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2021年01月29日00:27

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01月29日の日記

今日の出来事:1520年−新庄の戦い、1598年−慶長の役:第一次蔚山城の戦い開始、1837年−竹島事件、1868年−戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦い(淀・千両松の戦い)、1943年−第二次世界大戦:レンネル島沖海戦

今日は、新庄の戦いです。越中は、紀伊・河内・越中守護の畠山尚順が兼ねていましたが、実際の統治は守護代の遊佐氏・神保氏・椎名氏に任されていました。射水・婦負郡守護代の神保慶宗は、越中・神保氏の最盛期を築いた神保長誠の子です。1501年、父・長誠の死後、内紛を経て神保家当主となりました。1506年に「加賀一向一揆」に敗退し、越後守護代・長尾能景を頼りました。長尾能景は、越中に来援して「寒江蓮台寺の戦い」で一揆勢を撃破しました。しかし、その後の神保慶宗は長尾軍に対して非協力的となり、「般若野の戦い」で長尾軍は一揆勢に敗北し、長尾能景は討死しました。このため、長尾能景の子・為景は神保慶宗の裏切りであるとし、以後の両家は度々合戦を繰り返す宿敵となりました。一方の慶宗は、本願寺坊官・下間氏との婚姻を進めるなどして一向一揆との和解を進め、守護・畠山氏から独立しようとしました。このため、1519年に畠山尚順は、同族の能登守護・畠山義総と長尾為景を誘って、猶子・畠山勝王(畠山義英の子)を主将とする神保慶宗征伐の軍を催しました。越中へ侵攻した長尾為景は、越後との国境であった境川で激突しました。「境川の戦い」で敗れた神保慶宗は、守山城に籠城して苦しい戦いを強いられましたが、能登・畠山軍を急襲して撃退し、窮地を脱しました。しかし、翌1520年1月に長尾為景は再び越中に侵攻しました。長尾為景は、新川郡の新庄に布陣しました。神保慶宗は、新川郡守護代・椎名慶胤を糾合して対峙しました。1月29日、両軍は新庄で衝突しました。この「新庄の戦い」で神保・椎名軍は壊滅し、数千人が討ち取られました。椎名慶胤は討死、神保慶宗は敗走中に自刃しました。こうして、長尾為景は「般若野の戦い」の復讐を果たし、畠山尚順から新川郡守護代に任ぜられました。

次に、慶長の役:第一次蔚山城の戦い開始です。「慶長の役」が始まると釜山周辺に布陣していた日本の諸軍は、明・朝鮮軍を破って全羅道・忠清道を進撃し、この二道を制覇しました。そして、次の任務である築城を開始するために、朝鮮南岸域に帰還しました。釜山周辺には、既に倭城群が築かれていましたが、新たに築かれる城はその外縁部に位置し、東から蔚山城、梁山城、昌原(馬山)城、唐島瀬戸口(見乃梁)城、固城城、泗川城、南海城、順天城の八城です。これら倭城群の最東端にあたる蔚山の地には、加藤清正が自ら縄張りを行い、毛利秀元、浅野幸長、加藤清正の軍勢が中心となり、蔚山倭城の築城を始めました。城地に選ばれた島山は蔚山湾の最奥で、南には太和江が流れていました。海のすぐ近くに位置し、城下には兵船を着岸させる事ができました。築城を急ぐ日本軍に対し、明・朝鮮では加藤清正を日本軍中で最強の武将とみなし、蔚山を攻めて加藤清正を捕らえたなら日本全軍の士気を挫く事ができると考えました。明将・楊鎬、麻貴らに率いられた明軍と都元帥・権慄が率いる朝鮮軍、合わせて約56900(うち朝鮮軍12500人)の兵を、建設中の蔚山倭城に差し向けました。蔚山倭城では突貫工事の後、40日程で完成目前となりました。築城が担当であった毛利秀元は兵糧・武具類を釜山に輸送し、蔚山を退去して帰国の準備に取り掛かっていました。加藤清正は西生浦に出張中で蔚山にはおらず、浅野幸長・太田一吉らが城外の仮営に駐屯していました。そこへ1月29日、明軍の先鋒・擺寨指揮の軽騎兵1000に急襲され、毛利家家臣・冷泉元満、阿曾沼元秀、都野家頼が討ち死にし、仮営が焼き払われました。当初、浅野幸長らは仮営からの銃声を白鳥狩をしていると思い込んだため、救援が遅れました。敵の襲来の報が入り浅野幸長、太田一吉が反撃に移りましたが擺寨が偽りの退却をし、浅野勢をおびき寄せると揚登山・李如梅らが三方から合撃したため、浅野勢は苦戦に陥りました。460余の戦死者を出し、太田一吉も負傷する激戦の後、蔚山城惣構内に撤退しました。こうして、蔚山城籠城戦が始まりました。

