運命を創る』(プレジデント社)の

「気力」を養う養生訓 の章です。

−−−ここからが引用です−−−

■ 「気力」を養う養生訓

○ 敏忙人の身心摂養法

<精神を溌剌とさせる三つの心がけ>

 私はやっぱり貧乏はきらいです。

そこで敏忙に決めておるのです。

近来特に感ずることですが、

誰も皆時局の影響を受けて、つい過労に陥りやすい。

いずれの方面においても

事務がたいへん繁劇(はんげき:きわめて忙しいこと。

そのさま。繁忙)になっておりますし、

何かと刺激が強く、不自由が甚だしいので、

やはり精神的にも肉体的にも疲れるから病人が多い。

「病中の趣味は誉めるべからず」という語もあるが、

まあ病気はせぬ方がよい。

病気になってから医者よ薬よと騒ぐのは、

そもそも末であるばかりでなく、

病は医者にかからぬことが

始終、

中医(凡庸な医者)にかかっているぐらいの価値がある。

それはとにかく

医学も予防医学が大切なように、

我々も病気の前に、

平生の養生、

飲食、

起居動作から

心の持ち方を修めなければならぬ。

さすれば、そうそう病気をするものではない。

私なども、よく知人が

「どうして蒲柳(ほりゅう:カワヤナギの別名

《カワヤナギの葉が秋になるとすぐに落ちるところから》

体質がひ弱なこと:からだが弱く病気にかかりやすい体質)

の質でありながらそんなに続くか、精力がある」

と感心されますが、それはなんでもない。

ちょっとした心がけによるので、

ずいぶん不合理、無理をしていても、

日常の心がけがよろしいばかりにわりに倒れない。

倒れないばかりか、相当、仕事に精力が続く。

たとえば、少し不養生をして、心がけが悪い日が続くと、

第一、身体の調子はもちろんのこと、

夜、勉強しているとあくびが出る。

人と話して声が通らない。

少し気をつけて身心に微妙な注意を払っておると、

夜中まで読書しても一向に倦(あぐ)まない。

人と語って声が通る。

それほどに平常の心がけがすぐ反応を生ずるもので、

ちょっとの注意で案外無事息災にいけて、

大きなご奉公の源になります。

まず、我々の身心摂養法の第一着手は、

やはり先哲の言うとおり

養神です。

心を養うことです。

心を養うには

「無欲」が一番よいと

古人が教えております。

これを誤って、

我々が何も欲しないことと寒厳枯木的に解しては

とんでもないことです。

それならば死んでしまうのが一番手っ取り早い。

ボケてしまうのも良いことになる。

そういうことを無心とか無欲というのではない。

それは

我々の精神が向上の一路を精進する

純一無雑の状態をいうので、

平たくいえば、

つまらぬことに気を散らさぬことです。

我々の精神は宇宙の一部分であり、

宇宙は大きな韻律です。

したがって

我々の精神も、

やはり

溌剌として躍動しておらなければなりません。

私はいつも座右に『論語』を珍重しておりますが、

『論語』の中に

孔子の人物を語って

実に会心のところがあります。

ある人が子路に、

孔子という人はどういう人かと聞いたとき、

子路は答えなかった。

答ええなかったのかもしれませぬが、

とにかく返事をしなかった。

それを孔子が聞かれて、

お前なぜこう言わなかったか。

「孔先生は物に感激しては食うことも忘れ、

努力の中に楽しんで憂いを忘れ、

歳をとることを知らない人とでも申しましょうか」。

よく昔から

「両忘」、

憤を発して食を忘れ、

楽しんで以って憂を忘る、

この「両忘」を庵や書斎の雅号に使います。

実に味わって尽きせぬものがあります。

我々もこれでなければなりません。

我々の一番悪いこと、

不健康、

早く老いることの原因は、

肉体より精神にあります。

精神に感激性のなくなることにあります。

物に感じなくなる、

身辺の雑事、日常の俗務以外に感じなくなる、

向上の大事に感激性を持たなくなる、

これが一番いけません。

無心無欲はそういう感激の生活から来るもので、

低俗な雑駁(ざっぱく)から

解脱(げだつ)することにほかなりません。

それではどうして精神を雑駁にしないか、

分裂させないか、

沈滞させないかというと、

無数に古人の教えもありますが、

私はこういう三つのことを心がけております。

 第一、心中常に喜神を含むこと。

神とは深く根本的に指して言った心のことで、

どんなに苦しいことに遭っても、

心のどこか奥の方に喜びを持つということです。

実例で言えば、人から謗(そし)られる、

あられもないことを言われると怒るのが人情であるが、

たとえ怒っても、その心のどこか奥に、

「いや、こういうことも

実は自分を反省し

錬磨する所縁になる、

そこで自分(という人間)ができていくのだ、

結構、結構」

と思うのです。

人の毀誉褒貶(きよほうへん:

ほめたり、悪口を言ったりすること)なども、

虚心坦懐(きょしんたんかい:心になんのわだかまりもなく、

気持ちがさっぱりしていること、平静に望むこと)

