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2021年02月16日11:22

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【そもそも人間学とは何か】 主体性を回復するための十八箇条

知古嶋芳琉です。

 安岡正篤師は、主体性とか自主性の大切さをくどいほど

繰り返して講じてこられましたが、

これほど具体的に整理された講話は他にはありません。

ですから、このようなものこそ、

短くて分かりやすい文章に書き直して、家訓として定め、

床の間にでも掲げて、自ら日々実践してお手本を示し、

子々孫々にいたるまで語り継ぐべきなのです。

世に言う成功法則の、それも基本原則ですから、

今風のやり方なら

自分のチェック・リストとして紙に書き出して、

それを一つひとつ確実に実践しては

チェック・マークをつけるという、

地道な訓練を積み重ねなければ、

決して長距離勝者とか成功持続者にはなれません。

今回引用したのは

プレジデント社の人間学講話、『運命を創る』です。

−−−ここからは引用です−−−

■ 運命を創る

○ 次代をつくる人々のために

<主体性を回復するための十八箇条>

そこで、問題を少し具体化しまして、自己の主体性を回復し、

自己完成に努力すること、その具体的方針について、ここに

有効な方法をご紹介いたしましょう。

これは私見ではありません。

私がこの前、ヨーロッパからアメリカを巡りましたときに、努め

て各国の教育を視察して、調査資料の有益なものを集めまし

て、いろいろ研究し合いましたその一つであります。

これは十八箇条からできております。

 第一は、極めて通俗的なことで、しかも非常に難しいことで

ありますが、飲食の問題であります。

自分は毎日の飲食を適正にやっておるか、

過度や不合理ではないかということを調べることです。

『中庸』には、「飲食せざる者はないけれども、

よく飲食の意義を知っておる者は非常に少ない」

ということが書いてある。

確かに飲食せん者はないが、ほとんど「生きる」ということを、

「食う」という言葉で表わしておるように、飲食というのは生活

の大部分かもしれない。その飲食を我々が適正にやってお

るか、誤ってやっていないかを本当にやろうと思ったら、それ

こそ生理・病理からして際限なく知識を要する。そんなことは

とてもできませんが、絶えず注意して正しく飲食する。賢く飲

食するといってはおかしいが、これは皆さんが研究されると、

限りなく面白い有益な問題で、一番悪いのは、暴飲暴食や

妄飲・妄食することであります。日本人はもっと飲食を合理的

に、もっと軽くやる必要がある。日本人は栄養を取るというこ

とよりも、むしろ、満腹という言葉が表わしているように、腹に

詰め込むという悪習慣が非常に強い。私が外国を旅行して、

たびたび気がついたことですけれども、西洋人の飲食は一般

に簡単ですが、日本人は非常に重い“大めし食い”が多い。

そうして、また不合理な飲食者が多い。たとえば自分の可愛

い子供が大学に行って胸を患っているのを田舎の母親が来

て看病しながら、栄養を取りさえすればよいと思って、そのお

っかさんは、一日のうち半分くらい寝ている大学生に、牛乳を

飲まないか、お肉を食べないかというふうに、卵をいくつも食

わせたり、パンにバターを塗りたくったり、そういうようにうま

いものを食わせなければいけないもんだと思って、食いたが

らない子供に一所懸命にバターとかチーズとか卵とか牛乳な

どを勧めておるのです。また、この青年は甚だ非科学的であ

りまして、何かそういうものを取らなくては自分の体がもたな

いと思っている。そして、実は自殺を招いておるのです。なし

くずし自殺をフルスピードでやっておるのです。

 食物は、消化をし吸収をすることが必要なんで、胸を、呼吸

器を患っておるというのは、すでに全体が弱っておるし、消化

機能も衰えているのですから、それに肉とか卵とかバターな