その次に、竹島事件です。竹島事件は、石見・浜田藩の松井松平家を舞台とした密貿易事件です。江戸時代、各藩が私的に外国と貿易する事は国法により禁止されていました。浜田藩御用商人の回船問屋・会津屋八右衛門は、借金に苦しむ藩財政を建て直すために密貿易を提案しました。これは、父・清助の船が難破して漂流しているところをオランダ船に助けられて、東南アジアを回って帰った事がきっかけでした。浜田藩は地の利を生かして鬱陵島(この頃、日本では「竹島」と呼んでいた)に渡り、李氏朝鮮と密交易を行いました。さらに、鬱陵島での朝鮮との交易だけに留まらず、スマトラ、ジャワなど遠くの東南アジアへまで足を伸ばして貿易を行いました。この密貿易には、浜田藩の国家老・岡田頼母、国年寄・松井図書も関与し、藩主で老中・松平康任も黙認を与えていました。目論見どおりに巨利を得て藩財政再建に成功しましたが、幕府隠密の間宮林蔵に密貿易を探知されて発覚してしまいました。間宮林蔵は、この後に九州に渡り、その帰途で大坂に立ち寄り、大坂町奉行・矢部定謙に浜田藩の動きに注意する事を伝えました。1836年、大坂町奉行の手によって岡田頼母の家臣で藩勘定方・橋本三兵衛と会津屋八右衛門が捕らえられ、1837年1月29日に処分が幕府より言い渡されました。岡田頼母と松井図書は切腹、橋本三兵衛と会津屋八右衛門は斬罪、また藩主・松平康任は死罪は免れましたが永蟄居を命じられました。次子・康爵に家督は許されましたが、間もなく陸奥・棚倉に懲罰的転封を命じられ、ここに松井松平家による浜田藩統治は終焉しました。松平康任の永蟄居については、「仙石騒動」も関わっています。年貢増徴や藩士の俸禄切り下げを行わずに、財政危機を救おうとした人物達として地元を中心に支持は根強く残っています。現在の韓国との「竹島領有問題」で、この時の尋問が注目されています。現在の鬱陵島を当時の日本では「竹島」と呼んでおり、現在の竹島を「松島」と呼んでいました。元禄時代の鬱陵島の領有問題「竹島一件」の結果、日本は鬱陵島への渡航を禁止しましたが、現在の韓国はこの時、松島(現在の竹島)も竹島(鬱陵島)と同時に放棄したと主張しています。しかし、「竹島事件」の判決文の中には、橋本三兵衛が会津屋八右衛門に対して「右最寄松島へ渡海之名目を以て竹島え渡り稼方見極上弥々益筋に有之ならば取計方も有之」と語った事が記されており、「竹島一件」後も松島(現在の竹島)への渡航は禁止されていなかった事が伺えます。現在の日本では、「竹島一件」で幕府が自ら放棄したのは竹島(鬱陵島)だけであった事が確認できるとされています。しかし、「朝鮮竹嶋渡航始末記」には、「竹島事件」の尋問中に会津屋八右衛門が書いた方角図が添付されており、「竹嶋」「松シマ」が朝鮮半島と同じ朱色で着色されています。そのため、韓国では当時の日本で松島(現在の竹島)が朝鮮領と認識されていた証拠であると主張しています。

