mixiユーザー(id:48382454)

2020年11月16日00:07

37 view

11月16日の日記

今日の出来事:1569年−三増峠の戦い、1934年−昭和天皇誤導事件、1972年−世界遺産条約がユネスコ総会で採択、1984年−世田谷ケーブル火災発生、1997年−ジョホールバルの歓喜:サッカー日本代表が、W杯フランス大会のアジア第3代表決定戦に勝利し、W杯初出場

今日は、三増峠の戦いです。甲斐・武田氏と相模・北条氏は武田信虎・北条氏綱の時代より、甲斐都留郡で抗争を続けていましたが、両者は和睦して「甲相同盟」が結ばれました。これに、駿河・今川氏と同盟を結んで「甲相駿三国同盟」の締結され、武田氏は信濃侵攻を行って越後・長尾景虎(後の上杉謙信)と抗争、北条氏は北関東侵攻を行って越後・上杉氏と抗争し、共に上杉氏に対抗していました。1568年、武田氏の信濃侵攻は5回の「川中島の戦い」を契機に収束し、方針を転換して同盟を破棄して駿河・今川領国への「駿河侵攻」を行いました。武田氏の「駿河侵攻」によって「甲相同盟」は破綻、北条氏は上杉氏と「越相同盟」を締結して武田氏に対抗しました。翌1569年に北条氏政は駿河・薩埵峠へ着陣し、興津で武田勢と対峙しました。10月4日に武田信玄は2万の軍勢を率いて甲府を出立し、滝山城などの北条方の拠点を攻撃した後、11月9日には北条氏康の小田原城を包囲しました。武田軍は、3度にわたって挑発しましたが、北条軍は小田原城を出る事はありませんでした。武田軍は、包囲を開始して4日後の11月9日に城下に火を放つと軍勢を引き上げました。北条氏は後詰めであった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢2万が要所である三増峠(相模原市緑区根小屋〜 愛甲郡愛川町三増)に着陣し、甲斐に帰国しようとする武田軍に対して戦端を開きました。さらに北条氏政が2万余りを率いて、北条氏照・氏邦の部隊と武田軍を挟撃して殲滅する作戦でした。11月10日には、武田軍と北条軍が対陣する事になりました。北条氏政の本隊は到着前でしたが、北条氏照・氏邦の部隊は先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとしました。これを察知した武田信玄は部隊を3隊に分けました。北条軍の攻撃を正面に受けながら、他の2部隊は山中に隠れて北条軍を横から急襲する作戦でした。11月12日に両軍は本格的な交戦を開始し、緒戦は北条軍有利に合戦は経過しました。武田軍は損害を受け、北条綱成が指揮する鉄砲隊の銃撃によって左翼・浅利信種や浦野重秀が討死しました。しかし、志田峠の山県昌景が率いる別働隊が、高所から奇襲に出ると戦況は一気に武田軍に傾きました。北条軍は背後の津久井城守備隊・内藤隊などの予備戦力が、武田軍別働隊に抑えられて救援に出られなかった事で、大きな被害を受けました。古河公方・足利義氏の重臣・豊前山城守が討死しました。浅利信種が討死した左翼は、軍監・曽根昌世が代わりに指揮をとって北条綱成の軍勢を押し戻しました。緒戦では苦戦しましたが、最終的には武田軍の勝利となりました。 小田原から追撃してきた北条氏政の本隊2万は敗戦を聞いて進軍を停止しました。武田信玄は、軍勢を反畑(相模原市緑区)まで移動させると、勝ち鬨を挙げました。その後、武田軍は甲斐に撤退しました。

