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2020年12月11日00:36

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12月11日の日記

今日の出来事:1087年−後三年の役が終結、1637年−島原の乱が勃発、1944年−沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故、1994年−第一次チェチェン紛争勃発

今日は、後三年の役が終結です。後三年の役は、「前九年の役」の後、東北地方に覇を唱えていた清原氏が消滅し、奥州藤原氏が登場するきっかけとなった戦いです。東北地方は出羽国に清原氏、陸奥国に安倍氏という強大な豪族が勢力を誇っていました。しかし、陸奥国の安倍氏は陸奥国司と対立し、1062に「前九年の役」と呼ばれる12年間の戦いの末に滅亡しました。この時、戦役の最終局面で参戦して国司側戦勝の原動力となったのが、清原氏の清原武則です。その後、清原氏の当主は「前九年の役」の清原光頼から弟の武則の系統に遷り、武則を経て武則の息子の武貞、さらにその嫡子の真衡へと継承されました。清原武貞は「前九年の役」が終わった後、安倍氏一門の有力豪族の藤原経清(敗戦後に処刑)の妻を自らの妻としていました。この女性は「前九年の役」で戦死した安倍氏の当主・安倍頼時の娘で、藤原経清との間に生まれた息子がいました。この連れ子は清原武貞の養子となり、清原清衡と名乗りました。さらにその後、清原武貞とその女性の間に、清原氏と安倍氏の惣領家の血を引いた家衡が生まれました。清原武貞の死後、清原氏の惣領の地位を嗣いだ真衡でしたが、嫡男が生まれませんでした。そこで平氏の海道小太郎を養子に迎えました。これが清原成衡です。これで清原氏は桓武平氏との縁戚関係が出来ました。更に清原真衡は源氏との縁戚関係を目論み、1083年に常陸国から源頼義の娘を迎えて、成衡の嫁としました。成衡の婚礼の際、陸奥の真衡の館に出羽から「前九年の役」の功労者で清原一族の長老・吉彦秀武が祝いに訪れました。吉彦秀武は朱塗りの盆に砂金を盛って頭上に捧げ、甥である真衡の前にやってきましたが、真衡は碁に夢中になって秀武を無視しました。一族の長老としての面目を潰された吉彦秀武は大いに怒り、砂金を庭にぶちまけて出羽に帰ってしまいました。真衡は秀武の行為を聞いて激怒し、直ちに吉彦秀武討伐の軍を起こしました。一方の吉彦秀武は、同じく清原真衡と不仲であった家衡と清衡に密使を送って蜂起を促しました。2人は吉彦秀武に呼応して兵を進め、白鳥村を焼き払った後に真衡の館に迫りました。これを知った真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとした為、2人は決戦を避けて本拠地へと後退しました。家衡と清衡を戦わずして退けた真衡は、再び吉彦秀武を討とうと出撃の準備を始めました。しかし、源頼義の嫡男で成衡の妻の兄・源義家が陸奥守を拝命して陸奥国に入ったため、真衡は源義家を三日間に渡って国府で歓待し、その後に出羽に出撃しました。家衡と清衡は真衡の不在を好機と見て再び真衡の本拠地を攻撃しましたが、すでに備えをしていた真衡方が奮戦した上、陸奥守の源義家が真衡側に加勢したため、清衡・家衡は大敗を喫して源義家に降伏しました。ところが出羽に向かっていた真衡は行軍の途中で病のために急死してしまいました。真衡の死後、源義家は真衡の所領であった奥六郡を3郡ずつ清衡と家衡に分与しました。この時、清衡に和賀郡、江刺郡、胆沢郡を、家衡に岩手郡、紫波郡、稗貫郡が与えられました。ところが家衡はこの裁定を不満とし、1086年に清衡の館を攻撃しました。清衡の妻子一族はすべて殺されましたが清衡自身は生き延び、源義家の助力を得て家衡に対抗しました。清衡と源義家は沼柵(秋田県横手市雄物川町沼館)に籠もった家衡を攻撃しましたが、季節は冬で充分な攻城戦の用意が無かった清衡・義家連合軍は敗れ去りました。清原武貞の弟・清原武衡は家衡勝利の報を聞いて、家衡のもとに駆けつけ、家衡が源義家に勝ったのは武門の誉れとして喜び、難攻不落といわれる金沢柵(横手市金沢中野)に移る事を勧めました。1087年、義家・清衡軍は金沢柵に拠った家衡・武衡軍を攻めましたが、金沢柵を落とす事が出来ませんでした。この時、吉彦秀武が兵糧攻めを提案し、これによって糧食の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火を付けて敗走しました。武衡は近くの蛭藻沼に潜んでいるところを捕らえられて、斬首されました。家衡は下人に身をやつして逃亡を図りましたが、討ち取られました。こうして「後三年の役」の戦いが終わりました。朝廷は、この戦役を源義家の私戦とし、これに対する勧賞は行わず戦費の支払いも拒否しました。更に源義家は陸奥守を解任されました。源義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出しました。この事が関東での源氏の名声を高め、後の源頼朝による鎌倉幕府創建の礎となる事になります。戦役後、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れる事となりました。そして、実父・藤原経清の姓である「藤原」に復し、藤原清衡となりました。こうして「奥州藤原氏」が誕生し、清原氏の歴史は幕を閉じました。

