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2024年05月24日00:20

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05月24日の日記

今日の出来事:今日の出来事:1382年−小山義政の乱、1587年−九州征伐:根白坂の戦い、1592年−文禄の役が始まる(釜山鎮の戦い)、1821年−相馬大作事件、1866年−倉敷浅尾騒動、1868年−戊辰戦争:桑名藩家老・吉村権左衛門暗殺、市川・船橋戦争、請西藩主・林忠崇が脱藩、1869年−箱館戊辰戦争:第二次木古内の戦い、第一次二股口の戦い、1877年−西南戦争:紫原の戦い、1941年−第二次世界大戦:デンマーク海峡海戦

今日は、小山義政の乱です。小山義政は、「武蔵平一揆」に乗じて乱を起こした新田義宗の討伐に参加した室町幕府創設の功労者で、下野国守護に任ぜられて小山氏の全盛期を築いた武将です。豪族・宇都宮氏と覇権争いをし、遂に宇都宮基綱を敗死させました(裳原の戦い)。しかし、この事が鎌倉公方・足利氏満の不興を買い、鎌倉にて小山追討軍が催されて、追討を受けました。小山義政は鎌倉公方に降伏し、家督を子の若犬丸に譲って隠居しますが、体勢を立て直すと鎌倉公方に反旗を翻しました。小山義政の軍は、足利氏満の御教書により参集した関東・南東北地方の武家連合軍に追討されて敗退、小山義政は自害しました。その後、若犬丸が引き継いで抵抗を続けましたが、最後は自害して小山氏は滅亡しました(小山若犬丸の乱)。11代続いた小山氏の正系はこれで途絶えましたが、足利氏満は幕府創設に功のあった小山家の断絶を惜しみ、親縁にあたる結城基光の次男・泰朝を小山城に居城させて、家督相続を許しました。以降の小山氏は結城系統となりました。

次に、九州征伐:根白坂の戦いです。根白坂の戦いは、日向・根城坂で行なわれた豊臣秀吉軍と島津義久軍による合戦です。九州制覇を目指す島津義久は、1586年に豊後侵攻を開始しました。「戸次川の戦い」で豊臣・大友連合軍を撃破し、大友義統は豊前に逃亡しました。秀吉は1587年に「九州征伐」の大動員令を発し、畿内や中国・四国の諸大名による大軍を九州に派遣しました。豊前・豊後の土豪は島津氏を見限って豊臣氏に帰順し、肥前の龍造寺政家と鍋島直茂も豊臣氏に帰順しました。島津軍は戦況の不利を悟り、豊後から退却しました。その際に、4月23日に三梅峠で志賀親次、4月24日に梓峠で佐伯惟定が率いる大友軍の追撃を受けて、多くの犠牲を出しながら日向まで撤退しました。5月に入ると豊臣秀長が日向に侵攻し、6日には日向北部の要衝である松尾城が陥落しました。そして、日向南部の要衝・高城を包囲しました。しかし、高城は堅固で守将は島津軍の勇将・山田有信でした。秀吉は4月8日に大坂を出陣し、5月6日に豊前・小倉に着陣しました。秀吉は、島津氏に従属する筑前の秋月種実の支城・岩石城を8日に落としました。秋月種実は秀吉に各個撃破される事を恐れて支城・益富城を破却して、全軍で古処山城に立て籠もりました。しかし、秀吉が得意の築城術で破却したはずの益富城が修復され、ここを拠点に古処山城が攻撃された為、秋月種実は戦意を失って10日に降伏しました。その後、秀吉は17日に筑後へ侵攻し、23日に肥後・隈本、24日には宇土に進軍しました。この間、秀吉の勢威を恐れた諸国の土豪は、次々と降伏していきました。島津義久は豊臣秀長の軍勢に備える為に、薩摩・大隅などの軍勢の大半を日向・都於郡城に結集しました。その為、九州西側の守備は手薄となりました。この為、島津義久は高城を包囲する豊臣秀長の軍勢に決戦を挑みました。24日夜半、島津軍は根城坂を急襲しました。根城坂は高城の南側に位置する坂で、島津軍が救援する為に絶対に通らないといけないルートでした。その為、豊臣秀長や黒田官兵衛らも島津軍の後詰を警戒して根白坂の守備を固めていました。この時の両軍の兵力は、豊臣軍が8万、島津軍が3万5千でした。島津軍は大将・島津義弘が自ら前線に立って戦い奮戦しました。豊臣軍は宮部継潤らを中心にした1万の軍勢が、空堀や板塀などを用いて堅守した為、島津軍は突破できずに戦線は膠着状態に陥りました。豊臣秀長の本隊が救援に来ましたが、状況を見た軍監・尾藤知宣が救援は不可能と進言し、救援の中止を受け入れました。 しかし、豊臣秀長麾下・藤堂高虎の500名と宇喜多秀家の麾下・戸川達安の手勢で救援に向かいました。そして、小早川・黒田勢が挟撃をした為、島津軍は島津忠隣、猿渡信光が戦死するなど大きな損害を出して敗走しました。尾藤知宣は、この時の消極的な姿勢を秀吉に責められて追放、後に処刑されました。主力決戦に敗れた島津義久は戦意を失い、剃髪して「龍伯」と号した上で6月13日に豊臣秀吉に降伏しました。その後、「龍伯」が徹底抗戦をしようとした島津義弘や新納忠元らを説得して島津氏が完全に降伏したのは、7月上旬でした。