次に、昭和天皇誤導事件です。1934年11月16日、昭和天皇臨席のもと陸軍大演習が群馬県の高崎練兵場で行われました。観兵式に出席した後、昭和天皇一行が群馬県桐生市を視察する事になっていました。予定された視察順序は「桐生駅、桐生西小、桐生高工」となっていました。地元住民は「現人神」である天皇を迎えるために1年前から予行演習を重ね、出迎える際はひざまづくようにと指示されていました。こうした非日常の光景の中、先導役の本多重平警部は、左折すべき末広町交差点を直進する過失を犯してしまいました。そのため、視察の順序は桐生高工、桐生西小と逆になり、先に昭和天皇が訪問するはずだった桐生西小では、天皇御一行が行方不明になったと大騒ぎになりました。順序を間違った原因は、前日に緊張の中で昭和天皇一行を前橋市で先導していた本多警部が、桐生市で先導役の予定であった者が体調不良で辞退したため、代役で行ったものでした。そのため本多警部は、事前の下見を行っていなかった桐生市内でも先導する事になりました。しかし、昭和天皇を歓迎するための群衆で賑わう沿道の光景から、非日常の世界が広がっていたために幻惑され、予定で曲がるはずだった交差点で先導者の運転手をはじめ、本多警部も、もう1人の警部も、直進して当然だと思いました。そのため、先導車の運転手が間違いに気付いたのはかなり後になってからで、天皇一行の車も近づいており引き返せないため、本多警部は直進を命令しました。この前代未聞の過失に対して、関係者が処分される事になりました。事件後、当事者の1人である本多重平は自宅謹慎していましたが、県当局は自決を心配して部下2人を監視に付かせていました。しかし2日後、昭和天皇一行を乗せたお召し列車が前橋駅を出発する時刻が迫った時、本多重平は部下や家人を見送りに行けと命じました。その間に、列車が駅を出発した汽笛と共に日本刀で喉を突いて自決を図りました。しかし、日本刀を素手で持っていたため、指が切れて突く力が弱くなり、一命を取り止めました。この事は天皇一行にも「警部が責任を取り、自決した」と報告されました。自決を図った事については、「よくぞ責任を取ってくれた」と賞賛する声が挙がりました。本多重平は一命を取り止めたものの後遺症は重大で、舌の筋肉が切断されたため、会話に支障が出る状態になり、食道と気道が癒着してしまい、食事をするのも難しい状態になりました。彼は全国からの賞賛の声に励まされ、「もう1度天皇陛下のために生きる」決心をしました。警察の出世コースからは外れましたが、国立療養所事務長などを歴任し、1946年まで公職を務めました。1945年、日本の降伏により「太平洋戦争」は終結しました。昭和天皇が「人間宣言」を発し、戦前のような軍服姿ではなく、背広姿で日本各地を視察する姿を見て、本多重平は「武士道は必要なくなった」、「もう世を捨てた」と漏らしました。晩年は郷里で農業に従事し、1960年5月22日に68歳で死去しました。

その次に、世界遺産条約がユネスコ総会で採択です。世界遺産条約は、顕著な普遍的価値を有する文化遺産及び自然遺産の保護を目的とし、パリで開かれた「第17回会期国際連合教育科学文化機関(UNESCO)総会(議長萩原徹)」において、1972年11月16日に採択された国際条約です。正式名称は「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」です。文化遺産および自然遺産が、衰亡という理由のみではなく破壊や損傷といった危険にさらされている事に留意し、これらの重要性を明記し、保護を国際社会全体の任務としています。締約国には、全人類に普遍的な価値を持つ遺産の保護・保存における国際的援助体制の確立、将来の世代への伝達を義務付けています。また、世界遺産リストの作成や登録された遺産保護支援を行う「世界遺産委員会」の設置や、締約国からの拠出金や贈与などを資金とした「世界遺産基金」の設立を明記しています。1973年にアメリカが最初に条約を批准し、1975年に加盟国が20か国を超え発効を迎えました。1978年には40か国以上が加盟するに至りました。日本は1992年6月30日に125番目の締約国として受諾書を寄託し、9月30日に発効しました。これは国内での態勢が未整備だったためとされていますが、「世界遺産基金」の分担金拠出などに関する議論が決着しなかったためと言われています。2015年の「第39回世界遺産委員会」終了時点での締約国は191か国です。

