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2021年02月07日13:11

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思う所あり。雑観まとめ 今の心境を。

1人の市民(税金を納めたり、選挙権があったり)ですから、何も出来ませんし、あまり拘泥すべきではないのだとも理解していますが、何もしなかった、という事は加担した、と同義と考えるので、今の所の考えをまとめ、未来の自分への戒めの為にも、現在の考えを記しておこう。

愛の反対語は、憎悪ではなく無関心。

憎悪出来るのは、結局拘泥しているだけ。この点だけでも、瞬間的な感情よりも論理的思考が勝る事が理解出来る、すべてにおいてでは無いが。

しかし、対人関係なら無関心は愛の反対語だが、事が対人でなく対社会になると、無関心は同意、もしくは消極的加担を意味する事になる。

そもそも所詮人間は誰とも、分かり合えない。

血縁関係も、婚姻関係も、幼馴染だろうが、他者が何を考えているかは永久に不明だ。

だからこそ、理解し合えないからこそ、分かり合いたい人と関係を結ぶ努力を払い続ける事に意味がある。

しかし当然理解しようとする努力が徒労に終わる事もある、関係性が成り立たない場合もある。気軽に話しかけられなかったり、そもそも相手に認識されていない場合もあるだろう。

特に地域や行政、国家的な大きな集団において個人のチカラは微々たるものだ。しかもその1個人もその中に内包されている。納税して選挙権を行使した結果を受け入れざるを得ない。選挙結果に仮に反対したところで特に意味がない、と感じられるくらいに、大きな集団においては徒労感を増すし、これは政治的だろうと生活的だろうと恐らくどの立場でも感じられるのではないだろうか?世界が自分と同じように感じ、考え、行動する事はあり得ない。そもそも分かり合えない他者と、不条理な事が大半の未知の世界だ。

であるなら、自分が幸せだと感じる事を増やしたり、自分にとっての善き事を積み上げていくしかないと思う。

しかし、中には、いくらなんでも、と思う事がある。なんでこんな事になったのか検証が必要な事がある。

それなのに、和を持って尊び、恥の文化を持ち、家制度を長く成り立たせてきた文化を土壌とする我が国家では、個人が正しく怒る事の難しさ、を年を取る毎に痛感する。

死者に鞭打つ事が出来ないし、死者が仏になる文化で、目上を尊重し、年功序列というヒエラルキーが長く存在した上に、権力者を認めるという承認機関が統治する国家の特異性、観念の世界を長く過ごし文化にまで高めた我が国家では、正しく怒る事の難しさを痛感する。良いとか悪いとかではなく。

観念の世界では、観念のある人と、観念が無い(薄い含む)人との会話が成立しにくいし、そもそも議論の決着を求めるのではなく、和を持って尊ぶので結論が丸められ、意味を成さない事さえある。

芥川賞作家が直接選挙で選ばれ首長を務め出した頃から動きだしたと記憶しているが、その事を知った頃も無関心であったし、都民の1人として反対もしたが、選挙結果として支持されつつも、当該地の市民の関心の無さは候補地の中で最も高かった。

数年に1回開かれる国際的な多種の体育競技が開かれる事には、特に異存ないし、私個人が興味があろうがなかろうが、関係ない。

まして、数年医1回開かれる国際的な多種の体育競技を招致する頃からずっと反対していても、多額の税金がつぎ込まれる事にも違和感を覚えても、民主主義的な手続きを経たものであり、1個人が何かを出来るわけでもない。だから対人関係であれば無視を決め込む事も出来たであろうが、対社会となるとそうもいかない。

そもそも選挙で選んだ、選ばれた政治団体、政党が全権委任されたわけではない。だからこそ議会制民主主義をとっているのであって、様々な意見を取り込み、修正して、玉虫色の、大多数の人の生活や、社会インフラや、行政をよりよくする義務がある。

そして当然市民は与党に対しても文句や監視を繰り返し続けなければならない。

何もしなかった、無関心であった事が、この数年に1回開かれる国際的な多種の体育競技の招致、開催、運営を肯定する事に繋がってしまうのであれば、それが1個人である私の本意とは相いれないモノであり、正しく冷静に怒る事とも繋がるので、

『数年に1回開かれる国際的な多種の体育競技 については今後無い事とする。端的に言ってとても怒っている』

あまりに莫大な予算を注ぎ込み、最もコンパクト、というびじれいくは完全に嘘となり、委員会の長に、そもそも素行にも言動にも向かない事がはっきりしている人物を登用しただけでも罪の大きさは計り知れないが、自浄作用も無いことがはっきりした今、関わらない事を表明することにする。

ま、私一個人がぎゃーすか言おうが全く関係ないでしょうけれど、私の独善、私の中の正義を納得させるたまだけの話しではあるが。

基本的には 無い ものとして振る舞おうと思う。ボイコットじゃなく、無関心にする、事にする。関係のある話しに対しても、自分は関係ないし無い事として扱う、多少の社会との齟齬があっても特に困らない。

それに、数年に1度開かれる国際的な多種の体育競技に関心があるのではなく、拝金として消化している事はこれまでの経過で十分理解出来るし、ほぼ面子の話しになったわけだ。

体育競技じゃなく、金と面子の話しで、健康も度外視(コロナ禍)だし、環境も度外視(そもそも長距離野外走に向く気候ですらない)し、2021年であろうと2020年として振る舞うし、新型コロナに打ち勝った証を数年に1度開かれる国際的な多種の体育競技が開催される事が何故 証 になるのか?不明だし。

そして負の遺産としての借金が残るわけだ。失言を撤回するだけで無かった事になる、と思い込んでいる人は反省している訳では無し、組織の長に向いていない事(政治的にも問題発言を繰り返していた)も理解した上で指名した組織の責任も重いし、自浄作用も無い事が証明されたわけだし。とかい言う事は今後もう私は無視する事にした。

結構怒ってる。
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