mixiユーザー(id:1762426)

2020年12月03日08:44

52 view

キリシタン紀行 森本季子ー297 聖母の騎士社刊


午後はホーガン師の予告通り雨が上がったので、私は外に出てすぐ前の柳瀬橋を渡った。川は不機嫌に濁り、岸辺の岩に噛み付き、脚柱にぶつかっては腹立たしげな音を立てていた。明治二十二年の大水害現場が上手の谷間に広がっている。柳瀬橋南ぎわ、左手木立の中に「明治廿二年水難慰霊碑」が苔むしてひっそりと立っていた。新しい水と花の供え物に、あの時の水害悲史が人々の心に今も生きていることが偲ばれる。
 この水害以前、つまり明治二十二年(一八九九)三月の町村制施行以前、この地域は更に小さく、安井村、上柳瀬村、下柳瀬村の三村に分かれていた。三村合併で中山路村となったが、中心は下柳瀬に置かれた。役場、警察、郵便局、小学校など、いずれも下柳瀬にあり、田辺、御坊方面へ通じる交通の要所でもあった。ところが水害以来、行政、文化の中心が一山向こうの上柳瀬に移ってしまった。その後に通じた県道(現村道)も、山崩れで地形の変化した下柳瀬を避けて、福井から柿硲(かきさこ)峠を越えて上柳瀬に行ってしまった。下柳瀬は全く取り残された場所となった。ここの子供たちは六地蔵峠を越え、徒歩一時間をかけて上柳瀬の小学校に通わねばならない。彼らは「柳瀬のセタン子」と呼ばれるようになった。セタン子とは「はずれの子」の意味で蔑称である。コンプレックスは人々を委縮させた。子供は学校の成績も下がり、運動面でも劣るようになった。青年には嫁の来手も無かったとさえ言われた。このような状態が、後に、カトリック教会誘致にも関係してくる。

●伊藤勇太郎さん
 最初にこの紀州の秘境とさえ言われる龍神地域に足を踏み入れた司祭は誰だったか。どんな理由が彼を日高川源流の山村に呼んだのだろう。
 昭和十年(一九三五)頃、上山路村・西に伊藤勇太郎という青年がいた。両親を早く亡くし、働いて自活していた。その頃村に電線の架線工事があり、勇太郎さんは仕事中の電柱から落ちた。これが原因で彼は結核性カリエスとなった。現在西の山本電気店主婦・山本キヨ子さんはこの青年のいとこに当たった。キヨ子さんの話によると、
 「勇太郎さんは今私たちの住んでいる場所にいたのです。私が十歳ぐらいの時でした。勇太郎さんは或る日、突然『四国巡礼に行く』と言って家を出ました」
 彼はまず和歌山市に行った。そこには遠縁にあたる大島仙吉氏が医院を開いていた。大島氏は非常に親切な人で、勇太郎さんの治療をし、よく世話をした。彼はしばらくここに身を置くこととなった。大島医院は屋形町のカトリック教会の近くにあり、氏は主任司祭の主治医でもあった。勇太郎青年もグリナン神父に近づく機会があり、教えを受けるようになった。その間にも病勢は悪化していった。グリナン師から授洗後、故郷で死にたいという病人の希望で、上山路の西に帰ってきた。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する