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2021年01月20日18:22

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水戸黄門ゆかりの古墳の発掘・・・

 旧小川町(現那珂川町)から国道294号を北上して行くと、
 旧湯津上村佐良土(現大田原市佐良土)辺りで、綺麗な古墳が見えて来ます。
 これが下侍塚古墳と呼ばれる前方後方墳です。
 国道からは見えませんが、この近くにには上侍塚古墳など8基の古墳があります。
 この上侍塚古墳と下侍塚古墳は、
 水戸黄門で知られる徳川光圀が1692年(元禄5年)に発掘を命じた古墳です。

 1676年(延宝4年)に旧湯津上村で、那須野国造碑が発見されました。
 この碑は、689年に那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提(いで)の事績を
 息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものです。
 群馬県の多胡の碑、宮城県の多賀城碑とともに、日本の三古碑と呼ばれ、
 那須野国造碑は、国宝になっています。
 現在は、笠石神社の御神体になっていて、頼めば見る事が出来ます。
 碑の鞘堂は、光圀の命を受けた佐々宗淳が建設させたものです。
 佐々は「水戸黄門漫遊記」の佐々木助三郎のモデルになった人です。

 古墳のある所は、現在は栃木県ですが、その当時は水戸藩領でしたから、
 この碑の事は光圀に届けられました。
 光圀は、1691年(元禄4年)に隠居が認められ、西山荘に隠棲しましたが、
 その前から「大日本史」の編纂を始めているほどの歴史に興味がある人でしたから、
 上侍塚と下侍塚が、
 那須野国造の葦提と意志麻呂らと関係があると考え発掘を命じた訳です。
 徳川光圀の命により
 小口村(那珂川町小口)の庄屋・大金重貞らが発掘調査しましたが、
 関連を裏付ける墓誌などは発見できませんでした。
 鏡・鎧片・鉄刀片・土師器壷などの出土品は、絵図に記録した後に、
 松板製の箱に収め埋め戻されました。
 このため、この発掘は、日本考古学史上最初の学術的な発掘とされています。
 ちなみに、碑が作られたのは7世紀で、
 古墳は4世紀後半に築造されたと考えられていますので、
 直接的な関係はありません。

 また、墳丘の崩落を防ぐために松を植樹し、
 近隣住民に土地を与えて保全を命じました。
 現在も墳丘の松の木を守るために、
 秋に菰巻をし、春に取り外す様子が風物詩として報道されています。
 こうした近隣の方の保全整備によって、日本一美しい古墳とも呼ばれています。

 前置きが長くなりましたが、
 この2基の古墳を栃木県が再発掘する方針である事が昨日の下野新聞に載りました。
 本格的な発掘調査となると、結構な時間と経費が掛かります。
 当面、来年度は、3次元測量による図面の作成や、
 地中レーダーを使って出土品を埋め戻した場所の特定などを行って、
 今後の発掘の計画を策定する方針と報じられています。
 背景には、2019年に文化財保護法が改正され、
 文化財が地域資源として活用できるようになった事もあるようです。
 出土品の状況やその学術的な価値などの問題もありますが、
 展示出来るような物が見付かれば良いと思いました。


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