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2021年02月05日02:55

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もじたま日記・3005日目からの続き・・・角がアル人はオニ・👹・アニ・・・?

 3005日目からの続き
フォト

ー↓↑ーーーー
 『日本書紀』
 垂仁天皇二年条分注
 崇神天皇の時
 額に角の生えた
 「都怒我阿羅斯等」
 が船で
 穴門〜出雲国〜笥飯浦に来着
 「角鹿(つぬが)」の語源で
 「角鹿=つぬが→敦賀=つるが」に転訛
 垂仁天皇の時
 帰国の際
 「阿羅斯等」
 に崇神天皇の
 諱(御間城=みまき)を国名にするよう詔し
 「任那=みまな=弥摩那」となった
 「阿羅斯等」に下賜した
 「赤絹」を新羅が奪って
  新羅と任那の争いが始まった・・・
  ↓↑
 「阿羅斯等」が
 「黄牛」の代償として得た
 「白石」が美しい童女と化し
 「阿羅斯等」は
 「合(まぐわい)=交具合・目具合」
 をしようとしたが
 童女は「阿羅斯等」を去って日本に行
 難波
 と
 豊国
 の国前郡の
 「比売語曽社」の神になった・・・
 『古事記』
 「天之日矛(天日槍)」の
 「阿加流比売」
 『摂津国風土記』逸文
 (『萬葉集註釈』)
 にある
 ↓↑
 後裔氏族
 『新撰姓氏録』
 左京諸蕃 大市首  出自は任那国人の都怒賀阿羅斯止
 左京諸蕃 清水首  出自は任那国人の都怒何阿羅志止
 大和国諸蕃 辟田首 出自は任那国主の都奴加阿羅志等
 ↓↑
 新羅の最高官位
 「舒弗邯(ソブルハン、角干の別名)」の訓読みで
 「つぬが」に転訛し
 「敦賀」が生まれた・・・
 「あらしと」とは
 朝鮮語の「閼智(アルチ)」
 新羅・加耶における貴人への敬称
 敦賀には式内社として
 白城神社・信露貴彦神社
 新羅(白城・信露貴)系の神社も分布
 朝鮮半島南部から
 敦賀周辺へ渡来した人々が定着・・・
 「蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)」
 と同一視・・・の説も・・・
 ↓↑
 比売許曽神社(大阪府大阪市東成区・式内名神大社)
 比売語曽 社(大分県東国東郡姫島村)
 「天日槍」伝説と同一の神・・・
 「天日槍」    =「新羅王子」
 「都怒我阿羅斯等」=「大加羅王子」
 ↓↑
 「氣比神宮(福井県敦賀市)」
 「都怒我阿羅斯等」
 は敦賀の統治を任じられた・・・
 「氣比神宮」境内摂社の
 「角鹿神社(式内社)」
 はその政所跡で
 「都怒我阿羅斯等」が祭神
ー↓↑ーーーー
 江戸時代
 元服前の少年の髪型で
 角前髪(すみまえがみ)
↓↑
 出土品
 2号 人骨の角髪(みづら)
      口髭(くちひげ)
      顎髭(あごひげ)一括
 3号 人骨の頸飾玉類
      銀製帯状金具
 5号 人骨の頸飾玉類
      鉄柄付青銅製杓
      (てつえつきせいどうせいしゃく)
  銅製の本体
  鉄製の柄
  本体の縁は外に折り曲げられ
  口を有す
  片口の存在や底部の形態から
  「杓」・・・柄杓(ひしゃく)
      三累環頭大刀
     (さんるいかんとうのたち)
      銀装圭頭大刀
     (ぎんそうけいとうのたち)
 ↓↑
 地面に生る果実、ウリの実
 (説文解字・巻一)
 「木に在るを果と曰ひ
  地に在るを蓏と曰ふ
  艸に從ひ
  㼌に從ふ」
  木に生る実=果
  地面に生る実=蓏
