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2020年11月25日23:55

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11月に見た映画 寸評(5)

●『ヒルビリー・エレジー 郷愁の哀歌』(ロン・ハワード)
NETFLIXが製作した期間限定上映のロン・ハワード監督の新作。ウィキペディアによると、NETFLIXのCEOリード・ヘイスティングスは、同監督の『アポロ13』をレンタルビデオで借りた際、返却を忘れ、40ドルの延滞料金を払った経験からNETFLIXの母体となるオンラインDVDレンタルサービスを思いついたという。こういうのも一つの縁というのだろうか。
本作はJ・D・ヴァンスの同名ベストセラー本の映画化で、タイトルのhillbillyとは「田舎者」の意味で、蔑んだニュアンスがあるとのこと。
オハイオ州の貧しい白人労働者の家に生まれ育った主人公のJ・D(ガブリエル・バッソ)は苦学してエール大学を卒業し、将来弁護士になるための就活をしている。ようやく一流法律事務所の面接にこぎつけたとき、タイミング悪く田舎の母ベヴ(エイミー・アダムス)が麻薬中毒で入院した知らせが入ってきて、すぐに帰郷しなければならなくなる。まさに町山智浩が書名にした『USAカニバケツ』を地で行く話である。誰かが成功しようとすると、身内が足を引っ張る。
本作は、田舎に戻ってきたJ・Dが、良好な関係とは言えない母親ベヴと向き合う合間合間に、子ども〜少年時代の思い出を回想するという構成で進んでいく。このベヴがやっかい者の代表みたいな人物で、いつも情緒不安定ぎみ。子どもには手を上げるし、結婚も仕事も長く続かない。病院の看護師の職についたときに薬物に手を出し、ついには警察を呼ばなければならないほどの騒動を何度か起こしたりもする。演じたエイミー・アダムスが凄い。落ちくぼんだ目に、二十あご、髪の毛ボロボロ…女優としての美貌やチャーミングさをかなぐり捨て、見ているだけで嫌悪感を覚えさせるほどの毒親を見事に演じている。これを見れば『MOTHER/マザー』の長澤まさみなどまだまだだな、と思ってしまう。
当初はベヴのことを恥じて、婚約者に隠そうとしていたJ・Dだが、ベヴ以外の家族の記憶を手繰ることによって思い直す。それはとりわけ祖母(グレン・クローズ)との思い出が影響したものと思われる。祖母はベヴを育てるのに失敗したと長年後悔していたが、病に倒れ入院したときに、ベヴに出来なかったことをJ・Dにしてやろうと思い付き、彼を引き取る。そしてそれまでとは打って変わってJ・Dに対して厳しくしつけを始めたのである。祖母は言った。若い頃はうまくいかなかったことも今ならうまくできるような気がすると。実際それはJ・Dがエール大学に入学する形で成功したように思われる。
元々J・Dは就職の懇親会で母親のことを悪く言われたら相手に噛みつくほどベヴのことを愛していた。それは地元に対しても同じだ。世間でいくらホワイトトラッシュの住むド田舎だと言われても、ふるさとへの愛を捨てることはできない。J・Dは婚約者をベヴに紹介することを約束し、二人は和解する。最後、モーテルでJ・Dがベヴに「DON’T GIVE UP、MOM」と言ったのが印象的だった。愛しているからこそうまく伝えられないことがあっても、じっと辛抱強く相手と向き合えば、いつかちゃんと伝わるときがくる。諦めないことが大切だと祖母から教えられたのだ。
物語が終わって、登場人物たちのその後が文字で出る。ベヴは薬物中毒を克服し、看護師の免許を取り直して現在は普通に働いているそうだ。原作は「アメリカの繁栄から取り残された白人労働者層を知るための一冊」とかいう風に紹介されているが、映画はそれほど社会派的な視点は感じられなかった(単に私が無知なだけかもしれないが)。あるアメリカ一家の再生を力強く描いた、普遍的な家族ドラマという印象を受けた。
先にエミリー・アダムスの演技を褒めたが、祖母を演じたグレン・クローズがさらにまた良かった。元々巧い人だが、今回はモジャモジャパーマにメガネという一見クローズとわからない姿で、本当に田舎のおばあちゃんに成りきっていた(最後にモデルになった作者の祖母の写真が出てきて、実物に寄せていたことがわかる)。どちらかアカデミー賞に引っかかるのではないか。見ないともったいないと思う。
<シネマート心斎橋 劇場1 I−7にて鑑賞>

●『ホテルローヤル』(武正晴)
武正晴監督作では『百円の恋』がかなり良かったが、それ以降はあまり感心できるような作品はなく、今回はついに最低ラインまで来てしまった。
これ、まず演出がヒドい。タンゴ風の音楽がほぼ全編ひっきりなしに流れる。これがうるさい。特にしんみりさせる場面にしんみりした曲をかぶせるのは耐えられない。音楽以外でも、夜空の星がきれいだと余貴美子が言う場面で、実際に星空を見せたりする。この星がCGなのか、またチャチかった。見せずに演出するという発想がない。つまり観客の想像力を信用していないのだ。一事が万事この調子で、俳優にもみんなわかりやすい芝居ばかりさせる。特に安田顕などクサすぎて無残なことになっていた。
『嘘八百』はまだベタなコメディだったから許せたが、この映画はある程度のリアリティがないと人間味が出ないのではないか。例えば、正名僕蔵と内田慈の夫婦のくだり。会話に生活感があってリアリティあった。二人とも演技が巧く、役を引き受けた以上、ちゃんと裸にもなっているのでそれが成立している。この映画はそういう部分をもっと追及するべきであった。ところがヒロインの波瑠である。
クライマックスの松山ケンイチとの濡れ場だけど、あれはないよね。シミーズ姿になって、キスして、そこで寸止め。なんやねん、それ? いつも傍観者だったから…とか言っていたが、してへんねんから、傍観者のままやん! 「奥さんのこと考えたんでしょ?」「わたし傷つきました」。そら、そんなん言われたらケンイチも萎えるよ。自分で止めたんやろ。本気で不倫するつもりあるんか。なぜか大阪弁になってますが(笑)。そんなチャチい性愛経験を終え、感慨深げにホテルから去られてもなあ。まあ、最初から彼女は脱ぐわけないと思っていたけど…。それを別にしても、この映画の波瑠は始終おとなしく、本当にただそこにいるだけという役だった。何の魅力もない。今テレビでやっているドラマの、彼女の魅力の数分の一も引き出せていない。ミスキャストなのか、それとも単なる客寄せパンダなのか。
家族連れや中高生が主な客層である健全なシネマコンプレックスで、ラブホテルの盛衰および男女の性の営みを扱う本作の気概(誰の気概かは知らないけど)は買うが、肝心の中身がヒドくては客の不入りも補えない。
<TOHOシネマズ鳳 スクリーン8 I−3にて鑑賞>
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