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2020年12月28日08:56

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キリシタン紀行 森本季子ー315 聖母の騎士社刊

紀州の秘境 龍神と教会ー28

維盛が護摩壇を焚いた故事によって、この山が護摩壇山と呼ばれるようになったという。
 彼が隠れ住んだ〈「御屋敷跡」と馬場がいまもその面影を残している〉と龍神では伝えている。
 口碑によれば、平維盛が小森渓谷上流のこの御屋敷で生涯を終えたことになっている。が、それを裏付けるものはない。仮りにそうであったとしても彼の生涯は短いものだったろう。ちなみに、日高郡の他の集落ー小森から山を隔てた山間ーにも”小松屋敷”と伝えられる所があるそうだ。
 日高川の水源は護摩壇山に発し、小森谷を流れ下る。幾つもの滝がかかり、淵がよどむ。その滝の一つが「衛門、嘉門の滝」と呼ばれている。維盛の郎党二人が主家再興の望みの絶えたことを嘆いて身を投じたという。
 これに龍神伝説はもう一つの裏話を加える。維盛の死後、恋人お万は、彼のために身を装った白粉と紅を滝つぼに棄て、自分も身を沈めた。白粉と紅を流した場所をそれぞれ白つぼの滝、赤つぼの滝と里人は呼ぶ。白つぼの岩は白く、赤つぼの岩が赤いのはお万の恨みが残っているからだと。
 小森から渓流づたいに上ると、まず白つぼ、少し上に赤つぼ、更に行くとお万が淵。「お屋敷跡」がその上流にある。お万が通いなれた山路を、白粉、紅と一つずつ棄て、維盛の住居に近い淵で生命を断ったという哀れな物語である。「お万ヶ淵」と今も呼ばれる。
 秋には紅葉の一きわ美しい渓谷である。
 維盛の弟・資盛が壇ノ浦で入水、と史書にはある。が、南海を落ちて奄美の加計呂麻島で生涯を終ったと島の口碑は伝える。しかも、それには信憑性がある、とされている。ならば、維盛の龍神伝説も、彼の性格から、ありそうに思えてくる。他方、「桜梅少将」とうたわれた貴公子、小松中将平維盛の最後としてはあまりに悲惨で、かえって那智入水説を信じてやりたい気もする。
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