 ↓↑
 段玉裁(説文解字注)
 〔斉民要術〕引用
 「艸に在るを蓏と曰ふ」とし
 「草の実のこと」
 蓏=草+㼌=ウリ科の実の総称
 ↓↑
 果蓏=木の実と草の実
 異体字「𠆁・𦽝」
 ↓↑
 佐魯那奇他(読み)さるなかた
 ・・・さるなきた=猿拿喜多
 「日本書紀」にみえる武人。
 顕宗(けんぞう)天皇3年
 任那(みまな)を拠点に
 三韓の王になろうとした
 紀大磐(きの-おいわ)に協力
 百済(くだら)
 の
 「適莫爾解(ちやくまくにげ)」
 を殺し
 帯山城をきずく
 百済王の軍に反撃され
 殺された
 ↓↑
 ?〜顕宗三年(487)
 5世紀末
 安羅(伽耶の一国
    韓国慶尚南道咸安)
 で活躍した倭人
 顕宗軍三(487)年
 「紀生磐」
 が
 「任那(安羅)」を拠点に
 三韓の王になろうとし
 「紀生磐」と共謀
 百済の
 「適莫爾解」を殺し
 帯山城(全羅北道泰仁)を築いた
 百済王が派遣した軍に攻められ
 「生磐」は城を放棄し
 「那奇他」は殺害された
 『日本書紀』引用
 『百済本記』が
 「加不至費直(河内直)」
 「韓腹」の
 「佐魯麻都」
 「阿賢移那斯」
 らの祖先と伝える
 「那干陀甲背=那奇他甲背」
 はこの
 「佐魯那奇他」と同一人で
 年代的に3人の祖父・・・
 ↓↑
 「阿賢 移那斯(あけ えなし)
 6世紀の官吏
 「安羅(あら)」におかれた
 「任那(みまな)日本府」
 の執事
 欽明天皇二年(541)
 新羅と通じ
 百済の招集に応じず
 佐魯麻都(さろ-まつ)
 らと百済主導の任那再興を妨害
 名は
 「延那斯」
 ともかく
 6世紀中ごろの
 倭系の
 安羅(伽耶の一国,韓国慶尚南道咸安)の人
 加不至費直(河内直)
 韓人との二世である
 「佐魯麻都」らと共に
 「佐魯那奇他(那奇他 甲背)」
 を共通の祖先とする
 新羅に内通し
 百済王(聖明王)の招集に応じなかった
 任那復興の妨げだという理由で
 百済王は
 排斥を欽明天皇に求めた
 安羅に置かれた
 「任那日本府」
 の執事として実務を担当し
 「佐魯麻都」と共に
 親新羅、反百済の立場に立って
 「安羅」と「新羅」との連携
 ↓↑
 414年
 高句麗が建立した
 広開土王碑文にある
 「任那加羅」が史料初見
 ↓↑
 中国
 梁国
 537年
 「蕭子顯」が編纂の
 「南齊書」によると
 加羅國
 三韓種也
 「建元元年」
 國王
 「荷知使」來獻。
 詔曰
 「量廣始登,遠夷洽化。
  加羅王
  荷知款關海外,奉贄東遐。
  可授輔國將軍、本國王。」
 と記録
 『日本書紀』では
 加羅と任那
 が併記される
 ↓↑
 中国の史書
 『宋書』で「任那、加羅」と併記
 『南斉書』、『梁書』
 660年
 『翰苑』
 801年
 『通典』
 『太平御覧』
 983年成立
 『冊府元亀』
 1013年成立
 同様の併記
 清代に編纂された
 『全唐文』にのみ
 「伽耶」の表記
 「加羅」
 「三国史記」
 新羅本紀の
 「奈解尼師今」
 六年(202年)条
 「伽耶」
 表記
 「三国史記」
 同14年(210年)条
 「加羅」と表記
 ↓↑
 『三国史記』
 『三国遺事』
 3世紀までは
 加羅諸国の神話・伝承を伝え
 農耕生産の普及
 支石墓を持った社会形態
 紀元前1世紀頃に
 部族集団が形成・・・
 1世紀中葉
 中国正史の
 『三国志』
 『後漢書』で
 「其(倭国?)の北岸」
 「倭の西北端の国」
 の
 『狗邪韓国』(慶尚南道金海市)
 弁韓諸国と呼ばれる
 小国家群が出現
 後に