その次に、文禄の役が始まる(釜山鎮の戦い)です。豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄の役」、最初の戦いが「釜山鎮の戦い」です。豊臣秀吉は「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導」を命じました。しかし、明の冊封国であった李氏朝鮮にそのような意思は無く、命令は拒否されました。このため秀吉は明の前にまず朝鮮を征伐する事を決め、九州の大名に名護屋城築造を命じました。こうして、「文禄の役」が始まりました。第一陣の小西行長、宗義智、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前、五島純玄ら18700人が釜山に上陸しました。日本軍は最後通牒を朝鮮側に渡しましたが、返事はありませんでした。対馬の領主で朝鮮の事情に詳しかった宗義智の知識に基づいて、戦略が練られました。軍を分けて釜山の本城と多大鎮にある砦に、同時に攻撃をかけるというものでした。まず、宗義智は釜山城へ攻め入りました。一方、小西行長は多大鎮の砦の襲撃に向かいました。日本軍は火縄銃の援護を受けながら、城壁に梯子を掛けて攻め込み、朝鮮側の防衛を圧倒しました。宗義智による攻撃を受けた後、朝鮮軍は二次防衛線まで後退しました。朝鮮側の鄭撥は弓手を再編成して反撃しましたが、三次防衛線まで後退しました。数時間の戦闘の後、朝鮮軍は矢を使い果たし、日本軍も損害を受けたため部隊を再編成し、攻撃を再開しました。鄭撥が被弾して戦死すると、朝鮮兵の戦意が失われました。宗義智は釜山城内に攻め入りました。こうして釜山の朝鮮軍は全滅しました。この時から戦争が終結するまで、釜山は日本の輸送基地となり、海から釜山へ兵員や食料を輸送し続ける事になります。

