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2021年02月22日11:21

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【そもそも人間学とは何か】 若さを失わず大成する秘訣

知古嶋芳琉です。

 思い起こせば、私が独立してから2年ほどが経過して、

ようやくお金が稼げるようになったとき、以前勤めていた

会社の先輩で、私と同じ大学を卒業した先輩が、私に

面談を希望して来られました。

その先輩は、その会社では実質的に全社の受注と生産を

統括する役員にまで登りつめた実力者で、非常に責任感が

強く、聞けば、私たちが希望退職の募集に応じてその会社を

去らなければならなくなった責任は自分にあるとして、

いさぎよく自分から身を退いたのだという。

しかも、退職金は一円も受け取らなかったそうです。

そういう人でした。

で、

私の自宅近くの喫茶店で一時間ほどの面談をしましたが、

その喫茶店の所在地には、

事前に出かけて自分の眼で確かめたという。

それほどしっかりと事前の準備をする人でした。

彼の仕事ぶりは万事がそうで、

事前に考えられる限りのことは、

何重にでも確認する慎重で手堅い人で、

その采配ぶりは見事なものでした。

 お話しが一段落したとき、

その先輩は、「あなたと話して元気が出ました、

この面談については幾らお支払いしたらいいでしょうか」と、

大学の先輩でありながら、

後輩の私に丁寧語を使って言いながら、

内ポケットから財布を出して私をじっと見るものですから、

「とんでもありません、

大先輩とお話しをしただけでお金を受け取ることなんて

できません」といって、お金を受け取ることを固辞しました。

それでも、気がすまなかったのでしょう、

後日、高価な海苔の詰め合わせを贈ってくださいました。

義理堅く、礼儀をわきまえた人とはそういうものです。

 その先輩は、

前の会社を辞めてから、

その会社を担当していた公認会計士から紹介してもらって、

2社を渡り歩いたそうですが、

結局は彼を雇った社長から

殺されるほどの無理難題を押し付けられて、

それぞれの会社から追い出されたという。

確かに、

そんな酷い目にあわされても当たり前です。

なぜならば、

彼は再就職したら、

茶髪にピアスをつけたお兄ちゃんでも

「さん付け」で呼んだりして、

半年もすればその会社の社員の心を

一手に掌握してしまう人だったからです。

オーナーとしては、

その企業のコーポレート・ガバナンスの

主の座を奪われては、乗っ取られたも同然です。

ですから私は、次に就職の機会があったら、

社員とか役員として、

その企業の組織に入り込むのではなくて、

社外のコンサルタントか

顧問として就任する方がいいだろうと申しておきました。

そうこうしているうちに、また、ある会社に就職されましたが、

半年も経たないうちに、

その会社のオーナーから

社長をやってくれと言われたので、

今度は、あっさりと断って辞めてしまったそうです。

仕事ができる人とは、そういうものです。

何でもいい加減に事を済ませることができない、

完ぺき主義の人の特徴です。

引き続き、

安岡先生の講話録、

プレジデント社の人間学講話、

『運命を創る』

からの引用です。

−−−ここからはその引用です−−−

■ 運命を創る

○ 若さを失わず大成する秘訣

<自己の殻、仕事の殻、会社の殻>

 今、皆さんは学窓を離れられたばかりであり、

新しく社会に一歩を踏み入れられた時でありますから、

非常に希望に燃えて、いろいろの計画・理想を抱いて

おいでになりましょう。

俗な言葉で申しますと、

なお多くの夢を持っておいでになるだろう

と思うのであります。

その時、私の話は、考えようによっては

冷水を掛けるようなことになるかもしれませんが、

冷水ではなくて、

きわめて栄養のある飲み物のつもりであります。

人間は「始めあらざるなく、終わりあるは鮮(すくな)し」

ということがありまして、

とかく「始めは脱兎、終わりは処女」ということに

なりかねないというよりも、

むしろそうなりがちなのであります。

禅家にも「関(くわん)」と言う言葉がありますが、

「喝(かつ)」とか「咄(とつ)」とかいうことは

よく知っていますが、

関という言葉は、

わりに一般の人は参禅でもされないと

ご存知ないかもしれません。

禅家では関という一語をよく浴びせかけるのであります。

