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2020年11月17日00:15

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11月17日の日記

今日の出来事:1183年−源平合戦:水島の戦い、1558年−イングランド女王メアリー1世が死去し、妹のエリザベス1世が即位、エリザベス朝が始まる、1796年−ナポレオン戦争・イタリア戦役:アルコレの戦い、フランス軍がイタリアでオーストリアを破る、1855年−デイヴィッド・リヴィングストンがヨーロッパ人で初めてモシ・オ・トゥニャ滝に到達し、ヴィクトリアの滝と命名、1864年−元治の獄、1965年−プロ野球の第1回ドラフト会議が開かれる、1990年−長崎県の雲仙普賢岳の山頂部で水蒸気爆発が起こり、198年ぶりに噴火

今日は、源平合戦:水島の戦いです。当時、平氏の拠点は讃岐の屋島にありました。平氏を追討するため、源義仲軍は都を出発して屋島方面へ進軍しましたが、四国へ渡海する前に備中国・水島付近で平氏軍に敗れました。源義仲軍を率いていたのは、義仲の部将・足利義清、海野幸広でした。平氏は、軍船同士をつなぎ合わせ、船上に板を渡す事により、陣を構築しました。源平両軍の船舶が接近し、互いに刀を鞘から抜いて、今にも白兵戦を始めようかという時、平氏の射手が源義仲軍へ矢を浴びせかけて戦闘が開始されました。平氏軍は船に装備された馬を同乗させており、その軍馬とともに海岸まで泳いで上陸しました。最終的に平氏軍は勝利し、源義仲軍は足利義清、海野幸広の両大将と足利義長(義清の弟)、高梨高信といった諸将を失い壊滅、京都へ敗走する事となりました。この勝利により平氏軍は勢力を回復し、再入京を企て摂津・福原まで戻り、「一ノ谷の戦い」を迎える事となります。

次に、ナポレオン戦争:アルコレの戦いです。「フランス革命戦争」の戦闘の1つです。北イタリア(当時はオーストリアが実効支配)のヴェローナに程近いアルコレ沼沢地周辺で、ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍が、アルヴィンツィが率いるオーストリア(神聖ローマ帝国)軍を破りました。ヴェローナ東方地域での戦闘で深刻な損害を受け、ヴェローナ市とアディジェ川を通過して撤退したナポレオンは、一旦後退するとアディジェ川南岸を前進して、以前から知っていた浮橋を架けられる場所に向かいました。その対岸は軍隊が入り込めない沼沢地であり、それはアディジェ川および北から合流するアルポーネ川とよばれる小さな支流の堤防上の歩道でしか、軍隊が行動できないという事を意味していました。ナポレオンの計画は、アディジェ川の北岸に橋頭堡を築き、そこから歩道に沿って西に若干の部隊を送る事によって、オーストリア軍主力を食い止めるというものでした。歩道が狭いため、オーストリア軍はその数の優位を生かせないと考えられました。ナポレオン軍の残りは歩道を東に向かい、アルポーネ川に沿って北に折れる事になっていました。アルポーネ川に沿って1マイル先にアルコレの村に渡れる橋があり、それを渡れば北に伸びるオーストリア軍の連絡線を遮断する事ができました。しかし、オーストリア軍はアルポーネ川の東岸に整列し、橋を渡るフランス軍を縦射する事ができたため、フランス側にとってアルコレ橋を奪うどころか、近づく事さえも難しい事でした。フランス兵の大部分は銃火を避けるため歩道の陰に伏せるしかありませんでした。その時、ナポレオンが自ら軍旗を持ち、部下の擲弾兵を率いて突撃しました。これが「ナポレオン伝説」の重要な一瞬となり、絵画にも描かれています。ナポレオンのまわりにいた者たちが何人も死に、あるいは負傷しました。フランス軍は何とか橋を渡る事ができました。激しい戦闘がさらに続いた後、ナポレオンとその将軍たちはようやくオーストリアの守備隊を追い払い、アルポーネ川を横切ってアルコレに渡る事ができました。

その次に、デイヴィッド・リヴィングストンが、ヴィクトリアの滝を命名です。「ヴィクトリアの滝」は、ジンバブエ共和国とザンビア共和国の国境にある滝で、ユネスコの世界遺産に登録されています。イギリスの宣教師で探検家でもあるデイヴィッド・リヴィングストンによって、ヨーロッパ人として初めて見出されました。落差と幅の両面から見た滝の規模としては、「イグアスの滝」と並んで世界最大です。デイヴィッド・リヴィングストンが1852年から1856年にかけてザンベジ川の上流から河口にかけて探検し、1855年にヨーロッパ人として初めてこの滝を目にしました。彼はこの滝を見て非常に感銘し、「イギリスにある、いかなる物からも、この美しさを想像する事はできません。ヨーロッパの人々がかつて目にした事のないものです。でも、飛んでいる天使達の目にはこのすばらしい光景が見えていたに違いありません。」と記しています。そして、イギリスのヴィクトリア女王に因んで「ヴィクトリアの滝」と名付けました。

