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2020年11月24日00:16

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11月24日の日記

今日の出来事:1487年−駿河館襲撃、1859年−チャールズ・ダーウィンがイギリスで「種の起源」を出版、1863年−生野の変、1944年−日本本土空襲:B−29が東京を初爆撃

今日は、駿河館襲撃です。小鹿範満は、今川氏の庶家・小鹿範頼と堀越公方・足利政知の執事・上杉政憲の娘との間に生まれました。父・小鹿範頼(幼名・千代秋丸)は、第4代当主・今川範政の子でした。今川範政は、千代秋丸の家督継承を望みましたが兄・範忠と家督争いが発生しました。この争いの最中、1433年6月14日に今川範政は死去しました。家督は、幼少の千代秋丸が継ぐ事で鎌倉公方・足利持氏の干渉を恐れた足利義教の裁定によって、成人していた今川範忠が継承する事となりました。この時、狩野氏や富士氏など一部の反対派が足利持氏の支援を受けて蜂起しましたが、足利義教の支持を背景に鎮圧しました。このため、今川範忠は幕府に対する忠誠心が強く、関東の監視役を務めました。「永享の乱」や「結城合戦」では幕府方として参戦し、武功を挙げました。この功によって足利義教より、今川姓を範忠の子孫のみに許して同族庶流の使用を禁じる「天下一苗字」の恩賞が与えられました。以後、今川範忠の直系子孫を今川氏の宗家とする事が保障されました。これにより、分家の遠江・今川氏の範将は堀越氏を名乗りました。千代秋丸は駿府郊外の小鹿を領していた事から、小鹿範頼と称しました。1461年に今川範忠が死去し、子・義忠が今川家第6代当主になりました。1476年に今川義忠が「塩買坂の戦い」で討死し、義忠の嫡男・龍王丸(後の氏親)が幼少だった事で、譜代家臣の多くが小鹿範頼の子・範満の家督継承を支持しました。このため、龍王丸とその母・北川殿(北条早雲の姉)は法水長者の館(焼津市)へ逃れました。そして、小鹿範満支持派と龍王丸派が数度の合戦に及ぶ内乱状態となりました。この内乱に堀越公方・足利政知が介入し、小鹿範満の母方の祖父・上杉政憲に兵を率いさせて駿河国へ派遣しました。関東管領・上杉氏も扇谷上杉家の家宰・太田道灌を派遣しました。上杉政憲と太田道灌は小鹿範満を支持していました。関東管領の力が駿河に及ぶ事を警戒した幕府は、龍王丸の叔父・伊勢新九郎(後の北条早雲)を派遣しました。この伊勢新九郎の駿河下向時に、大道寺太郎、荒木兵庫、多目権兵衛・山中才四郎・荒川又次郎・在竹兵衛の仲間6人「御由緒六家」が伊勢で神水を酌み交わして、一人が大名になったら他の者は家臣になる誓い合いました。伊勢新九郎は、両派を仲介して龍王丸が成人するまで小鹿範満が家督を代行する事で和談を成立させ、上杉政憲と太田道灌を撤兵させました。小鹿範満は駿河館に入り、龍王丸は法水長者の館に身を寄せました。伊勢新九郎は龍王丸の将来の家督継承を確認するため、前将軍・足利義政の御内書を得ました。その後、龍王丸が15歳になって成人しても小鹿範満は家督を返そうとしなかったため、1487年に龍王丸の母・北川殿は京都で9代将軍・足利義尚に仕えていた伊勢新九郎に助けを要請しました。伊勢新九郎は再び駿河に下って同志を集めると、11月24日に駿河館を襲撃しました。小鹿範満は防戦しましたが、叶わずに弟・範慶と共に自害しました。龍王丸は駿河館に入り、元服して氏親と名乗って正式に今川家当主となりました。伊勢新九郎は、伊豆との国境に近い興国寺城(現・沼津市)に所領を与えられました。