関とは字のとおり関(せき)ということであり、

すなわち、引っかかり、行き詰まりであります。

人間の一生は、特に若い人が考えているように、

なかなか坦々たる大道ではありません。

思いがけないところで、

しばしば行き詰まりにぶつかるのであります。

人生は、

しばしば

出会わねばならぬ関所を

幾つも通り抜ける旅路であり、

そこで一関、二関はうまく抜けても、

三関、四関となると、

往々にして、その関所を通ることができず、

挫折する、

引き返すことになりがちです。

そこが関所だ。

そこを通り抜けろ。

という意味で、よく「関」ということを指示するのであります。

辛抱して、努力して、関を何関か通りますと、

特に難解難透というようなことを禅僧がよく申しますが、

難しい、解き難い、通り難い、すなわち、

難解難透の関をいくつか通りますうちに、

ついに真の自由、

古い言葉で申しますと、

無礙(げ)自在というような境地に到達して、

すなわち「無関に遊ぶ」こともできるようになります。

最初が非常に大事であります。

のみならず、そういうことがあるものですから、

人間というものは、

とかく意外に早く成長進歩が止まるものであります。

言葉を換えて言うと、小成に安んじがちであります。

もっと平たく申しますと、案外早く若さを失うものであります。

早く歳をとるものであります。

いわゆる所帯じみるのです。

これは青年時代にはちょっと分からないと申してよい。

案外早く歳をとってしまうとか、若固まりになってしまうとか、

若朽するとか、若朽とまではならずとも、

まあまあ平々凡々になってしまう、

と言われてもそんなことがあるものかと思うのですが、

事実、多くの人は案外早くそうなるのです。

人間は小成に安んじないように、

意外に早く固まってしまわぬように、

伸びが止まらないように、

いつまでも若く、いつまでも伸びていく、

いつまでも進歩発展していくことが大事なので、

若い時に成績が良かったということよりも、

いつまでも歳をとらない、いつまでも伸びていく、

歳と共によく変化していき、

途上の難関を幾関か通って

無関に遊ぶということが大切なのであります。

「始めありしことはもとよりのこと、

終わりをもまた善くする」ということが、

いかに人生にとってめでたいことであり、

また難しいことであり、尊いことであるか、

これは、よほど苦労せぬと分からぬことであります。

そこで、

昔からいろいろの意味で若さということを皆が羨ましがる。

俗談をいたしますと、めでたいことによく海老を使う。

たいていの人は海老は腰が曲がっているから、

男女が仲良く腰が曲がるまで揃って長生きをすること

ぐらいの意味にしかとらないが、

少しく哲学する専門家の意見を聴きますと、

そういう意味ではなく、

海老は永遠の若さを象徴しているというので

めでたいものとされるのです。

というのは、あれは生ける限り何時までも殻を脱ぎ、

固まらない。

ことに万物がボツボツ固くなる秋に、彼は殻を脱する。

生ける限りよく殻を脱いで固まらぬ。

いつまでも若さを失わない。

よく変化していくという意味で、海老はめでたいのである。

とすると、なかなか面白い真理を含んだものです。

私は海老を食べると、いつもこれを思い出すのであります。

なるほど、それは実に難しいもので、

自己の殻はなかなか脱せられないものであります。

自己の殻、

学問の殻、

仕事の殻、

会社に入れば会社の殻、

役所に入れば役所の殻から、

なかなか脱けられぬものであります。

これが脱けきらぬと、人間が固まってしまう。

−−−引用はここまでです−−−

ここからは知古嶋芳琉が書いています。

先ほどご紹介した、大学の大先輩に限らず、

人が自己の殻を破って脱皮することは、

非常に困難なことです。

しかし、私はロバート・キヨサキの

『金持ち父さん』シリーズの本を読んで、

それまでの自分のままでは、

貧乏なままで一生を終わるだけに留まらず、

とても起業家や投資家にはなれないと思いました。

ですから、

その後の私は、営業の修行を重ねるとともに、

次から次へと、ビジネス・トレーニングを受講しました。

どこへ出かけても、私のような年寄りはいませんでした。

それでも、私は素直に、どんなトレーニングでも

こなしてきました。

創業したときには、まったく知りもしなかった

「コーチング」とか、「カウンセリング」とか、

「メンタル・マネジメント」に「メンタル・ヘルス」や

「メンタル・トレーニング」、

おまけに古代神道にまで踏み込んで、