に接すれば、

案外面白いことで、

これ喜神であります。

今、日本は非常な苦痛を嘗めている。

今後ますます甚だしくなるかもしれぬ。

これを

鬱々(うつうつ:心の中に不安や心配があって思い沈むさま)

すれば、

人の健康にも大害があるが、

これに反して、

いや、どんなに苦しくなってもかまわぬ。

今までの日本は少し甘すぎたから、

少しはひどい目に遭って、

たとえば

東京や大阪が焼き払われたが、

なあに

敵国人が手弁当でやってきて、

始末の悪くなった大都市の整理をしてくれたのだ

というふうに肚(はら)を決める、

これも一つの喜神であります。

 その次は、心中絶えず感謝の念を含むこと。

有り難いという気持ちを絶えず持っておること、

一椀の飯を食っても有り難い、

無事に年を過ごしても有り難い、

何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つことであります。

第三に、常に陰徳を志すこと。

絶えず人知れぬ善いことをする。

どんな小さなことでもよろしい。

大小にかかわらず、

機会があったら、

人知れず善いことをしていこうと志すことであります。

人間には、

どうも報償的な気持ち、

どんな悪党でも悪いことをしたならば、

何かそれを埋め合わせる善いことがしたくなるものです。

でなければ良心が納まらぬ。

そこで泥棒をすると貧民を賑わしてみたり、

兄弟分に分配したり、

不義の財、不浄の銭を掴んだ者ほど

何か人目に立つことに寄付をします。

国防献金をやって、

まあまあこれでよいというような、

これを「姦富」と申します。

そういう者も少なくありません。

そうではなく、

何か

人知れず

良心が満足するようなことを、

大なり小なりやると、

常に喜神を含むことができます。

道教などはこれをやかましく教えています。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

これらのことは、

よく「心がけ」として言われるものですが、

これを読んだからといって、

即座に常日頃から実践できるかというと、

決してできるものではありません。

では、どうすればできるようになるかというと、

ごく自然に、

無意識のうちにできるようになるまで、

繰り返し反復の自己訓練を行なえばいいのです。

ところが

どのような分野の人にも共通する、

成功法則の第一原則といってもいいくらいの、

人間にとって根本的な教義であるのに、

この自己訓練が普通の人にはできません。

できるようであれば、

私たち「コーチ」の商売は上がったりになって、

廃業しなければなりません。

私たち「コーチ」の存在理由すらなくなってしまいます。

私は、「ビジネス・トレーニング」を受ける中で、

トレーナーの方から、

その具体的な処方を教えていただきました。

そして

今では、

私のお客さまにも、

必ずやっていただくトレーニングになりました。

たとえば、

ここで先生が、

『心中常に喜神を含むこと。

神とは深く根本的に指して言った心のことで、

どんなに苦しいことに遭っても

心のどこか奥の方に喜びを持つということです。

実例で言えば

人から謗(そし)られる、

あられもないことを言われると、

怒るのが人情であるが、

たとえ怒っても、

その心のどこか奥に、

「いや、

こういうことも

実は自分を反省し錬磨する所縁になる、

そこで自分(という人間)ができていくのだ、

結構、結構」と思うのです。』

と語っておられることならば、

まずは

形から入ります。

つまり、

笑顔を作るのです。

それも、

しっかりと口角を上げた

「満面の笑顔」を作るのです。

これは、

私のホームページでは、

「メンタル・トレーニングのすすめ」の項目で

ご紹介していますが、

朝起きた瞬間から、

一日中、

夜眠りにつくまでというよりも、

笑顔のままで眠りにつくのです。

最初はこれだけを徹底的に集中してやっていただきます。

最初のうちは、

頬がすぐに疲れて引きつったりしますが、

とにかく無心になって続けるのです。

そして

周囲の人には、

一オクターブ高い声で

明るく

穏やかに話すのです。

こうして笑顔をつくり続けると、

自分の思うことや

考えること、

言うこと、

行動に

必ず変化が現れます。

まず気分が良くなります。

そして、心が明るくなります。

周囲の人も笑顔を返してくれるようになります。

だんだん楽しい気分になってきます。

クルマの運転も穏やかでやさしい運転になります。

自分の笑顔が

周囲の人に善い影響をあたえていることがわかってくると、

快感さえ感じます。

そうなるともう止められなくなります。

この自己訓練を、最低3か月は続けるのです。

この3か月、90日という期間には、

実に奥深い意味があります。

今までのいろいろなトレーニングの現場で確認された

実績に基づく日数です。

半年、一年と続ければ続けるほど、

もう意識しなくても、

自然に

無意識のうちにできるようになります。

私も疲れてくると、つい無表情になりますが、

この無表情というのが一番いけないことです。

私の場合、

いつの間にか

自動的に気づいて、

また笑顔を作っています。

そして第二は、

「何かにつけて感謝感恩の気持ちを持つこと」です。

これも人が幸せになるための大原則ですが、

これを実践できる人は

例によって