どを詰め込むことは、まったくとんでもない自殺であります。

なるべく、そういうものは少なくして、もっと消化しやすい、

吸収しやすいものを与えなければいけない。うまいものを

食べるよりも、食欲をつけることを考えなければならない。

我々が本当に飲食しようと思ったら、ときどき断食や節食を

やるほうが、うまいものや薬を飲むよりいいことなんです。

だから母親に「あんまりそういうものは食べささんようにして、

食欲をつけることを考えなければならない。そして、身体に応

じて消化しやすい、吸収しやすいものを与えろ」と説明してみ

るが、なかなか分からない。牛乳を飲んだり牛肉を食ったら、

栄養がついたような気がする。これは非科学的な不合理なも

ので、「妄」食です。

牛肉をたらふく食って酒を飲むことは、これも非科学的な、

不合理なものです。昔の人の方が、その点かえって合理的・

科学的な食物をとっておる。

昔の酒飲みは、必ず酢の物とか、淡白な、あっさりしたものを

とっておる。

我々の食事は、やはり陰陽の原理で、日本酒は陽性なもの

です。酒の肴は陰性のものがいい。酢の物、野菜とか、淡白

なものがいい。牛や豚を大食して酒を飲んでおったら馬鹿に

なることは間違いがないことです。

 私の親しい医学者の話に、ビールを飲んでトンカツを食って

おったら三か月で結構馬鹿になるということを言っておりまし

た。我々は不合理な飲食、馬鹿な飲食を案外にやっておる

のです。下手な小説や論文を読むよりも、こういうことを研究

した方が、よほど人生の役に立ちますし、意味があります。

平生、飲食に注意をされ、飲食の科学、飲食の哲学を注意し

ておられるとよろしい。これは若い時はなかなか分からん。

ところが、まあ四十を過ぎてごらんなさい。定年に近づいてく

ると、これが必ず大問題になる。何ぞ知ることの遅かりしや、

ということになる。

今のうちから心がけておられた方がよろしい。

 第二は、毎晩よく眠れるかということです。

哲学的に言っても、睡眠ということにいろいろ意味があるが、

とにかく、よく眠ることは非常に大事です。

眠ることに二条件ありまして、それは熟睡と安眠であります。

熟睡というのは深く眠ることです。これは、つまり生理の問題

です。安眠というのは、心理の問題です。つまり精神状態が

平和であると安眠ができる。安眠と熟睡とは、そういう点で

違うのです。精神状態は平和であっても、どこか健康に支障

があれば、熟睡はできません。疲労すれば熟睡はできても、

精神状態が不安であると安眠にはならない。監獄を脱走して

山の中を走り回って疲れ果てて熟睡はしますが、それは非常

に不安眠であります。

我々は、やはり精神生活に伴って安眠をする。

それから、

疲労の度合いによって熟睡、あるいは浅睡になる。

常に安眠して熟睡することを考えねばならないわけです。

そして眠るということは案外短時間でいい。

安眠と熟睡なら割り合い短時間でいい。

たいていの眠りは最初のうち、うつらうつらして本当に寝て

おらない。それからしばらく熟睡して、そうして、またうとうと

してくる。

これはたいへん気持ちがいいもんです。

これを惰眠という。

西洋でも東洋でも、

非常に有為有能な人に共通していることは、

惰眠をせぬことです。

 今、蒋介石が心酔しておる

曽国藩(そうこくはん)という清(しん)末の偉人がおります。

これは太平天国の乱(長髪賊)を平らげて大功があった

湖南出身の偉人でありますが、この人がいつでも

「黎明即起せよ」、これは早速に起きろ、

「醒めて後、霑(てん)恋することなかれ」、

霑恋というのは寝床の中で惰眠をむさぼっておることです。

確かに我々は朝寝坊をするのとしないのとでは、

非常に違うんです。

能率ばかりじゃなくて、精神状態も非常に違います。

それには、

案外少ない時間の安眠熟睡を得れば足りるのです。

精神的不安を持っておると、どうしても熟睡がしにくくて、

眠りが浅くなりますから、惰眠の時間が長くなります。そこで