 狗邪韓国(金官国)となる地域は
 弥生時代中期(前4、3世紀)以後
 従来の土器とは
 様式の全く異なる弥生式土器が急増
 後の
 狗邪韓国(金官国)に繋がる
 倭人が進出した結果
 首露王により建国されたとされる
 「金官国」が統合の中心
 4世紀初めに
 高句麗が勢力を拡張
 馬韓は
 百済に統合され
 弁韓の諸国は
 一体化することなく存続
 ↓↑
 加羅と関係の
 任那諸国
 6世紀
 百済や新羅の侵略
 西側諸国は
 百済へ倭から割譲
 或いは武力併合
 東側の諸国は
 新羅により滅ぼされていった
 512年に4県を
 倭が百済へ割譲
 532年に
 南部の金官国が新羅に滅ぼされ
 562年
 洛東江流域の
 任那諸国を新羅が滅ぼした。
 ↓↑
 高句麗の広開土王碑
 391年
 新羅や百済や加羅を
 倭の臣民とした
 高句麗は
 新羅の要請を受け
 400年
 5万の大軍を派遣
 新羅王都にいた倭軍を退却させ
 任那・加羅に迫った
 任那加羅の
 安羅軍などが逆をつき
 任那加羅の
 従抜城を守らせた
 ↓↑
 「前方後円墳」が
 朝鮮半島でも発見
 5世紀後半から6世紀中葉に成立
 百済が南遷する前は任那
 金官国を中心とする
 任那の最西部に存在
 円筒埴輪や南島産貝製品
 内部をベンガラで塗った石室
 倭系遺物
 遺構をともなう
 新羅・百済・任那で
 日本産の
 ヒスイ製勾玉が
 大量に出土(高句麗の旧領では稀)
 朝鮮半島には
 ヒスイ(硬玉)の原産地がなく
 東アジア地域においても
 日本とミャンマーに限られ
 化学組成の検査により
 朝鮮半島出土の勾玉が
 糸魚川周辺遺跡のものと同じ
 ↓↑
 辰韓諸国と弁韓諸国
 朝鮮半島南部
 洛東江下流地域
 紀元前5世紀〜紀元前4世紀
 無紋土器を用いる住民が定着
 農耕生活をしながら
 支石墓を築造
 青銅器を用いた文化を形成
 紀元前1世紀頃
 青銅器と鉄器文化を背景に
 社会統合
 慶尚北道の
 大邱・慶州地域に
 辰韓諸国が出現
 朝鮮半島南西部の
 弁韓地域に
 紀元前10世紀から
 黄海沿岸に位置する
 山東半島・遼西・遼東半島の物と
 類似した様式の土器や石器
 1世紀中頃
 社会統合
 弁韓諸国が登場
 鉄産地と海運
 ↓↑
 2世紀〜3世紀
 半島東南部の諸国は
 共通の文化基盤をもっていたが
 政治的には
 辰韓と弁韓に
 分けられ
 弁韓地域の多くの小国の中で
 一番優勢な勢力は
 金海市付近の
 金官国(狗邪韓国、駕洛国)
 任那の文化中心は
 金海・咸安を取り囲んだ
 慶尚南道海岸地帯
 ↓↑
 6世紀前半
 百済は南下
 半島南部まで影響力
 5世紀初頭
 高句麗は
 楽浪郡・帯方郡を征服
 新羅にまで勢力を及ぼす
 新羅も辰韓の盟主として
 独自の勢力
 ↓↑
 倭国と高句麗の戦争
 「好太王碑」
 「三韓征伐」
 4世紀末〜5世紀前半
 広開土王碑文
 391年
 倭が百済と新羅を破り臣民とする
 393年
 倭が新羅の王都を包囲
 三国史記で
 397年
 百済が倭国に
 「阿莘王」の王子
 「腆支」を人質に送り国交を結んだ
 高句麗に従属した百済が
 399年
 高句麗を裏切り
 倭と通じ
 400年
 倭が新羅の王都を攻撃
 高句麗
 広開土王
 新羅の要請に応じ軍を派遣
 倭軍を任那・加羅の従抜城に退かせ
 高句麗軍はこれを追撃
 三国史記では
 402年
 新羅も倭国に
 「奈勿尼師今」
 の子
 「未斯欣」
 を人質に送り国交を結ぶ
 404年
 高句麗領
 帯方界(帯方郡との境)
 にまで倭が攻め込んだ
 ↓↑
 405年