極めて少数に限られます。

なぜならば、

これが習慣になるまで、

クセになるまで

自己訓練をしないからです。

第三の、常に陰徳を心掛けると申しましても、

これも具体的な行動ができなければなりません。

たとえば、

イエローハットの鍵山社長が実践されて

大変普及した

トイレ掃除などは、

必ず毎日やらなければ何の意味もありません。

また、こういう心掛けるべきことを

紙に書いて机のマットの下に敷いておく人がいます。

実は私もサラリーマンの時はやっていましたが、

それではダメです。

必ず毎日10回以上は見る習慣をつけなければ、

身につけることはできません。

見るためには

いつでも見えるところに置いておくことです。

その具体的な方法は、

自分で工夫しなければなりません。

そして

必ず実行するのです。

ところが、

ここまで具体的な方法を教えてあげても

実行できないのが普通の人です。

だからこそ、

私たち「コーチ」の存在価値があるのです。

禁煙するのに、

お医者さんと二人三脚で取り組むのと同じことです。

私の場合ですと、

お客さまが想像もしてなかったレベルに

引き揚げてあげるのが常ですから、

そこは、お医者さんとは決定的に違います。

この一文も、

だらだら読み流したくらいで

出来るようになれるとでも思ったら大間違いです。

まずは、本気でやるんだと腹(はら)を決めることです。

肚(はら)の坐っていない人間は、腰抜けと申します。

腰抜けは、

いざとなったら簡単に人を裏切るし、

自分を裏切ります。

いつも

自分を裏切っては、

自分への言い訳だけは飛びぬけて上手です。

そんな人間は、

最も肝腎な自分が信じられません。

ですから、

自分の未来の可能性が信じられないのです。

そういう人は、

「コーチ」なら誰もが言う、

「自分を信じて」、という言葉が上の空で、

右から左へと筒抜けで、

まさに馬耳東風。

ですから、

どんな立派な「コーチ」を雇っても、

何の成果も出せません。

従って

誰からも信頼されなければ、

誰からも相手にされません。

相手にしてくれるのは、

自分と同様、

言い訳が上手な負け犬の仲間たちに限られます。

そもそも、

そんな人間と付き合うのが大間違いなのですが、

そんな負け犬連中と決別する勇気もありません。

付き合う相手を選ぶこともできない。

これは致命的な欠陥で、

成功できない人の共通点です。

もともと、

幼い頃からの付き合いが、

自分と似たり寄ったりの、

「セルフ・イメージ」が低くて、

いつも他人も自分も裏切ってばかりの連中だと、

そういう連中の中にいるのが最も自分らしくて

安心できる人間になってしまうのです。

そして、

「類は友を呼ぶ」と申しまして、

似たような人間が集団を形成するようになります。

いわゆる群れを成すわけです。

問題は、

自分が大切だと思う人が

どのようなレベルの人間なのかです。

自分の「セルフ・イメージ」が高くなれば、

ごく自然に

付き合う人も変わってきます。

これがコーチをやっていて感じる醍醐味の一つです。

商売をやっている人であれば、

取引先やお客も変われば、

取り引き金額のケタも変わってまいります。

ほんの一例をあげると、

これはあまりよい例にはならないかもしれませんが、

東京のお客さまで、

電気工事の会社にお勤めの方で、

彼の口から出てくる言葉は、

「数百億円のプロジェクトが暗礁に乗り上げたが、

交渉相手のインド人を何とか動かす良い方法はないか?」

とか、

「50万ボルトの高圧電気が扱える

腕のいい技術者はいないか?」

というお話しが出てくるようになりました。

年商1兆円を目指す企業ならではのお話しです。

お話しに出てくる金額の桁とか、電圧の桁が違うでしょ?

それに、

国際事業本部の仕事となると、

現場は

すべてが外国です。

しかも、

先進国よりも

新興国のほうが勢いに乗っているので、

国策としての

インフラ整備のプロジェクトが中心になりますから、

発電所の建設から

送電システムから

変電設備に、

受電設備に、

配電設備に、

最後はあらゆる機器の動力源から

照明設備にまで至ります。

しかも、

どこへ行っても

日本の常識や規格が通用しない外国ばかりです。

要するに、

物事を測定するスケール

(物差しとか目盛り)が違うのです。

これは

現地の国が採用している規格に

適切に合わせなければいけません。

日本の規格を持ち込んでも通用しません。

こういう世界中の修羅場をくぐり抜けてきた人は、

必然的に

考え方に柔軟性が出てくるし、

考え方もグローバル化します。

つまり

日本固有の考え方の標準から解放された、

世界標準の考え方とも言えるし、

どの国にも偏らない考え方ができるようになります。

彼は田園調布のマンションを買いましたが、

「タワー・マンション」には目もくれませんでした。

いざ停電とか台風や地震などの

自然災害という危機に直面した場合を

しっかり考慮しております。

仕事が人間を育てるとはよく言ったものです。

ここでご紹介したお客さまはほんの一例に過ぎませんが、

私が彼から学んだことは

実に多彩にわたります。

ですから、

今では

素晴らしい人物がお客さまであることが、

私の誇りになっているのです。

こんな有り難いことはありません。

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