その次の次に、相馬大作事件です。藩石高の再検討により、弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩8万石を超えました。盛岡藩は、主家の家臣筋・格下だと思っていた弘前藩が上の地位となった事に納得できませんでした。盛岡藩士・下斗米秀之進は、弘前藩主・津軽寧親に果たし状を送って辞官隠居を勧め、それが聞き入れられない時には「悔辱の怨を報じ申すべく候」と暗殺を伝えました。これを無視した津軽寧親を暗殺する為、参勤交代を終えて江戸から帰国の途についていた津軽寧親を秋田藩の白沢村岩抜山付近で、陸中国鹿角郡花輪の関良助ら門弟4人と、大砲や鉄砲で銃撃しようと待ち構えていました。しかし、仲間の密告によって津軽寧親は日本海沿いの別の道を通って弘前藩に帰還し、暗殺は失敗しました。暗殺の失敗により下斗米秀之進は「相馬大作」と名前を変えて、盛岡藩に迷惑がかからないように江戸に隠れ住みました。しかし、幕吏(実は弘前藩用人・笠原八郎兵衛)に捕らえられ、千住小塚原の刑場で獄門の刑に処せられました。享年34でした。門弟の関良助も小塚原の刑場で処刑されました。一方、津軽寧親は藩に帰還後、体調を崩しました。そして、参勤交代の道筋を許可もなく変更した事を幕府に咎められました。この為、津軽寧親は幕府に隠居の届けを出しました。こうして、下斗米秀之進の目的は達成されました。当時の江戸市民はこの事件を「赤穂浪士」の再来と騒ぎ立てました。

そのまた次に、倉敷浅尾騒動です。倉敷浅尾騒動は、長州藩「第二奇兵隊」の幹部・立石孫一郎が率いる脱走した約100人が倉敷代官所を焼払い、総社浅尾藩の陣屋を襲撃した事件です。「第二奇兵隊脱隊事件」とも言います。1866年5月24日早暁、強雨の中を襲撃しました。代官所襲撃の目標は代官の誅殺でしたが、代官・桜井久之介は広島に出張中で不在でした。幕府の上級武士はいち早く逃亡し、代官所に踏みとどまった長谷川仙介、小松原芳太郎、三島定太郎、川崎治昌、山川正之、大沢八郎、松蔵、きよ、お志代の9名が死亡しました。 襲撃後、立石孫一郎ら襲撃部隊は総社に向い、宝福寺に宿営しました。その後。浅尾藩陣屋に到着した襲撃部隊は、郡会所と観蔵寺に放火しました。さらに、藩士宅などに火を放ちました。浅尾藩の陣屋内は大混乱に陥りました。浅尾藩は大砲3発を発射しましたが、生存者の全員が陣屋から逃げ去りました。浅尾藩陣屋襲撃後、襲撃部隊は高梁川河口付近で休憩中に、広島から派遣された幕府軍の銃撃を受けて潰走し、長州藩領へ逃げ帰りました。立石孫一郎は隊士の助命嘆願工作中に潜伏先で殺害され、脱走隊士の多くが藩政府により捕縛され、処刑されました。