毎晩よく眠れるか、安眠熟睡ができるかどうかを点検するこ

とは、非常に意味があります。

アメリカのある大学の心理学の研究室で、

大学生の生活調査をやった報告を見ましたが、その中で、

やはり飲食や睡眠を調べておりました。その報告を見ますと、

いわゆる惰眠が多い。不安眠が多い。本当に規則正しい

生活をして、学問や運動に打ち込んで、安眠熟睡、黎明即起、

醒後霑恋せざる者は寥々(りょうりょう)たるもので、

たいていは惰眠党であります。

大学生時分はそれでよろしいが、

社会人、事業人になりますと、

これは非常に注意しなければならんことであります。

 第三は、自分の心身に悪影響を与えるような、

悪い習慣はないかということです。

朝、起きると、亀の子みたいに寝床から首を出して、タバコを

スパスパやりながら一向に起きないとか、夜遅くまで晩酌を

やりながらくだをまいているとか、麻雀をやって夜明かしする

とか、いっぺん銀座通りをうろついてこんと本が読めんとか、

案外人間にはつまらん習慣があるものです。そういう悪習慣

のあるなし。

 第四は、適当な運動をしておるかどうか。この運動というの

は、その人によって、かなり過激な運動もいいし、場合によっ

ては柔軟体操もいいし、また場合によっては静座、調息とい

ったようなものでもいいし、運動というものは、その人に適し

たものでなければなりません。運動そのものがいかにいい

運動であっても、その人にいいとは限りません。自分自身に

適当な運動をしておるかどうかということ。

<悲観と興奮は心の病>

 第五は、自分は生活上の出来事に

一喜一憂しやすくないか。

つまり、日常の出来事に軽々しく感情を乱されるようなことが

ありはせんかということです。特に、非常に悲観したり、落胆

したりするような、エキセントリック(抽象的なもの(思想、

行動など)について「偏っている」「まともでない」

「普通と違う」という意味にも使われます)なところです。

妙にぺしゃんこになったり、

妙にウキウキしたりといったような、

特に、そのうちでも悲観したり、落胆したりしやすくないか。

 第六に、特にすぐ悲観したり興奮しやすいというのは

病的で、事を成すに足りません。

こういう人は環境に支配される力が強いですから、

容易に自己の主体性を失いがちである。

外物に動かされやすい。

伝染病にかかりやすいのと同じことです。

 そこで第七は、たとえそういう精神的動揺があっても、

仕事は平常のとおり続けうるかどうかということを実験する。

吟味する。

そういう感情上の動揺があっても、仕事は平常の如く

続けられるというのは、それだけバックボーンができておる。

 第八は、似たようなことですが、昨日の失敗のために、

今日の仕事が妨げられないでいけるという実験。

終始一貫していけるか、ちょっとした失敗で、

すぐにその仕事が嫌になるようなことがないかどうかです。

 それには第九、絶えずこういうことを自分で反省し、

修養する必要がある。

それは毎日の仕事に自分を打ち込んでおるかどうか。

我々は案外精神が散乱しやすいもので、

ものに打ち込むことは非常に難しいことです。

東洋哲学でいうと、「止」という言葉がある。

これは「とどまる」と言いますけれども、

これはものに打ち込んで一つになるという文字です。

だから、「止観」(しかん:天台宗で、

禅定(ぜんじょう)により心の動揺を払って

一つの対象に集中し、

正しい智慧を起こして仏法を会得すること)という言葉がある

でしょう。ものに打ち込んで、ものと一つになると、

そこから本当の叡智と、直観力が出てくる。 二、三日前、

お役人たちと雑談しましたが、そこに一人の事務の達人が

おりまして、これが一杯機嫌での話しに、

「自分は回ってきた書類を掴むと、だいたいこれはいいか

悪いかということが分かる」。

「そんな馬鹿なことがあるか」と言ったら、そばの人も、

「分かる」と言っていた。

それは仕事に打ち込んできた経験が、

だんだん直観力を発達させたのです。そういうことをいうと、