次に、島原の乱が勃発です。島原の乱は、江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆で、幕末以前では最後の本格的な内戦となりました。松倉勝家が領する島原藩のある肥前島原半島と、寺沢堅高が領する唐津藩の飛地・肥後天草諸島の領民が、百姓の酷使や過重な年貢負担に窮し、さらに藩によるキリシタン(カトリック信徒)の迫害、更に飢饉の被害が加わって起こした反乱です。島原はキリシタン大名・有馬晴信の所領でキリスト教信仰が盛んでした。1614年に有馬氏が転封となり、代わって大和五条から松倉重政が入部しました。松倉重政は江戸城改築の公儀普請役を受けたり、独自にルソン島遠征を計画して先遣隊を派遣したり、島原城を新築したりしましたが、そのために領民から年貢を過重に取り立てました。また、厳しいキリシタン弾圧も開始し、年貢を納められない農民や改宗を拒んだキリシタンに対して残忍な拷問・処刑を行いました。次代の松倉勝家も重政の政治姿勢を継承し、過酷な取立てを行いました。天草は元はキリシタン大名・小西行長の領地で、「関ヶ原の戦い」の後に寺沢広高が入部し、次代の堅高の時代まで島原同様の圧政とキリシタン弾圧が行われました。過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化、密かに反乱計画を立てていました。肥後天草でも小西行長・佐々成政・加藤忠広の改易により、大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていました。島原・天草の一揆の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将として決起する事を決めました。1637年12月11日、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き、代官・林兵左衛門を殺害しました。ここに「島原の乱」が勃発しました。

その次に、沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故です。沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故は、沖縄県島尻郡南風原村の沖縄県営鉄道糸満線で発生した鉄道事故です。沖縄県に駐屯していた第9師団が台湾に転出した事に伴い、第24師団が代わりに駐屯する事になり、沖縄県営鉄道による兵員輸送が大規模に行なわれていました。1944年12月11日、兵員と武器弾薬を積んだ6両編成の列車が嘉手納駅を出発しました。途中の古波蔵駅で燃料補給して2両を増結し、通学の女学生も乗せて糸満駅に向けて発車しました。ところが、南風原村神里付近で突然列車が大爆発、積載の弾薬も次々と誘爆し、辺り一面火の海となりました。そして、乗っていた兵士や女学生や乗組員、合わせて約220人が犠牲となりました。この事故は、戦時下にあったために箝口令が布かれて、内密に処理されました。原因は今も不明となっています。