そのまた次の次に、戊辰戦争:桑名藩家老・吉村権左衛門暗殺です。桑名藩主・松平定敬は、会津藩主・松平容保の弟です。1864年に、兄・容保が「京都守護職」に就任、1864年に松平定敬が「京都所司代」に任命され、共に京都の治安と西国の監視監督を勤めました。「鳥羽・伏見の戦い」で会津・桑名の藩兵が主力となって薩摩・長州と激突しました。新居良次郎が奮戦しましたが、実力を発揮できずに敗れました。松平定敬は大坂城まで撤退しましたが、徳川慶喜が単身で関東への敵前逃亡を図ると、命令で同行する事を余儀なくされました。桑名本国では薩摩討伐の命令が届けられ、出陣の準備を進めていました。しかし、「鳥羽・伏見の戦い」での敗戦と藩主の江戸脱出が知らされると大混乱となりました。留守を守る筆頭家老・酒井孫八郎は、15歳以上の藩士及び隠居に総登城を命じて今後の対応策を協議しました。その結果、新政府軍へ恭順・開城する「恭順論」、開城して全藩士が江戸の松平定敬に合流して今後を決定する「開城東下論」、新政府軍に抗戦して籠城を辞さない「守戦論」の三案が出されました。そして、酒井孫八郎が藩祖の神前で籤を引き、それに従う事になりました。その結果、「開城東下論」に決しました。しかし、守戦や恭順を唱える者は納得しませんでした。下士の1人・矢田半左衛門は同志を集めて、先代・定猷の実子・定教(万之助)を第5代藩主として擁立して恭順する決議をまとめて、酒井孫八郎ら重臣達に突きつけました。他の恭順派も同様の要請を行い、守戦派もこれに対抗する意見を出しました。そこに桑名藩が朝敵に指定された報が入ると、議論は恭順論に一気に傾いたのでした「神前籤引き騒動」。新政府に降る事を潔しとしない30名ほどが脱藩して松平定敬の下に走りました。酒井孫八郎は、東海道軍参謀の薩摩藩・海江田信義と交渉を行いました。その結果、松平定教と重臣、「鳥羽・伏見の戦い」に参戦して桑名藩に帰還した者を連れて、四日市の東海道鎮撫総督・橋本実梁の下に出頭する事になりました。2月16日に松平定教以下が出頭すると、城明け渡しと全藩士が城外の寺院で謹慎する事が命じられ、その保証の為に光明寺に幽閉される事になりました。酒井孫八郎は藩存続の為に受け入れ、桑名城は2月21日無血開城となりました。徳川慶喜に見捨てられた松平定敬は、飛び地の越後・柏崎に入って兄の容保と共に抗戦の意を固めました。松平定敬は、会津藩や越後・長岡藩の河井継之助らと攻守同盟を結びました。桑名藩は会津藩など旧幕府軍と共同して、立見鑑三郎など一部の藩士が関東各地を転戦して奮戦しました。桑名城と領地は尾張藩の管理下に置かれ、酒井孫八郎以下の重臣から足軽に至るまで在桑名の藩士771名が、城下の8か所の寺院に収容されて謹慎する事になりました。柏崎では家老・吉村権左衛門が恭順派として強い権勢を誇っていました。吉村権左衛門は、藩祖・松平定綱が5000石で招いた吉村又左衛門の子孫で、江戸詰家老です。吉村権左衛門は、松平定敬から主戦派の山脇十左衛門を遠ざけました。松平定敬は、吉村権左衛門が柏崎の全藩士を連れて桑名に戻って恭順しようとする計画を知ると、山脇隼太郎と高木貞作に暗殺を命じました。吉村権左衛門は、柏崎陣屋の裏門から勝願寺へ向かう為、裏道の粟嶋小路を付き人と歩いていた所を襲われました。二人は、会津藩へ逃亡しました。会津には、山脇隼太郎の父である軍事奉行・山脇十左衛門がいました。山脇十左衛門は、松浦秀八、町田老之丞、立見鑑三郎、馬場三九郎、大平九左衛門、河合□三郎らと共に柏崎へ急行すると、藩論を主戦に覆しました。こうして、柏崎の桑名藩兵は主戦派が実権を握り、山脇十左衛門や立見鑑三郎が中心人物となって「雷神隊」など4隊が結成される事になります。隊の指揮官は投票で選抜しました。この桑名軍は旧幕府軍最強としてその名を轟かせ、旧態依然とした家老らを排除して能力優先の革新的な軍隊となるのです。以下が桑名藩の編成です。
総督・服部半蔵(軍事総宰)
軍事方・山脇十左衛門(軍事奉行)
「雷神隊」隊長・立見鑑三郎、副長・富永太兵衛、以下75名
「致人隊」隊長・松浦秀八、副長・馬場三九郎、以下65名
「神風隊」隊長・町田老之丞、副長・大平九左衛、以下57名
「大砲隊」師範役頭・梶川弥左衛門、師範役・三木十左衛門、首藤金右衛門、以下47名
器械方取締・高松源五左衛門