自慢のように聞こえますが、私どもは絶えず思想的な書物を

始終、何十年も読んできていますから、思想的な本ならば、

本屋の前で新刊書を手にとってパラパラめくると、この本は

いいか悪いかがすぐ分かるんです。これはつまらんなと思っ

たら、読んでみたら必ずつまらん。これは面白そうだと思って

読んでみると、必ず面白い。そういうような直観力は、私だっ

て経験いたしますから、大家はきっと回ってきた書類を握れ

ば分かるんでしょう。また、そうでなければいけない。

果物屋は、たとえば柿の木を見て、いくつ成っておるかを

大体当てます。それで、ちぎってみると、五つか六つぐらい

しか違わない。機械の熟練技師は機械を一々分解しなくて

も、機械のどこが悪いと訴えると言いますが、本当に分かる

んです。すべてそこまでいかなくてはいけないので、それには

仕事に打ち込んでいるかどうかを吟味する。

 十番目に大事なことは、

自分は仕事にどれだけ有能であるか、

自分はどれだけ今の自分の仕事に役に立つか、

こういうことを絶えず実験してみる必要がある。

ところが、案外自分は仕事に役立つ能力がある。

有能である、有能でない、という判断が当てにならん。

しばしば我々は、とんだ錯覚、浮気がありまして、

自分の柄にもないことを、

いわゆる下手のよこ好きならまだしも、

柄にもないことが好きで、

興味があることと、能力があることは違うのに、

よくそれを錯覚する。

えてして自分の本来の能力を意識しないで、

自分の本来の能力でもない、

そういう自分に実は不適当なことの方へそれる。

だから、本当に自分はこの仕事に適しておるか、

役に立つかどうかは、案外冷静に、克明に吟味して、

容易に断定することのできない問題です。

自分がこの仕事にどれだけ役に立つか、

有能かということは、大いに吟味する必要がある。

 第十一番目に、現在の仕事は自分の生涯の仕事とするに

足りるかどうかということを、また研究する必要がある。もし、

生涯の仕事とするに足りんと思われれば、できるだけそれを

生涯の仕事にするに足りるよう研究をするか、何かそこにま

た落ち着いた正しい工夫と努力とを要する。我々の心構えと

努力の如何によっては、どんな小さなことでも、生涯の仕事と

するに足りる。心がけの如何によっては、どんな仕事でも、

一生の仕事とするに足りるに相違ないのです。

心構えが悪いと、どんな立派な仕事でも、その場の仕事で、

一生の仕事にならないということになります。

これは大問題です。


<四つの忍耐 退屈に耐えることの難しさ>

 第十二は、仮に自分の仕事がどうしても自分に合わぬ、

自分の生活が退屈であるとすれば、

自分の満足を何によって得るかという問題、

しからば、いかにすれば、あるいは、

どういうことが自分の心を満足させる仕事になるか、

これを考えてみる。

我々は退屈するということは案外いけないことなんです。

我々が働くことによって消費されるエネルギーよりも、

退屈することによって消費されるエネルギーの方が大きい。

退屈するということは非常に疲れることであり、

毒なことであることが

最近、医学的にはっきり実験で証明されております。

だから、その意味においても、我々は退屈をしてはいかん。

あくまで敏、敏求、敏行でなければならん。

昔から「四耐」という言葉があります。

四つの忍耐。

一つは冷ややかなることに耐える。

人生の冷たいことに耐える。

第二は苦しいことに耐える。

第三は煩わしいことに耐える。

第四は閑に耐える。

この閑、退屈に耐えることが一番難しいことです。

「小人閑居して不善をなす」というのは名言であって、

そこで

退屈せんように、

もし、仕事がどうしても自分に向かない時には、

どういう仕事をすることがいいかを調べる。

 第十三、とにかく自分は日常絶えず追求すべき

明確な目標を持ち続けておることです。

そういう思索や反省と同時に、

差し当たり毎日、今日はこれをしなければならん、

それからあれをやるんだという、

絶えず追求すべき明確な目標を持っておるかどうか。