その次の次に、戊辰戦争:鳥羽・伏見の戦い(淀・千両松の戦い)です。鳥取藩が新政府軍の一員として参加しました。鳥羽方面軍は薩摩藩4個中隊と一番砲兵隊・ニ番砲兵隊、長州藩の「整武隊」を主力として桂川に沿って南下し、前日の戦いで旧幕府軍に奪回された富ノ森陣地に攻めかかりました。しかし、この陣地を守る幕府歩兵隊、会津藩兵、桑名藩兵が善戦したため、一進一退の攻防が行われました。この激戦で薩摩藩城下士小銃六番隊隊長・市来勘兵衛が戦死しました。しかし、力尽きた旧幕府軍は富ノ森陣地を放棄して、後方の納所陣地に後退しました。富ノ森陣地を奪取した新政府軍は、納所陣地に攻めかかりました。旧幕府軍は納所陣地を捨て、淀小橋を渡ると淀城を目指して撤退しました。淀橋付近で、薩摩藩士・椎原小弥太が戦死しました。伏見方面軍は薩摩藩6個中隊と長州藩の「奇兵隊」、「振武隊」、鳥取藩兵を主力として宇治川に沿って進軍を開始し、淀城を目指しました。旧幕府軍は淀城北東の湿地帯・千両松にて、会津藩兵、「伝習隊」、「新選組」、「遊撃隊」が布陣して迎撃しようとしました。この千両松付近は湿地帯の為、旧幕府軍は各自が単独で攻撃を行いました。湿地帯のため、思うように行動の取れない新政府軍は、薩摩藩城下士小銃隊十二番隊隊長・伊集院与一、長州藩「奇兵隊」半隊司令・藤村英二郎、「振武隊」を率いる石川厚狭介が戦死する大打撃を受けました。しかし、長州藩「奇兵隊」軍監・福田侠平の指揮で、「奇兵隊」が突撃して橋頭堡を確保した事により、新政府軍が攻勢に移り、ついに旧幕府軍を撃破しました。この敗戦で会津藩兵の「別選隊」や「新選組」などは壊滅的な打撃を受けました。「別選隊」隊長・佐川官兵衛は、顔面を弾丸がかすめて目を負傷しました。山本八重の弟・三郎は銃撃をうけて負傷し、死亡しました。会津藩大砲隊頭・白井五郎太夫も戦死しました。「新選組」の六番隊組長・井上源三郎は、敵の銃弾を腹部に受けて戦死しました。「新選組」監察・山崎烝も重傷を負い、後に死亡します。この戦闘で「新選組」隊士の3分の1が戦死しました。この後、旧幕府軍は淀小橋を渡りました。新政府軍が追撃出来ないように、淀小橋を焼き落とした後、淀城に撤退しました。こうして、新政府軍の鳥羽方面軍・伏見方面軍は共に旧幕府軍を撃破して前進し、淀城の近くで合流後、淀城に向かいました。一方の旧幕府軍も、富ノ森・納所・千両松の各戦線で敗れた陣容を立て直す為、旧幕府軍の本営・淀城に向かいました。淀藩藩主・稲葉正邦は老中として江戸で政務を執っており不在でしたが、旧幕府軍の本営は淀城城下に設けられていました。しかし淀藩は、各地の戦いで旧幕府軍が敗れ、新政府軍に「錦の御旗」が翻ったのを見ると、旧幕府軍を裏切って新政府軍に恭順する事を決意しました。淀城に籠って新政府軍に反撃しようと、旧幕府軍は殺到しましたが、淀城は城門を閉ざして入城を拒否しました。この譜代の名門・淀藩の行為に旧幕府軍の将兵は激昂し、無理にでも入城を試みました。しかし、背後から新政府軍が迫って来たため、淀城を諦めて南方の男山と橋本陣地を目指して撤退しました。こうして木津川に掛かる淀大橋を渡った旧幕府軍は、新政府軍の追撃を阻む為に淀大橋を焼き落とすと、最終防衛線である男山から橋本に布陣しました。

