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2021年03月10日10:53

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【そもそも人間学とは何か】 若さを失わず大成する三つの習慣

知古嶋芳琉です。

 今回で『運命を創る』という章の、

「若さを失わず大成する秘訣」という項を終わります。

安岡先生のお話では、

第一は、仕事に打ち込む習慣をつけることでした。

ここでまとめておきますと、

第二は、自分の専門から離れた多様性のある交友であり、

第三は、人間教養の書を読むということです。

先生は、特に西洋の科学が専門に走って細分化されたこと

に、大変な危機感を持っておられました。その専門化は機械

化を生み、単調となって硬直化し、やがて柔軟性を失い、

人間性をも失い、複雑で微妙な現実から乖離することへの

警鐘を鳴らしておられました。

さらに、理屈一点張りの論理というものに対しては、非常に

危ういものとして警戒しておられまして、それを補うのが

人間特有の「心理」であり「情理」であるとされました。

 ここでご紹介しますのは、

安岡正篤師の講話録、プレジデント社の人間学講話、

『運命を創る』です。

−−−ここからは前回に続く引用です−−−

■ 運命を創る

○ 若さを失わず大成する秘訣

<専門家ほど居眠っている>

 それから、さらに有効な第二の心がけは、

交わりということです。

交際、交わり、付き合い、

これを絶えず注意することであります。

物には慣性というものがあります。

人間には因襲というものがある。

いわゆる型というものがあって、

同じような人ばかり、

同じようなことを考え、

同じような話をし、

同じようなことを繰り返しやっておりますと、

非常に単調になる。

単調になると、これは人間の習慣性で、

生命、精神が鈍ってくる、眠くなる。

人間が眠くなると溌剌たる創造性を失ってくる。

私がかつてドイツに参りまして、

あのドイツ自慢のヒットラー道路(アウトバーン)に

非常に驚いたのであります。

いかにも堂々たる大道路が真っ直ぐに延びている。

このヒットラー道路のおかげで、

今度の大戦争に電撃戦というものをドイツに可能ならしめた

のであります。

ちょっと考えれば、道路もこうなれば交通事故などは

ないだろうと思われるのですが、さて実際になりますと、

この大道路でしばしば交通事故が起こるのです。

それで初めて分かったことは、

あまり単調なものでありますから、運転手が居眠りをする。

そこでありうべからざる衝突などの事故が起こる。

やはり少しく紆余曲折が必要なのです。

そこで仕方なく、ロータリーのようなものを造ってみたり、

木を植えたり、いろいろ人間の精神を刺激するよう

工夫をしまして、

初めて事故を防げるようになったということであります。

そこで、ああいう道路を走るときには、

絶えず運転手に話しかける必要があります。

日本と反対です。

運転手を眠らさないようにする必要があるわけです。

ところが、運転手より先にこちらが眠くなってしまう。

そのことを注意されたものですから、

私はずいぶんドイツを自動車旅行いたしましたが、

そういう道を走るときには絶えず運転手に話をしたり、

冗談を言ったりして、

お互いに眠らないように、

眠らさないように苦労したものであります。

 そういうように、

我々には適当な刺激と変化というものが要ります。

 これを応用いたしますと、

こういう一流の大会社に入られると、

あまり栄枯盛衰常ならざる群小会社のような心配がない。

したがって刺激がない。

ちょうどヒットラー道路を走るようなもので、

じきに皆さんが眠くなる。

居眠りを始める、ということがありうる。

いや、大いにあることであります。

絶えず自己を眠らさないためには、

ここにおいてグループ、交友を慎むことであります。

その交友には、できるだけ変化のあることが必要なのです。

そこで

自分とは専門違い、畑違いの良友を持って、

絶えず変化のある話を聴くことであります。

これは実に有効です。

つまり、

いつも同じような人間が集まって、

同じようなことを考えて、

同じような話をして、

同じようなことをして終わってしまわないように、

努めて変わった人に会って、

変わった話を聴いて、

変わった考え方を教わって、

そして

自分を生かしていくのです。 

ところが、

たいていの人は、

その会社内、その課内、

官庁の同じ部局というように、

同じような人間だけが集まって sectional になる。

sectional になると、

今のように、

考えも言葉も行為も、皆同じく型にはまってしまう。

そうすると眠くなる。