さらに次に、戊辰戦争:市川・船橋戦争です。江戸城の新政府への明け渡しと前将軍・徳川慶喜の水戸藩預かり・蟄居が決定すると、これに不満を抱く旧幕府の将は江戸を脱出しました。榎本武揚は海軍を率いて館山に入り、大鳥圭介は陸軍を率いて市川に入り、福田道直は新制歩兵隊である「撒兵隊」を率いて木更津に入りました。
船橋の戦い:江戸城開城の翌日に「撒兵隊」2000を率いて木更津に着いた福田道直は、大鳥圭介が市川の国府台にいるとの報を受けて、江原鋳三郎の第1大隊に兵300を与えて中山法華経寺に派遣しました。第2大隊・第3大隊の兵600を船橋大神宮に派遣して「撒兵隊」の本営としました。しかし、新選組副長・土方歳三が大鳥圭介と合流し、流山で局長・近藤勇が新政府軍に捕らえられた事を知ると、日光山で会津藩と連携して新政府軍に抵抗する作戦に変更しました。「撒兵隊」が木更津に入った時には、既に全軍が市川から離れて北に向かっていました。大鳥圭介が北に逃れたと聞いた新政府軍には、「撒兵隊」の出現は予想外でした。新政府軍は市川・国府台近くの弘法寺に本陣を置いて、行徳に福岡藩100人、八幡に岡山藩100人、鎌ケ谷に佐土原藩200人、本陣のある市川には安濃津藩400が配備されました。岡山藩と武装解除の交渉が続けられ、武装解除に応じなければ攻撃を開始すると最後通告をしますが、これを拒否しました。そして、この日「撒兵隊」は八幡の岡山藩陣地を攻撃しました。不意を突かれた岡山藩兵は大混乱に陥りました。安濃津藩の援軍が駆けつけて砲撃を仕掛けましたが、岡山・安濃津藩軍は総崩れとなって市川で大砲2門を奪われました。急を聞いて岡山藩の増援と安濃津藩・薩摩藩の援軍が駆けつけると戦況は一転、「撒兵隊」は八幡・中山を放棄して船橋に撤収しようとしました。一方、鎌ケ谷にいた佐土原藩軍は八幡方面からの砲声を、岡山・安濃津藩が「撒兵隊」に攻撃を仕掛けたと勘違いをして、船橋方面に進軍しようとしました。途中、佐土原藩軍を待ち受けていた「撒兵隊」の別働隊と衝突しました。「撒兵隊」を駆逐した佐土原藩軍は船橋に突入しました。船橋大神宮の西に大砲を設置し、別働隊を南側と北側に配置して砲撃と同時に大神宮へ攻撃を仕掛けました。佐土原藩軍と「撒兵隊」は大神宮の北側にある「宮坂」で衝突し、激しい戦いが繰り広げられましたが、船橋大神宮が砲弾の直撃を受けて炎上したため総崩れとなりました。
海神の戦い:その頃、行徳を出た福岡藩軍は薩摩藩の援軍の力を借りて船橋の入り口にあたる海神に進出し、中山と船橋の連絡を遮断しました。これを知らずに船橋に撤退しようとしていた市川・中山方面からの「撒兵隊」は挟み撃ちに遭ってしまい潰走、負傷した隊長・江原鋳三郎が取り残されました。更に船橋の街中で「撒兵隊」の残党が抵抗を続けた為、佐土原藩軍は船橋に火を放ちました。これが先の大神宮の火災と折からの強風が重なって予想以上の大火災となり、船橋を構成する3村で814軒が焼失しました。こうして新政府軍は船橋を制圧しました。その後、江原鋳三郎は江戸に逃れて新政府側に投降し、新しく徳川家の当主となった徳川家達に仕えて静岡藩に下向します。後に「江原素六」と改名して政治家・教育者として名を残す事になります。こうして「戊辰戦争」は南関東でも開始されました。