次に、ダーウィンが「種の起源」を出版です。イギリスの自然科学者、チャールズ・ダーウィンは、全ての生物が共通の祖先から長い時間をかけて、自然進化した事を明らかにしました。エディンバラ大学で医学、ケンブリッジ大学でキリスト教神学を学び、自然史への興味を育くみました。5年にわたるビーグル号での航海は、彼をチャールズ・ライエルの「斉一説」を理論と観察によって支持した著名な地理学者として確立しました。また、その航海記は人気作家としての地位を固めました。ビーグル号航海で集めた野生動物と化石の地理的分布は彼を悩ませ、種の変化の調査へと導きました。そして、1838年に「自然選択説」を思い付きました。そのアイディアは親しい数人の博物学者と議論されましたが、より広範な研究に時間をかける必要があると考えました。理論を書き上げようとしていた1858年に、アルフレッド・ラッセル・ウォレスから同じアイディアを述べた小論を受け取りました。二人の小論は即座に共同発表されました。1859年の著書「種の起源」は自然の多様性のもっとも有力な科学的説明として進化の理論を確立しました。「人間の由来と性に関連した選択」、続く「人及び動物の表情について」では人類の進化と性選択について論じました。植物に関する研究は一連の書籍として出版され、最後の研究はミミズが土壌に与える影響について論じています。

その次に、生野の変です。生野の変は、1863年に但馬国生野(兵庫県生野町)で尊皇攘夷派が挙兵した事件です。「生野の乱」、「生野義挙」とも言います。平野国臣は福岡脱藩士で攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や真木和泉、清河八郎ら志士と親交をもち、討幕論を広めました。1862年、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかりますが「寺田屋事件」で失敗して投獄されました。出獄後の1863年、三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と「大和行幸」を画策しました。吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の「天誅組」は孝明天皇の「大和行幸」の魁になろうとし、前侍従・中山忠光を擁して大和国へ入り、五条代官所を襲撃して挙兵しました。代官所を占拠した「天誅組」は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めました。「天誅組の変・大和義挙」です。「天誅組」の過激な行動を危惧した公卿・三条実美は暴発を制止するため、平野国臣を五条へ送りました。その直後の8月18日、政局は一変しました。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、「大和行幸」の延期と長州藩の御門警護を解任した「八月十八日の政変」、情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人が追放された「七卿落ち」です。そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎が逗留し、但馬義兵を呼びかけていました。長州藩は自重しましたが、河上弥市は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向いました。長州藩の内紛「教法寺事件」の責任のため、奇兵隊初代総監・高杉晋作は謹慎中で、同じ大組士の家に生まれた河上弥市は高杉晋作の幼少の頃からの親友です。変事を知らない平野国臣は五条に到着すると、「天誅組」首脳と会って意気投合しました。その直後に、京で政局が一変してしまった事を知りました。平野国臣は巻き返しを図るため、大和国を去りました。「天誅組」は十津川郷士を募兵して1000人余の兵力になりましたが、装備は貧弱なものでした。高取城攻略を図って失敗し、周辺諸藩からの討伐を受けて敗退して壊滅しました。七卿の一人、公卿・沢宣嘉を主将とする一行は但馬に向かう途中で、京・四条木屋町の具足屋・大高又次郎のところで武器調達をしました。京の旅籠・花屋に宿泊していた但馬の原六郎らが、大和国から逃れてきた土佐の池内蔵太に会い、「天誅組壊滅」の話を聞きました。原六郎は播州へいき、「生野挙兵」を目指す一行へ情報をもたらしました。但馬国は小藩の豊岡藩、出石藩以外は天領が多くを占めていました。生野銀山が有名でしたが、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していました。生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱えていました。生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的で、攘夷の気風が強い所でした。薩摩脱藩・美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣晋太郎と連携し、農兵の組織化を図っていました。平野国臣は長州藩士・野村和作、鳥取藩士・松田正人らと共に但馬で声望の高い北垣晋太郎と結び、生野での挙兵を計画しました。但馬に入った平野国臣らは豪農・中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、長州三田尻に保護されている攘夷派・七卿の誰かを迎え、武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定しました。平野国臣と北垣晋太郎は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子・毛利定広を交えた会合を持ち、公卿・沢宣嘉を主将に迎える事を決めました。平野国臣と北垣晋太郎は沢宣嘉と共に三田尻を出立して船を用意し、河上弥市ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港しました。一行は播磨国に上陸後、生野の手前の延応寺に本陣を置きました。この時「天誅組壊滅」の報が入り、挙兵中止が議論されました。平野国臣と北垣晋太郎らは一旦挙兵を自重し、再度の時期到来を待つべきと主張しましたが、「天誅組」の復讐をすべしとの河上弥市ら強硬派が勝ち、挙兵は決行される事になりました。播磨口の番所は彼らを穏便に通し、生野に入りました。生野代官所は彼らの動きを当然察知していましたが、代官・川上猪太郎が出張中だったため、代官所を無抵抗で明け渡しました。平野国臣、北垣晋太郎らは「当役所」の名で沢宣嘉の告諭文を発して、天領一帯に募兵を呼びかけると、その日正午には2000人もの農民が生野の町に集まりました。「天誅組の変」の直後なため幕府側の動きは早く、代官所留守から通報を受けると豊岡藩、出石藩、姫路藩が動き、翌日には出石藩兵900人と姫路藩兵1000人が生野へ出動しました。これを見た主将・沢宣嘉が本陣から脱走したため、集まった農民たちは動揺しました。妙見山の妙見堂に布陣していた河上弥市は生野の町で闘死しようとしましたが、騙されたと怒った農民たちが「偽浪士」と罵って彼らに襲いかかりました。河上弥市ら13人の浪士は妙見山に戻って自刃しました。この13人が「生野十三烈士」と呼ばれています。美玉三平と中島太郎兵衛は農民に襲撃されて射殺されました。平野国臣は兵を解散させると鳥取へ向かいましたが豊岡藩兵に捕らえられ、京の六角獄舎へ送られます。その他の浪士たちも戦死、逃亡、捕縛されました。1864年の「禁門の変」の際に発生した火災「どんどん焼け」で、京都市中が延焼して六角獄舎に火が及びました。囚人が脱走して治安を乱す事を恐れた京都所司代配下の役人が、囚人の処刑を決断しました。平野国臣は、30名以上の囚人と共に斬首されました「六角牢の獄」。以下が生野十三烈士です。
生野十三烈士:河上弥市、井関英太郎、伊藤百合五郎、小田村信之進、久富豊、下瀬熊之進、白石廉作、長野熊之丞、西村清太郎、和田小伝次(以上長州藩士)、戸原卯橘(秋月藩士)、氷田左衛門、草我部某