同じ会社の内におっても、

絶えず良い意味において変わっている交友を持つ。

会社におるならば他の課、官庁とか、

あるいは思想界とか芸術界とかの

変わったところの交友を持つように心がける。

自分を絶えず変化させる。

弾力あらしめるように心がけられると、

皆さんのおためになります。

この間、タバコ通からタバコの話を聞きましたが、

薩摩キザミなどの非常に良いタバコになりますと、

絶えず古い葉と新しい葉とを交互に合わせるのだそうです。

古い葉は古い葉、新しい葉は新しい葉というように

分けてしまうと、どちらも駄目、これも面白い話です。

ところが人間は、とかく若い者は、

あんな年寄りは駄目だというわけで、若い者だけ集まる。

年寄りは年寄りで、

あんな若僧の話を聞いてもしょうがないと、

年寄りだけ集まる。

タバコで申しますと、古葉と若葉とが別々になるのです。

そうすると、若いのはコクがない、本当の意味の味がない。

古い葉はこれまた新鮮味がない、若さがない。

両方駄目です。

だから若い者は年寄りと努めて接触する。

年寄りは努めて若い者を近づける。

普通の家庭でいうと、

おじいさん、おばあさんが孫と一緒に暮らすということは、

そういう意味で非常に良い。

夫婦、親子、祖父・祖母、孫、曾孫が一緒に暮らす

ということは、生命の原則からいって、

非常に良いことなのです。

ところが、どうもそれを嫌って、

隠居は隠居同士、若夫婦は若夫婦同士というように

分かれると、実際はいけない。

なんでも真理は同じことであります。

学問でもさようであります。

漢学者は漢学の本ばかりを読んでいる。

漢学者とばかり付き合っている。

国学者は国学の書物ばかり読んで、

同じ国学者とばかり付き合っている。

英文学者は英文学者、

ドイツ哲学者はドイツ哲学者とばかり、

法律家は法律家、

皆自分の専門、専門というところばかり立て籠もって、

象牙の塔の暮らしをしております

と、実に早く思想が駄目になる。

頭がこわばってしまうのです。

そこで、思想・学問の秘訣は

努めて専門外の人たちと適度の交流をすることです。

私は子供の時から

主として禅とか陽明学といったような、

いわゆる漢学で育った。

政治家になるつもりでしたが、

学問の方が面白くなって、

とうとう半生を学問に没頭してきてしまいました。

前述のことに気がついてから、私は、

努めてできるだけの時間を割いて

西洋の哲学、その他の思想に注意してまいりました。

どちらかといえば、

漢学の註釈を漢学によらずして、

西洋の思想・学問に求める。

それから、

それも西洋の学問にしても

漢学にしても、

参考は努めて同じ系統の思想、哲学によらずして、

思わぬ他の専門を利用する。

たとえば医学でありますとか生物学でありますとか、

あるいは光学であるとか、

たまには数学・力学などが非常に参考になる。

あれは俺の専門外であるから、あんなものは関係ない、

などと考えるのは、これは一番浅薄な頭脳です。

往々にして、

いわゆる専門家というものは居眠っているのであります。

ヒットラー道路の運転手と同じことであります。

案外、型にはまって満足しているのであります。

ですから、専門外というものを専門に結びつける。

今までのような、分析、解剖 anatomy ではなく、綜合。

専門と専門の交流、綜合というものが

学問においても必要でありますが、

それは我々の交友というものにおいてもやはり然りで、

ケチな考えで、

あいつは畑違いだ、というようなことを考えては

ならないのであります。

「専門外だ」ということを

軽々に言ってはならないのであります。

むしろ

専門外こそ

専門内で得ることのできないものを得られるのだ、

というだけの心構えをお持ちになる方がよいと思います。

<人間修養の書>

 もうひとつ大事なこと、

皆さんが失われてはならないことは、読書。

良い書物を読む習慣です。

これは若さを失わないためにも、

また自己をどこまでも伸ばしていくためにも、

自己の人生を豊かにする、深くするためにも、

これは最も必要なことで、絶えず読書をする。

この読書も、

つまらない書物を読むことは頭を雑駁にすることであって、

かえって有害でありますが、

良い書物は人生というものの味をつけ、光を与える、

力を増すものです。

問題は良い書物をいかに読むかということです。

およそ真の教養とは、

人類の有する偉大な著作に親しむことによって

得られるものです。

そこで、

昔から優れた定評のある良い書物を

少しずつ読むことであります。

専門の知識・技術の書物を調べるのとはまた別であります。

それはある意味で一つの business であります。

そうではなくて、自分の専門外、専門内を超越した、

人間としての教養の書、