さらに次の次に、戊辰戦争:請西藩主・林忠崇が脱藩です。1866年11月28日、講武所師範や奥詰幕臣らによる銃撃隊の再編成によって「遊撃隊」が結成されました。槍術家の高橋泥舟や剣客の榊原鍵吉などが頭取を務めました。「戊辰戦争」では抗戦派と恭順派で意見が分かれ、抗戦派がさらに二派に別れました。一隊は、村越三郎が率いて「彰義隊」と行動を共にしました。もう一隊は、伊庭八郎、人見勝太郎、岡田斧吉、本山小太郎ら36名から成り、榎本武揚艦隊の協力を得て江戸を脱出しました。「遊撃隊」は、木更津に上陸すると請西藩主・林忠崇に協力を要請しました。「遊撃隊」による助力要請に接した林忠崇は、旧幕府側に与する事を決意しました。真武根陣屋から59人の藩士を連れて、自ら脱藩して浪人となって「遊撃隊」に合流しました。新政府軍との抗戦が徳川家に累が及ばないようにと、前代未聞の藩主が脱藩という行為となりました。こうして、「脱藩大名」が誕生しました。これを聞きつけた11名の藩士も加わり、計70人が脱藩しました。新政府は藩主自らの脱藩を反逆と見なし、林家は改易処分となります。林忠崇らと「遊撃隊」は、前橋藩の飛び地・富津陣屋を攻撃する構えを見せました。強談判の結果、軍資金、武器、食料を調達しました。富津陣屋を守備していたのは、小河原(左宮)政徳でした。小河原左宮は旧幕府軍の撤退を求めましたが、逆に旧幕府軍は富津陣屋と台場を武器ごと明け渡すよう要求しました。富津陣屋には少数の藩兵しかいなかった為、やむを得ず小河原左宮は奉行・白井宣左衛門に兵士を託して富津陣屋を無血開城し、その場で全責任を負って自害して果てました。ところが後日、これが「前橋藩は旧幕府軍と内通していた」という噂となって新政府側に伝わりました。前橋藩は新政府から厳しい問責を受けます。これを知った白井宣左衛門は、全責任を負うとして自害して果てました。これにより、新政府は前橋藩の行為についてを不問としました。前橋藩では小河原左宮と白井宣左衛門は、藩と藩兵を救う為に犠牲になった者として後々まで敬まわれました。また、富津では陣屋城下を無用な戦火から救った両名の英断を称え、今日でも毎年塔婆をたてて供養が行われています。

さらにまた次に、箱館戊辰戦争:第二次木古内の戦い、第一次二股口の戦いです。
第二次木古内の戦い:松岡四郎次郎の「一聯隊」 、伊庭八郎の「遊撃隊」は、新政府軍と戦闘を行ないました。しかし、敗退して湯の岱まで後退しました。
第一次二股口の戦い:乙部に上陸した新政府軍1500名は、3つのルートから箱館へ向けて進軍を開始しました。そのうちの一つ二股口は箱館へ至る最短路で、稲倉石から二股を抜けて大野村に至る峠越えのルートでした。二股を抜ける為には谷を穿つ大野川沿いの道を進み、川が二又に分かれる地点で渡河、そしてその正面の台場山を越えるか、迂回するかしなければなりませんでした。新政府軍は、軍監・駒井政五郎が松前・長州藩兵からなる500の兵を率いて、このルートを進撃しました。迎え撃つ旧幕府軍は、陸軍奉行並・土方歳三が「衝鋒隊」2個小隊と「伝習歩兵隊」2個小隊などからなる300の兵を率いて二股に到着すると、台場山に本陣を置きました。土方歳三は、天狗山を前衛として台場山周辺の要地に16箇所の胸壁を構築し、新政府軍を待ち構えました。1869年5月24日午後3時、江差から進軍してきた新政府軍は天狗山を攻略し、そのまま台場山本陣に対して攻撃を開始しました。旧幕府軍は胸壁を盾に小銃で防戦し、熾烈な銃撃戦が展開されました。数で勝る新政府軍は、次々と兵を入替えて攻撃を繰り返しました。迎え撃つ旧幕府軍も2小隊ずつが交替で休憩をとりながら、小銃を撃ち続けました。日没頃から雨が降り出すと、旧幕府軍は弾薬が濡れないように上着を掛けて守り、雷管が湿ると懐に入れて乾かしました。翌25日午前7時頃、銃弾を撃ちつくした新政府軍は疲労困憊して、稲倉石まで撤退しました。16時間に及んだ戦闘で、旧幕府軍は3万5000発の弾丸を消費しました。戦闘が終わると、土方歳三は報告と援軍要請の為に五稜郭へ向かいました。
新政府軍は、陸軍参謀・黒田清隆が率いる第2軍、2800名が江差へ上陸しました。旧幕府軍は、仙台藩を脱藩した二関源治が率いる「見国隊」400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されました。