最後に、世田谷ケーブル火災発生です。1984年11月16日金曜日午前11時50分頃、東京都世田谷区太子堂4丁目の日本電信電話公社(電電公社)世田谷電報電話局近くの洞道で、増設工事中の電話ケーブルより出火しました。17時間近くにわたり延焼し、翌日午前4時37分に鎮火しました。作業員2名が一時行方不明となりましたが、死傷者は出ませんでした。当時、同局と三宿交差点付近との間で電話回線の増設工事をしていました。ケーブルを保護する鉛管をトーチランプで溶かす作業で、ランプの炎がポリエチレン製のケーブル被覆や、詰め物や敷物として使用していたウエスに引火した事が原因とみられています。現場付近には、2400回線を一束とする直径6cmの加入者ケーブル52本と、中継ケーブル35本、計87本のケーブルが通っていました。この火災により、世田谷電話局管内の加入電話約8万9千回線、管内の公衆電話、一部の警察電話、区内池尻にコンピュータ事務センターを置く三菱銀行のオンラインが不通となりました。三軒茶屋に東京事務センターを置く大和銀行の東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県の61の支店で一時窓口での預金・ATMでの引き出しが出来なくなったほか、第一勧業銀行、山種証券の一部支店や世田谷区・狛江市内の郵便局にも影響が生じました。近隣の狛江・成城・砧・弦巻の各電話局管内でも電話がかかりにくい状況が続きました。119番や110番などでの緊急通報もできなくなったため、消防では火の見櫓を活用したり、市民が直接交番に出向いて警察の出動要請を行うなどの事態となりました。三菱銀行はマイクロ波中継車を用意し、17日朝に仮復旧しました。電電公社では臨時公衆電話の設置や、被災地域外からの電話内容のメモを被災地内の相手方に配達する「伝言飛脚」を実施しました。弦巻電話局では、通常の土曜日は400〜500通を扱う電報が、17日土曜日は4400通となるなど、電報の扱いも急増しました。郵政省では、世田谷区・目黒区内へのダイレクトメールを除く通常郵便物を速達郵便扱いとする措置を講じました。世田谷区役所は札幌市内(市外局番011)に臨時に設けた番号から通信衛星で電話を転送する措置をとりました。玉川通りでは通常は車両の通行量を感知して点滅間隔を調整する信号制御を行っていましたが、復旧までの間は等間隔での点滅となりました。11月20日、三菱銀行のオンラインが完全復旧し、夜9時に世田谷電話局に隣接する加入電話398回線が初めて本復旧しました。そして11月25日、電電公社の真藤恒総裁は「11月24日午後9時50分までに全加入者を対象としたテスト作業を完了した」と完全復旧を宣言しました。

今日の誕生日:田中光顕、来生たかお、オール巨人(オール阪神・巨人)、國村隼、二谷友里恵、五十嵐いづみ、内田有紀、西村博之、村井美樹、小島よしお、K、西山茉希、千紗(元GIRL NEXT DOOR)、紗栄子、宮下兼史鷹(宮下草薙)、河西智美(元AKB48)、新田真剣佑、佐藤詩織(元欅坂46)、谷本安美(つばきファクトリー)

今日の記念日:国際寛容デー、幼稚園記念日、いいいろ塗装の日、自然薯の日、ぞうさんの日、源流の日、いいビール飲みの日、いいいろの日

今日の「今日訓」:1876年11月16日、東京・神田に日本初の官立幼稚園・東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)が開園した事で「幼稚園記念日」、1995年の「ユネスコ総会」で「寛容原則宣言」と「国連寛容年のためのフォローアップ計画」が採択された事で「国際寛容デー」、山口県周南市で「絵本と物語のある街」の創立日(2010年11月16日)と童謡「ぞうさん」などで知られる作詞家・まどみちおの故郷で誕生日(1909年11月16日)である事から「ぞうさんの日」、2014年に奈良県で「全国豊かな海づくり大会」が開催された事で「源流の日」、「いい(11)いろ(16)」の語呂合わせで「いいいろの日」、「いいいろ塗装の日」、「いい(11)いも(16)」の語呂合わせで「自然薯の日」、「いい(11)ビール(16)」の呂合わせで「いいビール飲みの日」となりました。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する