人としての哲学の書、修養の書というものを注意して

毎日たとえ三枚でも五枚でも、

そういう書物を必ず読むようにする。

いわゆる座右の書を持つということであります。

たとえば、

東洋で言いますと

『論語』であるとか、

『孟子』であるとか、

西洋で言うならば

『バイブル』であるとか、

あるいはそれに刺激がなければもっと個性的な、

個人的な、

例えば

佐藤一斎の『言志録』であるとか、

熊沢蕃山の『集義和書』であるとかいったようなものが

注意すれば数限りなくありましょう。

西洋でもプラトンであるとか、スピノザ、

あるいは私が好んで読みますのは

スイスの有名な日記を著しました『アミエルの日記』、

それからヒルティ。

私はアミエルよりはヒルティの方が、

はるかに好きであります。

よくフランスでは例のパスカルやモンテーニュも

尊ばれますけれど、

何でも自分の好きな、

本当に自分に響くような偉人の書物、

人間教養の偉大な古典、

現代のものでもそういうものがあれば結構であります。

絶えず現在および将来に

正しい警告や良さを与えてくれている

時代の先覚者の書物、

最近の二、三の例を挙げますと、ガクソット。

フランスの歴史家として有名なガクソットが

『フランス革命』という本を著わしております。

これなどは従来のフランス革命の見方に

一つの転機を与えたといわれる良い書物であります。

イギリスのトインビーの『歴史の研究』や

『試練に立つ文明』などもよろしい。

翻訳されましたが、ハーバード大学のブリントン教授が

『革命の解剖』という本を出している。

これはイギリス、アメリカ、ロシアおよび例のフランス革命、

この四つの革命を比較研究いたしまして、

どうも現代人は革命といいますと、

盲目的に、あるいは先入観的に、

何か進歩的なこと、

未来に何ものか良いことを約束するものの如き

錯覚があるが、

革命にもいろいろあって、

ただ一途に革命というものが

進歩的・理想的なものであると考えることは

間違いで、

今までのこういう多くの革命の事例を比較研究してくると、

いかなる場合にも、

たとえそれが非常に良いことであっても

「革命で得るところは失うところを補わず」、

むしろ失うところがはるかに、恐ろしく大なるものがある。

だから革命というものに対しては、

よほど冷静に注意をしなければならないことを

厳密な科学的研究から結論を出しています。

今までの煽動的な革命論議とは違い、

こういうものを読むと実に真面目です。

いわゆる日本精神に基づく思想学問を

古代から調べていきますと、

国体に関して「革命」「維新」ということを峻別しています。

そして、

革命にしてはならない、

維新でなければならないということを力説しています。

そこで

日本では

「明治革命」とは言わず、

「明治維新」「大化の改新」と言うのです。

そのことは、ひとり日本の思想ではなくして、

シナの根本的な思想の一つであります。

革命ということは四書五経の一つである

『易経』から出ている。

維新という言葉は『詩経』から出ている。

維新か革命かという問題は、

東洋哲学の一根本的問題であります。

維新か革命かという言葉を、

ただ東洋思想として論じても

一般の人には興味がありませんが、

今のブリントンやガクソットなどの考え方に照らして

比較いたしますと、

非常に面白い新註釈になります。

また、これもつい最近出た本でありますが、

アメリカでソローキンという

世界社会学会の会長をしている学者があります。

この人はただの講壇学者でなく、

もちろん名前から言ってもロシアの人ですが、

ケレンスキーの時の大臣であり、

レーニンの革命で

捕まって死刑の宣告をされたのでありますが、

うまく亡命いたしまして

アメリカに逃れ、

ハーバードに社会学講座を創設し、

今は世界の社会学会の会長です。

この人が

『現代の危機』という

非常に良い本を書いていますが、

これはまだ日本で翻訳されていない。

ごく最近翻訳されたのは

『ヒューマニティの再建』という本であります。

これなど見ますと、

全く今日の新聞・雑誌に出ている俗論などを

完膚なきまでに批判して、

非常に読みにくいが

良い本であります。

以上は、二、三の例ですが、

人間として永遠に変わらざる根本的教養の書物であるとか、

時代の進行、現代および将来に対する権威ある人々の

正しい批判的書物を、絶えず心がけて読むことです。

なにも学者になるためではない。

事業人になるのですから、そんな博学多識の必要はない。

常にそういう書物を

一種類か二種類だけでも見ておられたら充分であります。

むしろその方がよい。

変な dilettant (ディレッタント:好事(こうず)家、

しろうと評論[芸術]家、芸術[学問]道楽)