もっと突っ込んで言えば、

とりあえず明日何をせねばならんという問題を

持っておるかどうか。

今日はもちろん、とりあえず明日、少なくとも明日、

これをやらなければならないという

問題をもっておるかどうか。

 第十四は、自分は人に対して親切であるか、

誠実であるかどうか。

ちゃらんぽらんで人に付き合っておりやしないか。

常に人に対して誠実であるかどうか。

これは重大な問題です。

事業人として、社会人として、

一番その信・不信の分かれるところは、

人に対して誠実であるか、

ちゃらんぽらんかということですね。

あいつはちゃらんぽらんだということになると、これは能力が

あっても駄目であります。

多少愚鈍であっても、誠実であるということは、

必ず社会的生命を得るのです。

 第十五に、自分は自分に対してやましいことはないか、

これは安眠熟睡にも影響する問題です。

 第十六に、自分は人格の向上に資するような教養に

努めておるかどうか。

人間を作る意味の教養に努力しておるかどうか。

我々はいろいろ本を読んだり、趣味を持ったりするけれども、

案外人間を作るという意味での学問・修養は、

なかなかやれんもので、

とにかく義務的な仕事にのみ追われて、

なかなか

本格的に人格の向上に役立つような修養に努力する。

何よりもそういうことを心がけることは、

少し忙しくなってくるとできにくいものであります。

それをやっておるかどうか。

 十七番目には、将来のための何か

知識・技術を修めておるかどうか。

つまり何らかのエキスパートになる努力をしておるかどうか。

昔から「芸は身を助く」と言いますが、

我々は人間としてよくできておると同時に、

何か一芸を持たなければならない。

つまり、エキスパートであるということは、

我々が社会人としての生命を確立するためには、

非常に大事な条件です。

あの人でなければならんという、

何か一つを持っておることは、非常に強みであります。

少なくともつぶしの効く人間になる。

それだけの素養を持っておる。

いや、持っておるのではなくて、磨くということです。

 それから最後に、これは非常に深い問題であるが、

自分は何か信仰とか信念、哲学を持っておるかどうか。

これは人間として一番の根本問題です。

その人から地位だの身分だの、報酬だのを引いてしまう。

あるいは親子だの妻子だのを引いてしまうと何が残るか。

何も残らんというのではいかんのです。

一切を剥奪されても、

奪うべからざる永遠のものが何かあるという人間に

ならなければいかんのです。

それには突き詰めたところ、

何らかの信仰なり、信念、哲学を持っておるということは、

尊いことであります。

そういうものを自分は持っているか、

持とうとしておるかということ。

 これはただ十八箇条でありますが、

これは私が考えついたことではなく、

いろいろの方面での研究・調査の総合的結論です。

こういうふうにして、皆さんが自分という人間、自分の日常、

自分の仕事、自分の内面生活、

そこで自然に自分の環境、社会情勢というものにも

活眼を開くようになり、そうして修業していかれたならば、

自分というものを容易に麻痺させたり、若朽させないで、

どんどん進歩していくことができる。

こういう心構えを持たずに、うかうかしておられると、

容易に現代の複雑な、

非常に恐ろしい社会的魔力のために束縛されて、

案外自分を駄目にしてしまう。

これは冷厳なる事実であります。

 これだけ調べてみますと、

自分というものがはっきり出てきましょう。

人間は修養しなければならないとか、

教養をつけねばならないとか、

いろいろ漠然と抽象的用語は使いますけれども、

案外に具体化ということになりますと、

掴みどころがないものであります。

人間生活は、やはり具体的で明確でなくてはならない。

−−−引用はここまでです−−−

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