さらにまた次の次に、西南戦争:紫原の戦いです。別働第1旅団と別働第3旅団は大挙攻勢に出て、涙橋付近で交戦しました。一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩摩軍を敗走させました。しかし、逆襲した薩摩軍と壮烈な白兵戦が展開されましたが、夕方に暴風雨となりました。これに乗じた政府軍の猛攻に弾薬が乏しくなった薩摩軍は耐えきれず、吉野に退却しました。この紫原方面の戦闘は鹿児島方面で行なわれた最大の激戦で、政府軍211名、薩摩軍66名の死傷者を出しました。翌25日、第4旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から「別府隊」・「振武隊十番中隊」の背後を攻撃し、吉野へ追い落としました。26日に第4旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃すると、薩摩軍は抵抗することなく川上地方へ退却しました。

最後に、第二次世界大戦:デンマーク海峡海戦です。第二次世界大戦中の1941年5月24日、イギリス海軍とドイツ海軍の間で行われた海戦です。通商破壊の為に大西洋に進出しようとするドイツ戦隊と、それを阻止しようとするイギリス戦隊によって戦われ、ドイツ側が勝利しました。イギリス戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「フッド」は、通商破壊作戦の為に北大西洋に出撃しようとするドイツ戦艦「ビスマルク」と重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」をデンマーク海峡に迎撃しました。イギリス艦隊が砲撃を開始して10分足らずで、「ビスマルク」の砲弾が「フッド」の後部弾薬庫付近に命中しました。「フッド」は爆発し、3分もかからずに沈没しました。ホランド中将をはじめ、1415人が運命を共にしました。生存者はわずか3人でした。「プリンス・オブ・ウェールズ」は「ビスマルク」と交戦し続けましたが、主機の深刻な故障に悩まされていました。これに戦闘の被害が加わって主砲の大半が使えなくなった為、戦闘から離脱せざるを得なくなりました。「ビスマルク」も作戦行動は十分に行えたものの損害を受けていた為、「プリンス・オブ・ウェールズ」の追撃は諦めて、「プリンツ・オイゲン」とともに大西洋に向かいました。

今日の誕生日:ヴィクトリア女王、横溝正史、南部忠平、川島芳子、藤間紫、加藤武、ボブ・ディラン、小沢一郎、田村亮、さいふうめい、哀川翔(元一世風靡セピア)、古賀森男(元レベッカ)、小林聡美、上杉昇(元WANDS)、河相我聞、白鳥雪之丞(氣志團)、山下健二郎(三代目J Soul Brothers)、藤澤五月、瀬戸大也、一ノ瀬美空(乃木坂46)、松野おそ松、松野カラ松、松野チョロ松、松野一松、松野十四松、松野トド松

今日の記念日:ゴルフ場記念日、伊達巻の日

今日の「今日訓」:本日は、日本で初のゴルフ場「神戸ゴルフ倶楽部」がオープンした事で「ゴルフ場記念日」、戦国の武将として名高い伊達政宗の命日を由来として「伊達巻の日」となりました。
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