なんかになられたら、かえって有害であります。

そうでなく、絶えずこれを心がけることが、

本当に皆さんをして永遠に若返らしめる。

かつ生ける限り、皆さんの人格を高める。

皆さん自身を高めるばかりでなく、

皆さんがそうしておられると、

知らず知らずのうちに

自己の友人や、あるいは後進、

どうかすると自分の先輩にすらも

案外

思わざる感化を与えるものであります。

「負うた子に教えられ」といいますが、

人の上にだんだん昇って、

つい、いつとなく安心し、

あるいは自己満足しております時、

思いがけなく自分の子供のように思っている若者から

一つのショックを受けるようなことがあります。

そういうふうに良い話などを、

ひょっと聞くようなことがありますと、

それは実に愕然として悟らされるものであります。

これが「負うた子に教えられる」ということであります。

本人にはわかりませんが、そういうことがよくあります。

そういう意味で、

今のような読書の習慣をつけるということは、

今まで申し上げましたことの中で

最も大切なことかもしれません。

ところが、まあ二、三年たってごらんなさい。

おそらくそれが実行できない。

少し仕事に慣れてきますと、また少し地位ができてきますと、

第一、多忙ということが襲ってくる。

そうすると、それに伴う疲労というものが加わってくる。

人間も、生物も同じことでありまして、

活動すれば疲れます。

これはもう生理的法則ですから仕方がありません。

忙しさ、それに伴う疲労のために、

なかなか書物というものは読めなくなる。

仕事の上の事務的書類を処理するだけに終わる。

あとは、

その日の新聞がやっとである。

一、二種類のパンフレットぐらいやっと慌ただしく読む、

というようなことになる。

よほど心がけないと、この習慣を続けることができない。

人によると、

忙しくてくたびれて、なかなかそんな時間がないのに、

そのうえ読書などやったらますます疲れると思うが、

これは誤解で、

こういう時の読書というものは、

実は

かえって疲れを癒すものです。

頭の転換によって生命の一つのリクリエーションになる。

決してそれは疲労の増加にはならない。

しかし、

なかなか

それができませんで、

つい忙しさに追われ、

時間がなく、肉体的・神経的な疲労のために

容易に読めない。

だから歳をとるほど、出世するほど、活動するほど、

この心がけを持ちませんと駄目です。

また、そういう心がけを持って、

そういう努力をする者は非常に偉い人です。

この観点から、

あれは偉いという人と、

あれは駄目だという二種類に人間を分けることもできます。

それくらいのことは楽にできる。と今日皆さんは思われる。

しばらくしてご覧なさい、ハッと気がつきます。

俺はこの頃いけないな、

ボツボツ駄目な方に入っていくという

反省があるものなのです。

これは他日どこかで、

また皆さんの中のどなたに会わんとも限りませんが、

これに対する感想は、

どなたからか、

五年、十年のうちに聞きうるだろうと思います。

そういう教養方法は、微に入り細を穿っていけば、

いくらでもありますが、

そんなに細かくやかましく言っても、

できるものではありません。