一時は本気で神主になる気になったこともありました。

聞いたこともなかった「ファシリテーション」を学んでみると、

サラリーマン時代にやっていたことばかりだったし、

「コーチング」とは、かなり重なる領域も多くて、

初級講座が終わるころには、間髪入れずに

「ファシリテーター」を名乗って、

30分当たり10万円の料金設定で営業を始めたら、

数日で受注に成功しました。

我ながら、

還暦を過ぎた爺さんが、

よくもここまで次から次へと新しいことに挑戦したものだと

感心します。

普通の人なら、昔取った杵柄というか、

現役時代の延長線上にあることしかできないのが普通です。

ところが、私はサラリーマン時代にやっていたことなんか、

決してやりたくはなかったし、

そんな、普通の人と同じような、

型にはまったことはやりたくなかったのです。

つまり、

過去の経験を生かして再就職する会社を探すなんて、

そんな、みじめなことはやりたくなかったのです。

何しろ、

リストラで首を斬られてから、

再起の道を歩み始めたきっかけは、

ロバート・キヨサキが書いた

『金持ち父さん、貧乏父さん』を読んで、

彼のいう『貧乏父さん』には、二度となりたくないという、

固い決心をしていたからです。

それに、

私は生まれながらにして、

十把一からげに、他人と同じ扱いをされたくなくて、

私だけが特別扱いされたいという願望が強い人間です。

私はそういう意識は幼いころから持っていました。

これは、いわゆる「セルフ・イメージ」というものです。

また、

私がどんなパターンにも当てはまらない人間なので、

人によっては、

私のことをつかみどころがない奴だという人もいます。

それもそのはずです。

なぜならば、

数年前に経営者向けのセミナーを受講したときに、

経営コンサルタントの先生が実施してくれた性格診断で、

私は

「リーダー(支配者)」、

「プロデューサー(演出家)」、

「サポーター(支援者)」、

「アナリスト(分析家)」の、すべての側面を、

ほぼ百パーセント、持っていることが分かったからです。

こういう人は非常に珍しいと言われてしまいました。

しかし、よくよく自分のことを考えてみると、やっぱり、

「コーチ」とか「ファシリテーター」の役がもっとも自分らしくて、

私にとっては自然で、得意なことなのです。

なぜならば、

私は若いころから、ゴルフにしてもスキーにしても、

上手にやるツボとかコツを教えてあげるのが上手だったし、

誰とも等距離の距離感を保つことは、

今までの生き方をそのままやっていればいいからです。

もっと言えば、他人と自分との距離を保つだけに留まらず、

自分自身とも等距離の間隔を置くという、

自分を常に客観的にみる能力は

特に高いと自負しています。

それに、どんな一党一派にも属したくないのが本音だし、

それが私にとっては最も自分らしくて楽なことなのです。

「孤高を保つ」なんて、

若い人たちは

聞いたこともない言葉ではないかと思うのですが、

私は小学生の頃から

一貫してそういう生き方をやってきました。

このような、

良い意味での「孤高を保つ」ことができなければ、

例えば、

政府からご指名を受けた「コーチ」や「ファシリテーター」は、

決して務まりません。

なぜならば、たとえ相手が内閣総理大臣であっても、

政権交替を果たした内閣であっても、

いつものように、誰とも、どんな政党や組織や圧力団体とも、

決してなれ合いにならず、

一定の距離を保ち続けなければならないからです。

しかも

自分の軸は決してぶれてはいけません。

解決しなければならない問題は、

国家の将来を左右するような問題ばかりですから、

「コーチ」や「ファシリテーター」は、

その問題の中味(コンテンツ)に関わってしまうと、

その渦の中に巻き込まれてしまって、

公正な立場を保つことができなくなってしまいます。

例えば

原発をいつまでにどうするのかとか、

いつまでも解決できそうもない領土問題とか、

そんなことに巻き込まれてしまいます。

「コーチ」や「ファシリテーター」は、

決してそんなことに巻き込まれてはいけないのです。

あくまでも

「問題解決のプロセスだけ」に関わることから

逸脱してはなりません。

ましてや、教祖ではないのですから、

クライアントには、

私に対する依存心や依頼心を持たせてはいけないのです。

そして、

最終的には自分の存在を無にしなければなりません。

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