mixiユーザー(id:453082)

2020年11月08日23:13

39 view

10月に見た映画 寸評(4)

●『TENET テネット』(クリストファー・ノーラン)
物語自体はトム・クルーズの『ミッション・インポッシブル』シリーズとかとそんなに変わらない気がするが、難解だ、難解だとの声が聞こえるのは、時間の逆行の仕組みとか決まりがよくわからないからだろう。私も告白しておくけど、こんなの一度でわかるわけあるかいや!
いや、ノーランの、映像的にこういうことがやりたかったという野心はわかる。過去に戻るというのは、本当は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』みたいになるんじゃなくて、ビデオの逆転再生の映像の中を進むような感じになるんじゃないかなあ、ということでしょ。吸い込む空気すら、同じ時間の空気は吸えないからというので酸素ボンベまで咥えて行動しなければならなかったりする。しかし、そこまでこだわるわりには、最後のクルーザーの上でのケネス・ブラナーとエリザベス・デビッキとのやりとりは酸素ボンベなしで、会話も普通にやっているんだけど、これってノーランどうなのよ? え、私がバカ? それでもいいけど(笑)。他にもよくわからん矛盾がいろいろあるような気がするが、ちゃんと理屈が通っているのかなあ、と思う。
あと、ノーランっていつもノーCG、ノーデジタル、フィルム撮影を売り物にして、いかにも映画原理主義者みたいに言われているけど、今回は70ミリIMAXフィルムでしか撮らなかったせいで、普通のシネコンで見たときは画面の上下左右に黒フチができて、いわゆる額縁上映になっていた。せっかく大きなスクリーンの劇場を選んだのに、額縁上映で小さく見え、すごく損した気分になった。自分の作品をそんな不完全な形で見られてもいいなんておかしくないか? もしかして70ミリ IMAXで見てくれってことなのかもしれないが、日本では池袋のグランドシネマサンシャインと109シネマズ大阪エキスポシティの2か所しかないのにちょっとハードル高すぎだろ。ましてや70ミリフィルム上映を希望すれば海外まで行かないといけなくなる(笑)。そういう観客軽視の映画原理主義者は間違っていると思うなあ。ただの自己満足だ。DVDで見る奴らなんかどうでもいいけど、せめて映画館に足を運んだ人にはちゃんと通常35ミリ普及版も用意しておいてほしいデス。
<TOHOシネマズ梅田 スクリーン2 N―12>

●『縮みゆく人間』(ジャック・アーノルド)
子どもの頃、本か何かでこの映画の写真を見たことがある。小さくなった男が巨大な鉛筆につかまって水面で浮いている姿だ。以来、ずっと気になっていたが、念願叶ってようやく見ることができた。
謎の霧を浴びた男がどんどん小さくなっていく物語。今やこんな特撮、CGやらデジタル技術やらで簡単にできるだろうが、この頃はオーバラップや画面合成に加えて、俳優が小さく見えるよう、巨大なセットや大道具を作らなければならなかった。正直ちょっとパースがおかしいところもある。しかし技術はアナログでも、映画はアイデア勝負である。観客をどうすれば驚かすことができるか、見せ方の工夫が本当に凝っているのだ。
もうのっけの、主人公が白い霧に包まれる場面からスゴい迫力。遠くにあった白い霧が、どんどん近づいてきて、ついには画面いっぱいに巨大な白い光がわーーっと広がる。まるで主人公と一緒に観客も霧に包まれたかのようだ。暗い劇場の大きなスクリーンで見ないとこういうのはわからないかもしれない。
またドールハウスで寝ていた主人公が、ふと物音がして、おそるおそるドアを開ければ、牙をむいた猫の顔のアップがバーンと出てくる! ニャー!という鳴き声の音響も効果的。このあたりのサービス精神、ビジュアル・センス、今の映画監督に真似できるだろうか。
ラスト数十分はひたすら巨大な蜘蛛との息詰まる戦い。針を突き刺したとき、ドロッとした蜘蛛の血が垂れてくる生理的な気持ち悪さはどうだろう。『大アマゾンの半魚人』というこのジャンルの古典的名作を作ったジャック・アーノルド監督の名前は伊達ではないことがわかる。
そして脚本はリチャード・マシスンだ。自身の書いた小説を自ら脚色。この人、私は『激突!』を見ていたときから思っていたが、性格がモノ凄く悪い(笑)。主人公をとことんまでいじめて追いつめる。本作でも冒頭、ボートの甲板に気持ちよさそうに寝っ転がってる主人公が奥さんにビールを取りに行かせる。自分で取りに行きなさいよ、と言う奥さんを、なんだかんだ言って説得して、無理やり取りに行かせるのだが、これが縮小人間になるかならないかの明暗を分けたのだ。
さらに病院前に停車した車の中。治療法は今のところないと言われ、絶望した主人公を奥さんは優しくなだめる。「私たちは結婚するときに、病めるときも健やかなるときも愛すると誓った夫婦じゃないの? 一緒に乗り越えましょ」と。主人公は「そうだな。じゃあ、行くか」とサイドブレーキを外そうとした瞬間、薬指から結婚指輪がポロリと落ちる。縮小化で指輪が合わなくなって落ちたのだが、このなんともいや〜なタイミング。夫婦の先行きを予言しているみたいではないか。
他にもネズミ捕り器からビスケット?のかけらを取るところも意地悪だ。さんざん苦労してネズミ捕り器の罠を外したのに、ビスケットのかけらは弾き飛ばされて、排水口に落ちる。マシスンはまるでビールを取りに行かなかったズボラな人間に不相応な罰を与えているかのようだ。
ラストは哲学的だと評判もいいが、私には『インターステラー』のラストみたいに、狐につままれたようでよくわからなかった。それでもじゅうぶん面白かったが。
プラネットプラスワンは小さな劇場で、満員になったとしても20人ほどだ。しかし、一人貸し切りで見るようなこともあるこの劇場で、ほとんど座席が埋まってしまうのは珍しい。これほどデジタル技術が発達したこのご時代に、60年以上も前に作られた白黒のアナログ特撮映画にこんなに人が集まるなんて、と嬉しくなった。
<プラネットプラスワン>