したがって、仕事に自己を打ち込む、

絶えず変化のある交友を持つということ、

いわゆる sectionalism にならない、

職業的にならないということ。

 第三は、今、言ったように

人間的に共通な根本的教育に資する意味の良い書物、

現在および歴史の進行に対して、

絶えず正しい警告を発してくれているところの

時代の先覚者の良い書物、

そういったようなものに

不断に少しずつ触れている、という意味の読書。

この三つは、皆さんにとって失うべからざるものであります。

そうすれば、皆さんは必ず自分の価値、

生命と品格とを維持することができるし、

意外に会社とその仕事の上にも

好影響のあることと確信するのであります。

−−−引用はここまでです−−−

 ここからは知古嶋芳琉が書いています。

私は安岡先生の教えに

素直に従って生きているようなもので、

私のお客様や友人の年齢は、

上は後期高齢者から、下は学生にまで及びました。

当時は在学中だった学生は、

今では卒業して代議士の秘書をやっています。

非常に高い志を持った人物だけに、

将来の成長が楽しみです。

それに、

自分の専門から離れて、

ありとあらゆる職業や年齢の人たちと

親しく交わることができるのが趣味の世界です。

 私の場合、

若い頃から

オーディオとアマチュア無線に興味を持っていたので、

実に多彩な職業や年齢の人たちと接する機会に

恵まれました。

学生時代に専攻した経営学については、

クラブ活動として、経営学研究会に所属して

先輩たちから徹底的に鍛え上げられましたし、

その上部団体の『学術文化会』の総務委員会には、

財務担当として出向させられ、

更には、

研究会に復帰させられて、

研究会の幹事の役を命じられると同時に

日本学生経営学会の

全国大会まで主催させられました。

その日本学生経営学会の全国大会では

大変お世話になった人の一人が、

50年後の今も交流が続いている

田園調布の住人でありまして、

定年退職してからは、何を血迷ったのか、

上智大学で、西田哲学を勉強するために修士課程に進み、

つい先日、聞いたところによると、

今度は

明治大学の博士課程の前期を受講しているという。

しかも、よりによって、

ハイデッガーの研究をしているというのですから、

あきれてしまいます。

彼は、例によって、

私が学んだ

コーチングの真髄を伝授してあげた人物の中では、

超一流の実績を上げてくれた人物で、

彼は

サラリーマン時代には、

彼が率いる国際事業本部の一部門を

社内で年間最優秀賞の受賞に導いた

万年部長でありました。

その後の彼は、

従業員の最高ランクの理事に昇格し、

執行役員に就任しました。

しかし、国際事業本部の副本部長にはなれましたが、

本部長までにはなれませんでした。

元はと言えば、大阪の出身で、

いまだに関西弁をしゃべりまくる奴ですが、

これがまた多彩な趣味の持ち主で、

茶道にコーラスに

さっき申しましたように、

哲学の研究と称して

都内の大学のはしごをやらかしております。

私の手にかかると、

こういう人物になってしまうという好例です。

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