最後に、日本本土空襲:B−29が東京を初爆撃です。日本本土空襲は、太平洋戦争末期、連合国軍のアメリカが日本各都市に対して行った空襲、戦略爆撃です。アメリカ軍による攻撃は、1944年末頃から熾烈となり、最終的には無差別爆撃(絨毯爆撃)として行われました。攻撃は、「B−29」に代表される攻撃機による爆撃のみではなく、機動部隊艦載機や硫黄島などから飛来する単発機による爆撃や機銃掃射という形でも行われました。また、航空戦力だけではなく、沿岸部の都市では「艦砲射撃」によって攻撃されたところもあります。1944年11月24日、マリアナの「B−29」による初空襲がありました。「B−29」111機が出撃し、途中故障で引き返した機を除いた88機が爆撃に参加しました。中島飛行機武蔵製作所(現在の武蔵野市)が目標でした。東京はこれ以後、計106回の空襲を受ける事になります。空襲は1945年8月15日の終戦当日まで続き、全国で200以上の都市が被災し、死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及びました。被災面積は約1億9100万坪(約6万4000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災しました。

今日の誕生日:ザカリー・テイラー(第12代アメリカ合衆国大統領)、劉少奇、清川虹子、加藤治子、森孝慈、未來貴子、古村比呂、yukihiro(L’Arc〜en〜Ciel)、木村明浩(バッファロー吾郎)、山本太郎、池内博之、山岸理子(つばきファクトリー)、七瀬美雪

今日の記念日:進化の日、オペラ記念日、鰹節の日、東京天文台設置記念日、和食の日、いい尿の日、思い出横丁の日

今日の「今日訓」:本日は、1859年にチャールズ・ダーウィンの「種の起源」の初版が刊行された事で「進化の日」、1894年11月24日、日本で初のオペラ上演となる、東京音楽学校(現東京芸術大学)奏楽堂でのオペラ「ファウスト」第1幕が上演された事で「オペラ記念日」、1921年11月24日に、東京都麻布区板倉に東京天文台(現・国立天文台)が設置された事で「東京天文台設置記念日」、1999年に火災が発生した事で「思い出横丁の日」、「い(1)い(1)ふ(2)し(4)」の語呂合せで「鰹節の日」、「いい(11)に(2)ほんしょ(4)く」の語呂合わせで「和食の日」、「11(いい)24(にょう)」の語呂合わせで「いい尿の日」となりました。
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