その次の次に、元治の獄です。1864年、加賀藩嫡子・前田斉泰は、藩主・前田慶寧に代わって上洛しました。御所の警備にあたっていましたが、「禁門の変」で長州藩と幕府の斡旋を試みましたが失敗し、病を理由に近江国・海津に退京して居ました。このため、長州に内通した疑いを受けました。このため、前田慶寧により、幕命に背いて御所の警備を放棄したとして金沢で謹慎を命じられました。9月11日、勤王派の家老・松平大弐が自刃させられました。さらに、前田慶寧と親密な関係にあった勤王派の藩士達を、城代家老・本多政均と協力して徹底的に弾圧しました。勤王派の藩士達が捕えられ、投獄されました。藩士・広瀬政敏が獄死し、11月17日に大野木仲三郎、千秋順之助、青木新三郎、不破富太郎、福岡惣助、小川幸三が処刑されました。1866年に前田斉泰は、藩主に就任します。こうして、加賀藩の勤王派の主要人物がいなくなり、「明治維新」に乗り遅れる事になります。勤王派に対する厳し過ぎる処分により、彼らの恨みを買う事になった本多政均は、1869年に金沢城二の丸御殿で井口義平、山辺沖太郎に暗殺されます。

最後に、長崎県の雲仙普賢岳の山頂部で水蒸気爆発が起こり、198年ぶりに噴火です。現在の「平成新山」を形成した噴火活動は、1989年11月からの橘湾群発地震から始まりました。11月17日に198年ぶりに噴火し、それ以降噴煙活動が観測されました。最初の噴火は2つの噴火孔より熱水の吹き上げと雲煙を認めるのみでした。12月には小康状態になって道路の通行止めなども解除になり、そのまま終息するかと思われましたが、1991年2月12日に再噴火、さらに4月3日、4月9日と噴火を拡大していきました。5月15日には降り積もった火山灰などによる最初の土石流が発生、さらに噴火口西側に多数の東西方向に延びる亀裂が入り、マグマの上昇が予想されました。5月20日に地獄跡火口から溶岩の噴出が確認されましたが、粘性が高かったため火口周辺に溶岩ドームが形成されました。溶岩ドームは桃状に成長し、やがて自重によって4つに崩壊しました。溶岩ドーム下の噴火穴からは絶え間なく溶岩が供給され、山頂から溶岩が垂れ下がる状態になり、形成された順番に第1−第13ローブと命名されました。溶岩ドームの崩壊は、新しく供給されるマグマに押し出されたドームが斜面に崩落する事により発生し、破片が火山ガスとともに山体を時速100kmものスピードで流れ下る火砕流(メラピ型火砕流)と呼ばれる現象を引き起こしました。6月3日の「雲仙大火砕流」では、43名の死者行方不明者を出しました。噴火活動は途中、一時的な休止をはさみつつ1995年3月頃まで継続しました。火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された噴火活動です。

今日の誕生日:ルイ18世、イサム・ノグチ、本田宗一郎、ロック・ハドソン、納谷悟朗、井川比佐志、山口崇、内田裕也、星ルイス(元星セント・ルイス)、佐々木隆(元カシオペア)、小野みゆき、岡田圭右(ますだおかだ)、大浦龍宇一、木村一八、城島茂(TOKIO)、ユンソナ、堂珍嘉邦(CHEMISTRY)、DJ KATSU(Hilcrhyme)、佐藤めぐみ、亀田興毅、ゆめっち(3時のヒロイン)、シャア・アズナブル(キャスバル・レム・ダイクン)、凄苦残念(元・法条正義)

今日の記念日:国際学生の日、肺がん撲滅デー、将棋の日、島原防災の日、蓮根の日

今日の「今日訓」:本日は、1939年11月17日にチェコスロバキアに侵攻していたドイツ軍が学生のデモ行進を鎮圧し、教授2人と学生9人を殺害しました。1942年のこの日に、ワシントンに世界各国の学生の代表が集まってその犠牲者を追悼し、この日を記念日とする事を宣言した「国際学生の日」、アメリカで11月第3週が「たばこ警告週間」となっている事で「肺がん撲滅デー」、将棋好きであった江戸幕府八代将軍・徳川吉宗が毎年11月17日を「お城将棋の日」とし、御城将棋を開催していた事から「将棋の日」、1990年に雲仙普賢岳が噴火した事により「島原防災の日」、1994年のこの日に、茨城県土浦市で全国の蓮根産地が集まって開催された「蓮根サミット」で、この日を記念日とする事が決められた「蓮根の日」となりました。
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