最後に、第二次世界大戦:レンネル島沖海戦です。レンネル島沖海戦は、ソロモン諸島レンネル島沖で発生した海戦です。日本軍が航空攻撃でアメリカ軍の重巡洋艦「シカゴ」を撃沈しました。1943年1月29日、日本軍の偵察機がサンクリストバル島の南で、アメリカ艦隊(護衛空母2、重巡洋艦3、軽巡洋艦3、駆逐艦8)を発見しました。これはギフェン少将が指揮する、ガダルカナル島の交代要員を乗せた輸送船を護衛する艦隊でした。また、その後方には空母「エンタープライズ」、「サラトガ」を基幹とする艦隊が、援護のためにいましたが日本軍は発見できませんでした。敵艦隊を発見した日本軍は、ラバウル、バラレ、ブカ、ショートランドから触接機を発進させました。日本軍は、攻撃を太陽が没する直前の薄暮になるように、わざと時間を遅らせてラバウルから攻撃隊を発進させました。12時35分に第705航空隊の一式陸攻16機が、12時45分に第701航空隊の96式陸攻22機が発進しました。指揮官は701空飛行長・檜貝襄治少佐でした。日没後の17時19分、第705航空隊が攻撃を開始しましたが、戦果はなく対空砲火で1機を失いました。その後、触接機が照明弾を投下しました。17時40分、第701航空隊が攻撃を開始しました。この攻撃で重巡洋艦「シカゴ」に2本、「ルイビル」、「ウイチタ」に各1本の魚雷が命中しました。「シカゴ」は大破しましたが、「ルイビル」と「ウイチタ」に命中した魚雷は不発でした。日本軍は指揮官機を含む2機を失いました。翌日、日本軍は再びギフェン隊を発見し、ブカ島から第751航空隊の一式陸攻11機が発進しました。14時6分、攻撃隊はギフェン隊を発見し、攻撃を開始しました。空母「エンタープライズ」からの直援機などにより、攻撃隊は陸攻11機のうち7機が撃墜されましたが、損傷して曳航中の「シカゴ」に魚雷4本を命中させて撃沈、駆逐艦「ラ・ヴァレット」にも魚雷1本を命中させて大破させました。日本の大本営は戦艦2隻、巡洋艦2隻撃沈、戦艦1隻、巡洋艦1隻中破、戦闘機3機撃墜と発表しました。アメリカ軍は重巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破の損害を受けましたが、輸送船は無事にガダルカナル島に到着できました。日本軍もガダルカナル撤退を察知される事なく作戦目的を達成しました。

今日の誕生日:ウィリアム・マッキンリー(第25代アメリカ合衆国大統領)、北里柴三郎、アントン・チェーホフ、吉野作造、ちばあきお、毛利衛、テレサ・テン、石崎隆之、岡村孝子(あみん)、貞本義行、ドミニク・ハシェック、ロマーリオ、小野正利、hyde(L’Arc〜en〜Ciel)、山口素弘、呂比須ワグナー、伊東浩司、渡辺崇尉(元MOON CHILD)、濱口優(よゐこ)、大東めぐみ、栄喜(元SIAM SHADE)、宝生舞、松田千奈、田崎佑一(藤崎マーケット)、青木隆治、鈴木奈穂子、鈴木聡美、きゃりーぱみゅぱみゅ、平野紫耀(King&Prince)、向井地美音(AKB48)

今日の記念日:寒の土用丑の日、キン肉マンの日、タウン情報の日、人口調査記念日、滝隆一(スコッチ)刑事殉職

今日の「今日訓」:本日は、「夏の土用丑の日」に対して「寒の土用丑の日」、「キン(金曜日)と肉(29日)」の語呂合わせで「キン肉マンの日」、1973年に、日本初の地域情報誌「ながの情報」が発行された事で「タウン情報の日」、1872年に、日本初の全国戸籍調査が実施された事で「人口調査記念日」となりました。
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