 倭国の人質
 百済王子の
 「腆支」が
 倭国の護衛により
 海中の島で待機し
 百済王として即位
 ↓↑
 日本書紀
 249年
 369年
 神功皇后49年3月条
 神功皇后が新羅へ親征服属
 三韓征伐
 将軍荒田別(あらたわけ)
 鹿我別(かがわけ)
 を派遣し
 比自㶱(ひじほ)
 南加羅
 㖨国(とくのくに)
 安羅(あら)
 多羅(たら)
 卓淳(たくじゅん)
 加羅(から)
 の七カ国を平定
 西方に軍を進め
 比利(ひり)
 辟中(へちゅう)
 布弥支(ほむき)
 半古(はんこ)
 の四つの邑を降伏させた
 ↓↑
 新羅は5世紀中頃
 高句麗の駐留軍を全滅させ
 高句麗の
 長寿王は南下政策を推進
 475年
 百済の首都
 漢城(ソウル特別市)を陷落
 百済は南下して
 統一された国の存在しない
 朝鮮半島南西部への進出を活発化
 新羅は
 秋風嶺を越えて
 西方に進出
 5世紀末
 百済の南下
 新羅の統合
 任那加羅のうち
 北部に位置する小国群は
 479年
 南斉に朝貢し
 〈輔国将軍・加羅王〉
 に冊封された
 ↓↑
 大加羅を中心に
 後期伽耶連盟は
 481年
 高句麗とそれに附属する
 濊貊
 の新羅侵入に対し
 百済と共に援兵を送った
 百済が倭に対し
 加羅西部の四県を割譲させ
 加羅諸国は
 百済と
 小白山脈を境界として
 険悪
 百済が
 卓淳国・多羅国
 などへ侵攻
 大加羅の
 異脳王は
 522年
 新羅の
 法興王に対して婚姻を申し入れ
 新羅との同盟を願ったが
 新羅は
 任那加羅諸国への侵攻を繰り返し
 532年
 任那の金官国が新羅に降伏
 任那加羅諸国は
 百済に救援を求め
 百済は
 安羅に駐屯
 新羅に備え
 聖王が主宰して
 任那加羅諸国の首長と
 倭の使臣との間による
 復興会議(任那復興会議)
 を開いたが
 百済自身が
 任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた
 任那加羅地域は
 新羅・百済の争奪戦に巻き込まれ
 百済が
 554年
 管山城の戦いで新羅に敗れ
 聖王が戦死
 562年
 大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ
 残る加羅諸国は
 新羅に併合

 金官国(駕洛国)
 金官国、
 駕洛国・金官加羅・任那加羅
 韓国慶尚南道金海市に有った
 『三国志』の
 狗邪韓国
 532年
 新羅の圧力で
 仇衡王(金仇亥)が
 降伏
 一族は新羅の首都
 金城(慶州市)に移り住んで
 食邑を与えられ
 新羅の貴族階級に組み入れられた
 金仇亥の曾孫
 金庾信
 が新羅の半島統一に大功
 金官国の王族
 金氏は
 新羅王家の
 慶州金氏と区別するために
 金官金氏(金海金氏)と呼ばれた
 ↓↑
 金庾信は
 首露王を祖先とする12世孫で
 金庾信碑には
 祖先は
 黄帝の子の
 少昊金天氏の後裔で
 金氏を名乗った
 ↓↑
 『南斉書』
 加羅国王
 荷知は
 高霊の加羅王
 嘉悉王に当たる・・・
ーーーーー
 ・・・???・・・
 ↓↑
 コジキ姫「壱与」・・・「壹與」
 カンジて赤い絨毯にのり
 空をカケメグル
  「古事記・字源」物語
http://web.archive.org/web/20090409083704/http://www1.odn.ne.jp/~haa98940/hime/hime77.htm


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