最後に、第一次チェチェン紛争勃発です。第一次チェチェン紛争は、1994年〜1996年にかけて、ロシア連邦からの独立を目指すチェチェン共和国独立派武装勢力と、それを阻止しようとするロシア連邦軍との間で発生した紛争です。1991年のソ連崩壊の直前、チェチェンでは元ソ連軍の将軍だったジョハル・ドゥダエフを大統領に選出しました。「ソ連連邦離脱法」を基に、一方的に独立を宣言しました。チェチェンの脱ロシア化に危機感を抱いたロシアのボリス・エリツィン大統領は、内務省治安維持部隊を派遣しました。首都・グロズヌイを制圧するため攻撃を開始しましたが、チェチェン軍の猛反撃に合って撤退を余儀なくされました。1994年12月、ロシア最大の外貨獲得資源である石油パイプラインの経路の一端を持つ、チェチェンの独立に更なる危機感を持ったロシア政府は、本格的な武力行使を開始しました。ロシア連邦軍はチェチェンに軍事侵攻しました。しかし、ロシア連邦軍はその圧倒的な軍事力にもかかわらず、ソ連崩壊後の混乱と軍事予算の削減によりソ連時代と比較して大幅に弱体化し、その脆弱ぶりを露呈する事となりました。更にグロズヌイへの空襲では多数の民間人の死傷者を出したため国際社会から非難が集中し、その非道さにイスラム諸国から多数の義勇兵(ムジャーヒディーン)が参集する結果となりました。これに対してチェチェンでは「アル=カーイダ」のメンバーとされるオマル・ハッダード司令官を中心に反撃し、「ジハード」の為に外国から参戦した「ムジャーヒディーン」と共に戦いました。アフガニスタンで訓練を施された「アル=カーイダ」の戦闘員は戦場での攻撃だけでなく、ロシア国内でのテロ攻撃も行って数百人の死者を出しました。ロシア連邦軍が広域に渡って支配権を回復した事で、ロシア側は1995年に一方的に休戦を宣言し、軍隊の撤退を始めました。1996年、エリツィン大統領はチェチェンの抵抗運動のリーダーたちと初めて会見しました。その後、多大の損害を出しながらもロシア軍はグロズヌイを制圧、掃討戦へと移行しました。そして、チェチェン側の指導者ドゥダエフが掃討戦の最中に、ロシア軍のロケット弾攻撃で戦死すると、双方の間で休戦条約が結ばれました。こうしてロシア軍は完全に撤退しました。この戦争で10万人の市民と、ロシア兵約5700人、チェチェン武装勢力17000人が死亡したと推定されています。しかし、その後も1998年にチェチェンのイスラム武装勢力がダゲスタン共和国に侵入を開始した事で、ロシア軍も軍事行動を開始し、チェチェン全土に空爆を行って20万人の難民が発生しました。2000年、ロシアでチェチェンの武装勢力と徹底対決を主張するウラジーミル・プーチンが大統領に就任すると、紛争は新たな段階へ移行します。「第二次チェチェン紛争」です。

今日の誕生日:足利義尚(室町幕府9代将軍)、狩野孝信、ロベルト・コッホ、東海林太郎、奈良本辰也、下川辰平、佐々淳行、山本富士子、小川真由美、北見けんいち、加賀まりこ、谷村新司(アリス)、秋本治、松宮一彦、原由子(サザンオールスターズ)、松井五郎、宮崎美子、井手らっきょ、田村直美、森若香織(元GO−BANGS’S)、保阪尚希、榊いずみ(橘いずみ)、林家三平(2代目)、小渕優子、黒谷友香、TENN(ET−KING)、白鳥久美子(たんぽぽ)、YOH(ORANGE RANGE)、嘉陽愛子、末吉秀太(AAA)、広瀬アリス、平井美葉(BEYOOOOONDS)、擬宝珠檸檬

今日の記念日:国際山の日、胃腸の日

今日の「今日訓」:本日は、2003年の国連総会で制定された国際デー「国際山の日」、「い(1)に(2)い(1)い(1)」の語呂合わせで「胃腸の日」となりました。
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