●『アイヌモシリ』(福永壮志)
時は現代。北海道の阿寒湖畔のアイヌコタンで民芸品店を営んでいる家の子が、長年禁止されていたイオマンテの熊送りの儀式をコタンの人たちが行うことを知る。少年は自分が育ててきた小熊が殺されることに心傷つきながらも、最後はアイヌとしてのアイデンティティーに目覚める、という物語。
多くの人が指摘しているように、主人公の14歳の少年を演じた下倉幹人がいい。冒頭のアップになったときの眼力の強さがもの凄く印象に残る。彼は実際にアイヌで、役名も同じだ。同様に母親役の下倉絵美も実際に彼の母親であり、実際にアイヌの人だ。父親の友人であるおじさん役の人も同様にアイヌの人で、おそらく実生活の延長線上でそういう役を演じているのだと思う。彼らはほとんど素人だと思うが、演技は自然で違和感はない。
舞台となるアイヌコタンの町も本物で、その観光地となっている様子を捉えたカメラはほとんどドキュメンタリーのそれである。イオマンテの儀式は現在、実際に行われているかどうか私にはわからないが、たぶん行われていない。行われていたらカメラに収めているはず(しかし主人公の見る儀式のビデオは本物である)。こういう現地の特色や、現地の役者を使って作るやり方は『ナヴィの恋』などの沖縄映画と似ている気がした。日本の北端と南端で映画の作り方が似ているというのは不思議で興味深い。
ただ周囲はドキュメンタリー的なのに、少年の物語が創作であり、フィクションであるわけだが、その辺のさじ加減が微妙な感じに思えた。クライマックス、亡くなった父親と再会するのでも、確かに私はうるっときたけれども、何かもう少しこちらの予想を超えるような工夫はできなかったものか。フィクション部分がドキュメント部分に比べて、こじんまりとまとまっているような気がしてならない。欲ばりすぎかな?
映画館は平日にもかかわらず、けっこう入っていた。こういうノースターの、マイナーな日本映画が混んでいるのも珍しい。若い人も混じっていたことから、漫画(およびそのアニメ化の)『ゴールデンカムイ』を見てアイヌ文化に興味をもった人が見に来ているように思う。実は私もその一人だ。熊送りの儀式イオマンテもアニメで詳細に描かれていたので、すんなり見ることができた。
※ちなみにこの映画のタイトルの『アイヌモシリ』の「リ」は小さく表示するのが正しい。
<シネリーブル梅田 劇場4 C−5>
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する